76.この糸は
萌香はイナの娘で、本物のイチジョー・エリカだった。
それはショックでもあると同時に大きく安堵した点でもあることに気付き、萌香は微かに苦笑した。特にこの一週間は、手帳を読めば読むほど深まっていった、自分に対するまさかの気持ちと疑問の答えでもあった。
事実、おかしいな? と感じることが今まで何度もあったのだ。自分が日本で生まれ育ったと信じていたのに、時々自分こそがエリカだと感じることがあって混乱したり、そうだったらいい、もしやそうでは? と疑ってみたり。
以前は、いっそ自分が絵梨花である証拠が見つかればスッキリするのにと思っていたが、実はアウトランダーだということが分かって……。
だからまさかアウトランダーである自分がエリカであるはずがないと、何度も何度も言い聞かせるようにそのまさかを否定してきた。
でも両方正解だったのだ。
絵梨花として生きてきたのは自分ではないが、それでも女王陛下の言われたとおり、萌香はアウトランダーであり、同時にエリカ、本物のイチジョー・エリカだった。
それは目の前にあった重い緞帳がサーッと開いたかのような、緊張感と期待とが入り交じるような不思議な感覚だった。
――絵梨花……。
萌香はエリカであったことを忘れていたから、日本人として、何も気負うことなく、エムーアを思い出して寂しがることさえなく、普通に当たり前に生きてこられた。日本の家族のことも本当に家族だと疑いもしなかった。
でも絵梨花は覚えていた。
驚いたことだろう。両親といきなり別れ、突然見知らぬ世界で違う人を親だと言われる。きっと、「もうすぐお姉ちゃんになるんだよ」なんて言われながら弟の誕生を待っていたはずなのに、代わりに大きなお兄ちゃんがいる。
しかも聖女として特別な存在であることを、家族以外からは期待されていた。
――ごめん、ごめんなさい絵梨花。
今の萌香の比ではないほど、誰にも理解されない孤独と戦い続けたのだろう。誰も信じなかったのだ。絵梨花がエリカではないことを。
萌香でさえ、絵梨花はおとぎ話を信じているちょっと変わった子なのだろうと考えていた時期があった。彼女の優秀過ぎるエピソードが余計に拍車をかけていたように思う。
そんな中で、きっとRという人物が彼女の支えだった。どこの誰かはわからないけど、きっと絵梨花を絵梨花として受け入れてくれた人だ。
喉の奥がぐっとつまり、また涙があふれる。
エムーアに来てからの萌香はすっかり泣き虫だ。アルバートの前で感情が爆発し自分の気持ちを吐露してしまってからは特にそうだ。
萌香も日本にいた頃は、悲しむことや泣くことを我慢していた。
父の病におびえ、母まで健康を損ねないか心配し、弟を不安にさせないよう必死だった。泣いたりできないと、きつくきつく自分を戒めていた。悲劇のヒロインになんて絶対にならないと、何かあるたびに自分を叱咤してきた。
泣いたらもっと悲しくなってしまうと思ってた。
誰にも強制されなかったけれど、お姉ちゃんという役割が自分の果たすべき役割だという自覚があった。
この家族を支えている一人だという自覚が……。
でも日本では日常が戻りつつあった。
ようやく萌香も力を抜いてよかったのだと思う。激動を抜けたそんな時に絵梨花が、本物の萌香が戻れたのは、きっといいこと……。今度は普通の女の子として、肩の力を抜けるはず。うん、そうあってほしい。
――ねえ絵梨花。日本で楽しく暮らしてる?
