126.ミッション①(カリン視点)
フテン家の西にあるホールは今、普段置いてある家具などがすべて撤去されていた。かわりに壁際にはテーブルが複数設置され、その上には手でつまんで食べられるような軽食と飲み物がずらりと並んでいる。
通常の舞踏会なら照明で彩られるホールだが、今日は少女たちための昼の舞踏会。普段は閉められている天窓の鎧戸もあけられ、秋の日差しが柔らかく室内を照らしている。
これが夕方になると自動で鎧戸が閉まり、星屑のような光を落とす。
夜が本番の舞踏会なら始まりを告げる光だが、今日は宴の終わりを告げる光になるだろう。それでもあの幻想的な光を初めて見たら、きっと忘れられない風景になるに違いない。
そのことを知っているのか、ホールで談笑する少女たちの何人かが天井を指さし、何か楽しそうに笑い合っているのが目に入った。一番緊張するであろう入場から始まり、すでに三曲踊った後だ。すっかり緊張が解けた少女たちの笑い声に、周りの大人たちも目を細める。
カリンは注意深く周囲を観察しながらも、(いいイベントだな)と心の中で頷いた。
彼らには、幾重にも張られた警護も緊張感も悟られていない。ただ珍しい時期に行われた舞踏会に、自分たちががちょっぴり大人扱いされていると照れくさそうに頬を染め、ただ夢のような時間を楽しんでいることが肌で感じられた。
事情を知らない少女たちは今日、「モエカが病欠」だということを惜しんでいたが、それをのぞけばこの約一ヶ月のうち、何日かを共に学んですごした思い出話に花を咲かせているのだろう。
――本当だったら、彼女もあの話の輪に入りたかっただろうに……と思ったけど、案外楽しそうにしてるわね。
カリンは目の前の警護対象である少年――否、モエカことイチジョー・エリカが演じるエリークを見て、あらためて感嘆のため息を漏らした。
夜会服を見事に着こなした少年は、ロナのパートナーとして素晴らしいダンスを披露し、今も彼女の隣に寄り添うように立っている。少しだけ大人びた、間違いなく完璧なパートナーだ。
――いやはや、予想の遥か上過ぎ。女の子たちの質問攻めが大変だったわ。
彼はどこの誰かとロナに詰め寄る少女たち。ロナは涼しい顔で「内緒」とあしらっていたが、なぜか質問の矛先がカリンに向いたのはロナのせいだろう。素敵なパートナーがいる私、と言った風にほほ笑むロナに、カリンは苦笑するよりも「わかる」と内心大きく頷いてしまう。間違いなくそれで正解だ、と。
瞬間、脳裏にしたり顔をしたダン・アルバートの顔が浮かんで、(はいはい、降参。あんたの勝ちよ)と、カリンは心の中で両手を上げた。
共通の友人知人がたまたま多いことから、幼いころから友人の友人くらいの間柄だったアルバートだが、彼は今現在、イチジョー・エリカの恋人だという。最初は冗談だと思ったが本当らしい。
そのアルバートが、彼女を一時的に隠す方法としてエリカに男装させることを提案したとき、正直誰もが「こいつ何言ってるんだ?」という顔になった。
隠れ蓑としてエリカに十五歳の少女を演じさせた時も、まあ驚きはしたが、それでも同性だからとか、エリカにはこんな特技もあったのかとひそかにざわめいたが、男装はさすがに無理があるだろう。
だいたい、どこからみても淑女であるエリカに男の格好をさせても、無駄に目立つだけではとの反対意見が多数だったのだ。しかしアルバートは、自信満々に大丈夫だと請け合った。
――うん。違う意味で目立ってるけど、あれがあのエリカ嬢だなんて誰も信じないわよ。年齢詐称だけなら、十歳近くサバを読める驚異の童顔娘、ロナっていういい例がいるけどねぇ。エリカさんのあれは別次元だよ。あんなに自然に性別も年齢も違う風に見せるなんて、ふつうの役者でも無理でしょ。
今カリンは教師として、ロナは生徒の一人としてこの場に立っているが、本当は二人とも二十四歳。共にミアの父親フテン・バルトが部隊総長を務める保安部隊に所属する隊員だ。今回の任務はイチジョー・エリカの警護。本人にそれとは悟られず、安全を守るためにそばにいること。
