チート転生者に恋愛は難しい。のかもしれない
パチ…パチ…パチ
静まり返った天幕の中に、駒を進める音だけが響く。
木で出来た盤の上で、同じく木を削り出して作られた駒を操り、相手の将を獲る。コッタと呼ばれるこのゲームは私の感覚では将棋によく似ている。チェスボードのように市松模様に塗り分けられた盤を用いるけれど、とった駒を手駒として使えるあたり丸きり将棋だ。
パチリ、と私が打った手を最後にゲームの動きが止まる。
私はちらりと対面に座る人物を見やった。
見慣れた幼馴染の男だ。
喜怒哀楽の薄い、いつもどこか飄々とした態度を崩さない彼は、今、難しい顔をして盤上を睨みつけていた。
私は彼に聞こえないように小さくため息をついた。
――どう考えても、無理でしょ
小さな頃からそれこそ何百回何千回と彼とコッタで遊んだが、私が負けたことはない。
というか、およそ勝負ごとで彼に負けたことがない。
かけっこも、相撲も、弓も、剣も、槍も、投擲も、独楽回しも、早食いも、全てにおいて私は負けたことがないのだ。
というと、彼がとんでもなく軟弱な男のように聞こえてしまうが決してそうでは……ないとは言えないところが辛い。
私は彼が誰かに勝ったところを見たことがなかった。同年代の男はもちろん、年少の少年にもいつもぼろぼろに負かされていた。
対して私はというと、頭脳戦のコッタはともかく、棒術も、組手も、腕相撲も、殴り合いの喧嘩も、反復横飛びも、同年代の男はもちろん、年上の男にだって負けたことがない。なんだったら、熊にも勝てる。
それもこれも全ては私が願ったチートのせいだった。
――なんで、あんなこと願っちゃったかなあ……
パチリ、と小気味良い音をたてて彼が進めた手を見ながら、私は憂鬱な気分でまた一つ、ため息をついた。
前世の私は若くして死んだ。
あれは確か十六歳の誕生日を迎えてすぐのこと。
突然の病死だった。特に自覚症状なんてものはなかったのに、ある晩突然心臓が鼓動を止めたのだ。
堪え難い苦痛のあとに訪れた、不可思議な存在との邂逅。
輪郭が曖昧になるほど眩い光を放つソレは、自身を神だと名乗ったが、私にとっては死神だった。なんでも隣の家に住む御年九十八歳の爺ちゃんを迎えに来て、間違えて私を連れ去ってしまったのだとか。
ふざけんな、今すぐ生き返らせろと息巻く私に、ソレは無情にも告げた。一度死を迎えた器に再び生を与えることは無理だ。諦めて輪廻の輪に入り、新しい世界で新しい人生をやり直せと。
そんなことを言われても到底納得できない。
だってまだ一六だったのだ。人生これからだった。高校にもようやく慣れてきたころで、入学当初からちょっといいなと目を付けていたクラスメイトの安藤君に告白して、それはそれは甘い日々を送る予定だったのだ。
は? どっちにしろふられてたって? 隣のクラスの石井さんと密かに付き合ってたって? だったら、隣の隣のクラスの浦安君に告白するっつうの。
なんにしても生き返らせろと、光るソレの胸ぐららしき辺りを掴んで抗議した。
するとソレは言った。こちらの落ち度でもあるし、新しい人生では特典をつけよう。何がいい? 傾国の美貌でも、歴史ある大国の王女でも、強大な魔力を秘めた魔女でも、なんでもいいよ。失敗しないように今生の記憶もつけちゃうよ。本当はこんなことダメなんだけど、特別だよ、と。
どうあっても生き返らせてはもらえないらしいと悟った私は無理やり気持ちを切り替え、悩んだ。
傾国の美女になって本当に国が傾いたら嫌だし、大国のお姫様になって雁字搦めの生活を送るのも息苦しそう。
消去法で、じゃあ強大な魔力とやらをくださいと言いかけて、かつてプレイしたゲームの数々を思い出した。
職業選択制のゲームにおいて、私は魔職ばかりを選んだ。序盤の面倒な雑魚戦を楽に進めるには広域攻撃に優れた魔職はとても使い勝手がよかったから。
でもボス戦になると気づくのだ。敵の攻撃を一手に引き受ける防御力自慢の盾役がいないとなんも出来ねえと。
剣職の面々が攻撃力と体力と素早さで乗り切れるクエストも、紙防御の魔職には盾役か回復役がいないと無理。たとえどれだけ一撃が強力でも、素早さで勝る剣職の手数には及ばない。
