第7話 難攻不落の蛍が丘防衛陣
「タイム」
春馬がタイムを掛けて内野陣をマウンドへと集める。
先制をした直後の4回裏。先頭打者に対して二遊間を破るヒットを打たれてノーアウトランナー1塁。何と言ってもここで日野。一発が出ればまたたくまに逆転と言う大ピンチを迎えてしまった。
「どうする、義光。歩かせるか?」
「待て、皆月。僕はこの試合。仮に歩かせれば勝てる状況でも歩かせたくはない。もちろん敬遠と言う意味でな」
「新田がそう言うとは珍しいな。今までは敬遠だろうが隠し球だろうが、抑えるためには何でもして構わんって言ってたのに」
春馬らしくない発言に最上はふと口を開き、内野陣全員の視線が彼へと集まる。別に春馬は真剣勝負に目覚めたとか、敬遠なんて男らしくないなんていう昭和の野球漫画のノリになったわけであない。
「この試合の本質は女子が男子に通用する事だ。できるならば卑怯な手段は使わずに勝ちたい」
「敬遠ってそこまで卑怯か?」
「いいや。ルールに禁じられたことでもないし卑怯とは思わない。逃げると言う事は逃げた先で別の敵と戦う事だしな。だけど、敬遠が悪く思われているのは紛れもない事実だ」
「なるほど。ごもっとも」
最上が不機嫌そうにため息交じりに目を閉じる。
「でも、春馬に日野先輩を抑える手段があると?」
「ないと言ったら嘘になる」
寺越の質問に曖昧な返答。理屈で言えば抑える確率が高いのだが、その作戦の成功した光景がまったくと言っていいほど思い浮かばない。
「その手段は?」
「お前」
「俺?」
寺越に指さしの春馬。
「ピッチャーやれ」
「「「……は?」」」
女子の近江も含めて威圧的な疑問形の返答。全員から「こいつ何言ってんの?」みたいな目線が向けられる。
「まぁ落ち着け。早まるな」
「早まってないから。とにかくその心は?」
「日野さんの対右投手打率は5割以上。対左投手打率は1割2分」
「寺越、任せた」
春馬の説明に納得した最上は寺越へとボールを渡す。
「マジで?無理だって。ピッチャーやったことねぇし」
「いやいや。嘘つくな。左でピッチャー経験ないって嘘だろ」
左利きは野球ではかなり重宝される。普通ならば左と言うだけで、少年野球なり中学野球なりで1回なりとも投手にされたことがあるはずだ。もっとも適正があり、本格的に投手をやったことがあるかどうかは別だが。
しかし寺越は本気で首を振っている。
「だって俺、交通事故で右腕痛めてる時に左投げ覚醒しただけで、基本は右利きだし。左投げ経験は中学校の2年生から」
「「「マジで?」」」
「因みに怪我はもう治ったから普通に右で投げれるぜ」
いずれにせよ左に転向してからほとんど年が経っていない。そんな人が投げたところで……
「いや、やってみようぜ。何事もまず挑戦だ」
「だから俺は……」
「しんぱ~ん。ピッチャー、最上に代わって寺越」
「おぃぃぃぃぃぃ」
もはや寺越の言う事を聞いていない最上。それに既に審判に交代を申請してしまったからには取り消しはできない。
「えっと、ファーストがピッチャー。ピッチャーがファーストで?」
聞き返す審判。まだ最上はピッチャーに寺越と言っただけで守備位置交代の申請は終わっていなかった。今ならば取り消しはできる……はずだったのだが。
「えっと、ピッチャーがサード。サードがファースト。ファーストがピッチャー」
「春馬ぁぁぁ」
監督の春馬が的確に守備交代を言い渡してしまい、これで寺越は交代が余儀なくされる。
「はいはい。解散。それとも寺越、皆月よりキャッチャー近江の方がいいか?」
「もう……皆月でいいよ」
完全に諦めてしまう。
『蛍が丘高校。シフトの交代です。ピッチャーの最上君がサード……』
さらにはウグイス嬢によって守備位置の交代が発表されてしまう。
「はっはっは。もはや貴様に逃げ場などない」
最上はさしずめ、主人公を行き止まりや崖などに追いつめた悪党だ。寺越はため息を吐くと、ファーストミットのまま見よう見まねで投球練習開始。スリークォーターから投げ出される投球は、速さ自体はあまりない棒球だが、コントロールは悪くない。
