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103.くちびる

 ミア達は昼食後それぞれ帰途につき、萌香は夕方まで通常の仕事をした。

 午後の客は少し厄介な男性だったらしいが特に問題もなく、なぜか家事長たちに驚かれたが――。



「萌香、無理をしていない? 何か嫌なことがあったら遠慮なく言うのよ」

 ミモリ家の家事長ウメは白髪の矍鑠(かくしゃく)とした年配女性だ。家事長といっても実際には半分隠居の身らしく、週に二度ミモリ家で働いている。もとはカルラの夫の家で働いていたらしく、カルラたちの結婚を機に老後の面倒をみる形で引き取られたらしいが、面倒をみる機会はまだ先になりそうだとカルラは笑っていた。


「嫌なことですか? いえ、特にないですけど」

 普段通りの接客の後退室した萌香は、目をカッと見開いて迫るようにやってきたウメに驚き、後退りする。いったい何があったのだ。

「デロウ様もねぇ、あの手癖さえなけりゃあいい方なんだけど。本当に何もなかったのかい?」

「はい」

 手癖? と萌香が混乱していると、手が空いていたらしいメイドまで集まってくる。下働きの女性たちで、近隣から通ってきている若い奥様方だ(パートのような感じだろうか)。


 大きな声にならないようコソコソと皆が教えてくれた話によると、デロウ氏はいわゆるエロオヤジだということが判明した。毎年客間メイドが半泣きで退室してくるので、萌香にも忠告してくれるつもりだったらしい。なのに今日は時間より早く来たのでそれもできなかったうえ、通常よりも長い時間の接客があったのでウメは気をもんでいたという。


 口々に教えてくれる女性たちに、萌香はふんわりと笑って見せた。

「心配してくださったんですね。でも大丈夫ですよ。手さえ握られてません」

「舐められなかった?」

 アラサーくらいのメイドが、ゾッとした顔で身を乗り出す。

「舐める?」

「手を握って、手のひらや指を嘗められた子がいるのよ」

 思わず萌香の背中がゾゾッとなる。

「い、いえ。大丈夫です」

「じゃあ、お尻は撫でられてない?」

「はい。指一本ふれられてません」

「「「本当に?」」」

 かばわなくてもいいのよと詰め寄られ、萌香は冷や汗を流しながらも笑顔で頷いた。

「はい。お客様は、ニコニコとおとなしく座ってただけでしたよ」

 てかてかと光る頭皮を時折撫でながら、穏やかな顔で座っていたデロウ氏を思い出し、萌香は首をかしげる。逆に周りの女性陣も「あれ?」と言うような顔で首をかしげた。


「年を取って落ち着いたのかしら」

「まさか。昨日ノーチェル様の所のメイドが、お尻掴まれたってぷりぷり言ってたわよ!」

「そうよねぇ」

 メイドたちから不思議なものを見るような目で見られ、萌香は無邪気に微笑んだ。

 考えてみると、日本にいるときも同じようなことはあったのだ。しかも一度や二度ではないので、エロオヤジでさえ手を出す気になれないほど、萌香には色気がないということなのだろう。

 ――うん。間違いない。



「――ということがあったんですよ」

 帰りの自動車の中でアルバートにそう話すと、彼は前を向いたまま、長々とため息を吐いた。その呆れたような横顔に萌香が首をかしげると、アルバートは片手で頭を掻き、横目でちらっと一瞬萌香を見て、もう一度ため息を吐く。

「本当に触られてないのか?」

「はい。まったく」

 お茶を出したときでさえ、手元をじっと見られていたくらいで、デロウ氏は指一本動かさなかった。むしろ手品を初めて見る子供のように、萌香の手元を見て目をキラキラさせていたくらいだ。萌香からすれば、エロオヤジというより、可愛いおじいちゃんという印象だった。