心の中で呼びかけてみる。
お父さんとお母さんは元気? 信也は部活と勉強頑張ってる? 部活は試合に負けたらそこで引退だもんね、頑張ってるよね。
本物の萌香だった絵梨花がそこにいるなら、萌香は日本の家族を憂いる必要はないのだ。行方不明の娘を心配してる親兄弟はいない。事故なんてなかった。ちょっと変わってしまった新しい萌香が――本物の萌香がそこにいるならそれでいい。
――そうね……。私が無事だと伝えても混乱させるだけ。むしろ何も知らずに幸せな日常であってほしい。
不思議なほどそう願ってしまうことに自分でも驚いた。
何も知らないまま、普通の、当たり前の日常を送っていてくれたらいい。
絵梨花がこの国で聖女として努力してきたのは、いずれ戻ってくると信じていた萌香のためだろう。萌香が何も覚えていないとは夢にも思わず、彼女は本当にイチジョー・エリカを演じてきたのだ。
スライドなどと言う不可解な出来事で入れ替わっていたと納得してしまえば、彼女の残した文章は色々意味が違って見えた。素直に読めばよかった、素直に信じればよかったのだ。
絵梨花は自分に違和感を持っていたように見えていたと、以前聞いた。
当たり前だ。
当時五歳になったばかりで幼稚園にも友だちがいた。その友達を自分の友だちなんだとすんなり信じた萌香は、どれだけめでたいのだろう。
幼稚園の年中さんになってクラス替えがあったばかりだから。
立て続けに病気で休んだから。
赤ちゃんが生まれたから。
そんな風に環境が色々変わってしまったから少しだけ人見知りになっていたと、親も先生も、萌香自身でさえも信じていたのだ。
――というか私、環境に慣れるのが早いんだわ。
自分の図太さ加減に呆れると言うか、感心するというか……。
今の萌香は、絵梨花のおかげでこの世界に温かく受け入れられている。絵梨花にもそうあってほしいと、切実に思った。萌香は周りの人に恵まれてきたから、きっと大丈夫。寂しいけれど、きっと。
絵梨花はきっと日本でも頑張るだろう。
でも基本お嬢様育ちだから、決して豊かとはいえない日本の暮らしに慣れるのは大変かもしれない。突然二歳も年をとったことになって、仕事もしてなんて。
――でも、Rさんに会えたなら大丈夫なのかな。
思い続けてきたその人と無事会えているといい。
事情を理解してくれる味方がいることは、何よりも心強いから。
今心の底から絵梨花がもう一人の自分だと実感した萌香は、心の奥に強く残っていた日本への未練をそっと断ち切った。
帰れる可能性を見たせいで期待してしまった心を静めて蓋をする。
心の奥の秘密がまた増えたけど……。
――これでいい。
同じ世界に同じ人間は二人存在しない。
もし萌香が向こうに帰るなら、絵梨花がこちらに戻されるだろう。それは絶対してはいけないことなんだと萌香は寂しく思った。
絵梨花と話をしたいと思った。
萌香の十五年を、絵梨花の十三年を、共有したいと思う。違う人生を歩んだ自分の声を聞きたいと、そう思った。
いえせめて、自分も日記か何かを書いておけばよかった。
――絵梨花も最初は記憶喪失扱いかな……。
ふいに、そうなった姉のために弟の信也がしっかりする様が思い浮かび、それも悪くないなどと思ってしまう。
信也、お姉ちゃんをお願いね。たくさん助けてね。
イナは萌香がエリカであると知っても、萌香でいていいのだと言ってくれた。
萌香として生きてきた自分を、すべて肯定してくれたのだ。
「もし向こうに戻りたいと、戻れる道が突然見つかったとしても、あなたは自分がしたいようにしなさい」
そう言ったイナの声はどこまでも優しい。
エアーリアが戻るとき日本に帰れるのではと感じたと言っていた萌香に、もし予告なしで一瞬のチャンスが見えたら迷わず飛び込んでいいと。
でも萌香がそうしたら絵梨花がこちらに戻るだろう。イナはそのことに気づいていないのだろうが、それでもその気持ちは嬉しい。本当に嬉しいと思った。
いつでも萌香の選択を尊重し、全力で守るとイナは萌香に約束してくれた。うわべではない、覚悟を感じる声だった。絵梨花にできなかったことをと考えてくれているのかもしれない。
