第1話 先制点を奪え
「先発ピッチャー、右腕の佐伯は、球速120半ばのストレートを軸に、カーブとシュートで投球を組み立てる本格派タイプ。本格派と言っても、全国レベルだと球はたいしたことないけどな」
「ふ~ん。中堅クラスとしては大して珍しくもないレベルか」
「そうだな。それはそうと最上。ランコー」
「あ、やべっ」
忘れていたようで、最上は春馬に言われてベンチを飛び出した。
「まったく、あいつは」
「久しぶりの試合だからね。仕方ないよ」
楓音は最上をフォローするも、あまり聞く耳を持たない春馬はベンチに座り込む。
後攻の総合鈴征は所定の投球練習数を1球残して終えた。
「ボールバック。セカン行きます」
最後の投球練習はキャッチャーの2塁送球練習も含めた1球だ。ピッチャーマウンドの佐伯はセットポジションからやや高めのストレート。捕球した立花は小さなモーションで2塁へと矢のような送球。
「「ナイボール」」
「「「うわっ」」」
蛍が丘の選手陣はそろって驚愕の声を挙げる。絵にかいたような鉄砲肩。因幡の強肩など比ではないようなまでの送球であった。
「……厄介だな」
「そう、だね。これでほとんど盗塁は封じられたも同然」
「いや。面倒なのは、強肩なんだけど近江みたいなタイプだってこと。捕ってから投げるまでが異常に短い」
「たしかに」
後ろに座っていた楓音が頷く。
肩の強いキャッチャーは盗塁阻止率が高い傾向にあるのは言うまでもないが、肩がすべてではない。例えば近江型。肩が弱く、塁にボールが届くまで時間がかかるところを、送球の素早さでカバーしている。それにより、まぁまぁ俊足の最上を殺せる程度の送球能力を持っているわけだが、そんな彼女が強肩を手に入れたらどうなるか。その答えが立花道雪である。
「じゃあ、この試合の盗塁はベンチ指示?」
「いや、グリーンライトは維持。ベンチ指示もありうるけど、現時点では各々の判断に託す。もしかしたら、バッターが打席に入るとダメなタイプかもしれないからな」
大崎がゆっくりと左打席へ入って構えた。
「プレイ」
審判がピッチャー指さすしぐさをし、それが試合の開始を告げる。
先頭の大崎に向け、ワインドアップモーションの佐伯は初球。
「ボール」
慎重そうにアウトコースへボール球。バックスクリーンに表示される球速は、126キロと想像通りのもの。
「あまり速くないね」
「高校野球レベルならまぁまぁ速いはずなんだけど、たしかに僕もそう思う」
近江と春馬を筆頭に蛍が丘の選手陣がそう思うのもわけない。身近なところに最高142キロのストレートを放る『変化球投手』がいるのだ。今の彼ら彼女らにとってみれば、平均球速140キロを超えない限りは速いと思う事はないだろう。もっとも実際はその『変化球投手』が異常なだけである。
続く2球目。大崎は真ん中高めに甘く入ったカーブをジャストミート。球足の速いゴロにはなるが、あいにく打球はセカンドの真正面。セカンドは難なくボールを捕球し、1塁へと送球し悠々アウトを取った。
「う~ん。まぁ、いっか。次は因幡だし」
「そう言えば向こうのセカンド、左投げだね。珍しい」
「……三藤さんか」
「知ってるの?」
「同じ中学校の1つ先輩。中学時代はショートやってたな」
「ショート?春馬君は?」
「セカンド。つーか、蛍が丘入ってからはお前がいるからショートに移動したけど、元はセカンドだっただろ」
ついでに大崎も本来はセカンドである。
「春馬くんって、どんなコンバートしてるの?」
首をかしげる楓音に、春馬は試合から目線を逸らさずに答える。
「小学校1年は外野。2年でセカンド。3年でサードやりながら、公式戦初出場はファーストで、以降はサードレギュラー。4年生からショートとピッチャーを兼任して、6年の最後の試合で近江にサヨナラ弾を打たれる。中2でピッチャーを断念してショートに専念しようとするも、三藤さんからポジションを奪えずに、高校に入るまでセカンド。高校からはショート兼ピッチャー。以上」
