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「奉直戦争」の勃発と張作霖への支援を巡る日本国内の対立

孫崎享『日米開戦の正体』より、日露戦争から日米開戦に至るまでの流れについてのまとめ。その③。


第一次世界大戦終結後、中華民国「北京政府」内で起こった「奉天派」の張作霖と「直隷派」の呉佩孚との内乱の発生と、親日派の張作霖の支援を巡る日本国内での対立激について。

◆ 「奉直戦争」の勃発と張作霖への支援を巡る日本国内の対立



● 袁世凱と「北京政府」


中国は「辛亥革命」を起こし、1912年(明治45年・大正元年)1月1日、中国の南京で「中華民国」が樹立され、清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位。


中華民国では孫文が臨時大統領職に就任し、その後、袁世凱が大総統に就任し、革命政府の政権が移譲されるが、その袁世凱も1916年に死亡。


生前の袁世凱の拠点は、清朝から続く、軍部を司る北洋大臣というポストで、袁世凱は中華民国の大統領に就任すると、首都を南京から北京に移し、「北京政府」が始まる。


袁の死後は、部下だった馮国璋、徐世昌などが相次いで政権に就いていく。


北京政府は、中華民国の正式政府として存続するものの、いずれも大陸全体をまとめる力を持ち得ず、各地方を根拠とする軍閥割拠の時代に突入していってしまう。




● 「奉直戦争」の勃発と日本の関与


第一次世界大戦の終結後、中国では権力闘争の「第一次奉直戦争」(1922年)、「第二次奉直戦争」(1924年)がおこり、日本の関与の仕方が問われることとなる。



・「奉天派」と「直隷派」の対立


1916年(大正5年)に袁世凱が死去すると、権力を求め、軍閥内で闘争が起こる。

その一つが「奉天派」の張作霖と「直隷派」の呉佩孚の闘争。


奉天派、直隷派の名称は主力になった人々の拠点によるもので、張作霖は奉天(現在の審陽市)を拠点としていたので「奉天派」、

一方、直隷派を率いていた馮国璋は直隷省(現在の河北省)出身だったので、「直隷派」と呼ばれた。



・「奉天派」と「直隷派」で「奉直戦争」が勃発


「奉天派」と「直隷派」の両者間で1922年(第一次)と1924年(第二次)の二回、戦争が発生。これが「奉直戦争」と呼ばれる戦い。


日本軍はこの戦いに介入し、この「奉直戦争」への介入が、日本が中国の抗争に巻き込まれていく端緒となっていく。


第一次奉直戦争では、直隷派の呉佩孚は7個師団、5個旅団の約10万人を指揮し、この戦いでは、張作霖が敗れ、東北地方に逃亡。


第二次戦争では、直隷派の呉佩孚は20万の軍隊、張作霖は15万の軍隊を指揮しての戦いとなったが、このとき、各々、それぞれの場面で、日本はどうするかの決断を迫られることとなった。



・張作霖とは


張作霖はもともと日露戦争のときにロシア側のスパイとして活動していた人物で、奉天会戦の直後、日本側に捕まってしまうのだが、当時満州軍の参謀をしていた田中義一中佐(長州出身)が、

「見所がある。生かしておけば必ず日本の役に立つ」と言って、

彼が上司である満州軍総参謀長の児玉源太郎大将(長州出身)に掛け合い、処刑寸前の命を救った。


解放された張作霖はその後、軍閥として次第に勢力を増し、満州のいわゆる「東三省」と呼ばれる奉天省、黒竜江省、吉林省の地域を勢力化に収める。

張作霖は「満州の覇者」として君臨するまでに成長を遂げたが、日本の関東軍は張作霖を積極的に支援していくようになった。




● 加藤友三郎内閣による「軍縮」と「協調外交」の推進


奉直戦争は中国国内の内乱だったが、しかし、日本は満州の利権を確保するために、満州の奉天を拠点とする張作霖と協力関係にあった。

第一次奉直戦争の起こる前の1921年(大正10年)5月17日に、日本政府は、張作霖が満州や蒙古を支配しようとするときには、張作霖と協力関係にある日本は張作霖を支持するが、しかし、中国全体の支配を求めて動くときには助けないという方針を閣議決定していた。


