第一次世界大戦への参戦をきっかけにした日本の中国進出の野心と英仏との対立の表面化
孫崎享『日米開戦の正体』より、日露戦争から日米開戦に至るまでの流れについてのまとめ。その②。
第一次世界大戦への参戦をきっかけにした日本の中国進出への野心と、それに伴う英仏との対立の表面化および中国国内における反日感情の高まりについて。
◆ 第一次世界大戦への参戦をきっかけにした日本の中国進出の野心と英仏との対立の表面化
● 「辛亥革命」の勃発と日本の対応
1912年(明治45年・大正元年)2月12日、清王朝は崩壊し、2月15日、袁世凱が臨時大統領に選出される。
中国は「辛亥革命」から目覚しい近代化を遂げて行くが、その革命の運動の起爆剤は「滅洋」だった。
そのため、日本が中国を植民地化する動きが出れば、これに反発する大きな力が生まれ、中国共産党は日本軍と戦うをスローガンに中国統一を図っていった。
しかし日本は、そんな中国に対し、
「常に自治ができない国」として対応していった。
そしてそれが、日本が中国で失敗を拡大していく所以となった。
● 第一次世界大戦の勃発
1914年(大正3年)7月28日、ヨーロッパで「第一次世界大戦」が勃発。
ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした協商(連合)国のグループに分かれた二陣営が、広くヨーロッパ大陸を戦場にして戦ったが、容易に決着がつかず、ドロ沼化して
1918年(大正7年)11月11日まで、4年3ヶ月続く凄惨な長期戦となった。
第一次世界大戦は、戦死者1600万人という人類の歴史上、最も犠牲者数が多い戦争の1つとなった。
第一次大戦は1917年のアメリカの参戦を経て、協商側の勝利となった。
● 日本の第一次世界大戦への参戦
日本は、1914年(大正3年)8月23日にドイツ帝国に宣戦布告して、第一世界大戦に参戦した。
第一次世界大戦が発生すると、日本ではこの機会をドイツ権益を奪う好機と考えていたが、
1914年(大正3年)8月7日に、イギリスが膠州湾の青島を拠点としたドイツの東洋艦隊によって自国の商船が脅かされているので、ドイツ艦隊を撃破してほしい、と日本に要請してきたことから、
大隈重信内閣(外相加藤高明)では「日英同盟」を名目に大戦への参戦を決定することとなった。
しかし、当初の内は、日本は第一大戦に参戦するつもりはなかった。
日英同盟には自動参戦条項は付随しておらず、また同盟の適用範囲はインドを西端としたアジア地域に限定されていた。
8月1日にイギリスの外相エドワード・グレイは駐英大使の井上勝之助に「(第一次世界大戦へ参戦する上では)日英同盟は適用されない」と伝え、これを受けて日本政府は8月4日に中立を宣言した。
が、膠州湾租借地を本拠地としていたドイツ東洋艦隊による通商破壊作戦の危険性に関する海軍の報告を受けたグレイ外相が、8月7日になって、
「日本のドイツに対する正式な宣戦布告を伴わぬままで、極東におけるドイツの仮装巡洋艦を攻撃」するよう日本政府に求めてきたのだという。
ところが、グレイ外相は8月9日になると今度はまた日本に対し、参戦の一時延期を要請し、さらに11日には仮装巡洋艦への攻撃要請を正式に撤回。
そして、日本の参戦が不可避になるとグレイ外相は参戦範囲を中国沿岸域に限定するように求めてきたという。
イギリスが態度を変えたのは、日本が参戦を機会に中国および太平洋に進出することを危惧するアメリカの意向もあったという。
アメリカを味方にしておきたいイギリスは、日本への要請を取り消した。
一方、日本はこうした英米側の懸念に対し、
「杭州湾租借地を中国へ返還させる目的で一時的に日本に交付せよ」との条件をドイツに対する最後通牒に記載し、さらに大隈首相が「今回の参戦は領土的野心はない」と表明したことで、日本の第一次大戦への参戦の合意が、日英間で了解に達することになったという。
8月15日、日本はドイツに対し中国海域からの艦隊の撤退と、膠州湾租借地を中国に還付する目的で日本に引き渡すことを勧告し、最後通牒を送り、ドイツからの解答がなかったため8月23日、ドイツに宣戦布告し参戦を開始した。
日本軍は膠州湾を封鎖し、9月2日に山東半島に上陸、
11月7日に膠州湾の入り口にある青島要塞を陥落させたが、日本軍はドイツ支配地域から出て、山東鉄道に沿って進出し、済南に至る地域を占領し、
しかも、日本は戦後も占領地を中国に還付せず、軍政を敷いたという。
また、10月中にマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島を占領した。