何度、職業選びを失敗したと後悔したか。それでも鬱陶しい雑魚戦をさっさと終わらせたいという誘惑には勝てず、いつもいつも魔職を選んで、ボス戦で後悔した。
それでも良かった。だってゲームだから。でも現実ではそうはいかない。
呪文を唱えている間に、一撃くらってお陀仏なんてことになったら笑えない。
だから私は願ったのだ。美貌も地位もいらないとは言わないが、そこそこでいい。なので代わりに腕力と体力と素早さを数値カンストでくださいと。
これが全ての間違いだった……
そうして間違いにも気付かず、私が生まれ変わったのはとある世界のとある大陸にあるとある国……と言うのもおこがましいような興ったばかりの小さな小さな国だった。
いくつかの騎馬民族を併合して出来たその国の、国王の第五子にして初めてのお姫様として生を受けたのだ。
願った通り、そこそこ可愛らしく、王様というより首長と言ったほうがしっくりくるようなゆるい王家の姫で……腕力と体力と素早さがカンストしていた。
私は素直に喜んだ。
ゆるく波打つ蜂蜜色の髪も琥珀色の瞳も優しい線を描く頰も気に入ったし、兄王子達に甘やかされる末子にして初の女の子というポジションもいい。加えて腕力体力素早さが誰よりも優れているのだ。私に怖いものなどなかった。
そんな状態の私に、調子にのるなというほうが無理だと思う。
前世の記憶とチートな力を武器に、私は小さな頃から非凡な才能を発揮しまくった。
誰よりも早く文字を覚え、算術もお手の物。運動面もばっちりだ。
馬に乗るのは初めての経験で少し戸惑ったけど、馬並みの体力を遺憾なく使い練習に勤しんだ結果、あっさりマスターした。
それはもう神童だなんだと褒めそやされ、有頂天でしたとも。
と同時に強大な魔力を秘めた魔女になりたいと言わなくてよかったと心底安堵した。なぜなら、この世界には魔法なんて使える人は存在しなかったのだ。そんな中で一人だけ魔法が使えたらどうなっていたことか、ちょっと考えたら分かるだろう。
さらっととんでもない選択肢を混ぜていた自称神のクソ野郎に悪態をつきつつ、その頃の私は自分の選択は正しかったと信じきっていた。
「ねえ、まだ投了しないの?」
私は盤の上の駒を数えて幼馴染の男に問いかけた。将棋でいうなら飛車に相当する駒も、角に相当する駒も彼のものは盤上に残っていない。誰の目から見ても勝敗は明らかなように思われた。事実、隣で見物している二番目の兄も眉をひそめて盤と彼の顔に忙しなく視線を往復させている。「なぜ、投了しない」と思っているのだろう。
「しないよ」
男はさらりと答えた。なんの気負いも感じさせない声だった。ゲームを始めた当初の険しい表情はいつの間にか消えている。
男が何を考えているのかわからない。
「……そう」
私は首を傾げながら、駒を進め、また一つ、彼の駒をとった。
「静かだね」
辺りが暗くなったころ、天幕の中に松明が運び込まれた。
ゆらゆらと揺れる炎に照らされた彼の顔を眺めながら、なんとはなしに話しかける。
駒を進める音と、薪が爆ぜる音と、微かな呼吸音。天幕を満たす静かな空気に、息苦しさを感じていたのかもしれない。
「そうだね」
男は口に手をやり、軽く考え込む素ぶりを見せてから、駒を置く。
「嵐の前の静けさってやつかな?」
天幕の外には大勢の兵がいるはずなのに、彼らの声は少しも聞こえなかった。
川を挟んだすぐ向かいに敷かれている敵陣から、時折風に流されて声が聞こえるぐらいだろうか。それは、この国のものでも、この大陸のものでもない不思議な響きの言葉だった。
彼らは外の大陸から、わざわざ海を渡って侵略しにきたのだ。すでにいくつかの国が呑まれた。彼らの武器はこの大陸で使われているものよりずっと強かった。青銅の剣で鉄の剣に向かっていくような不利な戦いを強いられ、勇猛な騎馬兵を抱えていたはずの国々が次々に白旗を揚げたのだ。
「かもね」
気の無い男の返事にむっとして、私はそれ以上話しかけることなく口を閉じた。
天幕の中が、再び静まりかえる。
明日、日の出とともに火蓋は切られるだろう。
戦いの中にも美学を見いだし、無駄な殺生を嫌うこの大陸の人々と違って、外からきた彼らは、勝つために残虐な行為も厭わないらしい。
きっとこの国がこれまで経験したことのないような苦しい戦いになる。明日の夜に、また見えることの出来る兵がどれだけいるだろうか。そう考えると胸の奥がずんと重くなる。
