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102.萌香姉様

 ――すべてを忘れたエリカ様は、命の恩人であるアルバートと恋に落ちた――


 ユリアの言葉は、何かエフェクトをかけたかのように萌香の耳にこだました。

 本当なら萌香が体験してきたはずのエリカの人生を飛び越え、落下したところをアルバートに抱き留められた。――そんな不思議な映像が脳内にふわりと広がる。

 それは夢の中で自分を見ているような感覚で、その客観的なイメージは突然すとんと自分の中心に着地した。


 ――私はあのとき、本当に恋に落ちていたのかもしれない……。


 あの頃は他のことに手いっぱいで、自分の気持ちなんてわからなかった。

 カイに見抜かれていたように、意図的にずっと鈍い振りをしていた。

 だって絶対に日本に帰るんだと決めていたから。

 本当ならここにいるべき、自分にそっくりな女の子がいると考えていたから。

 だからここに心を残すようなことをしないようにしていた。

 エムーアに好きなものは徐々に増えていったけれど、ここで生きると決めたあの日までは、いずれ優しい思い出になるようにいつも一歩引いていた。


 アルバートに告白を受け入れて、そこから芽生えかけていた気持ちを育てていたつもりでいたけれど、実際にはベールで覆っていた気持ちを徐々に認めていったに過ぎないのだと気づき、頬がかーっと熱くなる。

 同時に、自覚していた以上に大きかった自分の気持ちに急に怖くなった。


『ま、先輩ですからね。そのままのエリカ先輩が私は大好きですよ』

 ふいにヘレンの声が聞こえた気がする。彼女がやれやれと呆れたように首を振っているのは、萌香が実は自分のことに関してはとても鈍いことを理解していたのだろう。

 ちらりとアルバートを見ると、優しく細められた彼の目と目が合い、こわばりかけていた気持ちがふっと緩んだ。心のずっと奥のほうから、彼を恋い慕うことは怖いことじゃないと、不器用な萌香を呆れ面白がる自分の声がした。



 この女子会に誘われた時は驚いたけれど、華やかな雰囲気や自分の気持ちを素直に言えたことが、不思議なほど萌香の気持ちを軽くしているのを感じる。

 どこか遠慮や、秘めやかな気持ちが捨てられなかったアルバートとのことも、誰の前でだって堂々としていいんだという気持ちになる。

 いや。彼のことを考えるなら、むしろそうしなくてはいけなかったのに。まだ自分に自信がない萌香は、気が付くとすぐ臆病になってしまうのだ。


 ――だめだめ。気持ちにストッパーをかけたりしないって言ったのは自分なんだから。


 自分で自分を戒めて、萌香はわいわいと盛り上がっているみんなを見回してから、こちらを見ているアルバートにいたずらっぽく笑いかけた。

「それで。アルバートさんは指輪を買って下さるんですか?」

 すでに観劇用のドレスの仕立ても始まっているので、これ以上彼に何か買ってもらうつもりはなかったけれど、それでも指輪という単語は妙にドキドキと胸が高まるものがある。

 エムーアの指輪の意味は重いと思っていたから、ユリアたちからもたらされた情報はちょっぴり衝撃的だったし、本音を言えば嬉しい。誰にも言ったことはないけれど、ペアリングにはひそかに憧れていたのだ。


