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What a Wonderful day!

作者: 晦

 ある片田舎の県立高校、三年三組の午後の現代文の授業にて。

三年三組の現代文の授業を担当している河島先生(30)が、黒板を指差ししながら生徒に言う。

「論理空間っていうのはさ、実際に起きた事実と、実際には起きなかったけれど起こりえた事実で出来ているんだ。で、その実際に起きた事実と実際に起きなかったけれど起こりえた事実を合わせて可能性の総体と呼ぶ。この、実際に起きなかったけれど起こりえた事実というのは、例えば私とあなた達が出会わなかった。とか、私と…え〜、例えば田中が親子であった。というように、論理に矛盾のない限り可能な事実を言っている。実際には起きなかったけれど起こりえた事実に、当てはまらないのは、例えば…。皆さんが前に学習した山月記の様に、人がいきなり虎になってしまうというような事は現在の科学ではどうやっても無理ですよね。

しかし、私が田中と親子である。という事実は、可能である。ということになる。文中で、作者も、私が大リーガーになってホームランをばかすか打つ。という可能性を示していますが、それは、能力的には難しい…。とてもとても難しいことですが、可能性はゼロではない。つまりこの事実は、実際には起こらなかったけれど、起こりえた事実に含まれる。というわけだ。先程言ったような、李徴が虎に変わってしまうというものは可能性がゼロであるから、論理空間には含まれない。だって聞いたことないよね?人が急に動物に変わっちゃう!みたいな話は…。」

今、三年三組の現代文の授業では、哲学の分野を学習している。評論文が得意な河島先生は、この授業への熱の入り方が異様な程である。

「あ〜…。」

この声は片柳だ。河島がどうともない顔で片柳を見る。河島だけじゃない。クラス中が片柳を見てる。

「あの〜…。」

とても控えめな声で片柳は語りだした。

「あ、あるんですよねぇ…。聞いたこと、あるんですよねぇ。河島先生が仰ってた話とは、逆なんですけど。」

河島が右掌を片柳に向けて突き出し、話を止めた。

「まって…?どの話の逆?これ?」

右手は突き出され行き場を失ったままで、左手は黒板に書かれた「論理空間」と書かれた場所を指している。

「いや、板書の話じゃなくてですね…。」

片柳は話を続ける。

「人が急に動物に変わっちゃうって話です…。山月記では、李徴が虎に変わりました。しかしですね、私の聞いた話は少しずつ違った箇所のある逆側のお話なんです。物語の方側面から見ればハッピーエンドにもなりかねないお話です。」

普段物静かな片柳が、この時だけはこの地球に居る誰もが見たことのない大演説を始めた。ゆったりと席から立ち上がり、一歩…。二歩…。三歩半前に出ると振り返り、教壇に立つ河島含めクラス全体の見渡せる黒板と窓に挟まれた、教室の左前方の角に寄りかかった。

 教室はまるまる異様な空気に包まれ、その場にいる人間は皆すべからく片柳を見つめ脂汗をこめかみから垂らした。河島はゴクリと唾を飲み込み、片柳に一番近い席に座る女の子は、今にも泣き出しそうに瞳を泳がし始めた。片柳は斜め上の虚空を見つめるようなまた何も見えていないような目をして、口元はニヤニヤとして、首が伸びているのではないかというほど肩を落とし気分を落ち着けているような姿をしている。

「異常だ…。」

生徒の誰かがボソリと呟いた。すると片柳は未だ空気に飲まれたままの教室を見回して話し始めた。

「丁度…十二年ほど前の事なんですけどね…。当時この校舎からそう遠くない場所に住んでいた家族のお話です…。別段裕福でも貧乏でもない家庭でした。家族構成をお話しておきましょう。今のじゃないですよ?当時のです。その家族のお父さん四十七歳。お母さん四十三歳。長男十七歳。長女十五歳。そこにペットの犬を含めた四人と一匹の家族構成です。よく…覚えておいてくださいね…。」

片柳は、そこまで話すとふぅと深く深呼吸をして教室を一瞥してジッ…と河島を見つめて微笑んだ。そして何事をなかったように話を続けていく…。

「幸せな家庭だったそうです…。そう…。幸せな…。」

「ちょっ…!ちょっと待ちなさい!」

河島はやっとの思いで声に出たと言わんばかりに、今までずっと拠り所の無かった右手を胸に寄せると撫で下ろした。

「い、今は授業中だ。片柳、話はあとにしようか。授業を進めたい真面目な人だって居るんだから…。」

片柳は驚くこともなく、この発言もシナリオ通りと、ニヤついて言った。

「先生…。」

河島はその静かな一言でまた片柳の発する闇のような雰囲気にやられてしまった。

「授業の一環です先生…。」

河島はまたゴクリと唾を飲み込んだ。

「話を続けていいですか?先生…。」

誰もが言葉を知らぬ赤子のように、ただ片柳を見つめるだけだった。

「続けてよろしい…と、いうことで?………。では、続けさせていただきます…。何処からでしたっけ…あ!そうそう、幸せな家庭だったそうです…。の所でしたね。此処からは、どうか妨害なしに素直に一気に聞いていただきたいものです…。よろしくお願いしますね…?では………」

