113.はじめてのキス
ただイチャイチャしているだけの回ですので、生暖かく見守ってやってください
以前パウルが言っていたように、食後に見せてもらったアルバートの部屋のキッチンは広かった。後片付けはしなくていいと言われたものの、食器だけなので大した量ではない。手早く洗うと、苦笑したアルバートがそれらを拭いてくれる。
――アルバートさんてばお坊ちゃんのはずなのに、こういうことが当たり前にできるんだよね。
トムやメラニーはしてもらうことが当然の立場のため、今もソファでおしゃべりをしている。萌香がそうして欲しいと言ったからだが、アルバートは当たり前のように萌香と一緒に片付けをしてくれる。
オーサカ屋で料理教室をしている時もそうだった。
アルバートは、このタイミングでこうしてほしいということがよく分かるようで、一緒に料理や片づけをするとすごく早く仕事が終わるのだ。
――正直、ちょっと惚れ直してしまうところなのよね。
こちらでは、パーティーの後などの片づけを翌朝に持ち越すことが多い。使用人が疲れてしまうから、早く休んで朝一で片づけたほうが効率がいいと考えられているようなのだ。
それは知識として知っているし、他人の仕事を取るのもよくないことは分かっている。
――でもねぇ。いくら食器はそのままで、なんて言われても落ち着かないでしょ。まだ秋よ。天空にまでGがいるとは思わないけど、あいつらどこにでも出てきそうで油断ならないんだもん。
黒光りするアレを思い出してしまえば、汚れた食器を放置することなどできるわけがない。思い出すだけで萌香は、首の後ろがゾワゾワしてしまうのだ。
――こっちではあれを一度も見たことがないけれど、やっぱり無理だ。危険は冒せないわ!
心の中で頷いたつもりが、実際していたらしい。
アルバートに「どうした?」と、クスクス笑われてしまった。
「なんでもないです。えっと、またお料理教室したいですね」
カイたちが地元に戻ってしまったため、料理教室はいったん休みになった。
「エステルさんのところに行けば、またできるだろ」
「そうですね」
カイの地元と白薔薇亭は意外に近い。
「萌香さえかまわなければ、二人でもいいんだけどな。白身魚フライのサンドイッチ? バーガーだっけ。あれもまた食べたいし、唐揚げも食べたい。あのピラフとか言う米料理もうまかったな」
今まで食べたものを次々上げていくアルバートに、萌香は思わず吹き出してしまう。
カイが取り寄せをしてくれたお米は、普通に白いごはんとして食べるにはパサついて今一だったけれど、ピラフなど味を付けてしまえば問題なかったのだ。鍋でお米を炊く方法はしっかり教えてもらったし、カイとはいずれ、日本のカレーライスを再現しようと約束していた。アルバートもカイの妻も、何を作っても美味しそうに食べてくれるので作りがいがあるのだ。
「アルバートさん、食べることばっかりじゃないですか」
作りたいのか食べたいのか。そう言ってクスクスと笑う萌香に、アルバートは片目をつむって見せた。
「作るのも食べるのも、どちらもだ」
「食いしん坊さんですね。そんなところも大好きですけど」
手を拭きながら萌香が愛情を込めて微笑みかけると、アルバートが一瞬泣きそうにも見える笑顔を見せ、萌香の頬に口づけた。
「俺もだよ」
そのままそっと抱きしめられ、萌香も抱きしめ返す。
そうしているとすべてが満たされるような、何も怖いことなんてないような、そんな気がした。
◆
トムたちと別れ、改めてアルバートにダン家まで送ってもらう。離れの入り口まで送ってくれたアルバートは、珍しくちょっと考えるような仕草をした。
「萌香の部屋も見てみたいな」
突然の提案に萌香は思わず瞬きをする。
イチジョーの部屋になら何度も彼は来てるのだし、遊びに来てもらうのは全く構わない。ただダン家にいれば立場や状況の違いがある。彼もそれは分かっているはずなのに、今はなぜか、萌香の後ろに向かって言ったような気がしたのだ。
誰かいるのかと思った瞬間、うしろから家事長ヨハナの声が聞こえてびっくりした。
――ぜんっぜん気付かなかった!
「アルバート様。部屋のドアはきちんと開けておいてくださいませ」
てっきりお叱りの言葉になると思ってた萌香がヨハナを見ると、彼女は
「短い時間になさってくださいね」
と微笑んだ。
「分かってるよ。――ということなんだけど、いいかな?」
「え、えっと。許可が出ましたし、私は構いませんけど」
本当にいいの?