「プレイ」
そして審判がプレイ宣告をした時だった。
「あっ」
「ど、どうした?」
最上の突然に出した大きな声に驚く春馬。
「い、いや。すまん。なんでもない……」
『(寺越って、牽制の仕方知ってるのか?)』
左投げでありランナーとしては走りにくいだろうが、それでも牽制やクイックが下手なら話は別だ。
マウンド上の寺越は目でランナーへと目を向けると、普通に足を上げての投球。特にクイックモーションでランナーに走られまいと言ったようなそぶりは見せない。
「ストライーク」
非常に甘いコースへと決まるも、日野は見送りワンストライク。軽く素振りをしながら打席を外す。
『(せいぜい中学1年生レベルやな。上手い人やったら少年野球の5,6年生でもこれ以上の人おるやろ)』
バックスクリーンに表示された球速はまさかの2桁。高校野球レベルではかなり遅いどころではなく、高校のピッチャーとしては底辺中の底辺だ。
『(次、ストライクコースやったらスタンドインできるやろ)』
ここでの一発は序盤にして試合を決する一打になる可能性もある。日野も分かっているからこそ集中力を高めて次のボールに備える。寺越は右足を上げ、そして足を降ろし、腰を回転させながら腕を振り下ろす。
『(球の出どころもろ分かりや。甘いでぇぇぇ)』
高めに抜けたボール球。しかし届きそうなコースをジャストミート。痛烈な打球はサード最上の頭上を越えると、スライスしながらライン上の絶妙なところでバウンド。レフトファールグラウンドを転々としていき、それをレフトの因幡が追いかけるが、
「ファール、ファール」
審判の手が上に広がった。わずかにファールだったようだ。
『(あ、あれがファールかいな。フェアやと思ったけどファールなんやなぁ)』
抜ければ同点確実だっただけにもったいなかったようにも思えるが、日野はそうとは思っていない。当たり前だ。あの程度のボール、甲子園を目指している高校球児が打てなくてはどうしようもない。
その打球に尻込みしてしまった寺越は3球目4球目とボール球。せっかくのピッチャー有利なカウントも平行カウントになってしまう。
「寺越。三振取ろうと思うな。打たせてけ」
「打たせてけって言っても……」
「打たれたら最上が全責任を負うから心配するな」
「ちょ、新田。それは無茶苦茶……」
最上は反論しようとするも、試合中であるため詰め寄ることができない。
『(よし。打たれたら最上の責任。打たれたら最上の責任)』
何度も心の中で唱えながらセットポジション。そう考えると、目の前に立っている日野も思ったほど怖くない。しっかり軸足をプレートに付けて踏みしめると、セットポジションから足を上げる。
『(打たれたら、最上の責任っ)』
心中で叫びながら全力投球。コースは低めのストライクゾーン。その投球へ日野の鋭いスイングが襲い掛かる。
「うわっ。最上の責任っ」
今度は口に出す。痛烈な打球は寺越の足元でバウンドして二遊間へ一直線。センター前確実であったが、蛍が丘の二遊間は意地でもそれをセンター前ヒットにはしない。
「届くっ」
頭から飛び込みながら、必死に伸ばした左手で二遊間の打球をもぎ取る近江。
「近江っ。セカン」
「春馬君」
そのまま起き上がらずにグラブトス。2塁ベースを踏みながらにボールを素手で捕球した春馬は走り込んでくる1塁ランナーを回避し、そして寝転がっている邪魔な近江を飛び越えると、1回転して1塁へと送球。少しだけ高めの悪送球気味になるも、猿政が精いっぱいに体を伸ばす。
「アウト、アウト」
足のあまり速くないバッターランナーの日野は1塁でアウト。もちろんながら1塁ランナーも2塁でアウトと、近江ファインプレーからのダブルプレー。
「よし。ナイスプレー、近江」
「頑張ったぁ」
近江は春馬の手を借りて立ち上がると、満面の笑みを浮かべる。その顔はファインプレーをして嬉しく満足そうで、まるで野球大好き少年のような無邪気さがあふれ出ている。