「その、幸せな家庭の長男はこの高校に通う、僕らとおんなじ高校3年生だった。彼はなかなかのヒーローでスポーツも良くできて女の子にも人気で……と、言うわけには到底及ばない物静かな少年でした。友達も殆ど居ない彼でしたが、一人だけ、否一匹だけ親友とも呼べる存在がありました。それは…。先程お話した、この家族で飼われているペットの犬でした…。名前はタロと言いました。タロは、長男が中学校3年生の時に拾ってきた雑種犬でした。捨てられていたのかも、もともと野生の犬なのかもわからないくらいですから、勿論年齢は動物病院で見てもらってやっと3歳頃だとわかったくらいでした。タロは日とともにどんどんその家族が、特に、自身を拾ってくれた長男のことが好きになっていきました。言葉が分かっているんじゃないかというほどに長男の言葉には敏感に反応して言うことをちゃんと聞く、まさに名犬とも言えるいい犬でした。そんな犬と出会えたことは、もともと幸せであった家族を更に笑顔あふれる家族にすることを意味していました。その家族の一員になれたタロも勿論幸せでした。しかし…。しかしですよ…皆さん。幸せなときあなたはどうなりますか?そうだな…。そうですね、河島先生。幸せな時あなたならどんなふうになりますか?」

口もとはニヤニヤと、目は河島を睨むような見下すような、また敬うような不思議な光を放つ。河島は、またゴクリと唾を飲み込んで片柳を睨み返した。そして、

「幸せだからどう変わるということはない。」

そう答えた。片柳は少しだけ不満そうな顔をしたが、後に「紫色の気持ち」としか表現できない様子になって話を続けた。

「う〜ん…。当たっているようですが、やはり違ったようです…。幸せな時、人は皆欲が増すのです。先生。そうじゃありませんか?現状に満足することができなくなって…遂には自ら幸せを手放すような選択をする…こともある。それは人でなくても同じことなのです。今回私がお話しているのはまさにその一例です。タロも、初めは先生の言ったとおりただ目の前の幸せを噛み締めただ生きた。しかし、大きすぎた幸せは次第に頭の良いタロを蝕んでいった。欲とは非常に危険なものですね…。タロを蝕んだのはどのような毒か…。予想のつく方はいらっしゃいますか?………居ないようですね…。……タロを蝕んだ欲とは…簡潔に言えば『人になりたい』というものでした…。初めは…ただ長男と言葉を交わしてみたいというだけでしたが、時間が経つにつれて…長男のような人間になって生きてみたいものだ。長男は自分より幸せそうだ。幸せだと他の生き物に語りかけられるという点で、幸せを共有できるという点で、自分より勝った生き物なのではないか…。ああ…たった一日でもいいから…いや、一日ではちと少ない…少しの期間でいいから長男になりかわって…家族やその他街ですれ違う人間と話がしてみたい…。というふうにすり替わっていったのです。どうです?皆さんは、自分がタロの立場ならそうは思いませんか?私なら思います。しかし…本当に恐ろしいのはここからなのです。確かにそのような欲が芽生えることは必然であって、おかしなことではないのかもしれませんが、タロはその欲を芽生えさせただけではなかったのです…。本当に…本当に…心の底からその長男になりたいと…願ってしまった…。しかしこれだけではなかったのです…。いえ…もう皆さんご想像でしょうから結末は言ってしまいますが、タロと長男の体は見事に入れ替わってしまうのです…!なぜ2つの生物が入れ替わってしまったのか…。タロというただの犬の利己的な願い事がそのまま叶えてしまうような神様はいるでしょうか…?ハハ…まぁ、神様なんてそもそも居ないというのがほとんどの人の意見でしょうね。あ!そもそも2つの命の殻をそのままに中身だけ入れ替わったなんてことを本当の意味で信じている人はこの中に何人いますか…?」

教室にいる片柳を除いたすべての命は凍ったように動かずにその場でただ酸素を使い心臓を動かした。

「いないですよね…。」

「い…い、いるわけがないだろう!そんな戯言、ああそうですかと馬鹿みたいに信じることができるやつはいるわけがないだろう!」

これは河島だ。張り詰めた声帯から、異様な空気に被せられた膜を破って声をあげた。この剣幕に何人かの女子生徒は涙を浮かべている…。もう誰も、この教室に流れる時間を理解することができなくなっていた。何かに恐怖している。しかし何に恐怖しているかがわからないのだ。ただ、ただ異様に感じられる時の流れに…。いや、流れていないのかもしれない。この教室の中だけは時が止まっているのかもしれない。片柳の語る恐怖そのもののような何かをすっかり聞いてしまわねば時は動き出さないのかもしれない。誰もが結末を恐れ震えた。しかしここまで聞いてしまえばもう最後まで聞いてしまいたい。そうでなければ何も手に付かないというように、少なくとも自分でも自分の心を、感情を理解できなくなるほどには呑まれていた。