第一次奉直戦争が起こった1922年(大正11年)は、海軍出身の加藤友三郎が首相を務めていた。

加藤はその前年の1921年(大正10年)、彼が海相だったときに開催された「ワシントン軍縮会議」(英米日の軍艦比率を5:5:3に決定)に全権代表として参加し、

また自身が首相となってからも、1922年(大正11年)8月と1923年(大正12年)4月の2度にわたって大規模な軍縮「山梨軍縮」(当時の陸軍大臣だった山梨半造の名をとって山梨軍縮と呼ばれた)を実施するなど、軍縮に努めた人物で、

外交でも、シベリア撤兵を決めたり、首相として「協調外交」を推進した。


「ワシントン軍縮会議」が締結された「ワシントン会議」では他に、「九カ国条約」と「四カ国条約」も締結されたが、

「九カ国条約」では、日本が1915年の二十一カ条の要求によって獲得した山東半島における旧ドイツ租借地の膠州湾などの特殊権益が中国に返還されることが決められ、また1917年にアメリカと結ばれた「石井・ランシング協定」も破棄され、改めて各国間で抜け駆けを許さない中国の主権尊重・領土保全の原則が相互確認されることとなった。

また「四カ国条約」によって、アメリカ・イギリス・日本・フランスの間で、太平洋上の諸領地に関しても現状維持とし、紛争があった場合は共同会議で調整することなどが決められるとともに、それに伴い「日英同盟」も解消されることとなった。


これらの条約は、第一次世界大戦以降、中国進出の動きを見せ始めた日本に対し、列強が相互で東アジア・太平洋地域の抜け駆け支配を禁じた「ワシントン体制」と呼ばれる新たな国際秩序の構築だったが、首相の加藤友三郎は海軍出身の軍人でありながら、軍の中にあって、抑制的な考え方をしていて、米国との強調を諮った。


奉直戦争は、張作霖が中央への進出の野心を持って動いたこともあって、日本軍は関与しなかったが、ところが加藤友三郎は1923年(大正12年)8月25日、首相在任のまま大腸ガンの悪化で死亡してしまう。

国際協調を図る勢力にとって、これは大変な痛手となった。


そして陸軍では、中国への積極介入の見解が勢力を持ち始める。

関東軍は、1923年に作成した「支那国際問題に対する意見」において、


「いわゆる内政不干渉主義は、かえって支那をして列強に頼らしめ、日支の連鎖をますます曲解させるものであるから、支那をこの際、国際管理から切り離し、もっと日支の特殊的提携を推進すべきだ」


との見解を示した。




● 幣原喜重郎外相(加藤高明内閣)が「第二次奉直戦争」(1924年)不介入を決定


「第二次奉直戦争」(1924年)では、張作霖は日本の軍事的支援を求めてきた。


これに対し、1924年(大正13年)6月11日から発足した加藤高明(憲政会総裁、元外務大臣)内閣における幣原外相は「内政不干渉主義」を取った。


第一次奉直戦争前の1921年5月27日の閣議や、1922年の外務大臣の指示では、

①張作霖が満州にとどまる限り支援をする。

②しかし、中国全体の支配を求めるときには支援しない。

という方針を決められたが、

しかし、第二次奉直戦争(1924年9月歩発)では、日本軍が中国の内政に直接関与していくことが明確となった。


第二次奉直戦争は、張作霖が中国全体の支配を求めた戦争だった。

張作霖は日本の支援を求め、軍部もこれに対して協力の姿勢を政府に求めた。

特に張作霖の奉天軍が危くなってからは、世論も沸騰してきたが、外相の幣原喜重郎は断固として反対を貫いた。

そんな幣原に対し、国民は、張作霖援助の旗を押し立てたデモの行列を組んで、外務省へと押し寄せ、外務大臣の優柔不断を罵った。


結局日本は、幣原外相の反対によって、内政不干渉を貫いた。

一方、張作霖は日本軍からの支援を受けられずピンチに陥ったが、それでも、奉直戦争は相手側の内紛があり、張作霖と戦っていた呉佩孚軍が戦場から撤退する結果に終わったため助かった。




● 日本国内における中国積極介入派と協調外交慎重派との対立


日露戦争のころより、日本では、中国国内に特殊権益を求める積極的介入主義のグループと、反対に中国の主権を尊重し、市場の門戸開放を求め、日本は欧米と対立すべきではないとする内政不干渉主義のグループで対立していた。


