33.勉強中
この一週間、卒業試験の準備が進められているのを、萌香は邪魔にならないよう気を付けつつも真剣に見学をしていた。試験の本番はお茶会だが、試験官役の客の一部でホスト役をするゲストたちは前日から宿泊もするらしい。もちろんエリカの父と兄も帰ってくるのだが、今回は兄の友人も茶会に参加するためイチジョーに泊まるのだそうだ。
兄の友人で、しかも泊まりに来るくらいの仲だということは、エリカも知ってる人だったと考えるのが妥当だろう。
「まあ、記憶喪失だってことは伝わっているでしょうし、深く考えなくてもいいかな」
とりあえず兄の顔だけはしっかり覚えておこうと、萌香は家族の写真を部屋に飾っておくことにする。写真の中で笑うエリカの兄は父親似のイケメンで、笑顔の優しそうな男性だ。父親ほどの堂々とした迫力はないが、経験と共に近づいていくのではないかという感じはする。
「せめてカラー写真だったらよかったのにね」
服装がクラシカルなせいもあるのだろうか。色のない世界は現実味が薄くて、実際に今を生きている人という感じがしない。見れば見るほど架空の世界感が強まるのだ。
「トムさんは二十四歳か。ということは、私から見ても年上だもんね。優しそうなお兄さんでよかった」
兄とか妹とかいうものがどんな感じかはわからないが、トムがこの笑顔の通り優しい人だといい。
学校を見学したいと頼んだ時、イナの反応は微妙だった。
娘の心配もしているのだろうが、何か気がかりなこともあるようだ。どうもエリカの父は、エリカも茶会に「客」として参加するようイナに言っていたらしい。だが萌香としては近い将来仕事を得るため生徒側に興味があると話し、イナを説得した。
「私が試験官を務めても、そもそもの正解が分かりません。でしたら、お母さまのご指導を受けている生徒たちと共に学びたいのです」
「それは、ラピュータに行きたいということかしら?」
「ラピュータですか?」
「仕事を得たいということは、結婚はまだしたくないということでしょう? でもロデアでは二十歳までに結婚するのが当たり前ですし、お父様もそう考えています」
――それは困る。
さすがに声には出せないため、心の中で萌香はつぶやいた。
――私はすでに二十歳だけど、エリカは十八歳。残り二年足らずで結婚なんて無理無理無理。色々な意味で無理です!
いくらエリカを演じる決意を固めているとはいえ、まだ何もかもが手探り状態なのだ。本物のエリカを見つけるなり、萌香が日本への帰り道を見つけるなり……もしくは萌香がエリカ本人だという証拠や記憶を見つけるなりしなければ、安心して前には進めない。周りに将来を勝手に決められる事態は萌香のためにも、そしてエリカのためにも避けねばならないことだ。
シモンをどう説得すればいいのかと萌香が考えを巡らせていると、イナが意外なことを言った。
「前にも話したでしょう。ラピュータでは女性の婚姻年齢が上がってますから、エリカが働いていても年齢的に目立ちはしないわ。二・三年どこかで働いてみるのもいい経験だと、私は思うわ」
「そうなのですね!」
思わぬ賛同に萌香は両手と胸の前で組み、笑顔になる。メイドたちから二十歳を過ぎたらオールドミスだと言われていたことのほうが印象深くて、そんなことはすっかり記憶の彼方だったのだ。
『都市でしばらく仕事をして恋愛をするのもいいわよね』と、確かに以前イナは言っていた。だが……
「でも、お父様は反対なさるでしょうか」
まだ父親の性格が分からないため不安になる。リミットが倍に増えること、家を出て自立できることは、色々と道が開けるチャンスがあるということだ。
だがイチジョー・シモンとまだまともに会話をしたことがないので、萌香にはその判断がつかない。頑固な性格ではないといいのが……。
「そうねぇ……」
夫から何か言われているのか、イナはそれを娘に言うべきかどうか悩んでいるようだ。だが結局ふうっと息を吐くと微笑み、
「そのあたりは私が説得するわ。エリカは都市で理想の夫を探している、ということでどうかしらね?」
と、いたずらっぽい口調で言った。
実際トムの婚約者のメラニーは二十一歳だが、あと一・二年は働くと言っているし、トムもそれに異はないそうだ。
そう話すイナが、どこか悟ったような開き直ったような、妙にこざっぱりとした印象を受けたが、萌香はあえて彼女の言葉にのる。夫探しはともかく、イナが味方に付いてくれるなら心強い限りだ。
自分がどの道を進むことになろうとも、彼女を傷つけないようにしたいと萌香は改めて思った。
その後すぐに、イチジョーで使うテキストとエリカの学生時代の参考書に近い書籍をイナが部屋に届けてくれたため、萌香はそれを読み込み、学校の見学もさせてもらったのだった。
「そういえば、ここってカレンダーが同じなのよね」
子ども用の教材に高速で目を通した萌香は、ふとそのことに気が付いた。
都市や車が空に浮かんでいようと、周りのものが色々と違っていても、なんとなく気持ちの上では言葉の通じる外国にいる気分だった。だがもしもだ。自分が小説の主人公のように異世界に転生もしくは転移したとすると、時間や暦は変わるのではないかと今更ながら思いあたった。
だが毎日目にする時計は、デザインこそ違うものの時計だと分かる十二時間で一周する普通の時計であり、暦の月も日数も同じ。ただ西暦ではないと思う。
なぜなら年に当たる数字は三百年なのだ。本によるとエムーアの南西にあった島、エアーリアが消えた年から数えて三百年ということらしい。
図書館にあった歴史の本は極めて少なく、しかも薄くて曖昧だ。
「島が消えたって、どういう意味なんだろう?」
それを調べてみたい気持ちは強かったが、今頭に入れなくてはいけないのはそれではない。
いつか余裕が出来たら調べてみようと決め、萌香は勉強に集中した。「役」に入ってしまえば、セリフやト書きとしてスルスルと吸収できる。
明日には、父と兄が帰ってくる。
「エリカ役」を演じることに集中する萌香。イナ以外の家族に会うことに少々緊張気味です。
次は「迷子再び!」。
誰が……って、もちろんあの子ですよ。