「先生…。河島先生…?戯言だなんて誰が言いました?」

「戯言としか思えないという意味だ!」

「なるほど…。戯言としか思えない。まぁ、そうですよね…。」

片柳は一層ニヤニヤと笑う。教室と中庭とを繋ぐ窓を開けると、11月の冷たい空気が入り込んでくる。

「寒いですね…。犬になれば…。もし、もし犬になれば毛があるから寒くないんでしょうね。河島先生もそう思いません?」

中庭では野良犬が1匹。こちらを覗いて座っていた…。

「ちょうどあんな風に立派な…それはそれは立派な毛が生えていれば寒くないですよ!ね!河島先生!」

「………」

河島はなんとも言わずに片柳を睨みつけている。

「タロは願いました。人のように言葉を話してみたい。そして人になりたい…。」

片柳はこちらを振り返ると続けた。

「そしてその長男と、タロは入れ替わりました。こんな寒い日でした…。」

片柳は先程とは言い方を変えて同じことを言っている。教室はこんどは一気にわっと暑くなる。

「ここで一つ。皆さんは感じませんか?この違和感に…。」

教室を見渡して深呼吸する。誰も何も発言しないことを確認すると、勝ち誇ったような、また皆を見下すような笑みを浮かべた。

「ハァ…。教えて差し上げましょう…。河島先生。まったく、今時の人間は自主性がなくていけませんね。ね…。」

ゴクリと唾を飲む…。

「言っただろ!!」

片柳のいきなりの怒声に、教室そのものがビクリと驚いた。

「神は、たかが1つの命のために他の命をないがしろにするのか?!聞け!俺の話を聞け!いいか!ここからが重要なんだ!最重要事項なんだ!………。」

河島含めクラス中は目を丸くして、拳を握った。

「ごめんなさい…取り乱してしまって…。」

片柳はそう言いながら自分の席に向かい、椅子を持ち上げ窓の下へ置いた。そこに腰掛けると、話を続けた。

「私は、この世界。僕らの、生を受けたこの世界には、全方位から正しいといえるような『正義』というものはないと思っています。しかし、もしこの世界を、神様という人物が作り…見張っていて…すべての人の腐った正義が見える位置に座っているのだとしたら…。だとしたらその神様こそが『正義』を持っていると…思うのです…。」

半ば俯き話していた片柳は、ハッとした顔を上げると、

「別に、僕は無宗教の人間ですよ?何が神様だって感じです。」

と言って爽やかにはにかんだ。この時、この一瞬この教室の空気が晴れたように感じられた。そしてまたもとのポーカーフェイスに戻ると、声のトーンを1段階落として続ける…。

「無宗教の人間が神様の話を唐突にする訳…。皆さんにわかりますか?例えば、オカルトを一切信じない人間が幽霊やUFOについて話し始める理由はなんですか?わかりましたか?まだわかりませんか?」

また片柳は怒りに顔を歪ませた。それを打ち消すように自らの顔を強く叩いた。

「その理由は、こうです。よく聞いてくださいね…。ハハハ。なにもこんなにかしこまらなくたっていいや。簡単です。どうにも信じなければいけないことになったからです。」

教室中を見渡す。何とも言えない顔をする人々に落胆しため息をついた。

「オカルトを信じないはずの人間が急にオカルトじみた話をするとしたら、例えば急にUFOの話をしだしたとしたら?簡単ですよ!UFOを見たんです!見てしまったんですその人は!その位な、オカルトを信じざるを得ない位な事に出会ったんです!じゃあ私の場合は…?どうでしょう…。フフフ…。そうです。神様を信じなければならないのです…。ここで一つ。皆さんに言わねばならないことがあります。私、この奇天烈怪奇な珍事件に深く…。深く関わる位置に腰掛けているんです…。確かにここにいる命全員が同じ学び舎に通うという形で関わっているこの事件。私は更にもう何歩か深いところに腰掛けているのです。だから、だからこそ…。この事件を間近に感じてしまうからこそ、神様という形のない形を信じなければならないのです…。」

話の進み方のあまりの蛇行具合に困惑する室内。しかし、片柳はうつむいてしまって何も言わない。口をつぐんだまま、どれくらい過ぎただろう。片柳は立ち上がり、

「寒くなってしまいましたね。あの野良犬に噛まれる前に窓は閉めてしまいましょう。」

そう言うとガラガラ窓を閉めた。するとチャイムが鳴った。片柳以外の人は皆ビクリと驚いた。

「おや、ひとまずお話派ここまでみたいですね。またの機会に…。」

片柳はクラスに向かって一礼。河島は何も言わずに出ていってしまった。

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