● 日本の中国進出に対する英米の反発
日本は第一次世界大戦への参戦によって、戦後、ドイツが中国山東省に有していた権益、およびドイツ領南洋諸島を獲得することとなったが、
しかし山東省権益獲得は中国国内の反発を強め、アメリカも反発し、後の日中戦争や日米戦争への端緒ともなった。
日本は第一次大戦において、日英同盟を理由にドイツに宣戦して、中国におけるドイツ領に攻撃を加え、占領していき、戦後のヴェルサイユ条約によって旧ドイツ権益の継承が認められたが、
しかし日本による中国大陸への進出は、英米が懸念していた通り、実際、中国本土への進出を狙いとしたもので、
そしてそれは、山県有朋元帥や大山巌元帥ら、陸軍伝統の軍事戦略を実行に移したものだった。
「日露戦争の結果、日本は満州に根を下ろすことができたが、中国本土への進出は思うに委かせないので、
ヨーロッパ大戦参戦を機会に中国本土への進出を図るというのが、日本の大勢になって来たのである」(上村伸一『日本外交史17 中国ナショナリズムと日華関係の展開』)
「政局の実権は依然として元老たちの手に握られ、内閣首班の要請は元老会議によるものだから、元老の勢力は牢固たるものがあった。
元老の筆頭は陸軍の長老山県有朋元帥で、それに井上馨、大山巌元帥が含まれていた。
山県元帥は、陸軍の伝統である大陸進出論者だし、世論もこれを支持したので、大隈内閣が参戦へと傾いたことは当然であった」(上村伸一『日本外交史17 中国ナショナリズムと日華関係の展開』)
第一大戦において日本は、
「開戦に際して、イギリス政府からの要請を受け、連合国として第一世界大戦に参戦した」とされるが、
実際にはちがっていた。
イギリスは、1914年(大正3年)8月4日にドイツに宣戦布告したが、その前日の8月3日に、英国エドワード・グレイ外相が、井上勝之助駐英大使に、
「イギリスは、日本の援助を求める必要に迫られることはおそらくないと思う。日本を今回の戦争に引き入れることもイギリス政府としても避けたいところである」
と申し伝えていた。
英国は極東における英国商船への攻撃のおそれがあり、一時日本の協力を求めたが、再度方針を変え、8月10日、井上駐英大使に対し、
「支那における攪乱を避くるがため、(略)英国商船の保護のみに局限せんことを切望するものなり」
という書簡を渡し、
ついで8月11日には、グレイ英国外相が、
「世間において、日本はこの際、領土侵略の野心があるのではないかと誤解する者も少なくないので、
日本は支那海の西および南ならびに太平洋において戦闘はしないことを声明されたい」
と要請していた。
日本は8月12日に、
「戦地局限を宣戦布告に声明することは断じて不可である」といって拒否したが、
英国は、日本が中国におけるドイツの権益を取ることにハッキリと嫌悪感を示し、それはやがて日英同盟解消へ向けて動くことになる。
● 第一次大戦中に行われた「対華二十一ヵ条の要求」
中国では1911年(明治44年)から12年にかけて革命が起こり、清朝が崩壊し、1912年(明治45年・大正元年)2月15日、袁世凱が中華民国第2代臨時大統領に就任して、この直後より、この袁政権の中華民国が諸外国より正式な政府と承認されることとなった。
しかし政権基盤は弱体で、英米独仏など列強も第一次大戦で、とてもアジアに関心を向ける余裕などなかった。
大陸への拠点を固めようとする日本軍部には絶好の機会だった。
そして、第一次世界大戦中の1915年(大正4)1月18日、日本の大隈重信内閣(加藤高明外相)は、袁世凱大統領に、「二十一ヵ条の要求」を提示する。
「二十一ヵ条の要求」とは日本政府が主として、満州の利権確保と、ドイツが持っている利権の獲得を中国側に求めたもの。
大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は、袁世凱に5号21か条の要求を行った。
第1号 山東省について
・ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
・山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
・芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
・山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること
第2号 南満州及び東部内蒙古について
・旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
・日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
・日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
・日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
・他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
・政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
・吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について
・漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
・漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
第4号 中国の領土保全について
・沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他
・中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
・中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
・これまでは日中間で警察事故が発生することが多く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関の刷新確立を図ること
・一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本より行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰ぐこと
・武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権を日本に与えること
・福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること
・中国において日本人の布教権を認めること
この「二十一ヵ条の要求」で、日本にとって特に重要だったのは満州における利権の確保と、ドイツが持っていた利権の確保で、
第1号の、山東省に関する日本のドイツ権益を継承を認めることと、
第2号の、旅順大連の租借地期限の延長と満鉄及び安奉線の期限の延長とがそれに当たる。
そしてそれらの権益は、第一次世界大戦終結後の「ヴェルサイユ条約」によって、正式に日本の権益として認められることとなる。
が、問題になったのは「第5号」だった。
これは、中国に新しく生まれた革命政権を、日本の傀儡にしてしまいかねないもので、
この第5号条項は当初、対外的には公表せず、秘密条項として袁世凱政府に伝えられていたが、袁がこれをリークして明るみとなり、日本は国際社会からの厳しい批判を浴びることとなった。
アメリカからの批判に、加藤高明外相は、第五項は「希望条項」にすぎないと弁明したが、その後、5月7日、第五項は削除して袁政権に対して最後通牒が出されることとなった。
袁政権は「第五項」を除き、日本の要求を受け入れたが、中国国民は日本から最後通牒を受けた5月7日と受諾した5月9日を「国恥記念日」と呼び、日本に対する敵意を募らせていった。
袁世凱は日本からの「二十一ヵ条の要求」を受理する際、自国民に対して「日本の圧力でやむを得なかった」というポーズを取るために、日本に最後通牒を求めたが、
力によって屈服させられたということが、中国国民に激しい反日ナショナリズムを喚起することとなった。
日本は袁世凱の巧みな謀略にまんまと引っかけさせられる格好になったが、
ただしこのとき実際、日本軍は満州に2万、上海に3万が出動準備を整えていたという。
しかし第一次世界大戦中の1915年(大正4)に出された「対華二十一ヵ条の要求」は、その後、第一次世界大戦終結後の1919年(大正8)に開かれた「パリ講和会議」で締結された「ヴェルサイユ条約」によって改めて日本の権益として認められることとなったため、
中国国内で学生たちによる反日の「五・四運動」が巻き起こった。
● 「二十一ヵ条の要求」は誰の主唱によるものだったか?