「お帰りになる時、また会えたら嬉しいとは言われましたけど、ふつうに紳士的でしたよ。軽く会釈されたくらいです。メイド相手なのに」

「おまえがエリカだと気づかれては」

「いないでしょうね」

「そうか。――まあ、嫌な思いをしていないならいい」

「ありがとうございます」

 憮然とした表情のアルバートに、萌香はふふっと笑みをこぼす。

 もし、ウメたちが心配していたようなことがあったらと思うと鳥肌が立つけれど、アルバートにも嫌な思いをさせていただろう。

「色気がないことも役に立つんですねぇ」

 コソッと呟くとなぜか思いきり噴き出され、彼からマジか、みたいな目で見られてしまった。

 ――えっと、なんだかすみません。



 まもなくダン家につくと、少し離れの車庫に車を停める。今は一時的にアルバート専用になっている場所なので、ほかに人気はない。

 アルバートはこのあとも仕事で、王宮の中になる事務所に直行する。そのため今日は、日課になっているダンスの練習に付き合えないことを謝られた。一緒にいられる時間が減るのは寂しいけれど、まだ少し時間があるとはいえ、家の中でくつろぐほどではない。なので自動車から降りないまま、ギリギリまでおしゃべりをすることにした。


「今度さ、近いうちにフリッツと会おうと思うんだ」

 絵梨花の元婚約者の名前を出したアルバートは、窺うように萌香を見た。

「おまえと結婚するって、報告しようと思って」

 その低い声に、萌香はカーッと頬が熱くなる。

「フリッツさんは、私にとっては知らない人ですけど、アルバートさんからするとどうなんですか? 親友の元婚約者なんですよね、私」

 その状況はある意味異次元すぎて、萌香には想像もできない。


「まあ、驚かれるだろうな。色々な意味で」

 なぜかいたずらを企んだかのような顔でアルバートに笑われ、萌香もつられて笑ってしまう。

「萌香。今朝ユリアが言ったように、堂々と外に出よう。女王陛下には、年内は待てと言われただけだしな」

 その奥の意味は無視しようということらしい。

 承諾を得るように見られ、萌香はしっかりと頷いた。


「今日のアルバートさんは機嫌がいいですね?」

 鼻歌でも歌いそうな雰囲気だなと萌香が思っていると、彼はニヤッと笑って萌香の頬に軽く口づけた。

「そりゃ、今日は嬉しい言葉を聞けたしね」

 耳元で囁かれ、今朝ミアの質問に答えたことを思い出してドキッとする。

「聞かれてるとは思わなかったんですもの」

 女の子の内緒話のつもりだったと赤い顔で唇を尖らせる萌香に、アルバートはくくっと肩を揺らした。直接伝えることと、そうとは知らずに本音を聞かれるのはまた別なのだ。


「だから、余計に嬉しい。もう一度聞いても?」

 ハスキーな声と共に手のひらで頬を撫でられ、萌香は少し視線を下げる。濃密な甘い空気に胸が苦しくなった。

「――アルバートさんが、大好きですよ」

 彼と結婚するということが、不思議とすんなり受け入れられてしまうくらいに。それが自然だと思えるくらいに。エムーアで生きる自分の、あるべき「根」が出来たように感じている。


「なあ。じゃあ、そろそろアルって呼んでごらん?」

「うう……まだ無理です」

「じゃあ、唇にキスするのは?」

「えっ?」


 かすれた声に目を上げると、引き結ばれたアルバートの唇が目に入って再び俯いてしまう。

 まさか直接そんなことを聞かれるとは思ってもみなくて、キスにも何か作法があったかとおずおずと尋ねると、特にないと笑われた。

 その笑い声が耳をくすぐり、ドギマギして口元に手を当てた萌香は一瞬指に触れた感触にギクリとし、小さい声で「それもまだ待って」と答える。

 予想通りの答えだったのか、笑いを含んだ声で「了解」ともう一度頬にキスをされた萌香は、そろそろ時間だというアルバートを見送った。



 彼が、萌香の嫌なことはしないことを知ってる。今だって、全然気にしてない風だったことにホッとする。


 アルバートが見えなくなると萌香は自分の口元に手を当て、今も下唇の中ほどにあるしこりに指をあてて大きくため息を吐いた。

「早く治るといいのに」

 事故のときに口の中を怪我した関係でできたそれは、まるで小指の先くらいの大きさのマメが内側に入っているみたいだ。おかげで唇の形もいびつ。毎日化粧でしっかり隠しているけれど、実際に触れたら分からないわけがない。

