表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/3

日露戦争後の、満州経営をめぐる国内外の対立

孫崎享『日米開戦の正体』より、日露戦争から日米開戦に至るまでの流れについてのまとめ。その①。

日本が日露戦争後に獲得した南満州鉄道の経営方針や軍による満州の独占支配をめぐって、米英からの批難や、日本国内で生じた「協調外交派」(政治)と「強硬外交派」(軍部)の対立について。


◆ 真珠湾への道は日露戦争での"勝利"から始まっていた



● 日露戦争後、巨額戦費の負担に喘ぐ日本と、陸軍の満州進出の野望


日本は「日露戦争」(1904年~1905年)で世界の一流国のロシアと戦ったが、年間予算の8倍もの戦費を使い、さらにそのうちの8割は外国からの借金に頼っていた。


※ 20世紀初頭の日本と欧米列強の軍事・経済指標(ドル換算名目値)

GNP (単位:百万ドル)

  1900年 日本1,200 米18,700 英 9,400 露/ソ 8,300

  1910年 日本1,900 米35,300 英10,400 露/ソ11,300

  1921年 日本7,200 米69,600 英23,100 露/ソ n.a.

  1925年 日本6,700 米93,100 英21,400 露/ソ16,000


 軍事支出

  1900年 日本 70 米 190  英 670  露/ソ200

  1910年 日本 90 米 310  英 370  露/ソ310

  1921年 日本400 米1,770  英1,280  露/ソ400

             (第一次世界大戦:1914年7月~1918年11月)



● 軟弱外交か強硬外交か


日露戦争から真珠湾攻撃までの日本の外交・安全保障政策は、大別して「軟弱外交」か「強硬外交」かの選択だった。



● 日露戦争後の経済負担とそれに起因する社会不安が真珠湾攻撃へとつながっていった


「真珠湾攻撃」(昭和16年、1941年12月8日)の翌年の昭和17年(1942年)1月6日、米ルーズベルト大統領は一般教書演説で、

「日本が征服計画を立てたのは半世紀前まで遡る。

この野心的な陰謀は1894年の中国との戦争や、その後に続く韓国の占領、1904年のロシアとの戦争、1920年以降に太平洋諸島の委任統治を違法に強化したこと、1931年の満州強奪、そして1937年の中国への侵略などに示されている」

と語った。


日露戦争が真珠湾攻撃につながっていった大きい理由は、日本の経済問題とそれに起因する社会不安とに求められる。


日露戦争以降、日本の財政は逼迫した。


第一の要因は、日露戦争の戦費が通常予算の8倍で、しかもその80%が外債に依存していたことから、ここから国家予算の30%が利子の国債償還に当てざるをえない状況が発生し、そのために急増した負担によるもの。


第二の要因は、日露戦争後に日本が満州へと進出したことで、将来ロシアが再び南下してくることに対する備えと、それと満州を自分の物にしようとしたことでアメリカの「門戸解放」路線と対立し、米国と戦うことも想定しなければならなくなったことに対する、軍事面における負担の急増によるもの。


ここから、日露戦争後の日本の軍事費は予算の30%にもふくれあがり、戦費の利子の返済の30%と合わせると、両者でなんと国家予算の60%にまで達するまでになってしまった。


政府は、費用捻出のために増税したが、物価が高騰し、国民から不満が噴出した。


国民は現状改革を強く求めるようになり、不満から左翼運動が勢いを増していったが、左翼運動は政府の厳しい弾圧を受けて潰されていった。

一方で右翼も急進的な勢力は「革新」を求めたが、軍部の中の「革新」グループも過激化し、自ら急進的で過激な政策を取っていくようになった。



● 日露戦争後、ポーツマス条約に反して満州に兵を置き、独占的に運営しようとした日本に米英が反発


日本が日露戦争に勝利しえたのは、米英の支援を受けていたから。


18~20世紀初頭、ロマノフ朝のもとで大国化の道を歩むロシア帝国は、その領土拡大を目指して、世界の各地で「南下政策」と呼ばれる膨張運動を展開し、多くの国々と軍事衝突を引き起こしていたが、特に世界の各地に多大な権益を持つイギリスとは、直接間接に、激しい対立を繰り返した。

