64.王宮
ラピュータに降り立ち駅から外に出ると、萌香は街の様子に目を見開いた。
とても地上三千メートルの高さにある街だとは思えない。心配していた気圧変化による耳の痛みも感じないし、普通に大地だ。
「ここに立っていると、とてもここが空に浮いているなんて思えないです」
「ふふ、そうよね」
子どものように目を輝かせる萌香を見て、メラニーとトムが目を見合わせて微笑むのが分かる。
――まあ、ここでお上りさんな反応は珍しいわよね。いいのよ、今の私は間違いなく、ここではお上りさんだもの。
茶・白・赤が建物のベースになる色なのはイチジョーと同じだが、建物の高さが違う。イチジョーが三階建てまでが一般的な高さなのに対し、ラピュータの建物は低くでも五階建て以上あるのが一般的なようだ。東京都心などに比べればビルは断然低いのだが、統一されたデザインで同じくらいの高さのビルがびっしりと並んだ様は、いかにも都会といった姿で圧倒される。
駅前には広場があり、そこからレンガ敷の道が放射線状に伸びていた。だがそこは主に徒歩専用のようで、自動車などは水路を通っているようだ。地図で水路が蜘蛛の巣のようにきれいに張り巡らされているのは見ていたが、実際に見るとその美しさに言葉が出ない。この島の中央に今から行く王宮があるのだが、駅からはその姿は見えなかった。ラピュータの土地はほぼ平地のようで、城も高台に作られているわけではないらしい。もしくは、元々はこの土地全体が高台だったのかもしれない。
絵梨花が学生時代を過ごしたところ。そう思うとなんだか感慨深い感じがする。それは、テレビで見たり物語で読んだ舞台に来たような、一種特別な感覚だ。
「どうした、萌香。急に神妙な顔をして?」
「いえ、何でもないです、お兄様」
ひそかに、変な呪文は口にしないようにしようと考えていた萌香は、にっこり笑ってごまかした。
◆
女王陛下に拝謁するため、萌香の「保護者」として駅まで迎えに来てくれたシモンの車に乗り、王宮に向かう。汽車よりも早く着いていたアルバートも、すでにバイクを置いてシモンと共に待っていてくれ、トム、メラニーと共に五人で城に向かった。
王宮については白黒の写真ではチラッと見ていたものの、実際目にすると白い壁に赤っぽい屋根の城は、まるでおとぎ話の世界から飛び出たかのようだ。
「わあ、可愛いお城」
思わずそう言った萌香にアルバートが「城が可愛い?」と首をかしげるので、感覚の違いに頬が熱くなる。せめてここは、素敵とかきれいと言うべきだったと思ったが、恥ずかしいので何も聞こえないふりをしてしまった。こういう時、謎の翻訳機能が気を利かせてくれればいいのにと思ってしまう。
城の周りはまるで大きな湖のようで、湖面に映る城が美しい。
シモンの車は湖の上にある道のような白い線の上をすべるように進み、門から中に入ると案内らしい男性の指示で左に折れ停車した。みんなが降りるとシモンが鍵を預けているので、車はどこかの駐車スペースに移動されるようだ。
まるで大きなホテルのようだなと思っていた萌香は、ここでいったん城の侍女について行くように言われた。
「身支度しておいで。後で会おう」
シモンに頷きかけられ、萌香も頷き返す。ここで謁見用のドレスに着替えるのだ。その間、シモンたちは控えの間で待っていてくれることになっていた。メラニーが、「大丈夫」と言うようにうなずいてくれるので、少し気が楽になる。
謁見の間にはシモンがエスコートをしてくれるが、アルバートも一緒にいてくれるらしい。ただ、向こうで待っているのか、シモンと一緒にいてくれるのかは聞き忘れてしまった。
――まあ、アルバートさんは仕事として来てるわけだし、エスコートはないわよね。
そう考え、一人頷く。
このドレスを着るのは、少し、いや、かなり気合が必要なのだ。目にする人は一人でも減らしたいし、時間も少ないほうがいい。
「ではこちらでお支度をします」
優雅なしぐさで部屋の一つに通されると、そこは大女優の控室のような雰囲気の一室だった。そこにもう一人侍女が控えていて丁寧にお辞儀をされた萌香は、その動きをトレースするように目に焼き付ける。ここにいるのは上流階級の女性たちだ。小さいころから躾けられた仕草は指の先まで神経が行き届いていて美しく、どちらかと言えば着飾る側の立場のように思える。
エリカという立場が身分にかかわらず特別なのだということに、胃の奥が重くなった気がしたが、どうせなら勉強させてもらってたくさん吸収していこうと決めている。これから萌香自身も女中から侍女まで、色々な役割で働くことになるはずなのだから。
持っていた小さなドレスの箱を渡すと、待っていた方の侍女がテキパキと広げる。車いすと同じで、あっという間に元の姿に戻った箱は、ドレスからアクセサリーまでトルソーと一体になって納められている状態なので皺ひとつない。いつ見ても不思議だ。
女王陛下に拝謁するときは、クラシカルなドレスを着るのが暗黙の了解らしい。胸元で切り替えられストンと落ちる形のいわゆるエンパイアドレスは、女王陛下が若いときに着て流行したらしく、今も陛下の好みだ。そのことに敬意を表し、陛下に謁見、もしくは陛下主催の宴などではこのタイプのドレスを着るのが主流だという。