私はそっと男の顔を覗き見た。
この陣にいる誰よりも弱い男は、しかし落ち着き払った様子で盤を見つめていた。
さて、騎馬民族をいくつか併合して出来たこの国では何より尊ばれたものがあった。
武力だ。
小競り合いを繰り返し、国として形をなしていく過程で人々が最も欲したものが力だったのだろう。
だから一応は国という形式に落ち着いてからも皆、武力を重んじた。
男はもちろん、必要とあらば女子供も武器をとる。
力こそが正義、強くなければ男じゃない。道ゆく女に「結婚相手に求めるものは?」と聞けば「もちろん強さ!」と返ってくる。そんな思想がまかり通る、脳筋を地でいく国だった。
その国で、私は無双していた。
今考えれば阿呆である。まごうことなきド阿呆である。
寄ると触ると力試しに、やれ剣だ弓だで勝負する男たちに混じって、連勝に連勝を重ねていた。そんな生活を続けること数年。
十六歳の誕生日を迎えて数日経ったある日、はたと思い出した。
そういえば前世ではこれぐらいで死んだんだった。恋も知らないで終えた短い前の人生を儚み、それから唖然とした。
――そういえば、まだ恋をしてない。
前述したように私はそこそこ可愛い。しかもお姫様である。普通ならもてない筈がないのだ、普通なら……
ここにきて私はようやく自分のミスに気づいた。
何よりも男に強さが求められるこの国で、一番強い女ってどうなのよ。
これはまずいと慌てたが、不幸中の幸いにして、同年代の少年たちの中にはまだ私に好意を向けてくれる者が残っていた。
彼らは、日々成長し逞しくなる己の体に自信を持っていた。だから成長途中の未熟な体では勝てなくても、いつかはきっと私に勝てると信じていたようだ。
「自分より弱い男と添うなどもってのほか」と主張する女性陣と、「妹より強い男でないと認めん」とのたまうシスコン兄達によって、私に勝たねば結婚の申し込みはおろか、告白すらもタブーである。という、非常に、非常に、非常に、迷惑な不文律が出来上がっていると気づいたのもこの頃だ。
冗談抜きに困った。このままでは自称神様のクソにもらった力のせいで一生独身決定である。
どうしたものかと悩み始めて、半年が経ち、一年が過ぎる頃には少年たちもおかしいと感じ始めたらしい。一人、また一人と勝負を挑む者が減っていき。ついに最後の一人が残るまでになってしまった。
最後まで粘るだけあって、その少年は上背もありガッチリとした体つきをしていた。力も剣技も馬術も申し分ない。何より、気のいい少年だった。
彼が諦めれば、私にはもうあとがない。焦った私は、あるとき剣の勝負にわざと負けた。
結果—
未だに口をきいてもらえません……
今ならわかる。
私は、彼のプライドと男の純情をけちょんけちょんに踏みにじってしまったのだ。
「ああああああ、なんだってあのとき……」
わざと負けたりしてしまったんだろう。そんなことさえしなければもう少し粘ってくれたかもしれないのに。
コッタの最中に、頭を抱えてうめき出した私に、対面に座る幼馴染が、呆れたような眼差しを向ける。
「なんだってあのとき……か。続く言葉は、『わざと負けてしまったのだろう?』かな」
いや、なんで突然わめき出した女の独り言の続きが分かるのよ。
私は頰を引きつらせて、髪を整えた。過去を思い出して悶えてしまったことも恥ずかしいが、内容を言い当てられたことはもっと恥ずかしい。
「例え、あのとき君が彼に勝っていても、同じだったと思うよ。彼は一生かけても君には勝てやしないから」
やけにきっぱり断言されてしまった。
「そんなこと……」
「わかるよ」
わからないじゃない。と続けようとした言葉は男によって遮られる。
彼は口の端を微かにつりあげて、笑った。
「素手で熊とやりあって傷一つ負わない相手に、いったい誰が勝てると思う?」
「は!?」
静かに勝敗の行方を窺っていた兄が、腰を浮かして、素っ頓狂な声をあげる。
「熊!? ……しかも素手?」
確かめるように私を凝視して呟く兄から、私はそっと目をそらした。
そう私は比喩でもなんでもなく、熊にも勝てる。楽勝である。だが実際に熊と戦ったのは一回きりだ。
あれは、確か、十歳になるかならないかのころ……
