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105.元婚約者

 女子会から十日ほどが過ぎ、十月になった。

 萌香の感覚では、エムーアには日本のようにはっきりした季節がないように思うけれど、それでも朝晩は少しひんやりしてきたと感じる。空気がサラリとしているせいで、夏でも「暑い!」とうんざりすることもなかったけれど、それでも人々の装いが制服の衣替えのように変わるのを見るのは楽しかった。

 春夏はパッと明るい色合いが多かったけれど、秋になると少し深い色味が加わる。上流階級の人間だと服装全体がそんな感じだけれど、中流以下の人でもベルトなどの小物で秋を表し楽しんでいる感じが素敵だなと思うのだ。


 十月最初の休日。

 萌香はエムーアの中心より少し外れた店へ、兄の婚約者であるメラニーと共に向かっていた。

「それで、萌香さんはアルを疑ったりはしなかったの?」

 先月あったフルールの話をすると、メラニーはいつものように目を輝かせて面白そうな顔をした。

「フルールの言うアルバート様がアルバートさんじゃないか、ですか?」

「そうそう」

「全然。思いつきもしませんでした。アルバートさんはアルバートさんだから、アルバート様なんて言われると別の人みたいじゃないですか」

 雇われているうちのお坊ちゃまなのだから様付で当たり前なのだが、あの時はチラリとも可能性が思い浮かばなかったのだ。

「そういう意味?」

 まじめに話す萌香に、メラニーはますます面白そうに笑みを深める。

「つまり、萌香さんにとって疑う余地もないってことよねぇ。うんうん。順調そうで嬉しいわ」

「メラニーさん、いつも面白そうですね」

 アルバートの萌香に対する気持ちにいち早く気づいていたメラニーは、萌香が彼の求婚を受け入れた話を聞いたとき、「あら、思ったより早かったわ」と言ったらしい。


「まあ、そうね。本音を言えばすっごく楽しいわ!」

「そんなに?」

 きっぱり言うメラニーに萌香が柔らかく微笑むと、彼女はお茶目な表情を引っ込めて、大人びた笑みを浮かべた。

「私ね、エリカさんとアルの組み合わせは想像もしなかったの。条件は良かったにしても、二人の関係としてはありえないと思っていたのね、きっと。でもね、今のまっさらな萌香さんと、どう見てもその萌香さんに恋に落ちましたってアルを並べてみると、うまくいくといいなって自然に想えたのよ。アルの変化が面白いと思ったのも本当だけど。――不思議よね。もしエリカさんの記憶が戻ったら、また前の関係に戻ってしまうのかしら?」


 結局メラニーにとっては、萌香は記憶を失ったエリカだということで納得しているらしい。消えたり混乱した記憶の中で、アウトランダーの記憶を作り上げた女の子なのだと。

 ある意味間違えてはいないのだし、それでいいんじゃないかとトムたちとも話している。

 本当の意味で萌香と絵梨花のことを理解しているのは、たぶんイナとアルバートだけだろうと萌香は考えていた。


 だからこれから会うフリッツとデボラにも、萌香は事故で記憶を失ったエリカとして会うことになっているのだ。

「そうですね。記憶が戻ったら、また違う私なんでしょうね」

 絵梨花がここに戻ってくることはないけれど。

 そう考え、ふと脳裏にチラッと人影が浮かんだ。

『――あの、…………って聞いたことがない?』

 高校生の自分に話しかけてきた誰か。


 そのイメージはふわっと霧散し、萌香もそれ以上考えるのはやめた。たぶん道を聞かれたか何かだ。


「メラニーさん、待ち合わせの喫茶店ってあそこですか?」

 少し前に花の咲くプランターに囲まれたオープンカフェが見えた。

「そうよ。……緊張してきた?」

「はい、少し」

 あそこで絵梨花の元婚約者たちと、トムとアルバートが待っている。

 萌香たちが付くまでに、エリカが事故にあい、記憶を失ったという話をしていたはずだ。アルバートとのことは、萌香がついてから話す計画だと聞いている。

 萌香はそれほど人見知りではないけれど、それでも今日は妙にドキドキした。


 店の門をくぐり、出迎えのウェイターに緑に囲まれたアプローチを案内される。

 少しカーブしたアプローチの奥に、色とりどりのパラソルが広がっていてお祭りのような華やかさだ。小さく弦楽器のような音楽が鳴っていて、人々のざわめきも心地いい大きさで、上品だけど気さくな店だと感じる。