ロシアは、黒海・バルカン半島方面への侵出では「クリミヤ戦争」(1853~56年)や「露戸戦争」(1877年~78年)を起こし、

中央アジア方面では「第一次アフガン戦争」(1838~42年)、「第二次アフガン戦争」(1878~80年)を起こし、

そんなロシアに対してイギリスは、ロシアと戦うオスマン帝国やアフガン王国を支援してロシアの南下政策を阻んだ。

特にイギリスにとって最重要の植民地であるインドへのロシアの南下を防ごうとしたアフガニスタンにおける英露両国の駆け引きは「グレートゲーム」といわれた。

クリミヤ戦争や露戸戦争も、イギリスにとってはインドへの航路となるクリミヤ半島へのロシアの進出を警戒して介入に踏み切った争いだった。

またイギリスは、極東方面へ南下しようとするロシアと対抗する日本と「日英同盟」(1902年)を結び、「日露戦争」(1904年)を日本の勝利へと導いた。


一方アメリカは、アメリカはアメリカで進出の機会を窺っていた中国へのロシアの侵略を防ぐべく、日本の支援に回り、日露戦後、両国の講和会議をお膳立てして自国のポーツマスで講和条約を締結させるなど、斡旋の労を払った。

アメリカは1898年に「米西戦争」の勝利で得たフィリピンを足場に中国に進出しようとしていたが、しかしその1898年に、ドイツは膠州湾、イギリスは威海衛と九竜半島北部地域、ロシアは旅順・大連、フランスは広州湾と、列強4国がそれぞれ清に租借地を獲得し、日本も清朝政府に対し、台湾対岸の福建省を外国に割譲しないことを約束させ、自国の勢力圏とするなど、当時の中国は、このような列強による「瓜分の危機」と呼ばれる分割が進められ、アメリカが入り込む余地などはなかった。

そこで1899年、アメリカは国務長官ジョン・ヘイが、清国における通商権・関税・鉄道料金・入港税などの平等を訴えた「門戸開放」宣言の声明を発表して、列強主要国に対し、中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求めた。


アメリカは、満州(中国東北部)におけるロシアの侵略は門戸開放政策に反すると主張したが、日露戦後に米ルーベルト大統領の仲介で結ばれた「ポーツマス条約」は、


・第一に、遼東半島を除いて満州においては清国の主権を認め、日露双方は満州から撤兵すること。

・第二に、満州においては各国平等の待遇を行うこと。


といった、アメリカの要望を取り込むような内容のものとなった。


しかし、満州は日本が日露戦争で獲得した特殊権益だと考えた日本は、ポーツマス条約に反し、軍隊を満州に残し、ここを日本の特別の権益の土地とするような行動を取っていくこととなる。


1906年3月、英マクドナルド駐日大使が、韓国統監・伊藤博文に対し、

「満州における日本の軍事官憲は、軍事的動作に依って外国貿易に拘束を加え、満州の門戸は、さきにロシアの掌中に在った時に比べて、一層厳しく閉鎖せられた事である。(略)

 現に日本の政府の執りつつある政策は、露国との交戦当時日本に同情を寄せ、軍費を供給した国々を全く阻害する、日本の自殺的政略だと評する外はない。(略)

今日のままで進んだならば、日本は與国の同情を失い、将来開戦の場合には非常な損害を蒙るに至るであろう」

との書簡を送り、

さらに同じ月の3月には、アメリカのハンチントン・ウィルソン代理行使が西園寺公望外務大臣に、イギリスと同趣旨の強硬な抗議文をもたらした。


英米両国は、「日本は約束を破り、満州を独占しようとしている」と抗議した。


1906年、日本の中国への進出をめぐり、日本と英米は早くも対立をし、すでに真珠湾への道が敷かれていた。



● 満州の処理を巡り、伊藤博文(元首相)と児玉源太郎(陸軍参謀総長)とが対立


1906年5月22日、満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念を持った伊藤博文によって、首相官邸において元老および閣僚たちによる「満州問題に関する協議会」が開かれた。