 柔らかな唇とは言えないそれに、彼が不快だと思うかもしれない。

「ううん。たぶん、不快だよね」

 キスなんて一瞬だからと思っても、実際彼に嫌な顔をされたらやっぱりつらい。

 フィンセントの話では、このしこりも徐々に消えていくというけれど、それがいつかは分からない。

「まあ、それ以前に私の心臓が持つかどうかという問題もあるんだけど」

 エムーアの男性は触れることで愛情表現をするらしく、特にアルバートは頬や手にまめにキスをしてくる。トムがメラニーに同じことをするのを見てもほほえましいと思ったくらいだけれど、実際に自分がされる立場だと心臓が大運動会状態だ。

 ドギマギさせられっぱなしで、毎日赤面しっぱなしの今、慣れる日が来るのかなぁと思いつつ、本宅へと向かう。



 クリステルに業務報告後、自分の部屋に戻ろうと廊下を足早に進んでいると、萌香はつっけんどんな声に呼び止められた。

 振り向くと、私服らしいワンピース姿の先輩メイドのフルールが、仁王立ちで睨むような、それでいて困っているような不思議な表情をしている。ワンピースはよそ行き風の少し洒落た可愛らしい雰囲気のものだが、彼女が上流階級に近い中流階級であることが初めてわかった。もしくは中流に近い上流か。クリステルのもとで働けるなら後者のほうか。


 萌香にいつも意地悪く接してくる女性だが、実はエリカファンらしきフルールと顔を合わせるのは一月ぶりくらいだろうか?


「どうかされました?」


 一瞬急いでいるからと素通りしようと思ったものの、まさかいきなり嫌味を言い出すことはしないだろうと考え直す。まっすぐフルールに向き合った萌香は、彼女が屈辱とでも言いたげにカーッと頬を染めたことに首を傾げた。

「あの?」

 用がないなら部屋に戻りますよと思っていると、彼女はギュッと拳を握って顔を上げた。

「萌香。ピンク色の口紅持ってない? あったら貸してほしいんだけど」

「口紅?」

 フルールのメイクは不完全で口紅を塗っていない。それ以前にメイクが似合っていない。


 それでも彼女の様子を素早く観察すると、おしゃれをしたいのだという気持ちが伝わってきた萌香は、「デートですか?」とカマをかけてみたが、どうやら正解だったらしい。

「べ、別に関係ないでしょう」

 怒ったように硬い声で顔をしかめるフルールに、萌香は少し肩をすくめた。

 人にモノを頼む態度ではないだろうという呆れ半分。デートなら可愛くしたいだろうと寄り添う気持ち半分。

 とはいえ、エムーアで口紅は高級品だ。

 こちらの口紅はスティックタイプではなく小さなケースに入っているのだが、十円玉サイズのケースでも、日本円で考えると安くても一万円はする。貸してと言われて、はいそうですかと渡すものではない貴重品だ。

 相手の出方を窺って少しだまっていると、彼女は胸を張ってふふんと鼻を鳴らす。そしてなぜか周囲を確認した後、内緒話をするように萌香に近づくと、わざとらしく色気のある笑みを見せた。


「そうよぉ。あたり。私、今夜はアルバート様とデートなの」


  ――ふーん?

フルールの発言に小首をかしげる萌香。彼女の発言の意図はいったい?

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