「素敵なお店ですね」

 萌香がメラニーに囁くと、それが聞こえたらしいウェイターにもにっこり微笑まれた。

「光栄です、お嬢様。――お連れ様はこの先の席でございます」

 一礼して去るウエイターに軽く微笑んで少しだけ見送り、萌香はメラニーより少し早くアルバート達が待っているテーブルのほうを見た。


「あ……」

 思わず小さく声が漏れる。


 少し先に、アルバートがこちらに半分背を向ける形で立っている。その彼の肩に両腕を投げかけ、一瞬顔を近づけて離れた女性がいた。チュッという小さなリップ音も聞こえた気がする。一瞬頭の中が真っ白になった。

 アルバートは困ったように女性をはがして一言二言何か話すと、何かを言われ振り向いた。萌香を目にした瞬間ぱっと顔を輝かせる彼を見て、萌香もにっこり微笑んで見せる。今心に刺さったものには、綺麗に覆いをかけた。

 アルバートの前にいた女性は「じゃあまたね、アル」と手を振る。優美なドレス姿の女性は、萌香にも華やかな笑顔を見せると颯爽と去って行った。


 メラニーは少し苦笑しているけれど、アルバートはもとより、トムでさえ当たり前の光景だという雰囲気だ。

 萌香はひそかに深呼吸をして、エリカらしい仮面をつける。ここは動揺する方が、きっとおかしいのだ。常識が違う、習慣が違う。ただそれだけ。

 踵を返しそうになる足をして叱咤して気持ちを切り替え、自分を待っている人たちをゆっくり見渡した。


 アルバートの左の椅子にトム、それから右に見知らぬ男女が座っている。男性のほうがガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、萌香をジッと見つめた。トムとアルバートがこちらに来てメラニーと萌香をエスコートし、椅子に座らせてくれると、男性の横の女性も涙を浮かべた目でジッと萌香を見つめている。


 ――この人たちが、フリッツさんとデボラさん。


 萌香はまずデボラのほうを見つめ返す。

 彼女はエリカのマムだけど、萌香にとっては同じ年の女の子だ。

 少しふっくらした柔らかい印象の女の子で、今は目にいっぱい涙を浮かべている。けれど、笑ったらとても可愛いだろうなと思い、萌香はニコッと笑って見せた。

 それに応えるよう微かに笑おうとする顔も健気で、自然と萌香の心が柔らかくほどけていくような気がした。

 ――デボラさんめちゃくちゃ癒し系! やだ、可愛い。友達になりたい!

 それが彼女の第一印象だ。

 絵梨花の日記からもいい子だろうと想像はしていたけれど、実際に会ってみて増々その確信が強くなった。

「エリカ……」

 笑おうとして、結局ぽろっと涙をこぼすデボラに慌ててハンカチを差し出す。

「泣かないでください」

「だって……」

(困ったな)

 まさか泣かれるとは思わなかった萌香は、しばらくハンカチに顔を埋めるデボラの髪を撫で、今度はフリッツを見あげた。


 動画では見たことがあったが、生身のフリッツは背がすらりと高く、デボラ同様やわらかな印象の男性だ。今は目を見開いてショックを受けたような顔をしているけれど、やっぱり笑顔は素敵だろうと感じる。


