112.アルバートの部屋
一日目はフテン家に戻ったアルバート達も含め、全員で夕食をとって終わった。
二日目からは、早い時間にアルバートが萌香をフテン家に送ってくれ、帰りはメラニーを迎えに来るトムにカリンと共に送ってもらう形になっている。
二日目。
メラニーを迎えに来たトムに、初対面の振りをした萌香が
「トムさん、よろしくお願いします」
と頭を下げる。
あらかじめ打ち合わせをしていたにもかかわらず、トムが微かにショックを受けた顔をするため、思わず吹き出しそうになった。
「分かっていても、ドキッとするんだよ」
フテン家を出た後、少し不貞腐れたようなトムにメラニーの笑いが止まらない。
それでも萌香は、(過去に二回も妹が入れ替わっていたんですものね)と、心の中で理解を示した。
王宮近くでカリンと別れ、バトンタッチのような形でアルバートと合流する。その時萌香もメイクを直し、十五歳から二十歳に戻った。
本当ならこのままトムたちとも別れるのだが、この日は二台の自動車に別れたままアルバートの部屋に向かう。たまには四人で食事をしようとアルバートが呼んでくれたのだ。
兄同伴とはいえ、恋人の部屋を訪問するのは生まれて初めてである萌香は、内心少しドギマギしていた。
――どんな部屋なのかな。
アルバートは仕事柄普段あまり家にいることがないことから、掃除などは家政婦が定期的には入ってくれると聞いている。ホテル住まいみたいな印象だ。しかも事前に頼んでおけば食事も用意してくれるということで、着いたころには支度が整っているらしい。
少し前にも、ダン家に戻らないのかと聞いた萌香にアルバートは軽く肩をすくめ、
「それはそれで歯止めが利かなくなりそうだからな」
と、よく分からないことを言っていた。
結婚前の二人が同じ家に住むのがよくないなら、萌香のほうがイチジョーの別邸に移ろうかと考えていたのだが、それはそれであまりよくないらしい。
この件についてトムが言うには、
「エリカが今どこで何をしているのかは、曖昧なほうがいいんだよ。アルたちはよく考えてくれてるから、言うことを聞いておきなさい」
とのことだったので、萌香はよく分からないなりに素直に頷いた。
兄が言うならきっとそうなのだろうと、素直に思えたからだ。
アルバートの住まいは赤茶色の壁をした四階建ての建物だった。同じような建物が並ぶ住宅街の一つで、ぱっと見はイチジョーの別邸とそれほど変わらない。それもそのはず。元は個人の別邸で、今はアパートとしてワンフロアずつ貸されているそうだ。
「俺の部屋は一番上の四階だよ」
そう言ってアルバートが差し出した手を萌香は握り返し、一緒に階段を上がった。階段の広さは二人並んでも十分な広さで、壁にモザイクタイルのようなものがところどころにある。最初聞いたときはエレベーターがあればいいのになどと思っていたものの、趣向を凝らしたタイルを楽しんでいるうちにあっという間に四階についてしまった。
「わあ、素敵。広ーい」
部屋に入ってまず、その予想外の広さに驚く。ワンフロアとは聞いていたが、一人暮らしなのでイチジョーのエリカの部屋くらいを想像していた萌香は、これなら家族四人で暮らすのでも余裕だろうなと考えてしまう。
玄関だけでも、大人四人が余裕で立てるのだ。
玄関ホールから続く廊下の先にダイニングキッチンがあるようで、そちらからいい匂いがしている。右手がバスルームで左手のドアの先は書斎らしい。
萌香のためにドアを開けて見せてくれた部屋は、ダークブラウンが基調のシンプルな部屋だった。ダイニングキッチンと書斎の間が寝室で、全部屋が繋がっており、ぐるっと回ることができるのだそうだ。
「一人で住むには広すぎやしませんか?」
――本当にホテル。しかも高級ホテルのスィートルームみたい。
唖然としたまま、つい馬鹿正直な感想をもらすと、アルバートはクスッと笑った。
「そうだな。萌香が一緒に住んでも十分な広さだな」
いつもの冗談に萌香が笑い返すと、後ろでトムがわざとらしい咳ばらいをした。
「んっんっ。兄貴がいる前で妹に何を言ってるんだ、お前」
「兄貴の前じゃなきゃいいのか?」
真面目な顔で完全にからかう口調のアルバートにトムは苦笑し、メラニーはじゃれあう二人を見てクスクスと笑った。
ダイニングテーブルにはすでに食事の支度が整っている。
ダイニングの奥がキッチンのようで、そちらからエプロンをかけた五十代くらいのふくよかな女性が出てきた。
「おかえりなさいませ、アルバート様」
「デニィさん、ありがとう。あとはやるからもういいよ」
「承知しました」
そう言って一礼したデニィは、ふと萌香に目を止めて一瞬驚いた顔をした後柔らかく微笑み、トムたちにも一礼してから出ていった。
家政婦のデニィは、ここの一階に住む管理人の妻らしい。
「彼女は私のことを知っているんでしょうか?」