チートな腕力と、体力と、素早さと、そこそこ可愛い容姿と、それなりに高い地位に舞い上がっていた私は、それはそれはハッピーに過ごしていた。
地味で普通な前世では味わえなかった日々に、頭の中が茹で上がっていたのだと思う。
小学生レベルの算術を得意げに披露しては母に驚かれ、棒切れを振り回して同年代の少年に勝てば父に褒められ、要領良く甘えては兄達に可愛がってもらった。
パリピも真っ青な幼少期を過ごしていた私と、幼馴染の男は対極にあっただろう。
男に求められるものは、一から百まで力一択! なこの国において、子供と言えど性別が男なら、求められるものはやっぱり力。
当然のように少年たちは毎日のように力比べをして優劣を競っていた。
そんな子供達の中で、一際無力な少年が、彼だった。
彼は生まれたときから、他の子供より一回り小さかったそうだ。
赤子のころは何度も死にかけ、幼少期には季節の変わり目に決まって体調を崩す。
そんな彼がようやく外を走りまわれるほどに元気になったのが六歳のころだった。
元気になっても、やっぱり小さかった彼の力は、それこそよちよち歩きのころから野原を駆けずり回っていた他の少年たちの足元にも及ばなかった。
ちゃんばらをしてはこてんぱんにのされ、馬で遠駆けに出ては置き去りにされ、弓をまともにひけない様子を笑われ……
一度などは、「お前なんか男じゃない」と、スカートを履かされていたこともあったっけ。
女だてらにガキ大将を気取り、また勝手に引率の先生気分に浸っていた私は、見かけるたびに彼をかばい、子供達を叱り飛ばした。
でも、彼が私の助けを必要としているかは甚だ疑問だった。だって、彼がいつも飄々としているのは今に始まったことではないのだ。
どれだけ虐められても彼は涙ひとつ見せない。悔しそうに顔を歪めることもない。喜怒哀楽が欠如しているんじゃないかと本気で心配したほどだ。
でも、それは大きな間違いだった。
あるとき、冬眠明けの蛇を誰が一番多く捕まえられるかを競ったことがあった。
前世から爬虫類に忌避感のなかった私は、もちろん諸手を挙げて参加した。
私のチート級の素早さをもってすれば、逃げ回る蛇の首根っこを押さえて捕まえるなどたやすいこと。一等賞間違いなしである。
その遊びに彼は参加していなかったはずだ。
そうそう、あれは確か件の「お前なんか男じゃない」事件の直後だった。
子供達からズボンを奪い返した私が、彼にそれを渡すと、平然とした顔で着替えをすませ、彼は家に帰った。
と、思っていた。
十匹ほど蛇を捕まえて優勝を確信していた私は、駄目押しにあと二、三匹捕まえておくかと、藪に分け入り……そこで唇を噛み締めて、静かに涙を流す彼を見つけたのだ。
顔を合わせた瞬間の気まずさったらなかった。
呆然とした様子で私を見つめる彼に、私は困り果ててへらりと笑った。
「え、と……あいつらは、一週間ほど足腰立たないようにしておくね!」
彼をこれほど傷つけるなんて、拳骨十発じゃ足りなかった。私は拳を握りしめてそう宣言した。
すると彼は眉を寄せて吐き捨てるように言った。
「やめろよ! お前に庇われたくなんかない!」
初めて彼が声を荒げるところを見た私は驚いた。いや、泣いているのを見たのも初めてなんだけども……。それ以上に彼が怒ったことに心底驚かされた。だって彼はどちらかと言えば女の子のような優しげな風貌をしていたのだ。正直、スカートは私より似合っていた。
「余計なお世話だったかな」
憎々しげに睨まれて、私はますます困った。
「んじゃ、勝手にすればいいでしょ。もうかばわねぇよーだ」なんて台詞は引率気分の私には到底言えない。
だから言葉を、というか私の行為を置き換えることにした。
「別に、あんたを庇ってるわけじゃないよ。あいつらの性根を叩きなおしてるだけだから」
訝しげに私を見る彼に、畳み掛ける。
「いくら強くても、馬に上手に乗れても、仲間の気持ちも思いやれないような馬鹿に育ったらどうしようもないでしょ。将来の臣下をまっとうに育てるのも王女である私の役目なの!」
我ながら良い言い訳……もとい正論であると思った。だが彼は胡乱な眼差しで言うのだ。
「王女の自覚があるとは思わなかった」
なにかな? 君は私に喧嘩を売っているのかな?