 ――うーん。こっちも癒し系! 生で見ると、お兄様やアルバートさんとはまた違うイケメンだわ。何この目の保養。


 絵梨花がこの二人を、家族のように大事にしていたことがわかる気がする。二人の持つ雰囲気は春の陽だまりのようで、側にいるととても優しい気持ちになるのだ。

 絵梨花はわざと少し我儘を言ってみたりしたらしいけれど、いつも笑って受け止めてくれる二人だったようだ。


 ――ほんと、すっごくお似合いの二人だわ。


 初対面の萌香でさえそう思うのだから、ずっとそばにいた絵梨花がいたたまれなくなるのも頷ける。


 フリッツは一瞬デボラを見た後、萌香のそばまで歩いてくる。

 見下ろさないようにだろうか。隣で膝をついて萌香を見上げるフリッツが、しばらくためらうように口を小さく震わせたあと「エリカ」と呼んだ。その瞬間、萌香は驚きに思わず口元に手を当てた。


 ――嘘でしょう。……ハハッ。まいったな。フリッツさんの声、お父さんの声だ。


 たぶん目を閉じたら区別がつかないくらい、日本の父の声そっくりだった。フリッツと恵里萌香の父は顔も全然似ていないのに。

 懐かしさで萌香の目が潤む。


 ――フリッツさん、絵梨花と出会ったころは、声変わりが始まるかどうかくらいだっただろうけど。それでも記憶の底にお父さんの声が残ってたのかな。


 絵梨花は無意識に、彼に父親を重ねていたのだろうか。


「フリッツさん?」

 手を下ろして萌香が彼に呼び掛けると、フリッツは再びショックを受けたように目を見開いたあと、「うん。エリカ。何も知らなくてごめん」と頭を下げる。

 その姿が小さく見えて、萌香は慌てて首を振った。

「顔を上げて下さい。私が連絡しないでと言ったのでしょう?」

 デボラとフリッツが結婚し落ち着くまでの数年間、連絡は取らないようにしようと話したと、絵梨花の日記には書いてあった。

 絵梨花の計画がうまくいってもいかなくても、それは同じ。


 頭を下げ続けるフリッツと、その奥で同じように頭を下げるデボラを見て、萌香はトムたちを振り返る。エリカの事故と記憶喪失は思った以上のショックを二人に与えたらしく、萌香の胸がぎゅっと痛くなった。

「ねえフリッツさん、顔を上げて?」

 萌香もフリッツの側に膝をつくと、彼がまた驚いたように萌香を見る。

「エリカ。本当に何も覚えていないんだね?」

 少し目を閉じて声を聴くと、それはまるで日本の父に言われたような気がした。日本で絵梨花がこの言葉を聞いたかもしれないと思うと、急激に目の奥が熱くなってくる。

「ごめんなさい」

 ――お父さん、ごめんなさい。


 記憶の奥底から、小学校の運動会でお父さんが一緒に走ってくれたこと、夏休みにキャンプに行ったこと、病気が治って晴れやかな笑顔を見せてくれたこと。色々な父の顔が、側にいた母の顔が、そして弟の顔が見える。

 涙がこぼれないようフリッツを見ながらも瞬きを我慢していると、フリッツが痛々しそうな目で萌香のほうに手を伸ばした。しかしその手が萌香の頭に届く前にアルバートが萌香を引き寄せたので、バランスを崩して彼の胸に飛び込む形になってしまう。

「あんまり見つめ合うな。今は俺のだ」

 固い声に顔を上げると、少し面白くなさそうなアルバートが目に入った。

 顔を上げたことで、こぼれた萌香の涙をアルバートが指でぬぐう。その様子にフリッツが唖然としたのを感じ、かぁっと頬が熱くなった。先ほどアルバートの側にいた女性を思い出し、萌香はうつむいて慌てて彼を押しのける。


「あ、あの。すみません。ちょっと化粧室(パウダールーム)に行ってきます」

「萌香?」

「お化粧直してくるだけですから。すぐに戻ります」


 混乱した感情を鎮めたい。泣きかけの不細工な顔なんて見せられない。

 伸ばされた手をくぐり抜けてカバンを手に取ると、萌香はウェイターに声をかけ、教えてもらった化粧室に足早に歩いて行った。

次は「めんどくさい女」です。

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