イチジョー・エリカはずっと、ある男性から執拗に言い寄られていた。婚約者がいたときもそうだし、それが解消された後も。その行動がどんどんエスカレートした結果、男は殺人未遂の現行犯で逮捕された。
投獄された男は今も、エリカは自分のものだと言い続けているという。
カリンは逮捕された現場もその後の姿も知らない。だが実は、エリカに異常なほど執着していた男デズモンドのことは印象に残っていた。学校こそ違ったものの、その神々しいまでの見た目で崇拝者が多かった男だ。
崇拝者と言えば普通、彼に少なからず恋心を持つものだが、デズモンドの崇拝者は少し様子が違っていたように思う。
デズモンドの先輩にあたるカリンの夫ボウの話によれば、デズモンドは幼い時には許嫁がいたらしい。あくまで噂ではあるが、それはそれは仲睦まじい二人だったという。
『デズモンドが言うには、彼はリュウオーの生まれ変わりで、許嫁は聖女エリカの生まれ変わりだったそうだ』
昔、当時婚約者だったボウにその噂について尋ねた時、彼は『話半分に聞けよ?』と念を押し、渋々そう教えてくれた。
『ふたりは、生まれる前から定められた運命の恋人だったんだそうだ』
その表現にカリンがげんなりした顔をすると、彼は『俺が言ったんじゃないからな』と、同じくげんなりした表情になった。
幼い子供の発想とは思えないため、きっと親などにそう吹き込まれていたのだろうとカリンは考えたが、それを話すとボウは、『そういうわけでもないらしいよ』と眉を寄せながら首を振った。
生まれながらの超絶ロマンチストカップルだったということだろうか。
『まあ、その、運命の恋人だったデズモンドの許嫁は、彼が十歳の時に流感で亡くなったらしい』
『ああ。それは気の毒に』
毎年冬になると、流感で亡くなる人が少なからずいる。幼い子供や年寄りは特に。
カリンの祖母もちょうどその頃に亡くなっていたので、心からの同情からそう言うと、彼も神妙な顔で頷いた。
『だがな、カリン。デズモンドの許嫁は亡くなる時、すぐ他の体に入って会いに行くと言ったんだそうだ』
その奇妙な表現にカリンは怪訝な顔になる。
『他の体に? 生まれ変わるではなく?』
『そう。生まれ変わるのでは遅すぎるから、他の体に入るんだと言ったらしい。デズモンドによれば、それがイチジョー家のエリカ嬢なのだそうだ』
『何それ。ばかばかしい。イチジョー・エリカってつまり、トムの妹のことでしょ。前に少しだけ話したことがあるけど、たしかあの子は私の六歳年下だったわよね。許嫁だった子はデズモンドの一歳年下? じゃあ、その子が亡くなったとき、エリカさんはすでに五歳じゃない。五歳の子供に死んだ八歳の女の子が入ったって、デズモンドは信じているの? まさかでしょ?』
『そのまさからしいよ。その証拠があの、きれいな聖女の印だそうだ。彼の許嫁もエリカだったらしい。印はごく薄く目立たないものだったらしいけどね』
『――意味が分からない』
本気で意味が分からない……。
エリカの印を持つ女の子なら、国に何人もいる。イチジョーの苗字は持たなくても、エリカだけなら珍しくはないのだ。
生きている人間に入るという発想も、それを信じるという根拠も、何もかもが意味不明すぎる。
カリンはあの時の、冷たい蛇がぬるりと背筋を降りていくような感覚を、今もありありと思い出せる。
デズモンドは今も、それを信じ続けているということなのだろうか。
そんな男にエリカはずっと付きまとわれてたかと思うと、カリンは再び背筋に冷たいものを感じた。
あの時は深く考えなかったのだ。あまりにもばかばかしい話だし、彼女には正式な婚約者がいたから。
――なのに婚約解消していたと聞いた時は驚いたけど……。
それでもデズモンドが逮捕されたことで、エリカは安全になったと思われた。この仕事を任された時だって、事情を聴く前は、事故で記憶をなくしてしまったという彼女が実際に聖女だったときの可能性を考えて、形だけの警護になるとカリンは気楽に考えていたのだ。