華やかな色がお好みとのことで、エリカのクローゼットからイナとメラニーが選んでくれたのは深紅のドレスだ。背中についたボタンは小さくて数も多く、絶対に一人では着ることも脱ぐこともできない。いかにもお姫様のためのドレスだが、胸の下のリボンと襟ぐりの黒がアクセントになっていてピリッと引き締まっている。
オフショルダータイプのため、肩から胸元にかけて大きく開いているのがどうにも恥ずかしいが、シェイクスピアの舞台に立つつもりで羞恥心を抑え込んだ。
――いつも思うことだけど、足は隠す癖に、胸の谷間はどれだけ出すんだって感じだわ。他の女性が着てるのを見る分には華やかだけど、自分で着るのは……。うう、はずかしい。
それでも文句を言っても仕方がないとあきらめ、これは文化の違い、郷に入れば郷に従えだと自分に言い聞かせる。
髪を結いあげられ、化粧は自分でなおさせてもらった。ドレスに負けないよう、気高い姫君を演じつつ出すぎない色合いに気を付ける。侍女たちのメイクを見て最後にマスカラを付けていると、侍女たちが興味津々と言った風に見ているのが鏡越しに分かった。この国にはないものだから珍しいのだろう。
――でも、お姉さんたちの長いまつげには必要ないと思うな。
彼女たちのバサバサのまつげに感心する。どう見ても自前で羨ましい。彼女たちのような影が落ちるほどの豊かなまつげとはいかないが、マスカラで多少はカバーできたはず。
最後にアクセサリーと靴を身に着ければ完成だ。
「大変お美しいですわ」
ほおっと息をつきながら微笑む侍女たちの声には、お世辞ではない称賛がにじんでいる為、萌香は内心ほっとした。とりあえずおかしくないなら大丈夫。自信を持って役割をこなそう。
ショールがほしいのをグッと我慢し、こんなドレスには慣れてますという風に微笑んだ。細いヒールの靴は好きではないが、思ったよりも安定感がある。ここに来る前に慣れさせるため、何度か履いたことがあるので大丈夫だろう。いつもより十センチ近く高くなった視界は、ほんの少しだけ自信を与えてくれるような気がする。
鏡に映った自分の姿はきちんと自信のあるお嬢様に見え、大きく開いたデコルテの割には慎みを失っていない、上品な印象で満足した。萌香のサイズに合わせて、きちんとお直しをしただけある。
そこにノックの音が聞こえ、対応したメイドが「アルバート様が迎えにいらっしゃいました」と言うので驚いた。
聞いてない。迎えに来るならあらかじめ教えてほしかった!
「やあ。お姫様の身支度が終わったって連絡が入ったから迎えに来たよ」
焦る萌香の気持ちをよそに、面白そうにそう言ってアルバートがのんびりと入ってきた。だが萌香を見た瞬間言葉を失ったように瞬きをし、小さな沈黙が落ちる。
――なんでそこで黙るんですか。き、気まずい。気まずすぎる。まだ心の準備が出来てないのに! せめてお世辞でも、可愛いとか似合うとか言ってください。
トムなら瞬間的に褒めてくれただろうと姫君の仮面の奥で半泣きになりつつ、優雅に見えるよう微笑んでみる。
「アルバートさん、どうですか?」
萌香の声にぱちんと夢からさめたような顔になったアルバートは、いつものようにニヤッと笑った。
「これは予想外だ」
予想外?
「ドレスは自分で選んだのかい?」
「いえ。お母様とメラニーさんが、これがいいって……」
もしかして、とんでもなく失礼な格好だったのだろうかと思い、血の気が引いていく。
アルバートは女王陛下の孫だ。イチジョーに彼も滞在していたのだから、出かける前に確認をしておけばよかった。
だがアルバートは嬉しそうな顔になって「うん、いいね」と頷いた。
「あの方は派手目な装いが好きだから喜ぶよ」
「そうなんですね」
思わずへなへなと力が抜け、アルバートに腕を支えられた。
「大丈夫か? 慣れない靴で歩けないとか」
「いえ、ホッとしただけです。失礼にならないか心配だったので」
「そうか。じゃあ見た目は合格だ。こういう格好になると、ずいぶん大人っぽくなるから驚いたよ……」
語尾が小さくなったのは、萌香が絵梨花ではないと彼が認めてしまったような気がしたからだろうか。
少しだけ気まずげにスッとそらされた顔に、少しだけ苦笑する。
――大人ですよ、私は絵梨花より二歳年上ですからね。
「じゃあシモンさんも待ってるし、行こうか」
気を取り直したようにそう言って差し出されたアルバートの腕に手を添え、萌香は仮面をしっかりかぶりなおす。いつもより目線が近くて少し照れるのはお互い様らしい。アルバートの表情がいつもより柔らかいのが印象的だった。
次は「女王陛下」。アルバートのおばあさんはどんな方なのでしょうか。
余談ですが、アルバートに萌香を迎えに行くよう仕向けたのはメラニーです。トムも一緒に行くつもりでしたが止められました(王宮に詳しいのはアルでしょう、と)。
もし一緒に行ってたら、美味しいところは全部トムが持って行ったことでしょう。




