インターバル
その頃日本では……
イギリスから移築されたその邸宅は、北の国の静かな土地にひっそりと建っていた。もとは十八世紀後半に建てられたカントリー・ハウスだ。城ともいえる邸宅の前に広がるイングリッシュガーデンは広く、その奥に建つ石造りの邸からは時を超えて姫君や騎士が現れそうだ。
個人所有であるその邸は現代的に改装されているが、見た目は新古典様式の雰囲気をそのまま残してある。そのため、訪問者たちはここが日本であることをしばし忘れてしまうという。
別荘として使われているため、普段は定期的に管理人が手入れをするだけであるが、この一か月強は住人がいて、この日新しい住人が一人増えた。
「さあ、ここが君の部屋だよ」
金髪の青年に手を引かれ、病院から直接ここへ連れてこられた少女は恐る恐るといった様子で部屋の中を覗き込んだ。
「すてき、ね?」
少女は少し舌足らずに言葉を発し、案内してくれた青年を見上げる。年の頃は高校生くらいだろうか。艶のある黒髪を一つに束ね、シンプルなワンピースを着ている。退院したばかりで疲れたためか、あるいは不安のせいか、少し顔色が悪い。
「まだ体力が回復してないだろう。今日はゆっくり休むといいよ」
青年が優しく微笑むと、少女はホッとしたように少し微笑んだ。
「うん、ありがとう」
素直に頷いた少女はまっすぐにベッドに向かい横になると、あっという間に眠りに落ちてしまった。つい一週間前まで眠り続けていたのだ。まだ体力がないのだろう。
「まだ万全ではないのでしょうね」
後ろから荷物を運んでいた管理人夫妻が部屋に荷物を置くと、ドアを閉め不憫そうにささやいた。
「話し方も小さい子供のようですし……。あの子の記憶は戻るのでしょうか?」
「それは、誰にも分らないことだね」
困ったように微笑んだ青年は「茶でも飲もうか」と居間に向かった。
青年の前に少女が現れたのは一月前だ。
アメリカの友人らと共に別荘に来ていたのだが、彼らの前にドサリと少女が落ちてきた。そう、文字通り落ちてきたのである。
周りには低い植え込み以外の木も建物もない庭の中央。
頭から血を流し全身にも細かな傷を負った少女は、救急車が到着する前に一時心肺停止に陥った。どうにか蘇生するものの、三週間眠り続けていたのである。
警察からは事件かと疑われたものの、遠距離ではあるが防犯カメラにその不思議な光景が映っていたこと、また、たまたま友人の一人がビデオ撮影をしてそこに映っていたことで、まもなく疑いは晴れた。だが彼女がどこから落ちたのか、どこの誰なのかは分からないままである。
目が覚めた少女は記憶が幼児まで退行しているようで、自分の名前さえ分からない。彼女の着ていた服にメモがあったが、かろうじて「……梨花」と読めたため、「りか」と呼ばれることとなった。
その名前と捜索願がないかの調査が行われたが、今だ身元不明だ。
そのため一か月入院し退院が決まったものの、行く先がないのだ。
そこで発見者であった青年が一時的に身元を引き受けた。普段から敷地内に管理人夫婦がおり、毎日見舞いに行っていたことが分かっているのか青年に懐いた少女を引き取ることは、案外たやすいことだった。元々邸宅の持ち主である両親が養子をもらったり、保護したりしているからだ。
青年の友人たちは、少女を気にしながらも先週帰国した。
そろそろ日本でも夏休みに入るため、家族も訪れる。妹はすぐにでも来たがっていたが、受験生のため試験が終わったあとになるだろう。
青年は一人になると長く息をついて天井を見上げ、深く深く、重い息を吐いた。
◆
「あ、ミナ? 私。うん、ビンゴだった」
宮本ヘレンは地方に住む友人に電話し、受けた助言の結果を告げる。
五月末に彼女が、「ゆうべ二回、空間がゆがんだみたい」と言っていたことを思い出したのだ。それは恵里萌香が事故で消えたニュースを聞いた直後で、その日はそれどころではなく聞き流していた。だがある日ふと、もしかしたら何か関係あるのではと妙に気になった。距離は離れているが、可能性はある、と。
北関東に住む砂流美奈子は、サルーダという特殊な力を持つ高校一年生だ。サルーダは元は人の名だが、それはヘレン同様、この世界と違う少しずれたものを見ることが出来る力であり、彼女の力はヘレンの比ではない。
以前に言っていた空間のゆがみについて何か分かったかと聞いてみると、どうやら彼女の中学時代の友人が原因だろうとのことだった。無意識に呼び寄せているのか、美奈子のそばには複数、次元が異なる友人がいるらしい。