日本国内では日露戦争後、満州を日本の利権としてこれを確保しようと動いていて、これを止めるために、伊藤が会議を要請した。


伊藤はこの会議で、

「満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何物も無いのである。(略)

 商人なども仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属国では無い。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い場所に、我が主権の行はるる道理はない」(『伊藤博文秘録』)

と主張し、また


① 日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発

② 中国国内で必ず抵抗運動が出てくる


との懸念を強く訴えた。


伊藤のこのとき演説は陸軍参謀総長だった児玉源太郎を圧倒し、この会議の結果、ここでは、軍の駐屯を排する決定がまとめられた。


しかしその後、1909年10月26日に、伊藤博文は満68歳で安重根によって射殺されてしまう。


日本が日露戦争後に獲得した満州(中国東北地方)方面の権益は、

戦後に「関東州」と日本側によって名づけられた旅順・大連を含む遼東半島のほんの先の部分の領地と、

それ以外では「南満州鉄道」(旅順~長春)と「安奉鉄道」(安東~奉天)の鉄道経営権および満鉄沿線に属する炭鉱の採掘権、それとその鉄道の安全を守るため鉄道守備の軍隊を沿線地帯に駐屯させることができるという権利のみにすぎなかった。


伊藤博文は、再びロシアが南下してくることを懸念し、米英を満州鉄道の経営に当たらせることで、ロシアの牽制にしようと考えたが、

しかし、日本の軍部では、


「南満州鉄道をもって大陸経営における策源地としようとする考え方は、すでに日露戦争初期満州軍総参謀長児玉源太郎と台湾総督後藤新平との協議のうちに発している」(『日露戦争前後』)


と、日露戦争が始められた早い段階から、彼らはすでに満州を我が物にしていこうとする考えを持っていた。

後藤と児玉の満州への考え方は、

「第一に鉄道、第二に炭鉱、第三に移民、第四に牧畜。特に移民を重視し十年間に50万人とする。これによりロシアが戦端をひらくのを難しくする」(『後藤新平』)

というものだった。


また、1905年12月27日付の東京新聞で、

「今や開放となりし一六都市における折角の好市場を得たるを機とし、他国品を圧倒して我が独占市場たらしむの画策を立てざるべkらざるなり」(『日露戦争前後』)

との論が紙面で展開されるなど、

当時の日本国民は、伊藤博文が憂慮していた方向へと向って動いていくようになる。



● アメリカとの満鉄協同経営案の模索とその撤回


当時、満州の支配に関しては、

① 清国の独立を認め、欧米諸国と中国の市場を経営するという政策と、

② できるだけ日本の権益を拡大するという、二つの選択肢があったが、

ただ、日本が独力で、朝鮮や台湾、樺太に加え、満州への巨額の投資を行っていくには、財政上の負担が大きかった。


しかしそんな日本に対し、1905年、アメリカの鉄道王ハリマンから買収による南満州鉄道の協同経営が提案される。

ハリマンはこのとき、当時のお金で一億円で満鉄の経営権を買いとろうとしたという。

1905年の日本の租税収入が、2億5128万円だった。

このハリマンの提案に、日本では元老の井上馨、財界の渋沢栄一、それに桂太郎首相が好意的に反応し、その結果、


・ 南満州鉄道の買収・改築、整備延長などのため日米間でシンジケートを組織する

・ 日米両当事者は共同かつ均等の所有権を有する

・ 満州の発展に関しては共同かつ均等の利益を受ける権利を有する


ということを条件とした「桂・ハリマン協定」(南満州鉄道に関する予備定覚書)が、1905年10月12日に締結されることとなった。


が、これに、ポーツマス条約の調印を終えて日本に帰国してきた外務大臣の小村j太郎が猛反対。

小村は、

「すでに講和条約にすら大不満のわが国にして、もしそのわずかにえた南満州鉄道をも(略)売渡し、みずから今次の計画を知ったならば民心いやが上にも激高し、さらにいかなる大騒擾をも惹起するやも測りがたい」(黒羽茂『世界史上より見たる日露戦争』至文堂)

