134.落ちた⁈
エステルが提案したルートでの移動中、萌香たちが休憩に立ち寄ったのはヘシレーンという小さな町だ。ザガ島という小さな島だが、その中央は岩山の為あまり人は住んではいない。
そんな人里離れたところにあえて寄ったのは、以前アルバート達が調査した地底湖のあたりを見せてくれるためだったらしい。
「前に萌香さんに見てもらった品は、この先にある地底湖で見つかったんだよ」
調査員の宿舎兼研究所でもある施設の前で、パウルがぐるっと腕を左から右に移動させたあと、くいっと下を指すように指を下にして見せる。だが萌香の目には、ごつごつとした岩肌と、ところどころに映えている樹木や雑草しか見えない。洞窟らしきものがあるのかと探したものの、それらしきものは見つからなかった。
そもそも地底湖が見つかったのは、七月におこった地震がきっかけだったという。もともとあった何の変哲もない、洞穴程度だった洞窟の奥に道ができ、さらに奥に地底湖が現れたというのだ。しかもエムーアでは、特段珍しいことではないらしい。
「関係者以外立ち入り禁止だから、この先を見せてやることはできないんだけどな」
肩をすくめたパウルは、偶然外に出ていた施設の職員らしき中年の女性に声をかけられ、軽く手をあげた。
「どうしたのよ、パウルさん。ずいぶん可愛い娘さんを連れてるじゃない。妹さんなんていたっけ?」
絶対違うと分かっているだろうに、女性は「お兄ちゃんに似なくてよかったわね」と冗談を言って片目をつむって見せた。着ているものから判断するに、どうやらここの食堂で働いている女性らしい。
「ひどいな、アニー。このコはな」
少しいたずらめいた顔をしたパウルが彼女の耳元で何やらささやくと、アニーと呼ばれた女性は、「まぁ!」と文字通り目を輝かせて萌香を見つめた。何か噂されていたのだろうかと、正直居心地が悪い。
――私がなんちゃってアウトランダーだって知ってるのかな?
調査員でなくても特殊な職場だ。外の人間が珍しいとか、何か期待していることがあるのかもと少し身構えた萌香に、アニーは楽しそうににんまり笑った。
「あらあら、まあまあ。へえ、そうなの。ほうほう、このお嬢さんがねえ。まああ、可愛らしい。こういう子が好みだったのねえ。なるほどなるほど」
「えっと?」
萌香としては、語彙力を完全に喪失しているかのような彼女が、何に納得しているのかさっぱり分からない。分からないけれど、好意的ではあると、思う(多分)。
なので目をキラッキラに輝かせるアニーに曖昧に笑顔を向けつつ、助けを求めるようパウルを見ると、彼は苦笑いして、今にも仲間を呼び集めそうな勢いのアニーを止めてくれた。
ようやく少しだけ落ち着いたアニーによると、彼女はここで調査をしていたころのアルバートが、毎晩カードを書いていたのを近くで見ていたらしい。その相手が誰なのか気になって、なんと当時パウルに調査を依頼していたというのだ。
――調査って……。
「もうね、とっても優しい顔で書いてるものだから、よっぽど大切な相手なのねと思ってたのよぉ。私たちにがっつり見られてたなんて知らないだろうから、完全無意識でしょうけどね。ふふっ。あのアルバートさんにあんな顔をさせるなんて、罪作りなお嬢さんだわぁ」
揶揄うつもりではないのだろうが、右手をおいでおいでするように振りながら笑う姿は楽しそうで、萌香は熱が集まってしまった頬をさりげなく仰いだ。
――ああ、うん。そうなんだ。
一枚一枚丁寧に絵の描かれたカードを思い浮かべ、それをどんなふうに彼が描いてくれたかを考えるとなかなか熱が引かない。あの頃は彼が自分を想ってくれているなんて、夢にも思わなかったのだから。電話の取次ぎさえ断っていた萌香は、罪作りというよりかは失礼だったのだろうとさえ思う。
アルバートが絡むと萌香はいつも、失礼なことばかりしているような気がするくらいだ。
カリン夫婦たちの顔まで面白そうになっているのは、彼女等も過去のアルバートを知っているからだろう。
「カリンさんたちまでニヤニヤしないで下さい」
「ふふっ。萌香さん、首まで真っ赤よ」
「っ! 意地悪」
鏡を見なくても実際そうなのが分かっているので、いったん皆に背を向けて熱を冷まそうとしたときだった。
ぐらりと頭の芯が揺れた気がした。
貧血かと目元に手を当てて少しだけ目を閉じた萌香は、次に目を開いた瞬間目の前の光景に言葉を失った。
目の前には見上げるほど高い鍾乳石のような白い岩がそびえたっている。一瞬壁かと思ったそれはよく見れば巨大な柱のようで、まるで大きな木のようにも見えた。空はふたをしたように黒いが、岩自体がほのかに光っているので周囲はうっすら明るい。
「え……?」
きょろきょろと周りを見回すが、自分以外誰もいない。自分の心臓の音さえ聞こえそうだ。
「パウルさん? カリンさん? ……どこですか?」
小さな声もエコーがかかる。
一周グルっと見回しても、自分が筒状の何かの中にいるとしか思えなかった。
「もしかして落ちた?」
落下した感覚はなかった。でも地底湖の近くだったことを考えると、地面に穴が開いて落ちたと考えるのが一番つじつまが合う。
その割に上空が暗いし、仮に光が届かないほど深いところまで落ちたのだとしても、体のどこにも痛みはないのだが。
「落ち着こう。大丈夫。パニックになっちゃダメ」
バクバクと嫌な音を立てる心臓をなだめ、深呼吸を繰り返す。
本当は怖かった。
何が起こったのか分からないことも、ここがどこなのか、なぜ誰もいないのか分からないことも、怖くてたまらなかった。
「なんで私ばっかり……」
これもスライドなのかどうなのか分からないけれど、これが明晰夢ではないのだとしたら、自分は違う場所に飛ばされたのだろう。勝手に飛んだのか、また入れ替わったのかは分からないけれど。
――入れ替わるのは困るな。
やっと自分の居場所を確立してきたところなのに、そこに違う自分が立つのは嫌だと思う。奪われたくないと焦燥感まで感じるのはきっと……。
――ルー君。
声を出さず、今一番そばにいてほしい人の名前を呼んだ。もし声に出してしまったら崩れ落ちそうな気がした。またすべてを手放すのはもう嫌だ。いい子のふりして、仕方ないと諦めるなんて絶対できない。したくない!