思わず「もうかばわねぇよーだ」と捨て台詞を吐きそうになったとき、彼は笑った。自嘲の笑みだった。
「まっとうな臣下か。俺はそれから一番遠い存在だな」
そう言ってうつむく。ぽたりと滴が足元に落ちた。
「え? なんで?」
私は首を傾げて尋ねた。彼が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
「剣も扱えない。弓もまともに引けない男なんて、役立たずなだけだろ」
彼は顔を上げないで答える。
私はますます首をひねった。
「だから、なんで? 別に剣や弓が使えなくても他のことで頑張ればいいじゃん」
「他のことってなに。言っとくけど槍も体術もダメだから」
それは知っている。
「うーん、つまり、体を使う以外のこと……そう言えば、あんたはコッタがちょっと強いよね。多分頭がいいんじゃない?」
前世の記憶がある私にとって、コッタでまだ幼い少年たちに勝つのは難しいことではなかった。軽くあしらえるほどに、実力に差があったのだが、彼相手だと少し勝手が違った。
彼の手は、いつも奇想天外で普段の彼からは想像もつかないほど大胆だった。危うく負けそうになったことも一度や二度ではない。
このままではマズイ。年端もいかない少年に負けてしまうと、私は兄達にコッタの特訓をうけているところだった。
いつの間にか顔を上げて私を見つめる少年に、渾身の笑顔を向ける。
「腕っ節がダメなら、頭の良さを活かして活躍すればいいんじゃん。頭を使った戦術がこれからきっと必要になるよ」
なんて、偉そうに言ってみたけれど、その時の私は少年を泣き止ませたい一心でそう口にしただけで、深い考えなんて一欠片もなかった。
すっかり涙の止まった少年の様子に、「決まった」と一人悦に入っていったときだった。
藪の奥から熊がその巨体を現したのは。
誰よりも早く動いたのは少年だった。
目を見開いて、私の腕を引き、逃げようとする。その少年の小さな手を振り払い、鋭い爪がついた腕を今にも振り下ろそうとしていた熊の懐に潜り込んで、鼻っ柱に拳を叩き込んだ。
咄嗟の反応だった。だって、死ぬほど怖かったのだ。
いくらクソからもらった力があるといっても熊に相対するなんて初めての経験だったし、軽くパニックに陥っていた。
恐怖に駆られるままに拳を振り下ろし続け、熊がぐったりと動かなくなってから我に返った。
や、やりすぎたかもしんない……。さすがに素手で熊を撲殺は、人外の域に片足を突っ込んでいる気がする。
誤魔化すように、「あーん、怖かった!」と振り向けば、少年は私の後ろでドン引きしていた。
そんなあれやこれやも今では良い思い出である。
彼と私はそれからも何も変わらなかった。彼が少年たちにこれでもかと負かされるのも相変わらずだったし、無表情で淡々とそれを受け流すもの変わらない。
ただ、どれだけ負け続けても、飄々とした態度を崩さない彼に、子供達も思うところがあったようだ。
成長するとともに彼は仲間に受け入れられて、良い友達になっていった。
まあ、剣の稽古や諸々の勝負でボッロボロにされるのは今でも同じだし、兄達の特訓が効いたのかコッタで私が彼に負けることもなかったけど。彼はひねくれることなく育ってくれたのだから、それでいい。
「ははは、そんなこともあったっけー」
彼が熊の件を誰かに話したことはなかったから、黙っていてくれるものだと思っていたのに。
今になって持ち出すとは!