といい、

結局この問題は小村寿太郎の意見が通って白紙に戻されることとなって終わった。


ただ、当時の日本に、財政的に日本独自に満鉄を管理する能力などなかった。

金子堅太郎は、

「わが政府は現在南満州鉄道の整理・再興に使用するほどの資金はなにほどもない」

と語っていたという。

そんな日本が、南満州鉄道の修理などの資金をどのように工面したのか。

『世界史上より見たる日露戦争』には、米モルガン財閥モントゴメリー・ルーズヴェルトの、

「30万ないし40万の金額を年5分5厘の利息にて前貸しするであろう。しかし(略)条件が付されており(略)、レール・機関車および車両はアメリカ工場より買い入れられることである」

といった発言が紹介されている。


もし、アメリカとの満鉄の協同経営が実現していればその場合、


① 満州を支配下に置いたことによって、日本軍は常にソ連の逆襲に備えなけれならなくなったが、米国の権益が絡むことで、日本単独で守るという状況が変化する

② のちに日本は、中国をめぐり、米英と対立する状況に陥り、対米開戦へと至ったが、その衝突も避けられていたかもしれない

③ 満州を取ったことで中国国内で激しい反日ナショナリズムが形成され、ドロ沼の日中戦戦争へと突入していったが、これもせずに済んだかもしれない

④ 満州経営・軍の強化という財政負担が回避され、アメリカの資本援助によって日本の経済が大きな発展を遂げていたかもしれない


といったメリットが考えられるが、

この1906年1月に破棄された「桂・ハリマン協定」や、同年5月に伊藤博文によって開かれた「満州問題に関する協議会」は、ともに「日本膨張史上の一大事件」となった。




● 日露戦争後、日本の軍部はアメリカと戦うことを想定した「帝国国防方針」を策定する


明治40年(1907年)4月4日、日本の軍部により「明治40年日本帝国の国防方針」が策定される。


ここでは先ず、朝鮮、満州への進出を前提とするということと、


「帝国の国防は露米仏独の順序を以て仮想敵国とし主として之を備ふ」


と、従来、日本にとって最大の敵国だったロシアに加え、新たにアメリカが仮想敵国として加えられることとなった。

また、もしアメリカと実際に戦争になった場合は、


「対米作戦方針は開戦劈頭へきとう先ず問うようにおける海上兵力を掃討し 以て太平洋を制御し 且つ帝国国交通路を確保し 併せて敵艦隊の作戦を困難ならしめ 然る後 敵本国艦隊の進出を待て之を激撃撃滅するに在り」


と、後の真珠和攻撃時と全く同じ方針が示されていた。


「帝国国防方針」は、陸軍参謀本部の田中義一中佐が起案し、海軍軍令部の財部彪大佐との協議を経たうえで、元帥・山県有朋が上奏し、天皇の裁可を得て決定されたが、

当時の西園寺公望内閣総理大臣でさえ、その用兵綱領に関しては統帥権を盾に関与が阻まれ、国防方針への意見と所要兵力の閲覧のみが許されただけだったという。


用兵に関しては軍関係者以外には述べないという方針が貫かれ、真珠湾攻撃のときについても、東條首相は天皇には説明できなかったという。




● 日露戦争後、アメリカも日本と戦うことを想定する「オレンジ計画」(War Plan Orange)を策定する


アメリカは日露戦争が勃発した1904年、世界の主要国と戦争する「カラー・プラン」を作った。

ドイツはブラック、フランスはゴールド、英国はレッド、日本はオレンジ。


ただし「オレンジ計画」の存在は、即、日本との戦争を考えて準備されたものではなく、いったん、何か事件があったとき、米国軍部が対日戦争を実施する態勢に入っていくためのものとして作られたものだった。

アメリカ外交史専攻のウォルドゥ・ハインリスク教授は「アメリカ海軍と対日戦略」という論評で、


「両次大戦間の時代を通じて、日本はアメリカ海軍の最たる仮想敵国であった。『仮想』ということばは、単に『想像しうる』の意味ではなく、対日戦争が早晩不可避になる、とアメリカ海軍は信じて疑わなかったのである。

海軍大学の机上演習で設定される敵は、ほとんどいつも『オレンジ』(日本)であった」


と記述している。


アメリカは中国の門戸開放を唱え、満州を支配しようとする日本との対立を深めていった。





















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=639153509&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