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130.ごめん(アルバート視点)

 萌香がまだエリークの格好をしているせいか、それともこの一ヶ月別人を演じていたせいか。唇を尖らせるなど、彼女にしてはずいぶんと子供っぽい表情についなごみそうになり、アルバートは慌てて気持ちを引き締める。


 とはいえ、こんな説教じみたことをしてしまったのはアルバートの八つ当たりにも等しい。心配が高じてつい責めるような姿勢になってしまったが、実際萌香は何も悪くないのだ。


 ――全部、すべて、何もかもぜーんぶ、こっちの落ち度だからな。


 本来彼女に危険が及ぶ可能性は限りなく低かった。

 聖女の印を持つ女性は萌香だけではない。しかし彼女の特殊な状況を鑑みれば、そうである可能性が高い。

 しかし伝説の期日である年内いっぱいは、普段より身辺に気を付ければいい。

 実際にはその程度の警護のはずだった。

 そのため今回も、常につかず離れずついているボディーガードが友人や教師の顔をして護衛がそばにいたのは、彼女に気負わせない為だ。


 唯一の例外デズモンドは、外に出てくるはずもない状況だ。しかし、彼を騙る何者かによる行き過ぎたいたずらは軽視できない。

 それだけを、萌香に知られる前にやめさせられればいい。


 だがカードの送り主として判明したエナは、伯父の娘ミアに近しい人物だった。

 彼女には一見悪意が見えないにもかかわらず、萌香――いや、エリカに害を与えようとする意志を感じられた。それが正しいものであるかのように。

 エリカのファンであることも嘘ではないように見えるのにだ。


 どちらも嘘ではなさそうな矛盾した何か。

 先程のアルバートを誘惑しようとする目には奇妙な熱がこもっていて、一種寒々しささえ感じた。


 デズモンドがリュウオーの生まれ変わりだと本気で信じているのだろうか。

 あの男に萌香(エリカ)を添わせることが正しいと?


 それが嘘でも思い込みでも関係なかった。

 エナの奇妙な熱に一瞬頭に血が上ったが、本当だったらしっかり言い聞かせる予定だった。他にもリンダがアルバートに敵意を持っていることも知っていたけれど、そちらに関しては対処できる自信があったし、できることもたかが知れているだろうと思ったのだ。


 萌香に知られずに、楽しい気持ちのままで過ごしてもらう。そのはずだった。


 しかし思わぬところで当の萌香扮するエリークが登場した。そばにいたロナは何をしてたのだと思ったのは言うまでもない。アルバートとしては、一番見られたくはなかったところでもある。


 一見子供っぽい見た目のロナだが、普段はしっかりしていて、こんな些細なミスをするなどないらしい。カリンたちもロナを叱りながら不思議そうにしていたが、ロナはなぜかエリークをとめられなかったと釈然としない顔をしていた。


『突然別の――モエカさんでもエリカさんでもなく、エリークっていう少年が本当にいるみたいで……。あのとき世界が変わったような、夢の中に入ったみたいな――なんて、ただの言い訳よね。ごめんなさい』


 自分でも何を言っているのかと、ロナは苦笑いしていた。

 しかし、あの場でそのエリークを実際に見ていたカリンとアルバートは、こっそりと視線を交わし合う。無言の会話は、その通りだったと合意していた。


 しかもエリークは、エナの本名がエリカだとあっさりと暴いた。

 そして、密かに罠にかかったデズモンドの祖母の存在にも気づいていたのだから舌を巻く。アルバートにこっそり告げた声は、驚くほど冷ややかだった。

『あの男に近しい誰かがいましたね』

と。


 どこまで気づいてしまったのか。いや、いつからわかっていたのか。


 後ろめたい気持ちに居心地の悪い思いをしていたアルバートは、萌香の手にある剃刀の持ち主がリンダだと言われたことに虚を突かれ、それを悟らせまいとつい以前のように表情を消してしまった。

 普段萌香の前ではしなかったことを。


「リンダさんがなぜ、萌香に剃刀を? それともエリークに? 髭を剃れとでも言われたのか?」

 アルバートの軽口に笑うこともなく、萌香は軽く肩をすくめた。

「私が勝手に取り上げたんです。彼女は気づいてないわ」

「? もしかして、こっそりとったのか?」


 まさか。どうやって?