目を閉じるとアルバートがちょっと伸びすぎてしまった前髪をかき上げ、少しだけ意地悪そうに笑う顔が浮かぶ。『萌香』という声が聞こえた気がした。
――ん。大丈夫。大丈夫だよ。
それだけで気持ちが鎮まってきた萌香は、大きく深呼吸をした。気付けばハンカチなどの小物を入れた小さなバッグもなくなっている。ポケットを探るとアルバートにもらった手鏡にふれ、ぎゅっと握りしめた。
そのまま耳を澄まし、何かないかと周囲を見回す。
もしもの場合、自分には力がある。
イナなら見つけてくれるはずの糸を送ればいい。どこかでなくしたバッグに入っているスマホが見つかれば、カイに連絡することもできる。
萌香は少しだけ考えた後、体力をあまり消耗しないよう、自分の周りに小さく羽衣を薄く広げていった。舞台だったら自分の作る世界に観客を取り込むそれを、探知機のようにできないかと思ったのだ。
他生の縁というものがあるなら、自分の糸が誰かとつながるかもしれないから。
インクを水に落とすようなイメージで四方に、次に上にも広げていく。
すると鍾乳石のようなものの向こう側に気配を感じた。そちらに伸びているはずの糸を視覚化すると、もやもやとモザイク状ではあるが、いい縁であることが分かってほっと息をついた。そこに誰がいるのかは分からないが、萌香に害を加える存在ではないようだ。
それでもはやる気持ちを抑えて鍾乳石のようななものに右手を当てると、足音を忍ばせ糸を辿っていった。
思ったより遠く感じるのは、ほのかな光に距離感が曖昧になっているからだろうか。
しばらく進むと複数の人の気配がする。
そっとのぞき込むと青く光る泉のようなものが目に入った。
――やっぱり地底湖に落ちてたのかな。
腑に落ちないまま目をすがめると、泉の向こうに複数の影が見え、心臓がドクンと大きな音を立てた。
――幽霊?
ヒッと声をあげそうになったのを慌てて手でおさえ、向こうから見つからないようもう一度慎重にのぞき込んだ。影は五つか六つ? もっといるのだろうか。思ったよりも多い。
人型の黒っぽい靄にしか見えないそれらは、話し合いでもするように集まっている。萌香は糸の色を信じてもいいものだろうか、そもそも話ができるのだろうか? と悩んで、もう少しだけ様子を見ることにした。話しかけるのをやめたとしても、泉のそばには行きたかったからだ。
まだ喉は乾いてないけれど、水は必ず必要になる。青く光ってるのが不思議だが、鍾乳石のようなものも光っているくらいだ。水の底に何かしら光源があるのだろう。
――まるでRPGゲームに出てくるセーブポイントみたいだわ。
弟が遊んでいたゲームを思い出し、ここで寝れば体力回復ができるのかなと考えていると、ミュート機能を解除したかのように突然、今まで聞こえなかった話し声が聞こえてきた。ラジオの周波数がずれてるかのようにノイズ交じりだけど、理解できる言葉だ。
『詩織ちゃんはそう言うけど、そこからどうやって声を届けるの? 手紙だって本人に届いたか分からないんでしょう?』
おっとりした話し方だけれど、不安が隠せない女の子の言葉にドキリとする。
おそらく彼女が最年少なのだろう。他の声はぐわんぐわんと反響してよく聞き取れないが、周りの人が気楽な調子で彼女をなだめているように見えた。一瞬だけアルバートやヘレンの声が聞こえたような気もするが、願望だと首を振る。
その気配を感じたのだろうか。
影の一つがハッとしたように顔をあげ、その隣にいた人と顔を見合わせる。なぜか手を口元に当てたように見えた影が、中心にいた影の肩らしきところを叩いた。
『え? また誰かいる? ――あなたもここに落ちたの?』
こっちに向って話す声に聞き覚えがある。
柔らかに気遣う声は、迷子を保護しているからあなたもおいでと言っているみたいに聞こえた。いや、多分そうなのだろう。
萌香は唇をなめ、思い切って姿を現す。
萌香の勘が当たっているならあの影は手紙をくれた詩織で、ここは次元の谷。
だとすれば――
――泣くわ。ウソでしょ。助ける側の私が落ちてきてしまってどうするのよ。