「いや、あの時は運が良かったよね。熊のほうがびっくりして勝手に倒れちゃったんだから」
視線を合わさぬまま嘯くと、兄は無言で腰を落ち着けた。かと思うと
「あっ」
と声を上げる。
その声につられて兄を見て、その視線の先にある盤上に目を落とし……
「ん? え、あれっ!?」
あんぐりと口を開けた。
逆転など不可能だと思っていた。盤上に残った彼の駒は少なく、私の手元には彼からとった駒がいくつもある。
なのに、いつのまにか私の将は囲まれていた。慌てて逃げを打つがもう遅かった。逃げ道を塞がれたうえ、将の前に、将棋でいうところの歩にあたる雑兵の駒を置かれて、私はあっさり詰んだ。
「投了するでしょ?」
彼が当然と言った様子で告げる。
彼に負けたことが信じられなくて、往生際悪く、打つ手を探るが、見つけられない。
「参りました」
ややして、私は負けを認めた。悔しさに唇を噛み締める。初めて彼に負けたのだ。
「お前、いつから狙ってた?」
兄が険しい顔で盤上を見ながら唸る。
彼はしれっと答えた。
「十年ほど前から」
ちょっと意味がわからない。
兄の質問は、今しがた彼がやってのけた、そうと悟らせない巧妙な包囲についてだったはずである。
「十年?」
十年前といえば、私が熊をブチ倒したころだ。
そう、私は恋人もできぬまま二十歳になっていた。わざと負けて怒らせた青年にはかれこれ四年も無視されているのだ。凹む。
眉を顰めて思案する兄には目もくれず、幼馴染の男はひたと私を見つめた。
「十年前から、準備した。君を手に入れるために」
「くそっ、そういうことか! この野郎、今日の勝負を認めさせるために、今までわざと負け続けてやがったな!」
熱烈な告白めいた彼の言葉に返事をしたのは兄だった。
彼は面倒くさそうに兄を見やる。
「だったら何か? 知っての通り俺は弱い。だから別の方法をとったまでです。まさか今更認めないとは言いませんよね?」
「おっ前……」
何やらそう呟いて絶句する兄の袖を私はひっぱる。
「ごめん、さっぱり話が見えない。認めるってなんのこと?」
兄は腕を組んで男を睨みつけ、ふんと鼻をならしながら話し始めた。
なんでも明日の開戦を前に彼は兄達に頼み込んだらしい。
明日、戦が始まれば俺はおそらく命を落とすだろう。だから最後に姫に勝負を挑ませてほしい。けど剣や弓で勝負をして万一怪我を負わせてしまえば明日に差し支える。だからコッタで勝敗を決めたい。自分が勝ったら姫に求婚する権利を認めてほしい、と。
コッタの勝負など認められないと次兄は渋ったらしい。三番目と四番目の兄も渋ったらしい。けど長兄が良しとした。長兄は言ったそうだ。
「今までコッタで妹に勝ったことがない奴だ。どうせ負けるに決まっているだろう」
その言葉を聞いて、それもそうだと次兄以下は頷いた。
ところが蓋を開けてみれば
「こうなった……と」
私は脱力して額に手を当てて、盤上を眺めた。
ずっと自分に有利に進んでいると信じていた。けどきっとこのゲームは最初から彼の思う通りに運ばれていたのだろう。
私は盤上から男に視線を移した。
照れるでも喜ぶでもない、いつもと変わらない彼の顔。
十年も前から想われていたのだ。喜ぶべきなのかもしれないが、今はただただ驚きが勝った。
どう反応すればいいか分からない私の腕を兄が掴む。
「出るぞ」
「え、でも……」
まだ彼の言葉を聞いていないし、返事もしてないんだけど。
戸惑う私を強引に立ち上がらせると、兄は彼を見据えた。
「求婚する権利を得てどうする。お前は自分でもよくわかっているのだろう。明日、命を落とすと。妹を守るどころか、一人、置いていく気の奴に求婚の権利など与えてたまるか!」