「ツーアウト、ツーアウト。この回も0点で抑えよぉぉ」
それを象徴するように皆月に替わって外野を振り向きアウト確認。ホームベースの方へと体の向きを戻しつつ、顔についた土を払う。
「皆月。ピッチャー交代。結果的には抑えたけど、所詮はピッチャー無経験者だしこえぇ」
「ということだ。エースもそう言ってるし交代」
最上と春馬から守備交代の指示を受け、皆月は主審へと守備位置交代を告げる。ピッチャーに最上、ファーストに寺越、サードに猿政といつも通りの守備位置へ。
『(しかし、さっきのはセカンドが近江じゃなければセンター前ヒット。いくら日野さんが左ピッチャーに弱いって言っても、寺越には抑えられないか。あいつはせいぜい中学野球の打撃投手だしな)』
監督としては覚えておいても損はない情報を、アウト2つの利益と同時に得ることができたのは、試合の結果としても今後のためにも悪い事ではない。
『(さてと。次の日野さんの打席はどうするかな。僕がリリーフか、それとも近江の意外性に賭けるとか?)』
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――
4番・白柳もショートゴロに打ち取られ、結果的に3人で終わったその直後。5回の表は皆月・最上・大崎と、鋭く多彩な変化球を駆使して3者連続三振の日野劇場。ならば5回の裏。一方の最上も、120前後のストレートと、球速のまったく同じシンカーを使って5、6番を2者連続の内野ゴロ。そして、
「よし、セカン」
「はい、ファースト~」
7番もセカンドへのゴロに打ち取りスリーアウト。
ここまで得点は近江のまぐれホームランだけと、実質的には両者ゼロ行進と試合がこう着状態に陥り始める。大野山南高校は日野啓二という高い投手力を有するチーム。蛍が丘高校は最上・近江・春馬・大崎と言う強固なセンターラインに、脇を猿政・寺越・因幡・皆月が固める守備力のチーム。楓音は唯一の守りの穴とはいえ、最低限の守備力ができる以上はあまり大きな問題にならない。
つまり両者が少ない点を守り抜く、守備力の非常に高いチーム。言い変えれば一発自体はある物の、打線のつながりと言う意味での攻撃力が欠けているために試合が動きにくいのだ。
「ナイセカン」
「ナイピー」
最上は駆け足気味にマウンドを降り、その途中で近江の背に手を置いた。春馬も2人に追いつき次第、彼女の頭を2度3度賞賛の意を込めて軽く叩いた。
「よし。次の回は2番の因幡から。なんとか追加点を取っていこう」
次々とベンチに帰ってくる蛍が丘選手陣。その代わりに3塁側ベンチの外野側から木製のトンボを手にした大野山南高校の2軍メンバーが飛び出してくる。
「なぁ新田。僕らは整備しなくていいのか?」
「試合前、メンバー表交換の時だけど、日野さんがやらなくていいって。『大野山南のグラウンドや。整備はワイら大野山南のもんに任せときぃ』って言ってた。そのあと冗談だって釘刺した上で『ワイらのグラウンドを他人に任せられるかぃ』って、バリバリの関西弁の口調で。やらないと悪いけど、そこまで言われたら。ねぇ」
「ふ~ん。だったら任せてていいか」
最上は汗拭きと水分補給のためにベンチの奥へと引き上げていく。
「はいはい。皆月と最上以外はベンチ前で円陣。2人は円陣組まなくてもいいから話聞くだけは聞いとけよ」
最上はスポーツドリンクを右手、冷たいタオルを左手に持ってベンチ奥の影で座って涼みながら、皆月は暑そうな防具を外しながらベンチ前へと耳を傾ける。その間に春馬を中心として
6人による円ができる。
「さて、後半戦だ。0点ばかりで気が緩みそうになるかもしれないけど、しっかり気を引き締めていこう。攻撃もしっかりな。向こうもそろそろ焦って攻撃の方ばかりに意識が行くかもしれないからな」
頷く6人。最上は持ち込んでいたカバンから、キツネの絵が描かれ、上に『最上義光』と書かれたマイ扇子を取り出し仰ぎ始める。父方の親族に誕生日プレゼントとしてもらったものだとか。