 いぶかしみつつも口にした疑問は、しかしながら正解だったらしい。

 唖然とするアルバートの前で、萌香は澄ました顔で何かを抜き取るジェスチャーをして見せた。


「子供がおいた(・・・)をする前に原因を取り除くのは、姉としてのごく普通のたしなみですよ」

「そんなわけあるか」


 思わず突っ込んでしまうが、トキオにいた頃のエピソードを教えてくれた萌香に、自分の子供時代にも多少覚えがあったアルバートは何も言えなくなってしまった。

 以前のエリカは母同様に手ごわい「妹」だったが、この萌香は「姉」でもあるのだ。


 なんとなくそれに翻弄されたくなくて、無意識に優位に立とうとしたのがバレたのだろうか。意図せず昔のエリカの前でそうしていたような皮肉な表情になる。

 そんなアルバートを見た萌香が軽く俯いて小さく息をつくと、顔をあげたときにはすべての空気が一変したように感じた。


 今まで目の前にいたのは萌香だったはずなのに、顔も服装も変わらないのに、明らかに別人に見える。


「アルバートさんが演技を続けるなら、僕もエリークとして話すよ。あの場にいたのは萌香じゃないから、むしろこっちの方が正解だろ?」


 萌香よりも低い声。少し軽薄そうなリズムで話す少年。

 髪型も服も一切変えていないのに、突然萌香らしさが一切消えていることに戸惑った。


「萌香?」

 なぜ、と戸惑うアルバートに、エリークはいたずらっぽく笑った。

「萌香は今()に行ってるから返事はしないよ。芝居の中で裏方は外には出ないんだ。しばらく僕で我慢して」

 まるで人格が乗っ取られたようだとゾクッとする。


 ――しまった。失敗した。


 どうやらしばしこの芝居に付き合わなくてはいけないらしい。いや、そもそもアルバートがそうさせてしまった。

 そう理解したアルバートは、後頭部をクシャっとかき乱した。この目には見覚えがあった。


 以前こちらにいた絵梨花のことは、何を考えているのかわからないところが苦手だった。こちらが気づかないうちにさくっとやり込められそうな気がしたからだ。

 しかし本当のエリカである萌香は、外で育ったためかおっとりとした雰囲気の素直な女性だが、それでも根本は同じ人間なのだと痛感する。しかも困ったことに萌香が相手だと、この奇妙な状況でさえ魅力的に見えてしまうときた。


 すぐに頭を下げようとしたアルバートだが、エリークが軽く手をあげてそれを止めた。


「アルバートさん、それは後にしようか。今萌香はいないからね。まずは話を続けよう?」


 ゆったりとした低い声。アルバートという呼び方も萌香とは違う抑揚。


 それに気づいた時、ふいにアルバートの耳の奥、もしくは遠いところから直接脳に話しかけるような声が聞こえた。

『やっべ。姉ちゃん怒ってるじゃん』

 ――え?


 聞いたことがない声だった。強いて言えば、昔のフリッツに似ているような気がする少年の声。しかしフリッツの話し方とは似ても似つかない、聞きなれない話し方だ。しかも幻聴はまだ聞こえた。


『そっこー謝った方がいいよ。まだ間に合う! ねーちゃんを本気で怒らせると、魔王でも土下座するレベルでこえーぞ!』


 ――たしかに。


 なぜか幻聴に意気投合したアルバートは、目の前のエリークを見る。

 男っぽく足を開いて座っているエリークは、顎の下で手を組んでにっこりと笑っている。無邪気で生意気な少年にしか見えないくせに、なぜかめちゃくちゃ可愛く見える。


 ――可愛い。が、これはヒステリーを起こす女の何倍も怖い笑顔じゃないか?


「ねえ、アルバートさん。僕……いや、萌香はね、アルバートさんが傷つけられるのは見たくないんだよ」

 ニコニコしているけれど、これは少し怒ってる。

「う、うん、そうだな。すまないと思ってる。でも彼女は子供だし十分対処できると」

「ことが起こって傷つくのは、あの子の方でもあるんだけどね?」


 かぶせるようにやんわりと諭され、アルバートはぐっと詰まった。

 そもそもリンダがアルバートに敵意を持った理由は誤解からだ。アルバートがマリーナの元夫のキッドでありながら、一時期彼女と恋人だったこと。なぜかアルバートがエリカに乗り換えるためにマリーナを捨てたと思ってることなどなど、若さゆえの潔癖さからくるとしか思えない盛大な誤解が発端だった。マリーナが訂正すればするほど誤解が深まるという悪循環。

 困った顔のマリーナからその話を聞いた時は頭を抱えた。


「あの子が俺のことをマリーナさんの汚点だと思ってることは分かってたけど、まさか刃物を持ってるとは思わなかったんだ」


 マリーナから聞いたことを説明してそう締めくくると、エリークは器用に右の眉を上下させた。そして短い沈黙の後、指で剃刀をくるっと回転させ「なるほど」と呟いた。


「リンダさんにとって、アルバートさんは不潔な男というわけか」

「っ!」

『姉ちゃん、ひでー!』


 思わず言葉に詰まったアルバートの耳の奥でまた声が響く。目の前のエリークには聞こえていないようなので、やはり幻聴なのだろう。

 だが幻聴でもいい。味方がいることが妙に心強かった。

 他の女相手なら気にもかけないようなことでも、こと萌香相手だとそうはいかない。すべてが手探りで、時に途方に暮れてしまう。大切で大切で仕方がないのに。


 そんなアルバートに気づいていないのか、エリークは剃刀を明りに透かすかのように持ち上げて目を細めた。


「しっかしなぁ。こんなカミソリ一つじゃ、せいぜいアルバートさんのシャツを切り裂くか、手や頬に傷をつけるか程度の事しかできないだろうに。どちらかと言えば彼女がケガをしてた可能性のほうが高いかな」