萌香が確認するようにヨハナを見ると、彼女は信頼しているというように深く頷いて見せる。
「今の時間なら、事情を心得ているものしかいないから大丈夫よ」
「ありがとうございます、ヨハナさん」
ドアを開いておくのは、マナーの一種だ。問題ない。
無邪気ににっこりした萌香につられるように、ヨハナもクスッと笑い、次いでまじめな表情をアルバートに向ける。
「アルバート様? 分かってらっしゃいますね?」
「大丈夫、信用して」
(ん? 何を?)
アルバートの返事に首を傾げつつ、彼に促されて萌香の自室に向かう。
「少し散らかってますけど」
今朝も出かける前に勉強をしていたため、テーブルには借りた本が積まれたままだった。それらをいったん棚に移し、先ほどアルバートから借りた本もそこに一緒に置く。刺繍のデザインの参考にしようと、エムーアの服飾の変遷を描いた本だ。
エムーアでも、数百年前は今と全然服装が違っていて驚いた。男女ともに巻きスカートのような服が一般的だったのだ。とはいえ、よく考えてみれば日本の着物、スコットランドのキルト、東南アジアのサロンという巻きスカートなどを考えれば、巻く形の服でも不思議はないと納得する。それに今のエムーアには四季があるけれど、元々の位置を考えるとかなり南国なのだから。
「アルバートさん、適当にくつろいでくださいね。あ、お茶淹れます。何がいいですか?」
「いいよ、そんなに長い時間じゃないし」
チェストの上に飾ってあるカードを見ていたアルバートが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「カード、飾ってくれてるんだ?」
その甘やかな声と視線に、萌香の胸の奥がギュッとする。
「うん。アルバートさんの絵、大好きですから」
彼からもらったカードがいたまないよう、今はきれいに額装している。全部は飾れないので、日によって変えて楽しんでいるのだ。
「アルバートさんだって、私のカードを飾ってくれてたじゃないですか」
「ああ、気付いてた?」
「そりゃ気づきますよ」
彼の書斎のデスクにあった虹の飛び出すカード。
ガラスのようなケースに納められたそれを見て、少しだけ泣きそうになったのは内緒だ。
見つけたのは偶然。書斎でデスクを見たときに、さりげなく置いてあるのを目にしてしまった。椅子に座るとちょうど見えるであろうその位置に。
アルバートは隣に立った萌香に笑いかけ、ゆっくり口を開いた。
「さっきさ、ガキの頃のことを思い出したんだ。萌香が小さいころから変わってないって話の時」
その面白そうな口調に萌香が不満の声を漏らすと、彼はクスッと笑って萌香の目をのぞき込むようにした。
「やっと思い出した。白薔薇亭で、俺のことをルーって呼びながらついてきてた女の子のこと。アルだよって言っても、アールになっちゃって、結局いつの間にかルーに戻ってたんだ」
幼い頃の思い出に、萌香は思わず息をのむ。
同じ光景が鮮明に脳裏に浮かんだ。幼い萌香にはアルが言いにくくて、ルーと呼んでいた。その呼び方が気に入っていたのだ。
「エリカ?」
アルバートが萌香の本名を呼んだ。
本当に本物の名前。
あだ名でもない、絵梨花のことでもない、彼と同じ思い出を持つ女の子の名前を。
それが嬉しくてたまらない。
自分がエリカだと分かっても、どこかズレたような不安定な気持ちだったのが今、あるべき場所にかっちりはまった気がした。
「はい、アルバートさん」
頬を染め目を潤ませる萌香の頬に、アルバートが手を当て、いたずらっぽく目を輝かせた。そのまま親指で萌香の下唇をスッとなでる。
「もしここが日本なら、俺のことをどう呼んでたの?」
彼の視線が唇に留まる。その視線にドギマギして止まりそうになる頭を、萌香は懸命に働かせた。
「えっと……。ルー君?」
アルバートは日本名にしては長い。呼び捨ても好きではない。
そう思ったとき自然に浮かんだ呼び方をすると、彼はかすれた声で「いいね」と言った。
「日本は敬称が多いんだったな。いいね、新鮮」
「気に入りました?」
囁きにしかならない萌香の言葉に、彼が頷く。
「その言葉遣いも、もう少し砕いてくれたらなお嬉しい」
「努力、します」
唇に触れる彼の親指が気になり、自然と萌香もアルバートの口元に視線が行く。その唇がゆっくり開き「キスしたいな」と言われた。思わずうろたえた萌香に、彼は労わるようにもう一度萌香の下唇をなで、
「まだ痛むか?」
と言うので驚いた。
「傷のこと知ってたんですか?」
萌香の言葉に、今度はアルバートが不思議そうな顔をする。
「知ってたと言うか、見たことがあるし」
「えっ?」
いつ?