「たぶん、それがきっかけで大きなズレが起こったんだと思うんだけど……」
あの日は恵里萌香の事故以外にも、奇妙なバス事故や、萌香同様神隠しのような事例が起きていた。
「ズレ……じゃあエリカ先輩はどこかに飛ばされたの?」
気配が見つけられないということは、この世に存在しないということだ。萌香が死んだのではと考えるだけで気が狂いそうだった。だが違う時代や世界に飛ばされたのなら、救える可能性はある。
「ちょっと調べてみるから、時間を頂戴。まずはそのエリカ先輩について教えてくれる?」
美奈子はヘレンより二歳年下だが、時々姉であるかのような錯覚を起こす。そのことに少しだけ落ち着いたヘレンは、恵里萌香について細かく教えた。彼女の纏う独特の「気」のことも。
それは強大でありながら優しく包み込むベルベットのようで、側にいるととても安らぐ。彼女の美しい気は、ヘレンにとって何物にも代えがたいものだった。
美奈子は一月ほどかけてあちこちに手を伸ばし、恵里萌香の気を探った。そんな時、北の方で奇妙な気を見つけたのだ。それは恵里萌香と同じでありながら違うもの。
「それって、ちがう世界のエリカ先輩ってこと? 次元がズレたの?」
世界は布を織るようなもので、横糸を時間とすると縦糸にあたる無限の異なる世界が存在している。それが近ければ似て非なる世界だが、たとえ自分がズレても「気のせい」で済まされる程度の違いしかない世界だ。だが遠く離れるほど世界は変わる。
また同じように上下に重なるように多数の宇宙が存在する。そこには同じように地球があり、歴史も文化も違う中で別の自分が生きていることがあるという。
美奈子によれば、恵里萌香は別の世界に「ズレた」か、もしくはめったにないことだが、別の宇宙の自分と「入れ替わった」のではないかということだった。
他の仲間も加え調べてもらうと、どうやら恵里萌香に似た気は、ヘレンがよく知る人物と関わっていることが分かった。なんと血のつながらない兄が保護した少女だ。
宮本家は全員血のつながりがない。夫婦は当たり前だが、兄もヘレンも養子だ。だがおなじ力を持つ二人は、幼いころから普通の兄妹として育ってきた。
「事故のことは聞いてたけど、まさかって感じだったわ」
海外や違う時代でなかっただけマシか。
しかも一時心肺停止とか。懸命に救命措置を行った兄たちにはグッジョブである。
だが兄はすぐに写真だけでもヘレンに送って寄越すべきだったと、八つ当たり気味に考えてしまう。兄は萌香を知らない。知っていたとしても、まさか都内で行方不明になった人物に近い子が、何週間もたってから遠い北国に現れるとは思わないだろう。だが一度も会わせなかったことを後悔したのは確かだ。
「まあ兄妹でも仲のいい先輩とか友だちは紹介しないよね。琉斐さん、アメリカに行ってもう七~八年でしょ」
「まあね。お母さんの実家もあるから、夏休みは私たちが向こうに行くし。年末年始はお互い忙しくて、機会はなかったなぁ」
とはいえ、本当に兄に萌香を紹介したかったなら方法はあったのだ。
メールでもよく話題にしていた。ただ仲のいい先輩として。
――でも、琉斐に紹介したら、エリカ先輩を取られちゃいそうな気がしたんだもの。
実際どうなるかもわからない、つまらないヤキモチだということは認める。だがこんなことになるなら、初めから紹介しておいて兄を味方につけておけば心強かっただろうと後悔している。
「ああ、そうなんだ。じゃあ夏休みに入ったらすぐ行くの?」
あと一週間ほどで夏休みに入るため美奈子はそう尋ねたが、ヘレンはため息をついて否定した。
「ううん。受験が終ってからにしろって言われた。来ても何もできないからって」
「そうかぁ。それもそうだね。じゃあ、まあ、まずは受験がんばって。話を聞く限り、やること疎かにしたらその先輩悲しみそうだし」
「うん、わかってる」
受験は推薦がほぼ決まっているのだ。
さっさと終わらせてエリカ先輩とは違うエリカ先輩に会いに行こう。
このままでは萌香の両親に伝えることさえできないのだ。
萌香でありながら違う女の子のことを確認し、どうやって彼女の家族にそれを告げたらいいのかまだ分からずにいる。
何らかの事故で次元や時を超えると、かなりの確率で記憶を失う。彼女も例外ではなかったようだから、急いでも意味がないのだ。ゆっくり時間をかける必要があり、それは今、兄が引き受けている。しかし記憶が戻る確率は限りなく低い。
「エリカ先輩は、どうなんだろう」
ヘレンは萌香が自分を覚えていないかもしれない恐怖に襲われ、ギュッと自分を抱きしめた。