実際楽しい仕事だった。
緊張感はあったが、少女たち相手の先生役は思いのほか楽しかったし、事情を知らないメラニーやマリーナといった、自分とは違うプロの仕事を間近で見るのはいい刺激だった。
十も違わないはずの少女たちのキラキラした姿はまぶしくて、そんな彼女らと一緒に笑っているエリカをそばで見ているのも、何か物語の一部を間近で見ているような不思議な高揚感というか幸福感があった。
エリカとアルバートの組み合わせに、最初は「なぜ?」と不思議で仕方がなかったのに、今では結婚式には呼んでほしいかもなどと、こっそり考える程度には二人を応援していた。アルバートの前では絶対に言わないけれど。
以前は知らなかった一面……いや、記憶がないことで表に出たのであろう顔を見て、カリンがエリカのファンになってしまったというのが、感覚的には近いかもしれない。この仕事が終われば、彼女の笑顔や声に癒される日々も終わる。それが淋しい。
「姉さん」
カリンのすぐそばに来た男性が、口をほとんど動かさずにささやく。カリンはちらっと横目で彼を見、かすかに頷いた。近くに他の人はいないが、用心に越したことはない。
隣にいるのは三つ年下の弟ラウ。今回ロナと喧嘩をしている幼馴染という役どころだ。ラウは二十一歳だが、クリッとした目が小動物を彷彿させるせいか十分に十代で通じる。実際にはバルトの秘書(ただしまだ助手の一人)だ。
「現場は緊張する?」
ラウと同じようにカリンがささやくと、弟は少しだけ笑うように息をついた。
「少しね。でも大丈夫。せっかくこの顔を生かせるんだから、こんなときこそ役に立ちましょう」
おどけた口調だが、ロナと違って彼は幼く見られるのがコンプレックスだ。今回だって業務範囲外の仕事であるこの役に、最初は渋い顔をしたに違いない。それでもカリンにとっては、息の合う弟と幼馴染が一緒なのは心強かった。波長が合うのか、周りにばれずに会話をしていることができる相手は希少だ。
「ところでさ、ロナの横にいる男の子がエリカさんなのって本当?」
「本当よ。驚きでしょ?」
「うん。あれなら大丈夫そうだね」
エリカ演じる少年の姿に満足したらしいラウの視線が、さりげなく参加者の一人に向く。カリンもちらりと視線を流し、小さく頷いた。
「ええ。イチジョー・エリカが参加するって情報を流しておいたけど、今日アルバートのパートナーは別の人だから、狙いは彼に集中すると思う。きっと好都合だって考えてるはずよ。けん制するか探りに来るかは、まだ分からないけれど」
ロデアのイチジョー本宅には、今もデズモンドから求婚のカードが届いていた。逮捕後一時途絶えていたのが嘘だったかのように、定期的に届くカード。
デズモンドから出すのは不可能だ。
しかし、彼ととても似た筆跡のカードは、何度も何度も届く。本当の差出人が分からないそれに警戒を強めたイチジョー家が、この警護の依頼者だ。
エリカは「リュウオー」と結ばれるべきで、アルバートは「悪」で「排除すべきもの」であると訴えるそれには、「エリカはもう一度体を移すべきでは」と書かれていたという。
カリンたちが会議で見せられた写しには、「エリカはもう一度死んで、適切な体に入らなければいけない」――と書かれていた。
そして、せっかく大きな事故にあったのに……、と生きていることを残念がるような内容が続いたのだ。
つまり差出人は、イチジョー・エリカが記憶をなくしたきっかけである事故――つまり、表向きには秘密にされている事故のことを知っていた。
そして今日、さりげなく集められたこの舞踏会に、その犯人がいる。
まさかと思った。間違いであってほしいとも。でもあえてそばに呼び寄せ、徐々に包囲を狭めていった今、どんなに願おうと真実は変わらない。
「ぜったいエリカさんには気づかれないようにね」
それはこの仕事の重要課題の一つだ。
「わかってる」
小さく頷いたラウは、できるだけ若く見えるようにと前髪を少し乱した。
「十六歳に見える?」
「ばっちりよ」
「ん。じゃあ、行ってくる」