「ありがとう、お母様」
だがそれは、萌香が想像するよりも困難なことではないかと感じる。
ここは萌香の常識が通じない世界だ。
だから萌香もそれに甘えすぎないよう気をつけようと密かに決心した。
それでも本音を言えばホッとした。
そう、ホッとしたのだ。
――私はもう、絵梨花を演じようとしなくてもいいんだ。
絵梨花は「私」を演じてくれていた。私は彼女が演じてきたような立派な人ではないけれど……。
それでももう、私は私のままでいていいんだ。
そのことがとても嬉しかった。
ところでイナが教えてくれた糸を見る力だが、これは本来イチジョー当主の第一子のみに口伝で継承されるらしく、それを理解した萌香は青褪めた。
「ど、どうしましょう。お、お兄様に、えっ、あの、私が力を取った? え、取っちゃったの?」
オロオロするが、イナは多分微妙に違う力だから大丈夫だろうと気楽に笑う。
「力を継げない人間なら教えても見ることはできないし、トムがだめなら、その時はその時よ」
「そんな」
猛烈な罪悪感に襲われたが、イナの話によれば、もしやと思ったきっかけが王宮で萌香に見えたものだと言う。イチジョーにはそこまで見える力はない。糸の見え方ももしかしたら違うかもしれないから、後で調べてみようかと話し合った。
そこで萌香は、思い切って気になっていたことをイナに聞いてみることにする。あの普通ではないジャンプ力を。
「え? 跳躍?」
萌香の言葉にイナは不思議そうな顔をした。元々アウトランダーだからできることなのかと考え始めていたジャンプ力だが、萌香が元々エムーア人なら関係ないだろう。
樹に登ったことは色々恥ずかしいエピソードも入っているので内緒にしつつ、図書館での出来事を打ち明けると、そんな仕掛けを知らなかったらしいイナの目が真ん丸になった。その後萌香をジッと見て考え込むと何かを思い出したように「もしかして羽衣?」と呟く。
「萌香の糸は、羽衣になっているのかもしれないわ」
「え、天女のあれですか?」
「天女?」
萌香が天女伝説の話をすると、イナの知る羽衣は他人には触ることができないので別物だろうとのことだった。
「エムーアでも、大昔は羽衣を持つものが国に何人かはいたと聞いたことがあるわ。伝説のようなものだと思っていたのだけど……。萌香。あなたの周りにある糸は布のようだけど、それらを自分で動かすことはできるの?」
何か思いついたのかそう問われ、萌香は自分でも自分の糸、もとい羽衣? を見ながら動かそうと試みた。
――んー、どうすればいいかな?
自分の周りにふわふわしているそれをどう動かすのか……。
想像力を総動員してイナを包みこもうと考えたとき、心の中で大きく包み込むようにイナへの愛情を込めてみた。すると、萌香のマントのようなそれはふんわりとイナを包み込む。
「まあ……」
気持ち良さそうに目を閉じるイナを見て、同じような表情をしたヘレンを思い出す。日本でも無意識にこんなことをしていたのかもしれない。
次に糸を一本イナに送り出すようにして見る。――届いた。
「これは、この世でお母様だけが見えるってことですよね」
ふわふわとイナの前で踊る糸を二人で見つめる。頑張れば文字も作れるかもしれないと思ったが、糸を見たり動かしたせいか、どっと疲れもした。
「すみません。もう、瞼が……」
「ああそうね。もう休みなさい。無理をさせて悪かったわ」
イナが小さな子どもにするように萌香の手を取り、ベッドに寝かせてくれる。
「また明日、いえ、午後にでも話しましょう。ゆっくり休むのよ」
「はい……」
半分夢うつつになりながら、萌香は満たされた気持ちでそのまま眠りについた。
ゆっくりと意識の奥へ奥へと沈み込み――夢をみた……。
次は「駄々こねタイム」。
ええ、誰も見てない聞いてない場所でなら、駄々をこねたい時だってあるのです。まあどちらかと言えば思い悩んでうじうじタイムなのですが、萌香命名は「駄々こねタイム」なのです。
気持ちの整理のためにもね。