「萌香と出会ってすぐ。俺の前でも平気で素顔でいただろう? トムが傷を気にしてた」
そう言われ、トムと会ったばかりの頃、まだ自分が日本人だと信じていて、日本に帰りたいんだと大泣きした頃を思い出した。
あの頃は、彼に素顔を見せても平気だったんだ――。
そして彼は、はじめから萌香の傷も、しこりが残っていびつになった唇も知っていた。
「そっか……」
思わずほっと息を吐く。
「もう痛くはないです。傷も治ってますし。でも唇に少ししこりが残ってて、その……」
「気にしてた?」
その優しい声に小さく頷き、萌香は勇気を出して、ずっと言えなかったことを吐き出した。
「キスなんて一瞬だってわかってるんですけど、もしも気持ち悪いと思われたらいやだなって」
思い切って一気に告げると、アルバートは「一瞬?」と首を傾げた。そのポカンとした顔に萌香も微かに首をかしげる。そのまま手を上げて、アルバートの頬をちょんとついてみた。
「こんな感じ……ですよね?」
ちがうの?
「それは挨拶じゃないか?」
「日本人は挨拶でキスはしません」
互いの認識の違いに一瞬沈黙が落ちる。
萌香の知っているキスは挨拶? と考えて、ハッと顔を上げた。
「絵梨花が日本で挨拶のキスをしてたらどうしましょう」
割と真面目に焦っていた萌香に、アルバートはククッと肩を震わせた。
「笑い事じゃないですよ。ええ、やだ、どうしよう」
思い返せば、女の子からでさえ、音だけのキスをされたことがある。
「絵梨花ならなんとかするだろ?」
「もう、他人事だと思って。絵梨花だけど萌香なんですよ。恥ずかしいじゃないですか」
つい尖らせた唇に、サッとアルバートの唇が触れる。
思わず目を瞬かせると、アルバートの目がいたずらっぽい光をたたえて萌香を見た。
「挨拶じゃないキスをしてもいい? それともイヤ?」
「――イヤじゃ、ない」
です、までいい終わらないうちに唇がふさがれる。そのまま具合のいい位置を探るように角度を変えた後、アルバートは萌香に長い長いキスをした。
やがて離れたアルバートが息を吐く。その色っぽさに萌香が呆然と見惚れていると、それに気づいたらしい彼が、自身の顔を隠すように手のひらを当てて下を向き、何か低く呻く。
しばらく沈黙が続いたあと、やっと顔を上げたアルバートは、
「今夜はこっちに泊まるから、明日の朝食は一緒に食べよう」
と、かたい声で告げた。
「え?」
「ヨハナさん、俺の部屋使えるだろ?」
「ええ、大丈夫ですよ」
アルバートの向こうから当たり前に返された返事に、萌香は声にならない悲鳴を上げた。
――え、やだ、うそ。ヨハナさんいつからいたの? あ、ドアを開けたままだったじゃない。
萌香から外が見えないよう、アルバートが自身の陰に萌香を隠していたことに今更ながら気づく。
湯だったように熱い頬を抑えて涙目でアルバートを睨むと、彼は面白そうに、でもどこかぎこちなく笑って萌香の頭をなでた。
「鍵はしっかり閉めとけな。おやすみ、また明日」
「お、おやすみなさい」
パタンと絞められたドアにしっかりと鍵をかけ、萌香はずるずると座り込む。
小さな悲鳴を抑えるために両手で顔を覆った。まだ体中に彼の余韻が残っている。
それがすごく幸せで、――今夜は眠れないかもしれない。
どうやら萌香にとって、これがファーストキスということになったようです。
次はアルバート視点。
まだ毎週更新が難しいのですが、しばらくは2週間に1回の更新で、徐々に週1に戻していきたいと思います。残りの分量的に、おそらく今年中の完結の予定です。応援よろしくお願いしますm(__)m