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若き戦士たちの謀略

「レオニダス。準備はいいか」


 あらたまってそう問いかけてきた声は、ほんのわずかに掠れていた。

 満月の晩。

 兵舎から少し離れたオリーブの木の下に集まったのは、同じ隊に所属する仲間が五人。

 いずれ劣らず鍛え抜かれた逞しい身体つきの、容貌も精悍な若い戦士たちだ。


 ひとりの若者が、彼らの中心にいた。

 レオニダスと呼ばれたその若者は、友からの問い掛けに、拳に固く巻き付けた布の具合を確かめ、黙って頷いた。

 仲間の若者も神妙に頷きを返し、地面に屈みこむ。

 他の者たちが覗き込む中、彼は土に簡易な図を描きはじめた。


「家の正面から入ってまっすぐ進み、突き当たりを左。いいか、左だ。そこの部屋にリュクネはいる。間違いない」


「本当だろうな? 偽の情報ということは?」


「俺とレオンティオンで、あの家の奴隷を散々に脅して聞き出した。大丈夫だ」


「その通り。間違いがあればお前のモノを引き千切ってケツにぶち込んでやる、と言ったら、泣いて喋ったよ。嘘ではないだろう」


「よし。今、家に男は?」


「娘の祖父がいるが、彼は足が弱い。一族のあとの男たちは皆、兵舎に残っている。これは、ついさっき確かめてきたところだ」


「いいぞ、レオンティオン」


「いつもながら見事な手際だ」


「決行が今晩であることは、確実に、アナクレオン殿の耳に入っている。彼は、黙認してくれているぞ」


「だが、家には大勢の女たちがいる。あの家の女たちは皆、獅子のように手ごわいと評判だ。目玉を潰されないよう気をつけろよ」


「それに、玉もな」


 ひとりが言い、後の仲間たちが声を殺して笑った。


「念願の花嫁を抱く前に、そんな目に遭わされてたまるか。なあ、レオニダス?」


 レオニダスは、再び黙って頷いた。

 これまでのやり取りの中でも、彼は、一言も言葉を発していない。

 極端に無口な彼の性格は、この場の皆が了解していたから、今晩の立役者がだんまりを決め込んでいるからといって気分を害する者などいなかった。


 立役者。

 そう、今夜の謀略の中心人物は、彼だった。


「お前は口下手だから、せめて、とこで娘を満足させてやらなくてはな。そうだろう?」


 仲間からの揶揄に、レオニダスはちらりとそちらに視線を向けた。

 慣れぬ者の目には、あきれているとも怒っているとも見える表情だったが、付き合いの長い男たちは、そこに幾分かの緊張と照れとを見て取り、にやりとした。


 アナクレオン殿の娘、リュクネ。

 レオニダスがこの乙女に強く想いを寄せていることは、隊の仲間たちのあいだでは周知の事実であった。


 乙女の身でありながら野犬と格闘して絞め殺した武勲から《牙を砕く者》の二つ名を捧げられたリュクネは、夫を得るにじゅうぶんな年齢を迎えながらも、いまだ結婚していなかった。

 結婚という絆を結び、父となり、母とならねば一人前とは見なされぬスパルタでは、これは異例のことである。

 だが、一族の乙女らの中でも最も気位が高いと評判のリュクネは、世間の評判も気にかけず、並の求婚者など寄せ付けもしなかった。


「私を打ち負かすほどの人でなければ、決して夫とはしない」


 彼女は常々、誰はばからずそう言っていたし、運動場ギュムナシオン競技場スタディオンでは、それが単なる身の程知らずの大言壮語ではないという証を存分に見せ付けた。


 彼女を求める男たちは数多かったが、その多くが二の足を踏んでいた。

 戦士の誇りを何よりも重んじるスパルタの男たちにとって、万が一にも女におくれを取るなどという事があれば、その汚名は、二度とそそぐ事の出来ぬ恥辱と思われたからである。


 そうこうするうち、娘が一向に考えを曲げる気配が無いのを見て取った父のアナクレオン殿が、その結婚がこれ以上遅れる事を心配し、自分の親友であるバダイスコス殿に、娘をもらってくれぬかと持ちかけたという噂が広まった。

 バダイスコス殿といえば、武勲の誉れ高い当代の勇者のひとりだ。

 齢は四十の半ばで、ちょうど妻に死なれたところだった。

 それで、アナクレオン殿も、何処の馬の骨とも知れぬ他の男のもとへ遣るよりは、と考えたのであろう。


 この噂を聞き、レオニダスは焦った。

 もちろん、表情に乏しいその顔つきから内心の焦燥を推し量ることは余人にはほとんど出来なかったのだが、彼の胸中には、居ても立ってもいられぬほどの、焼け付くような想いが渦を巻いていた。


