乙女の策略
戸の掛け金を外してアナクレオン殿の家に侵入したレオニダスたちは、誰の姿も見ぬまま、中庭に出た。
「どうも、嫌な予感がするな」
レオンティオンが唸った。
「静かすぎる。これはまさか――うおっ!?」
レオンティオンの言葉は、途中から驚きの呻きに変わった。
ざあっと音を立てて、屋根の上から大量の土が投げ落とされてきたのだ。
同時、家の中で今か今かと息を潜めて待ち構えていた女たちが、一斉に姿を現し、襲い掛かってきた。
けたたましい叫びを上げながら、薪や石を投げ付けてくる。
棍棒や、夫の持ち物と思しき模擬剣を持っている女までいた。
たちまち、乱戦になる。
「ここはいい! 早く、行け、行け、行け!」
続けざまに砂を投げ付けて視界を奪おうとする歯のない老女たちを、片手で目を庇い、片腕を猛然と振り回して追い払いながら、レオンティオンが叫ぶ。
彼と視線が合ったその瞬間、レオニダスは頷き、家の中へと単身で駆け込んだ。
踏み込んだ瞬間、満月の明るい光がなくなり、レオニダスは一瞬、足を止めた。
そこへ、
「来るな!」
真正面から、鋭い威嚇の声が飛んできた。
目を凝らすと、ひとりの少女が、槍の柄とするための長い棒を構えて立ち塞がっている。
受ける印象が似ているから、おそらくは、リュクネの妹のひとりであろう。
緊張のあまりか、眦を怒らせて構えた棒の先端はぶるぶると震えていた。
レオニダスは何のためらいもなく、一歩を踏み出した。
「来るなっ!」
勢いよく突き出された棒の先端を、レオニダスは右の手のひらであっさりと受け止めた。
さらに、左手でがっちりと棒を握り込み、目を見開いた少女を、ぶうんと薙ぎ払うようにして棒もろとも投げ飛ばした。
恐怖や驚愕というよりは悔しさの籠もった悲鳴をあげて横手の通路に吹っ飛んだ少女には構わず、女部屋へ駆け込む。
だが、その足は、部屋へ踏み込んでただの一歩で、止まった。
室内はほとんど闇に閉ざされていたが、暗がりで物を見る事に慣れるよう幼い頃から訓練されるスパルタの男にとって、それはさほどの問題ではない。
簡素なしつらえの部屋は、無人だった。
人間が身を隠せそうな物陰は、ひとつも無かった。
壁掛けの類も一切なく、その後ろに身を隠す窪みや抜け道の類があることも考えられなかった。
一瞬、その場に立ち尽くしたレオニダスは、不意に、猛然と壁に駆け寄った。
土壁の表面には、何か尖った物で、大きな文字が並べて彫り付けられていた。
『あなたがたは戦略というものを知らぬのか』
「くそっ!」
レオニダスは思わず床を踏んだ。
侮りを受けた事が腹立たしかったのではない。
間抜けな自分に、心底腹が立った。
レオニダスたちの襲撃を、リュクネは充分に予期していたのだ。
『ただ隊列を組んで前進し、力に任せて目の前の敵を叩き潰すだけが戦だというなら、』
以前、彼女はそう言ったことがあった。
『これほど芸の無いことはない。真っ向勝負に強い事は当然だが、敵の先を読み、敵の裏をかく戦略も、戦いには大切だと私は思う』
(敵の先を読み……裏をかく……)
では、彼女は何処に?
時間にすれば僅かに一呼吸、その間、微動だにしないレオニダスの心の内ではあらゆる可能性が検討され、次々と排除されていった。
その背後から、先程の少女がそろそろと忍び寄っていることにも、まるで気付かない様子であった。
声を出さずに肩口を狙って振り下ろされた棒を、レオニダスは、見返りもせずに掴み取った。
捕らえた武器を勢いよく捻り、少女が体勢を崩したところで、振り向きざまに棒の半ばを蹴り上げる。
木製の棒は、その一撃でへし折れた。
さすがに顔を引き攣らせた少女の前で、レオニダスは棒の片端を投げ捨て、踵を返して女部屋を飛び出した。
「……レオニダス!?」
ひとりで駆け出してきた彼に、レオンティオンの咎めるような叫びが飛ぶ。
「彼女は、ここにはいない!」
レオニダスは、足を止めなかった。
女たちと揉み合いながら呆然としている友人たちの傍らをすり抜けて、門を目指す。
「心当たりはある。必ず……! 君たちは、撤退してくれ!」
「何だと!? おい、レオニダス!」
叫ぶ友たちの声は、すぐに聞こえなくなった。
レオニダスは翼ある使者のように、ただ一ヵ所、思い当たる場所を目指して走った。