試合からは目を離さずに、質問を振ってきた楓音へは途切れなく答える。
「春馬くんからショートのポジションを奪うって……。それも左投げで」
「三藤さんいわく、『結局はやり方次第』だって。守備は結構上手い。それもあるけど、バッティングもそこそこ凄い」
「どれくらい?」
「蛍が丘なら1、2、3番は打てるリーディングヒッタータイプかな?あまり4、5番ってタイプではない」
話し込んでいる間に因幡が2―0からの3球目をライト前に弾き返して出塁。3番の寺越が打席へ。
「でも、左でゲッツーって取りにくそう……」
右の近江は、ベンチ内でその動きを想定する。
「セカンド併殺なら右よりも左の方が有利だろうな。ショート併殺やサード併殺の場合は、まぁ、得意の
『やり方次第』でなんとかしてるんだろ。見たことないから知らないけど」
「一緒にやってて知らないの?」
「言っただろ? 中学時代はショートだって」
近江や楓音にとっては左投げのセカンドなど、見たことないために興味があった。いや、ランナーの因幡、バッターの寺越、彼らを含めて全員にとって興味はある。そして何より気になっているのが春馬である。
『(三藤さんがいったい、どうやって左のセカンドとしてレギュラーを守ってるのか。楽しみなところはあるな)』
寺越に続いてほしいと言う気持ち半分。サードかショートにゴロを打ってほしいと言う気持ちも半分。春馬は寺越に二重の意味で期待の眼差しを向ける。
そんな複雑な状況に置かれているとはまったく知る由もない寺越。
『(なんでかは知らないけどセカンドは左。ゲッツー取りにくいし、3塁方向に飛ばしておけば、最悪のゲッツーの確率は低い)』
彼自身、元右投げでありながら左投げだから良く分かる。セカンド守備時のゲッツーは、恐ろしいまでに左投げは不利なのだ。
初球の低いカーブを見送って2球目。アウトコースのストレート。
『(マズイ)』
気持ちの中では三遊間真っ二つのレフト前ヒット。しかし当たり所が悪く、打球はショート真正面の内野ゴロ。
「「「きたぁぁぁぁぁぁ」」」
『(なんで喜ぶのぉぉぉ?)』
歓喜の声を挙げる蛍が丘ベンチと、それに疑問を持つ寺越。
そんな彼の打球を、ショートは難なく捕球。
『(さぁ、三藤さん。ここからどう捌く?)』
春馬の視線が三藤に集中する。
ショートが2塁ベースやや右へと送球。するとそれを走りながら捕球した三藤が2塁へとスライディング。左足をベースに引っ掛けて立ち上がると、マウンド側に踏み込んでランナーを避けながら1塁へと送球。寺越が懸命に1塁を走り抜けるも、ボールはそれよりも早く1塁へと到達した。
「アウト、チェンジ」
「さすが三藤さん。スタンディングスライディングか」
春馬が感心したのは、左投げセカンドと言う不利なゲッツーを完成させたからではない。
『(さすがの我流守備術。教えられる人間がいない中で、よくそれを編み出したと思う)』
左投げセカンドの動きを教えられるものがいるかと言われれば、そんな人などほとんどいない。プロでもいるかどうか難しいだろう。つまり先ほどの守備は完全に三藤本人が生み出したもの。
だが、蛍が丘にも我流守備の使い手はいる。
『(今度は僕の番です。三藤さん)』
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――
1回の裏。1番と2番を連続サードゴロに打ち取った最上であったが、3番の三藤にライト前ヒットを許してツーアウトランナー1塁。このタイミングで、あの対決が始まる。
『4番、キャッチャー、立花道雪君』
『(雷神か。さしずめ、バットが雷切ってとこ?)』
マウンド上で立花を睨む最上。すると立花も最上に強い視線を向けてくる。
『(山陰の狐。最上義光……)』
足場を固めて打席で構える。その構えは非常に大きく、自分を大きく見せようと思っているようなフォームだ。
『(4番の立花相手に初球ど真ん中は怖い。かと言って高めは一発がある。ならば)』
セットポジションから牽制。三藤の足を警戒して釘を刺しておき、その初球。