デニィの反応が気になって萌香が首をかしげると、トムが少し考えるように一瞬斜め上のほうに目をやった。
「たぶんだけど、お前が生まれるときに、イチジョーに少しの間いたのが彼女だった気がする。アル、彼女、ヘディさんの妹じゃないか?」
「よくわかったな。あたりだ」
「まあ、ヘディさんの!」
今はダン家でコックをしているヘディの妹なら、萌香にすぐ気づいたようなのもなんとなく納得だ。とはいえ――
「私、赤ちゃんの頃から変わってないのかしら」
そんな疑問に首を傾げると、トムに「そうだな」と肯定されてしまう。
「ええ、ちょっとショックです」
萌香がよっぽど情けない顔をしたのか、アルバートのツボに入ったらしい。必死で笑いをこらえている様子だったものの、やがて肩が揺れ始め、ふと何かに気づいたように止まった。
「アルバートさん、どうかしました?」
その表情に萌香が怪訝な顔をすると、彼は晴れやかな顔をして「なんでもないよ。食事にしよう」と萌香の頭を撫でた。
テーブルに用意されていたのは、鶏肉と野菜がゴロゴロと入ったスープと、パヌックという少し厚めのクレープのようなもの。それに手巻きずしのように思い思いの野菜や魚などを巻いていく料理だ。気取らない家庭料理。
それらを食べながら、今日の出来事を話していった。
「今日から刺繍を習っているんですけど、刺繍があんなに重要だなんて知りませんでした」
◆
今日からは通いで二人の生徒が加わった。うち一人は白花会のメンバーで十八歳になったばかりのエナ。もう一人はミア達とも初対面である十四の歳のリンダ。それからリンダの刺繍の先生、マリーナだ。
エナは黒目がちの真面目そうな女の子だ。
際立った黒い髪と白い肌の持ち主で、萌香の第一印象は白雪姫。彼女はもうすぐ学園を卒業し、家庭教師になる予定だと言う。今回はそちらの勉強も兼ねての参加らしい。
一方リンダは丸い眼鏡をかけた女の子だ。きっちり編まれた髪の印象からおとなしそうな見た目ではあるものの、その目は楽しそうにキラキラと輝いている。抑えても抑えきれない好奇心旺盛な様子が好ましい。
そしてマリーナは栗色の髪を優雅に結い上げた、三十歳の美しい女性だ。
ふっくらした下唇が色っぽいマリーナは、ころころ笑うと少女のように可愛らしくなる。
彼女を見たとき、メラニーが微かに驚いたような反応をしたのに萌香は目ざとく気づいたけれど、あえて何も気づかないふりをした。彼女の反応からマリーナがアルバートにかかわりのある女性だろうとピンときたけれど、萌香の直観をメラニーに知らせる必要もない。
――世間は狭いというか……。ま、そういうこともあるわよね。
刺繍の授業は午後の最後の時間だ。
マリーナは色とりどりの糸が入ったケースや、色々な意匠が書かれた本や実物を見せてくれた。
「女性にとって、刺繍が大切な技能なのはご存知ですね」
そう言って彼女が教えてくれた内容に、萌香はひそかに目が丸くなってしまった。
エムーアでは女性が結婚するときに、花嫁衣裳の帯を刺繍するのが伝統だと言う。帯といっても日本の着物の帯とは少し違い、幅三~五センチくらいのベルトを縫い合わせて一本の帯にする。その一本一本は、花嫁の親族や友人が結婚祝いとして刺繍を施していったものなのだそうだ。
そして結婚後、その帯は玄関ホールに飾られる。願いのこもった幸運のお守りだ。
その習慣自体が初耳だった萌香がこっそりメラニーに尋ねたところ、「萌香さんも目にしたことがあるはずよ」と教えてくれた。だが萌香は、エムーアに来てから一度も結婚式を見たことなどない。
首をかしげる萌香にメラニーは、
「どこの家庭にも、玄関ホールに飾ってあるわ。イチジョーのお宅なら、あの紫の」
と言った。
「ああ! あれって帯だったんですね!」
玄関ホールの壁に飾ってあった細長いタペストリーを思い出し、萌香はポンと両手を合わせたあと、すっと青褪める。
「花嫁って、必ずあれを作るんですか?」
「そうね。模様は色々だけど」
頷きつつも、萌香は少し情けない気持ちになった。
◆
「どうしましょう、アルバートさん」
一通り話し終えた後にそう言った萌香を、アルバートが不思議そうに見る。
「どうした?」
「私、刺繍なんてしたことがないんです」
――そんなの小学校の家庭科でしかしたことがないわ。しかも私が選んだのはクロスステッチだったもん。
玄関ホールに飾られている美しいタペストリーは、幾何学模様の入った美しいものだった。よく考えれば、ダン家にもあるし、ミモリ家でも見た。
あれがすべて花嫁と友人や家族の合作……。
そう考えると萌香は遠い目になる。
結婚準備は、新居を整えるところから始まるという。
絵梨花――すなわち今の萌香の場合は鈴蘭邸を受け継ぐので、住まいに関しては問題はない。
――結婚準備に時間がかかるとは聞いていたけれど、花嫁修業以外にこんなハードルがあったなんて!