兄がそう吐き捨てて、折しも天幕をくぐろうとした時、先に外から入ってくるものがいた。
兵の一人だった。
「大変です! 対岸に火の手が!」
「なに?」
歩哨にあたっていたのだろう。胸当てを身につけ、松明を携えた兵の言葉を聞くなり、兄は天幕を飛び出した。続いて私も外に出る。
私たち兄妹はぽかんとして目の間に広がる光景に見入った。
兵の言う通り、対岸に敷かれた陣のあちらこちらで火の手が上がっている。
きな臭い風にのって運ばれるのは剣戟の音。
「同士討ち? しかし、なぜ……」
「遠征の軍を率いているのは、かの国の王太子である第一王子と、腹違いの第二王子でした」
答えたのは遅れて天幕から出てきた幼馴染の男。
「そこで占領下にあった隣国に密かに潜り込ませた者達に噂を流させました。第二王子が兄王子の地位を簒奪せんとしていると」
噂はまことしやかに広がり、第一王子は疑心暗鬼に陥っていた。仕上げに、今夜、第二王子の兵の服を着た者達に、食料や備品を納めた天幕に火を放たせた。
さらりと語られる話に、兄は瞑目し、それから苦々しげに呟いた。
「兄上はぐるか」
なるほど、そうだろう。彼一人の企てで、それらが実行できるはずもない。
「俺は簡単に死ぬ気も、彼女を置いて行く気もありません。剣では誰にも勝てない。これが俺なりの守り方です」
男は兄の隣に立ち、対岸に目をやりながら淡々と告げる。そうして一度言葉を切ると、兄に向き直った。
「どうか許可を」
「……好きにしろ」
混乱の極地に陥っている敵陣の様子をしばし眺めてから、兄はそう吐き捨てると、長兄がいるはずの天幕に足をむけた。
え、待って置いてかないで。
思わず兄の後を追いかけようとした私の腕を男が掴む。十年前とは違う、大きな大人の男の手だ。
私は肩を揺らしてその場に足を止めた。恐る恐る振り返ると、じっとこちらを見つめる男と目が合う。
とっても気まずい。藪の中で泣いている彼を見つけた時以上だ。
驚きが過ぎ去ってみれば嬉しいと思う気持ちが残った。これまで幼馴染以上の感情を抱いたことはなかったけれど、この一連のやり取りで、かなりよろめいている。これがギャップ萌えというやつだろうか。
でも、慣れない甘い雰囲気が気まずくて、手のひらの上で転がされていたことも面白くなくて、だから思わず憎まれ口を叩いてしまった。
「兄上の許可は得たみたいだけど、私が断ったらどうするの?」
「俺以外の求婚者は、もう現れないと思うけど、いいの?」
……何かな? 君はやっぱり私に喧嘩を売っているのかな?
思わず睨み付けると、彼は笑った。唇の端を少しだけ持ち上げる。いつもの笑い方で。
「気にしていたようだったから黙っていようと思っていたけど、君が十歳にして素手で熊を倒したと、この間うっかり触れ回ってしまった」
「はあ!?」
うっかり触れ回るぅ? んなうっかりがあるか!
「そしたら初恋を引きずっていたらしいあいつも、すっぱり未練を断ち切ってくれてね。今回のことに協力してくれた」
……初恋を引きずっていたらしいあいつとは、もしかしなくても、四年間口を利いてくれない青年のことだろう。そういえば、この幼馴染と一番仲が良いのは、あの青年だった。
「そういうことだから、気長に待つさ」
幸い待つのは慣れているから。さあ、明日は残党狩りだ。頑張ってよ。と言い残し、男もまた長兄のいる天幕へと消えていった。
残された私は、果たして赤くなればいいのやら青くなればいいのやら。
次兄に報告に来て、立ち去る機会をすっかり失っていたらしい兵にへらりと笑いかけると、私は自分の天幕に戻ることにした。
とりあえず、今生では恋ができそうです……