「二十一ヵ条の要求」は誰がイニシアティブを取ったのか。
戦前の外交官である堀内干城は『中国の嵐の中で』(乾元社)という著書の中で、
「二十一ヶ条問題は大隈総理、加藤外相の発案によるものではなく、元老や軍部筋有力者の高圧と指導に基づくものであったことが漸次分かって来た」
と記述している。
日本では、1914年(大正3)8月8日に、ドイツに対する宣戦布告問題を審議するため、元老と閣僚との合同会議が開催され、ここで、
「含欧州の大禍乱は日本国運の発展に対する大正新代の天佑にして、日本国は直に挙国一致の団結を以て、此の天佑を享受せざるべからず」(『大隈重信八十五年史』)
ということが決められた。
「二十一ヵ条の要求」は、山県有朋の首唱によって行われたものだった。
「対華二十一ヵ条の要求」は、日本国内では、国際社会において日本の主張を実現でき、そして日本が満蒙での地位や権益を確立した大功業だったと評価されたが、一方で英米の警戒心を強め、
また、中国国内においても激しい反日感情を生み出すことにもなってしまった。
「日本の二十一箇条要求が中国の民心に与えた影響は、日本で想像する以上に深刻なものがあった。
中国はすでに民族(辛亥)革命にも一応成功して共和制となり、中国ナショナリズムはいやが上にも盛り上がって、その開花期を迎えようとしていた。
その時期において日本は、帝国主義の復活を思わしめるような二十一箇条の要求を突きつけ、しかも最後通牒により有無をいわせず中国を捻じ伏せた形になったので、中国民心に与えたショックもことのほかに深刻であった。
ために中国各地に、排日、排日貨運動が燃え上がったが、日本の抗議により袁政権は、これに臨むに弾圧政策をもってしたので、民心の不満は陰に籠って爆発の機会を待つという状態になっていた。(略)
平和会議〔第一次大戦の〕が山東に関する日本の主張を支持したというニュースは、五月一日に北京に伝わった。
このニュースを耳にした北京大学の学政の一団は、即日これに抗議する集会を開いたが、五月四日になると、大学生らは天安門に集合し、三千の学生が講義のデモ行進に移った。(略)
五日には、北京全市の学生がスト体制に入り、六日には北京の中学生以上の学生が連合会を結成し、(略)
愛国運動を展開して日本商品のボイコットを呼びかけた。(略)
さすがに荒れ狂った排外的、反政府的な嵐も、官憲の弾圧により一時は鎮まったが、この台風の底流にはすでに発酵しつつある新時代への息吹きが流れていた。
したがって台風は一時的には鎮静したかに見えたが、その底流においては発酵が続けられ、ことあるごとにそれが爆発して、民族革命へと進んで行ったのである」(上村伸一『日本外交史17 中国ナショナリズムと日華関係の展開』)
● 第一次大戦中、揺れる英米の日本に対する対応と「石井・ランシング協定」の締結
日本は、大隈重信内閣(加藤高明外相)の1914年(大正3年)8月23日に、ドイツ帝国に宣戦布告して、第一世界大戦に参戦した。
そして同年中に膠州湾を封鎖し青島要塞を陥落させ、山東半島に上陸して山東鉄道に沿って済南に至る地域を占領し、
マーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島も占領下に収めた。
そしてその後、未だ第一次世界大戦中の1915年(大正4)1月18日に、日本の大隈重信内閣(加藤高明外相)によって、袁世凱大統領に、「二十一ヵ条の要求」が提示される。
第一次世界大戦は、1917年(大正6年)4月のアメリカの英仏側への参戦によって大きく動き、1918年(大正7年)11月11日に、ドイツの事実上の降伏によって終結するが、
日本は第一次大戦への参戦を決めた後のアメリカと、1917年(大正6年)11月2日に、石井菊次郎特派大使と米ロバート・ランシング国務長官との間で、「石井・ランシング協定」を取り交わした。
この協定は、アメリカが中国における日本の特殊利益を承認し、同時に日米両国が中国の「領土保全・門戸開放・機会均等」の原則を確認し合うというもので、
石井とランシングの双方が、自己の見解を述べるという形を取っている。
ランシング国務長官からは石井全権大使へ向けて、
「合衆国は日本が支那において特殊の利害を持つことを承認す。
支那の主権は完全の存在する。
日本国が他国の不利なる偏頗の待遇を与えざる旨の日本国政府の異次の保障を全然信頼す」
というノート(覚書)が出され、石井全権大使のほうからはランシング国務長官へ、
「日本国が支那において特殊の利害を持つことを承認す。
他国の通商に不利になる待遇を与えない。
日本は毫も支111那の独立または領土保全を侵害するの目的を有するものに非ざることを声明す」
というノート(覚書)が発出された。
日本が真珠湾攻撃へと至った要因で、最も重要な問題の一つが、中国政策で日本とアメリカが合意点を見いだせなかったことで、
日本は中国国内に特殊権益を求める一方で、アメリカは反対に門戸開放を訴えて、日露戦争直後から、両者はずっと対立を続けてきていた。
しかし「石井・ランシング協定」においては、アメリカが中国における日本の特殊権益を認め、両者に極めて僅かの期間ながら、合意が成立した。
なぜアメリカはこのとき、日本に譲歩したのか?