「最上も疲れるだろうけど気を引き締めろよ。そろそろピッチャーにとっては胸突き八丁になろうあたりだからな」
「おぉ。僕はまだいけるぞ。ほとんど球数投げてねぇし」
ほとんどボール球を投げず、打たせて取るタイプの最上。今まで各イニングを10球未満で抑えてきており、寺越がアウト2つを取った4回の裏も含め、5イニングで計40球にも満たない快投中。
「リリーフいるか?」
「多分は大丈夫だろうけど、もしかしたらもしかするかもしれねぇ。そん時は頼まぁ」
「あいよ」
最上が崩れる時は前触れもなくいきなりだったりする。彼は基本的に打たせて取るタイプであり球数が少なく、体への負担は非常に少ない。しかし打たせて取るためにかなり頭を使っているため、疲れるとすれば体でなく頭。それは体の痛みや重さなどで感じにくいため、余力を計算できないのだ。
「よし。じゃあ1点追加点入れるぞ」
「「「おぉぉぉぉ」」」
気合いを入れて春馬がベンチの中に入ると、1番打順の遠い大崎が3塁コーチボックスへ、2番目に遠い最上に代わって皆月が1塁コーチボックスへと飛び出していく。6回の表開始時のグラウンド整備も終わり、大野山南高校の選手たちが出てきた。
日野はマウンド上に上がると、天を仰ぎながら背筋を伸ばすと深呼吸。小さくため息を吐いて投球練習を始める。
「さしずめ、甲子園出場1回の名将・新田監督は分かっていたってとこか?」
「何を僕が分かっていたことだって?」
扇子を閉じながらマウンドへ目をやる最上の横へ、話の主語である名将が腰かける。
「さて、何だろうな? 言うなれば」
「言うなれば?」
「結果と理由は試合終盤で分かる。かな」
試合前に春馬が言っていたセリフを引用して返すと、腕組みして黙り込む。
『(さすが山陰の狐。僕の勝てると思った理由が分かったか)』
最上が黙ったのなら深くは追究しない。むしろ下手に理由を明かしてしまい、油断によってこちらが自滅してしまうのは避けたい。だからこそ未だに表面化していない弱点は、表面化する前に明らかにすべきではないのだ。
投球練習が終わった日野。因幡がゆっくりと静かに右打席に入る。
間をおかずに素早いサイン交換の後の初球。
「ボール」
チェンジアップが高めに抜けてワンボール。
「さしずめ、グラウンド整備で少しマウンドが代わって調子崩したか」
「最上的には投げにくいか?」
「コントロールが生命線の奴にとってはな。新田は?」
「そこまで高レベルなピッチャーじゃないから、別にさして気にならん」
立ち上がった春馬は思い出したようにサインの見えやすいベンチ前列へと移動する。残された最上は彼の背を見ながら頭をかく。
『(そりゃそうかもしれないけど、新田はなかなかコントロールいいだろうよ。それともあまり足場とか気にしないタイプか?)』
再び制球が利かなくなってきた様子。因幡への初球ボールに続き2球目は低めに叩きつけるようなボール球がホームベースに当たり、跳ねあがった投球がキャッチャーを越えた。ランナーがいればワイルドピッチであった投球だ。その後は序盤のように制球の利きやすいストレートを中心に配球を組み立て、最後は高めの釣り球ストレートで空振り三振。
「さすが日野殿じゃの。立ち直りはなかなかのもの」
「まだ1人目。立ち直ったかどうかは分からんだろ。最後の高めストレートだって実は低めを狙った結果オーライかもよ?」
「お、新田殿。次の打席も一発狙っていった方がいいかの?」
猿政はネクストバッターボックスにしゃがみこむ。
「甘い球なら思い切って振って言ってもいいけど、少し立ち直るためにストレート主体に切り替えたみたいだから、ヒット狙えそうならミートしていってもいいと思う。こうなると連打での得点もできる」
「春馬君。私もそうした方がいい?」
ヘルメットのつばの影から春馬を見上げる近江。ピッチャーにとっては彼女の顔が怖く見える絶妙な角度であるが、打席に入っていない彼女の目は、まだ女子高生としての可愛らしい目である。