「そうだな」


 実際にはかすり傷一つ付けられはしなかっただろうが、そんな現場を見たらマリーナや彼女の婚約者であるリンダの兄がショックを受けただろう。万が一アルバートが血を流すことになれば、エリークが言うようにリンダ自身ショックを受けたことも容易に想像できる。


「彼女から取り上げてくれてありがとう。そうならなくてよかった」


 だから悩むより先にするりと感謝の言葉が出たアルバートに、エリークは虚を突かれたように目を丸くした後、ふわりと淋しそうに目元を緩めた。


「萌香が貴方の気持ちを受け入れたのはさ」

「ああ」


 あくまで客観的であろうとする萌香(エリーク)に神妙に相槌を打つ。何を言われるのか少し怖い。


「こんな風に蚊帳の外に出されるのが嫌だったからだよ。貴方が萌香を守りたいと思ってくれたように、萌香だって貴方のことを守りたいって思ったんだ。一方的なのは嫌だって思ったんだよ。

 萌香にとってアルバートさん、貴方は最初から特別だったんだ。萌香はエリカじゃないと思ってたからそんな資格はないと思ってた。でも前の絵梨花が貴方を想ってもいい状況を作ってくれたから。それに、アルバートさんが萌香と一緒にいたいって言ってくれたから。――だから、こんな風に締め出すのは許せない……っ」


 絞り出すような声に胸を突かれた。

 良かれと思ってしたことが、無意識に別の者たちの思惑に流されていたことに気が付いた。

 エリークが己の首の後ろに手をまわし、ネックレスを外す。鎖に通された指輪を突き付けられ、アルバートの足元が崩れたような感覚におののいた。


「もえ……」

「だから、今日みたいなことを繰り返すなら、――萌香とは別れたほうがいい」


 エリークの声で静かにきっぱりと言い切られ、アルバートの口の中がからからに乾く。これが他の女がするような試し行為ではないことをはっきりと感じた。彼女が簡単に口にしないことを誰よりもアルバートが一番知っている。

 指輪を受け取らないアルバートの手に強引にそれを押し付けたエリークが、すっくと立つ。そのまま立ち去ろうとするのを慌ててアルバートは引き留めた。


「本気じゃないよな」


 自分のかすれた声に驚くが、アルバートを見上げるエリークの目に萌香らしさを見つけられず、ぐっと奥歯をかみしめた。


「アルバートさんならすぐ、おもちゃじゃない、本物の指輪を渡せる人が現れるよ」


 その指輪は本物だ!

 そう言いたいけれど、萌香は今完全にエリークを演じている。ならばまだ可能性は残ってる。これはあくまで客観的な別人の考えであって萌香の本心ではないと。


「頼む、萌香に戻ってくれ。俺は萌香と話したい」


 このまま行かせてしまったら、きっと後悔する。まだ彼女は本気で怒っているわけじゃない。

 もしも彼女が本気でアルバートから離れようとするならば、どんなにすがっても無駄だと知っている。もしかしたら自分でも気づかないうちに、違う女性をあてがわれている可能性もあると思い至り、胸が切り裂かれそうに傷んだ。フリッツがいい例じゃないか。


「萌香。本当に悪かった。ごめん。もう絶対しない。きちんと話すから一人になろうとしないでくれ。頼む」


 こんな風に誰かに縋りつく自分の姿など想像もできなかった。けれど、彼女をこの腕に取り戻せるならなりふり構っていられない。

 大事にすると誓った。誰よりも頼りにしてほしかった。

 でもそれは、すべてを隠して壊れ物を扱うかのようにすることではなかったんだ。

 彼女は強い。手を放してしまったらすべて一人で背負い込んでしまうだろう。本心を見せずに、ただ周りが望む姿を演じて。

 今、こうやって別人としてアルバートの前にいるように、萌香に戻っても、常に誰かの理想のエリカを演じるに違いない。


 ――そんなのは絶対にダメだ。


 真剣に訴えるアルバートの前で沈黙を続けたエリークは、驚いたように目を丸くした。その後何かささやくように小さく唇が動くと、仕方がないというように小さく息をつく。束の間目を伏せ次に開けたときには、少し潤んだように見えるいつもの萌香の目に戻っていた。


「萌香?」

「はい。――ルー君」


 緊張しているように強張ってはいるけれど、萌香に戻ってくれたことにホッとする。さっきよりも遠くなった幻聴にエールを送られたアルバートは、彼女を抱きしめたい衝動を抑え、もう一度心からあやまった。

アルバートに聞こえた声は果たして?

次は久々の日本です。

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