石井菊次郎がこのとき訪米したのは、中国問題について協議するためではなかった。
それは、アメリカが1917年(大正6年)4月に協商(連合)国側に立って参戦を決めたことについて、同じ協商(連合)国側に立って戦う日本からアメリカにお礼を言うために派遣されたものだった。
アメリカは従来より「孤立主義」を取っていたが、ウィルソン大統領はそんな米国内の反対を押し切って第一次大戦への参戦を決定していた。
それだけに、ウィルソンは自分の政策に対する支持者があることを国民対してアピールしようと、わざわざ日本から来てくれた石井全権大使の訪問を大歓迎してみせたのだった。
そこで、石井がウィルソン大統領に中国問題を打診すると、ウィルソン大統領は石井に好意的な対応を示し、
「ランシング国務長官と交渉してくれ」と言われたのだという。
石井菊次郎元外務大臣は、アメリカの言ってくる「門戸開放」について、
この「米国の『門戸開放』こそ日本の利益になる」という独自の考えを持っていた人物だった。
「門戸開放になれば、欧米は自国の製品を中国市場に持っていくには1ヶ月半から2ヶ月かかる。
他方日本からは一週間で運べる。中国の経済の中心は揚子江周辺であるので、むしろここを開放すれば日本に有利であるはずだ」と。
石井菊次郎はアメリカの求める「門戸開放」政策を日本側から積極的に受け入れるとともに、日本の中国における特殊権益も認めてもらおうとした。
当時、ランシング長官自身は日本の特殊権益を認めることには躊躇していたが、石井大使はウィルソン大統領が好意的に対応していることを見抜き、これを背景に石井はランシング国務長官と交渉して、最終的に日本が中国に「特別の利益と影響を持つ」という合意を引き出すことに成功したのだった。
ところがこの「石井・ランシング協定」は、およそ4年後の1921年(大正10年)に、アメリカから廃棄が宣告されることになる。
米国ではやはり、日本に「『特別の利益と影響』を与えることはまずい」と判断され、
1921年(大正10年)3月に登場した共和党のハーディング大統領の指示によって、1921年(大正10年)4月14日、「石井・ランシング協定」は正式に廃止されることとなった。
しかし「石井・ランシング協定」の締結に踏み切ったアメリカと同様、イギリスも中国進出へ向けた日本の野心については警戒しつつ、その対応は二転三転した。
アメリカが「孤立主義」を取っていたように、イギリスもまた「栄光ある孤立」を標榜して、イギリス自らが直接、特定の軍事同盟に属して戦うというようなことはしないできていた。
が、1904年(明治37年)より巻き起こった「日露戦争」では、イギリスはロシアの膨張を恐れる余り、「栄光ある孤立」を捨て、日本と1902年(明治35年)に特別に「日英同盟」を結んで日本の支援に回った。
第一次世界大戦においても、イギリスが「栄光ある孤立」を保てずに、直接「協商(連合)国」側に入って参戦を決定したのは、ドイツの脅威に対抗するためだった。
ドイツの軍事的膨張がベルギーへの侵攻にまで及んだとき、イギリスではこれを自国の安全を脅かす脅威とみなし、遂に第一次大戦への参戦を決定した。
そのため、日本に対しての協力や妥協も、"ドイツを抑えるため"という部分でのみ、成立していた。
イギリスは第一次大戦前の1911年(明治44年)に、『第3次日英同盟』の改訂で、ドイツの脅威を新たな対象に加える一方、日露戦争後の日米関係の悪化を懸念し、日英同盟の対象国からアメリカを除くことを望み、将来日米開戦に至った場合にはイギリスは援助義務を負わないことを明らかにした。
そして第1次世界大戦後は、日本の中国大陸への侵出を警戒し、1921年(大正10年)~22年(大正11年)の「ワシントン軍縮会議」の場を通して、「日英同盟」自体が廃棄されることとなる。
「対華21カ条要求」の条文その他、ウィキペディア等のサイトから引用したり、参照させてもらい本文の説明を補ってあります。