 意図せずキラキラとする萌香の目に、アルバートの目元がふわりと緩む。

「ああ。買おう」

 彼が萌香の左手をとり、薬指の付け根に軽くキスを落とすと、ユリアとミアが「その時は一緒にお店に行きましょう」とはしゃいだ声を上げた。

「私、エリカ様とお揃いの指輪が欲しいです」

「私も!」

「おまえたち、それじゃあ意味がないだろ?」


 アルバートの呆れた声に、少女たちが頬を膨らませる。

「「それはそうですけどぉ」」

「あのな、特にユリア。おまえが萌香と揃いの指輪をしたら、まさかと思うが、俺とルドも揃いの指輪をはめるってことにならないか?」

 ゾッとしたようなアルバートの表情にユリアが「あっ」と呟き、思わず萌香とカルラが噴き出す。

 つられてみんなで笑った後、まだ少し心残りな顔をしているユリアとミアにはあとで代替案を考えようと、萌香は心にメモをした。



「ところでアルバート兄様は、エリカ様のことを萌香と呼んでいるの?」

 ふと気づいたようにミアが首をかしげる。

 そう言えばさっきそう言ってたなと萌香が思っていると、アルバートは萌香に優しい笑みを見せた後、物問いた気な親戚たちを見回して居住まいをただした。

「彼女が仕事の時に、萌香という名前を使っていることは聞いてるだろう。理由はいくつかあるけれど、記憶を失う前と失った後の彼女を区別する名前でもあるんだ。今、彼女の身内は愛称としてエリカのことを萌香と呼んでいる。外ではエリカだから、まあ、内々の名前だな」


 ユリアがアルバートと萌香の二人に向かって面白そうな顔になった。

「その名前には、何か意味があるのですか?」

 ユリアの質問にアルバートが萌香を見るので、萌香は小さく頷いて、自分で答えることにした。

「夢の中の自分、みたいな感じかしら。事故の前の絵梨花のことは記憶にはないから」

 そう。日本のことは、今となれば夢の世界だ。本当だったらエリカとして生きていたはずの自分が見ていた、長い長い夢。


 萌香の答えにそれぞれ思うところがあったのだろう。カルラたちは「なるほど」というように頷き、ミアとユリアはお互いの顔を見合わせた後、おずおずと口を開いた。

「あの。それじゃあ私たちも、萌香様と呼んでも構わないでしょうか」

 二人の申し出に、しんみりした気分だったはずの萌香は、(そう来たか!)と噴き出しそうになる。

 彼女たちにとって絵梨花はアイドルだったんだなぁと思いつつも、二人の少女のかわいらしさに思わず笑みがこぼれた。

 二人とはもっと仲良くなりたいし、萌香と呼ばれることにも異存はない。けれど、さすがに萌香の名前に「様」はいらない。


「ええ。ユリアさんもミアさんも、よかったら萌香と呼んでくださって構わないわ。でも様はいらないわよ? 友達相手にその敬称はおかしいもの」

 萌香は絵梨花に近い話し方を心がけつつも、つい表情がいたずらっぽいものになると、ユリアとミアはパッと顔を輝かせた。


「えっ、友達だなんて。じゃあ、萌香さ……、萌香さ……ま。も、もえ――いや、むりぃ。馴れ馴れしすぎて呼べません」

 顔を真っ赤にしながらパタパタと手を振る二人に、カルラたちが噴き出しそうな顔になっている。何度か「萌香さん」と言おうとしては悶える二人に、「じゃあこうしたら?」とカルラが二人を止めた。

「萌香姉様(・・)。――どう?」


 彼女たちの説明によると、将来萌香がアルバートと結婚すれば、萌香はミアにとっては年上の従姉ということになる。ユリアにとっては義理の姪でも、身内に等しい親しい年上の女性の呼び名ならおかしくはないだろうということらしい。

 その提案に、

「「素敵!」」

 二人が目を輝かせるので、萌香も了承した。


 ――なんというか、姉と呼ばれる立場ってめちゃくちゃ落ち着くわ。しかも可愛い女の子からとか。何この満足感。


 妙にじーんとしてしていると、横でアルバートが小刻みに肩を揺らすのに気づき、軽く睨むふりをする。その笑い上戸、そろそろ皆にばれますよ?


 あえて彼を放置したまま萌香は女性たちに視線を戻すと、なぜか周りの視線が生暖かいことに気づき頬が熱くなる。アルバートをチラッと見ればすでに通常モードだ。


 自分だけが恥ずかしくなっていることに気まずくなりつつ視線を走らせると、すでにほとんどのカップが空になってから少し時間がたっていることに気づいて、萌香はさっと立ち上がった。

「カルラさん、お茶のおかわりを淹れてもいいですか?」

「ああ、じゃあメイドを」

「今は私がメイドです。わざわざ他のメイドを呼ぶのもおかしいですよ?」

 そう指摘すると、カルラはクスッと笑って萌香の行動を了承した。


 現時点での萌香はメイドではなくお茶を一緒に飲むメンバーの一人だけれど、この場は一応内緒のお茶会という扱いだ。表向き、メイドは萌香一人で十分だということになっている。