 リュクネとレオニダスとは、互いに知らぬ仲ではなかった。

 共に競技場スタディオンの花形であったふたりは、自然、互いの存在を意識するようになり、競技場の中でも外でも、会えばよく言葉を交わした。

 いや、言葉を交わすというよりは、リュクネが一方的に話しかけるのが常だった。


 男に対してまったく臆するところのないリュクネは、どんな相手とでも快活に話したから、彼女が自分に対して好意を持ってくれているなどとは、レオニダスは思わなかった。

 だから、口に出しては何一つ告げる事はしなかったが、会う度に、心の内ではリュクネへの想いが募っていった。


 彼女は特別だった。

 口数少なく、ふさぎがちな自分が、リュクネと話しているときだけは幾分か饒舌になるのをレオニダスは感じていた。

 彼女が声を立てて笑うのを聞くと、孤独が和らぎ、慰められるのを感じた。

 やがて、レオニダスは、この大地の上に自分が伴侶とすべき女性がいるのならば、それは彼女の他にないとまで思うようになっていた。


 リュクネの結婚の噂を聞き、レオニダスが気も狂わんばかりの焦燥に駆られたのも無理からぬことである。

 彼はまだ、男として、スパルタの戦士として、若造と呼ばれる年齢だ。

 バダイスコス殿と比べれば、戦歴も浅く、財産も乏しい。


 だが、レオニダスは目の前の困難に挑むことを恐れる男ではなかった。

 彼はまず、友人たちに、リュクネの身柄を奪う計画を立てていると密かに打ち明けた。

 歯でも痛むのかというような仏頂面で、大それた企てを告げられ、友人たちは一様に呆気に取られたが、彼らもスパルタの男である。


「友のためだ。やろう!」


 レオンティオンの一言に全員が頷き、早速、彼らは計画の準備に取り掛かった。


 スパルタの戦士には敵の人数を知る必要などない、ただ敵がどこにいるかさえ分かっておればよい、という言葉もあるが、彼らはその考えには反対だった。

 戦いの勝敗を左右するのは正確な情報の有無であると、彼らにはよく分かっていたのだ。

 ある者は家の内部の間取りを調べ、ある者は家の中にどれほどの人間がいるかを調べた。


 準備のうち、最も重要な役目は、仲間うちでも特に交渉術に長けたレオンティオンが引き受けた。

 彼は、レオニダスがリュクネを妻にと強く望んでいることを、それとなくアナクレオン殿の耳に入れた。


 スパルタ人の結婚は、男が娘を略奪するというかたちを取る。

 もちろん、娘の親の諒解を得た上で、だ。

 そうでなければ、血で血を洗う家同士の争いにもなりかねない。


 アナクレオン殿は、表面上は何の反応も見せなかったという。

 だが、恐らくは、悪い気はしなかったであろう。

 レオニダスは年こそ若いが、飛び抜けて優秀であり、将来を嘱望される戦士であったからだ。


 アナクレオン殿にすれば、ほとんど自分と年の変わらぬバダイスコス殿をかたちの上でも娘の夫として、つまり自分の息子として迎えるというのは奇妙な話でもあり、それならば若いレオニダスを、と考えたとしても、何の不思議もなかった。


 何の反応もないということこそが、無言の了解の証。

 そうとらえて、若者たちはいよいよ、この満月の夜に行動を起こしたのである。



       *     *     *



 月影を避けて音もなく物陰を走りながら、レオニダスは、己の心臓が激しく高鳴るのを感じていた。

 それは、求めたものを手に入れる瞬間への昂揚感というよりも、もっと強い緊張を伴った、まるで戦闘に臨む直前のような感覚だった。


 家の奥深くで育てられ、男には従順であるように教えられるアッティカの女たちとは違い、スパルタでは、略奪される乙女の側も、諾々と男に従いはしない。

 自分を連れ去ろうとする男に対し、乙女は、相手の男に好意を持っているかどうかに関わらず、力の限りに抵抗するのが慣わしであった。

 その抵抗が激しければ激しいほど、女は周囲から一目置かれることとなったし、男の方もそれだけ征服の悦びを味わう事が出来たのである。


 男たちは、想いを寄せる乙女がひとりで、あるいは女友達と共に泉や森に出かけたところを襲うことが多かった。

 もちろん、娘の親の了解あっての略奪であるから、娘の家族、あるいは娘本人の側でも、そういう可能性があると分かって外出するのである。

 一種の形式美であった。


 だが、今回に限っては、事はそう簡単に運ばなかった。

 レオニダスたちの計画がアナクレオン殿の、ひいてはリュクネの耳に入ったと思しき日から、彼女が外出するところを見た者は誰ひとりとしていなかった。

 家に閉じ籠もり、頑強に守りを固めていると見える。


 さすがに手ごわいな、それでこそ奪いがいがあるというものだ、と友人たちは口々にレオニダスの気を引き立てたが、レオニダスの心の内には、消すことのできない不安があった。


 リュクネは、このことをどう思っているのだろうか?