「お前はミートしてっていっても無理だろ?」
「うぅ。できるもん。やってみせるもん」
「無理すんな。お前にはシングルよりもホームランが似合ってる」
『(変にミートしても当たらないからな。だったら普段通りにフルスイングしてもらう方がよっぽどいいだろ。長打もあるし)』
すると近江は機嫌の悪くなりそうだった顔をものの2秒で元に戻す。
「だったらホームラン狙っていい?」
「狙ってこい。ライトでもレフトでもセンターでもいいから。2本目打ったらまた撫でてあげるから」
「うん。頑張る」
春馬のちょっとしたファインプレーだ。仮に「無理するな」だけしか言っていないと、「無理じゃないもん。私にだってできるもん」と意地をはり、近江の武器である長打力を欠いた挙句バットに当たらないと言う散々たる結果になっていただろう。
『(いずれにせよ、この回に近江に回るためには寺越か猿政のどちらかが塁に出る必要があるんだけどな)』
春馬は頑張れよと近江の背に左手を置いた。
クリーンアップの一角として期待の寺越は左打席。カウントは1―1からストレートでストライクを取られ1―2と追い込まれるも、ここまでの3球で打てそうな確信を得る。春馬の指示を聞けなかったものの、日野がストレート主体のピッチングに変わったことに気付いた。
『(打てそうかな。注意すべきは外のスライダーだけ)』
大崎・寺越・楓音と蛍が丘の左バッターは、みんな外のスライダーによって空振りを取られている。ツーストライクではあるが、外の緩い球はスライダーと思って全て捨てるくらいがちょうどいいのではないか。
勝負してくるか遊んでくるか。思考が入り混じる中で放られた第4球目。
コースはアウトコース低めの遅いボール。予想通りの外へのスライダー。見逃せばボールになると確信があった。
しかし、条件反射だ。追い込まれた寺越はついスイングしてしまう。
『(まずい。止まら……あっ)』
バットに当たった。スライダーかと思いきや、抜け球か何かだろうか。変化しない、ストレートよりも力のない棒球。やや泳ぎ気味に引っ張った打球は、一二塁間を低いライナーで破るライト前ヒット。調子を崩し始めた日野からランナーを出した。
「よし。猿政君。ゲッツーはダメ。絶対に私に回してね」
「うむ。善処いたそう」
『(新田殿。サインは?)』
『(ノーサイン。乱調の日野さんを前にエンドランは怖い)』
特にサインは送らずに猿政に任せる。さきほどヒット狙いと言ったからにはホームランはまずないと思ってもいい。仮にヒットで出たとして1アウト1、2塁で近江。彼女が三振だと仮定してもチャンスで自分に回る。得点は不可能ではない。もしも猿政が凡退であれば、このイニングに関しては近江と心中だ。
またもランナーを出してしまった日野に対してもベンチは動く気配を見せない。たしかに怪我以前の日野に比べれば調子は悪いが、ここまで5回1失点の好投。だからこそ動くに動けないのだ。
猿政への初球は低めワンバウンドのボール。キャッチャーが弾くも、前に落としたことで寺越は次の塁へと走れない。そして次の投球だった。
ボールは鈍い音をしながら猿政の背中へと当たった。
「デッドボール」
審判の手が上がり、猿政が1塁に走り出すと日野は帽子を取って謝る。当然、寺越は2塁へと進み、1アウト1、2塁とチャンスメイク。
「よし、きたぁぁぁぁ」
こうなれば狂喜乱舞のネクストバッター。近江がバットを担いでバッターボックスへと走っていく。
背も小さく見たからにか弱そうな彼女を見ても、思い出すのは1打席目の大ファールと、2打席目の先制アーチ。大野山南高校野球部員にとっては、生まれて今までこれほどまでに女子が怖いと思ったことが無い。内外野陣は非力な女子に対して守備位置を前にするどころか、長打に備えて後退していく。
たかだか打率2割台の三振製造機。その裏返しは蛍が丘が誇るホームラン製造機。もしもこの打席にそんなまぐれの一発があれば……勝負は決してしまう。
『5番、セカンド、近江さん』