 主人の意向とはいえ、萌香としては仕事の合間に遊ばせてもらっているようなものなので、目は常に不足がないかの確認に動いていた。

 さっきアネッタたちから舞台のようだったと評されたけれど、萌香にとって仕事をすることは舞台に上がるようなものだと思っている。裏方だろうが表だろうが、萌香は個人ではなく何かの役割を果たすということだから。表に出るときはつい無意識に周りを自分の空気(羽衣?)に巻き込んでしまう癖が出てしまうけれど、気分良く過ごしてもらえるならこのままでいいかなと思っている。


「今度は冷たいハーブティーです」

 おまかせでと言われたのでアイスティーにした。ミントティーのような、さわやかなお茶だ。

「おいしい。やっぱり萌香さん、スカウトしたいわぁ」

 冗談のようでいて目がかなり本気になっているドリカには、「イチジョーのものを、どうぞごひいきに」とすかさず宣伝しておいた。

 萌香の仕草は絵梨花のトレースと、イチジョーの教育の賜物だし、お茶の淹れ方に関しては、少し茶道楽だった叔母真由子の影響だろう。

 今年上級学校に上がった学生たちも、父に言わせればかなりのレベルだと聞いている。


 しばらくそんな話をしつつ、長かった朝食の時間はそろそろお開きという頃。

「そういえば、さっきから気になっていたんだけど、エリカさんはアルのことはいつもアルバートさんと呼んでいるの?」

 今度はアネッタに首を傾げられた。

 実はトムやアルバート本人からも「アル」と呼ぶよう提案されたことがあるのだけれど、いまだに恥ずかしくて呼べないのだ。

 萌香が肯定してそう話すと、アネッタの横でドリカが面白そうにニンマリ笑った。


「エリカさんは小さいころ、アルのあとをついて回りながら、アール、とか、ルー、なんて呼んでいたのよ」

「そうなんですか?」

「そう。エリカさんとは白薔薇亭で私とも会っているのよ。小さかったから覚えていないと思うけど」

 白薔薇亭ということは、このエリカは自分のことだと気づいて、萌香は目が丸くなる。ついで、一生懸命小さい頃のことを思い出そうとすると、ドリカが自分のあごに指をあて、そう言えばと呟いた。

「私、大きな鏡の前で、あなたの髪を編んであげたことがあるわ」


 どくんと心臓が大きく胸を打つ。


 萌香の脳裏に、古い石造りの城と、自分よりもずっと大きな鏡に映った自分の姿が浮かんだ。

 たぶん雨が降っていた。トムやアルバートは男の子だけでゲームをしていて、叔母に女の子はこっちだと別の部屋に連れていかれたのだ。

 萌香はそこで自分より大きなお姉さんたちに囲まれて、皆で髪をいじって遊んでいる。萌香は一番小さいから、ほとんどお人形さん状態で遊ばれていたものの、普段味わえない空間に不思議な気持ちだったような気がする。

 髪を編まれている自分を見ているのに、その奥に違うものが見えていた。

 それが何かははっきり覚えていないけど、今思えば他の人には見えていなかったようにも思う。

「リボンはこれにしようか」

 そう言って見せられたのは、縁飾りがついた深い色合いの赤いリボン。それは、ディズニー映画の白雪姫のように、萌香の頭の上でちょうちょ結びにされた。

 鏡の向こうの誰かが「かわいいね」と笑ってくれたのが嬉しくて、萌香は「ありがとう」と言ったけれど、それに応えてくれたのはリボンを結んでくれたお姉さん。後ろからムギュッと抱きしめられて撫で繰り回され、気付いたときには鏡の向こうの何かは見えなくなっていた。



「赤いリボンの?」

 萌香が呟くと、アネッタとドリカが顔を見合わせて「それ!」と笑う。

 リボンはアネッタのもので、結んでくれたのがドリカだったらしい。

 また一つ、自分がエリカなのだという実感が増え、萌香はにっこりと笑った。

幼い萌香はいったい何を見たのでしょうか――

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