 もしかすると、俺を夫とする事を嫌悪しているのではないか?

 だから、本気で拒み通す心算で、一歩も外に出ずにいるのではないだろうか?


 今夜、押し入って、抵抗されるならばまだ良い。

 誇り高い彼女に、すげなく拒絶されはしないだろうか?

 あるいは、笑い飛ばされるか、蔑まれるかするのではないだろうか?


 そうなったとき、自分がどのような挙に出るか、レオニダスには、分からなかった。


『今日も見事な腕前だったな、レオニダス。……うん? 何だ? よく聞こえない! まあいい、私はもう行く。また、競技場スタディオンで会おう!』


 確か、最後に顔を合わせたとき、彼女はそう言ったのだった。


 その笑顔を永遠に失うことになるかもしれないと恐れながら、それでも、彼女が他の男のものになるのを黙って見ていることだけは出来なかった。


(リュクネ……俺は、君を……)


「伏せろ!」


 レオンティオンの押し殺した声が鋭く響き、男たちは訓練に裏打ちされた反射速度で物陰に身を伏せた。

 アナクレオン殿の家は、月明かりに照らされ、不気味に静まり返っている。

 外からでは、家の中の様子は全く分からなかった。


「レオニダス、指示を」


「押し入るのは正面からだ」


 レオンティオンの問い掛けに、レオニダスは躊躇なく答えた。

 その舌は今、心の迷いとは完全に切り離されたように流暢に動いた。

 彼の頭の中では今、友人たちが調べ上げた家の内部のつくりが正確な図面のように展開し、鳥の目から見るように、そこを駆け抜ける自分と友人たちの動きが見えていた。


「突入したら、手筈通り、まずは中庭で大声を上げて女たちの注意を引き付ける。その後は、ばらばらに駆け回って、なるべく混乱を拡げてくれ。俺は女部屋へ行き、リュクネを裏から連れ出す。首尾よくいったら、合図の叫びを上げる。脱出は各自で。集合地点は、例のオリーブの木だ」


「よし。……万が一、手間取ったときは?」


 そう言って、レオンティオンは鋭くレオニダスを見つめた。

 レオニダスは、二呼吸ほどのあいだ、友を見返し、それから、ゆっくりと答えた。


「どうしようもなければ、撤退の合図を出す。そのときも、各自ばらばらに家を出て、オリーブの木の下に集まってくれ」


「撤退だと?」


 仲間のひとりが意外そうな声を出した。


「馬鹿な。そんな真似をしたら、俺たち全員、末代までの笑いものになるぞ。女に抵抗されて、おめおめ引き下がったなど、スパルタの男の恥だ。俺は、お前がどうしてもと言ったから協力しているんだ。お前がそんな情けない意気地でいるなら、俺は、今からでも、この話から降りさせてもらう!」


「まあ、待て」


 息巻く仲間を手で制し、レオンティオンは静かに言った。


「確かに、メナンドロスの言う通りだ。レオニダス、もう後戻りは出来ない。ここまで来たら、泣こうが喚こうが、力ずくでも娘を引っ張り出すしかないんだ。覚悟を決めろ」


「大丈夫だ」


 横から、仲間たちが口々に言った。


「《牙を砕く者》が相手だからといって気後れすることはない。お前ほどの男に、なびかない女はいないさ」


「最悪の場合には、みぞおちに一発喰らわせて担いでいけ」


「暴れて手に負えなければ、俺たちを呼べ。手を貸すぞ」


 仲間たちに、食い入るように見つめられ、


「……分かった」


 レオニダスは、しばしの沈黙の後、静かに頷いた。


「俺は、決して、退く事はしない。リュクネを必ず、手に入れてみせる。そのために、ここまで来た。……メナンドロス、すまなかった」


「なあに」


 メナンドロスはにやりとした。


「お前がそう答えることは分かっていたさ。お前は、あの美人に嫌われたくないんだろう? だがな、気位の高い女を相手にするなら、一度、有無を言わさず、がつんと実力を見せ付けてやったほうがいいんだ。そうすれば、自然と男を尊敬するようになるさ」


「お前……その話、どうも聞いた事があるぞ。普段、お前の親父殿がお前に言ってることそのままじゃないか?」


「うるさいぞ、レオンティオン! せっかく、俺がいい事を言ってるのに、話の腰を折るな」


 一同が思わず吹き出し、張り詰めていた場の空気が和んだ。

 その後、再び、しんとなる。


「行こう」


「おう」


「勝利を」


 男たちは、固く布を巻き付けた拳をレオニダスの拳に軽くぶつけ、揃って駆け出した。



原題:ラケダイモンにおける、ある乙女の略奪

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