何気ないウグイス嬢の読み上げに身震いしてしまう。その中で彼女に一番近い所にいる白柳は、気合いを入れてミットを叩くと震えを止める。
『(さぁ、気合い入れてこい。別にプロ野球日本代表の主砲じゃない。所詮は公立高校の5番バッターだ)』
サインはストレート。近江に対して変化球は意味がないと分かっている。コースの指示もあまり意味がない。大きな意味を持つのはただタイミング。緩急の差で抑え込むしかない。
「ストライーク」
初球は高めボールのストレート。空気を切り裂くような音のするフルスイングも、ボールの30センチ下を通過。
『(アカン、アカン。あのフルスイング見るたびに怖なるなぁ)』
次のサインはチェンジアップ。ストレートからタイミングを外す配球だ。
日野はバッターの近江に集中し足を上げ……
「「「ランナー走ったぁぁぁ」」」
『(えっ、マジで?)』
『(走ってきただと?)』
近江との勝負に全神経を集中させていた日野はクイックモーションを忘れており、キャッチャーの白柳もランナーの足もあまり速くないことで意識していなかった。近江が外のボール球を見逃し、白柳は彼女をかわして3塁へと送球。しかし完全にバッテリーの隙を突かれた盗塁だっただけに余裕のセーフ。2塁に投げれば1塁ランナーの猿政を刺すことはできただろうが、普通ならば3盗を差し置いてまで2盗を刺そうとは思わない。
『(嘘やろ?まさか……)』
バッター近江。ランナーは寺越・猿政。走らせてくるわけがない。
そんな完全な油断だった。油断していなければ刺せたであろうダブルスチールだっただけに、これは非常に厳しい展開だ。
『(歩かせますか?)』
白柳は監督へと指示を求める。しかし監督からは勝負のサイン。
『(馬鹿野郎。相手は一本打たれてるとはいえ女子だ。逃げる気か?)』
『(勝負だよなぁ。でも監督、選手にしてみれば逃げたくもなるって?)』
心の中で愚痴を言いながらもしゃがみこむ。
『(と言うわけだ。監督は勝負せよ。だと)』
『(アカンって。これで外野フライでも上げられようものなら1点やで?)』
やはり日野も心の中で愚痴を漏らす。とはいえ逃げるわけにはいかない。日野は白柳のサインに頷いたのちにセットポジションに入る。今度はボールからストライクになるスライダーである。普段なら怖い配球であるが、ストライクからボールになるスライダーをスタンドに叩き込また日野にとっては、もはやそれ以外の選択肢が無かった。
『(えぇぇい。近江君。頼むから打たんでくれ)』
悲痛の願いと共に投げ出されるアウトコースのスライダー。狙いよりも外側に外れ、ここから変化してもストライクゾーンには入らない。そんなコースであったにもかかわらず、フリースインガーの近江は容赦なくフルスイング。彼女のバットが投球に襲い掛かる。
『(頼む。打たんでくれぇぇぇ)』
その直後にホームの方から金属音が聞こえると、日野は諦めて目を閉じ、天を仰ぐ。そして数秒の間をおいてゆっくりと目を開ける。
『(はぁ。これで4対0やな……まさか近江君に2発もやられるとは思わなんだ……)』
「おい、日野、日野ぉぉ」
『(なんやねん。うるさいなぁ。どんだけ騒いだところでホームランはホームラ……?)』
見ると自分の視線の先に黒くまるい影が……
「日野。上、上ぇぇぇぇ」
「……なんや。ピッチャーフライかいな」
白柳の叫びにようやく気付いた。右腕を真上に伸ばすと、落ちてくる白球をしっかりとキャッチ。主審がアウト宣告と同時に右手を上げる。近江は悔しそうに地面を蹴って、ベンチへの帰り際に自分の投げ捨てたバットを拾い上げた。
「うきぃ。チャンスなのに打てなかったぁぁ」
「いいから近江。早くベンチに戻れ」
「今戻ろうとしたところだもん」
「ちゃんと戻れよ。今勉強しようとしたところって言って勉強しないのは勝手だが、ベンチに帰らないと試合始まらないからな」
アウトカウントが1つ増えてランナーは変わらず。バッターは6番の春馬だ。
『(歩かせてくるかな? 次は楓音だし)』