利権派には山県有朋をはじめとした陸軍グループに、小村寿太郎や満鉄関係者の後藤新平や松岡洋右や岸信介らに、二十一ヵ条の要求を行った大隈重信らがつながり、

他方、中国の独立を尊重し、対米協議をしていこうというのが、伊藤博文などだった。



・ 「援段政策」と「西原借款」


利権派ではもともと、張作霖より以前から、元帥陸軍大将・寺内正毅(長州出身)内閣のときに、袁世凱の後継者となった段祺瑞を支援する「援段政策」が行われていた。

1918年(大正7年)には、寺内の側近として活躍していた実業家の西原亀三を通じて、朝鮮銀行、日本興業銀行、台湾銀行からそれぞれ資金を調達した総額1億4500万円にのぼる莫大な資金援助「西原借款」を行うが、段の失脚もあって回収できなくなり、帝国議会で轟々たる非難を浴びる結果に終わった。


1920年代前半に入ると、積極介入派の代表が陸軍長州閥で山県の後継者の田中義一に、協調派の代表が幣原喜重郎になる。

田中義一の支持者には、森恪や関東軍がバックについていた。

森は、田中義一内閣で田中が外相を兼任したため、森は政務次官ながら事実上の外相として対中強硬外交を協力に推進した。


他方、幣原を支援した人には、西園寺公望、井上準之助、清沢洌(言論人)らがいた。



・若槻禮次郎による「軍人外交」批判


しかし、元大蔵大臣の若槻禮次郎などは軍部主導による北京政府内の有力軍閥に対する援助政策を、「放漫」な「軍人外交」といって批判していた。

「この援段政策などという、いわゆる軍人外交は、この時の失敗にも懲りず、その後もしばしば行われた。あるいは、(略)張作霖を助けるとか、言うことを肯かなければ〔張作霖を〕殺してしまうとか、そういう手段によって、理非を問わず、日本の勢力を伸ばそうとするのである」(若槻禮次郎『古風庵回顧禄』)

「私は主として財政上の見地から、返金のアテのない借款、結局は損になるような冒険、その取次人の無信用の点などから、その放漫な政策を攻撃した」(若槻禮次郎『古風庵回顧禄』)




● 「郭松齢事件」の勃発と日本軍の出兵


日本の関東軍は張作霖を支援して助けていたが、その張作霖に対する反乱となる「郭松齢事件」が、加藤高明(憲政会総裁、元外務大臣)内閣時の1925年(大正14)11月23日に発生。


郭松齢は張作霖の軍閥で、参謀長をしていた張作霖の息子・張学良の下で参謀長代理をしていた軍人だった。

しかしこの郭松齢は、日本にさまざまな便宜を図っていた張作霖に不満を抱き、張作霖の打倒を目指して軍事活動を開始することとなった。


だが、郭松齢が張作霖に取って代わると満州の権益が危うくなるため、「満州の権益」を絶対視する利権派のグループでは郭松齢に対する警戒心を強めていった。


しかし、加藤高明で協調外交を進めていた幣原喜重郎外務大臣はあくまで「内政不干渉」を唱え、張作霖を助けるために出兵しようとする陸軍の動きに反対した。

幣原は、「満蒙の秩序維持」とか「日本の特殊地位を固守する」と主張する利権派に対し、

「現在の国際関係の基礎的観念、ワシントン条約の根本原則ならびに帝国政府の累次の声明をことごとく無視する」

ことになると主張。

さらに、

「満蒙の権益と申されても、具体的には満鉄沿線以外において、われわれはなんら権利利益を持っていないのであります」

と指摘し、軍による内政干渉の正当性のなさを批難した。


が、幣原外相の反対にも関係なく、結局、陸軍は張作霖救援のため満州への出兵を決定。

当時の陸相・宇垣一成は、出兵前後の12月22日の日記にその間の経緯について、

「十二月十四日晩、出兵不必要論を外務当局が強調しありしに拘らず、十五日午前には満州の出兵は決定せられたり。

外務当局には気の毒な感がする。(略)翌朝閣議出席前に最期の決定をなして出かけたのである」

と記している。


この「郭松齢事件」における陸軍の出兵強硬は、その後の、軍部が内閣の判断を無視して「統帥権の独立」を根拠に独走をしていく、その走りの例となる事件となった。


一方、日本軍の救援を受けた張作霖は反対派を打ち破ることには成功したが、その後1926年(大正15年/昭和元年)12月に南京で大元帥に就任し、同時に自らが中華民国の主権者であるとの宣言を行い、張作霖はもはや日本軍の操り人形から脱し、独自の道を歩み始めることとなった。








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