細かい仕事は嫌いではないから、出来るようにはなるだろう。デボラやメラニーへのお祝いもしたい。ただ全くの初心者である萌香がするとなると……
「花嫁の帯なんて、作るのに十年くらいかかるかもしれません」
思わず遠い目になった萌香に、アルバートは面白そうに口の端を上げた。
「じゃあ一緒に作れば五年で済むな」
当たり前のようにそう言うアルバートが笑う。
「それは有りなんですか?」
と萌香が首をかしげると、彼は「さあ」と首をかしげた。
「ダメって法もないし、別にいいんじゃないか?」
自分も刺繍なんてしたことがないというアルバートだが、一緒にやれば早く済むと言うので、萌香は気が楽になった。
二人の会話にトムは驚いたような顔をしているけれど、メラニーだけは「いいわねぇ」と相変わらず面白そうにしていた。
「意外だわ。萌香さんの刺繍は初心者には見えなかったから、もっと短い時間で済むと思うわよ」
「メラニーさんにそう言ってもらえると気が楽になりますぅ」
少し涙目の萌香に、メラニーが「すぐに慣れるわよ、大丈夫大丈夫」と頷く。それを見てトムも同意するように深く頷いた。
昼間は侍女という役割の手前、水中でバタ足をする白鳥のごとく「余裕ですよ?」という顔をしていたけれど、相当必死で頑張っていたのだ。でも実際に腕前を見たメラニーがそう言うなら、たとえお世辞でも嬉しい。
彼女の中での萌香は記憶を無くした絵梨花で、記憶がなくても手が覚えているのだろうという認識かもしれなくても。
――きっと絵梨花も始終こんな感じで優等生をしていたんだろうな。
もう一人の自分に、萌香は最大の労いの気持ちを送った。私も頑張ろう。
「男の方も何か作ったりしないんですか?」
萌香の質問に、アルバートが「今だと長椅子が多いかな」と教えてくれる。
昔は家を作ることもあったそうだけど、今作るのはプロの仕事だ。代わりに家族で座れるような長椅子を作るのが主流らしい。それも玄関ホールに置くのが一般的らしく、タペストリーの下に置いてあるベンチがそうかと萌香は驚いた。
優美な曲線や彫刻を施したベンチが、どの玄関ホールにも置いてあったことを思い出したのだ。
「いいですね。私も作りたいです」
演劇でも大道具づくりは大好きだったし、実家で組み立て家具やちょっとしたDIYも萌香の仕事だった。
「じゃあ、それも一緒に作ろうか」
またしてもギョッとするトムをしり目に、何でもないようにアルバートがそう言ってくれるので、萌香はにっこり笑って頷いた。
本当に結婚の準備を進めているようだ。
でもそれ以前に、苦手なことも楽しいことも、アルバートは萌香と一緒にと言ってくれる。その当たり前だという感じがすごく嬉しかった。
――この人でよかった。
心からそう思う。
日に日に膨らむ不安を押し殺し、萌香はその気持ちを大事に胸に抱きしめた。
2021年最後の投稿です。
来年中には完結する予定ですので、よろしければ最後までお付き合いください(^^)
良いお年を。