打席に入りながらキャッチャーへと目をやるが、立ち上がる様子はない。座ったままでの敬遠もありうるとはいえ、少なくともあからさまに立って敬遠するようなことはない。近江を打ち取って落ち着いた日野は呼吸を整えて春馬と対峙。
「ストライーク」
初球はアウトコースいっぱいに決まるストレート。しっかりと球道を見据えると、バックスクリーンの電光掲示板の隅へと目をやる。
『(139キロか。平均的な意味では序盤よりは上がっているか)』
素振りをして打席に入りなおす。バットは短めに持ち、確実にミートすることを心がけるようにしておく。ワンヒットで1点が確実に入るだけに、長打は必要ない。2点よりもまず1点だ。
「ストライク、ツー」
アウトコース高めストレート。春馬は微動だにせず見送り追い込まれる。
「春馬君。振らないとヒットにならないよぉ」
『(うるせぇ。くそボールにまで手を出してる奴に言われたくはない)』
近江からの野次に眉を吊り上げつつも、今は目の前の勝負に集中。ここでの追加点は今後の守備においても大きく、相手にプレッシャーをかけることができる。
アウトコースへの遊び球、そして高めの釣り球と2球連続でボール球が続いた後の5球目は、アウトコースのストレート。
「ファール」
やや泳ぎながらもハーフスイングでカット。バックネットに当たるファールボールとなる。
「フェアグラウンドあっちだよ~」
『(だからうるせぇな。おめぇは味方にヤジってどうする気だ)』
スタンドを指さしてベンチで騒いでいる近江を睨みつけておき、近江に切らされ続ける集中を今一度高く保つ。一方でマウンド上の日野は帽子を取ると、アンダーシャツの袖で額の汗を拭う。1度は構えた春馬も、間を取る意味を兼ねて頬に伝った汗を軽く指で拭っておく。
仕切り直しの6球目。
『(んっ、低いっ)』
打ちそうになるもバットを止めて見送る。
「ボール」
「スイング」
主審のボール判定に白柳は1塁審を指さしてスイング判定を求める。しかし1塁審の腕も横に広がりノースイング判定。0―2からあれよあれよと言う間にフルカウントになり、フォアボールの可能性も出てきてしまう。
『(新田君、あそこ振らんのかいな。低めのフォーク振らんとなるとホンマ厳しいで)』
下手にボール球は投げられない。無理せず歩かせて楓音勝負も頭にないわけではないも、次の7回と言う胸突き八丁を楓音から始まる7、8、9番と言うメリットも捨てられない。
『(なんとか、次で決めんとな)』
白柳からのサインはど真ん中スライダー。
『(……真ん中かぁ。努力だけはするで)』
セットポジションから高く足を上げる。
『(これで……終わりやぁぁぁ)』
指でボールを切りながらの全力投球。アウトコースに外れつつある緩い球が、鋭くストライクゾーンに切れ込んでくる。
『(まずっ。スライダーか)』
振り遅れた春馬であったが、アウトコースのスライダーに合わせて流し打ち。会心のライナーがライト方向へと飛んでいく。
「「「抜けたぁぁぁぁぁ」」」
ベンチから近江を筆頭に何人かが身を乗り出す。しかしややスライスがかかった打球にライトが追いつき、ライン際へと走りながらボールをキャッチ。ライトライナーでスリーアウトチェンジ。
『(チッ。抜けたと思ったけど、守ってた場所が良かったな)』
抜ければ2点追加して、なおランナー2塁、もしくは3塁の大チャンスだっただけにそれは非常に大きなワンプレーであった。
『(これで流れを持っていかれなきゃいいけど)』
ヘルメットを脱いでベンチへと戻る途中で近江とすれ違う。
「下手くそ」
「お前がうるさくて集中できなかったんだよ。この馬鹿」
「ふぎゃ」
近江の頭に拳骨1つ落としてベンチへ帰る。そしてすぐさまグローブを手にして守備へと移る。この回を抑え込めば続くイニングは7番から。しかし春馬には6回の攻撃内容から確信を得ていた。
『(次の回。7回に試合が動く。待ちに待った終盤戦だけあるな)』
守備型主人公(投手・捕手除く)って野球漫画では誰がいるんだろ?