「ストライーク」
インコース。ベルトあたりのホームランボールでワンストライク。
『(球速は……116キロ。ここまで一貫してこれくらいの球速。と言う事は、変化球と言うわけでもなく、手を抜いているわけでもなくこれがMAX?)』
立花は心の中で静かに笑みを浮かべる。
『(甲子園出場って言うからどんなピッチャーかと思えば、せいぜい1年生レベルのピッチャーだよな)』
立花は気持ちを整える。初球こそ球筋を見定めるために見送ったが、2球目からはそんなことはしない。バッティングセンターの感覚だ。
2球目……
『(甘い。ど真ん中)』
スタンド一直線確定級の棒球。立花はボールの真芯を意識してボールを叩いた。
『(っつ、上がらない。でもこれなら)』
ジャストミートかと思ったが、打球は三遊間への痛烈な打球。ホームランにはなりえないものの、これなら十分にヒットになる。
かと思ってのもわずかコンマ2秒程度だった。
『(んなっ)』
誰もいないはずの三遊間に忽然とショートが飛び出し、逆シングルキャッチ。2塁ベースカバーの近江へとサイドスローで送球。一瞬、間に合うかどうかは際どかったが、近江が必死に左腕を伸ばして捕球した。
「アウト、チェンジ」
「っしゃぁ。ナイス新田」
大きな声を出しながら、グローブを叩いてガッツポーズの最上。春馬はまるで当然のような顔でベンチに戻っていく。
「新田君。上手くなったね」
「三藤さんほどじゃないですよ」
春馬と三藤。お互いの顔は見ずに、背中で語り合う。
「君が総鈴学院に来てくれていれば、最高の二遊間が組めただろうに」
「すみません。僕が思う最高の二遊間は、近江との二遊間です。見せてあげます。自称・高校野球最強二遊間の神髄を」
「ふふふ。期待してるよ。でも最終的に勝負を決めるのは……」
「個々のプレーじゃなく得点。ならばチームとしての力を見せましょう」
それ以上、2人は何も言わずベンチに戻る。三藤はヘルメットをベンチ入りの1年生に渡し、グローブを手にグラウンドへ。
「ナイスプレー」
そして春馬は、待ち受けていた近江と軽めのハイタッチをかわしてベンチに入る。
「この回は4番の猿政からか。いい球は初球からでもしっかり叩いて行け。打てない球じゃないからな」
「頑張ってね。塁に出たら私が返すから」
「うむ。善処いたそう」
猿政が先頭バッターとして打席へ。近江はネクストバッターサークル。春馬はベンチ脇でネクストバッターサークルに入る準備を整える。
猿政は投球練習を見ながら素振りを2回。
『(たしかにあまり速くは思えぬな。この程度ならば打てぬ球でもない)』
「プレイ」
猿政が打席に入ると同時に、審判によるプレイ再開宣告。ピッチャー・佐伯はサイン交換の後、ワインドアップモーションに入る。ゆっくりとした動作から、右腕が勢いよく振り下ろされる。
「ストライーク」
初球はアウトコースへのストレートでワンストライク。
『(待つ必要もないかのぉ。なれば、次のストライクを狙うしかないじゃろう)』
初回は結果的に3人で抑え、さらにこの回の先頭の初球もストライクを取った事で、かなり自信に満ち溢れた顔をしているマウンド上の佐伯。彼へとキャッチャーの立花がサインを素早く送り、2球目へのモーションに入った。
『(絶好球)』
インコース、ベルトあたりのホームランコース。猿政は腰を回転させながら引っ張る。
「むっ、上げてしもうたか」
3塁側ファールグラウンドへのフライ。絶好球すぎて力んでしまったようだ。
「アウト」
打球に追いついたサードが難なく捕球しワンアウト。猿政はアウトコールを聞くなり、打席からベンチへと戻る。
『5番、セカンド、近江さん』
「っしゃあぁ。私に任せなさい」
ネクストバッターサークルで四股踏みをし、肩を入れるストレッチの後、1度ずつ左右に上半身を振っ
て打席へと駆けて行く。
「近江殿は女子で間違いないのじゃの?」
「そのはずだけど、野球をしている時はそうとも言い切れないみたい。普段は猫で、野球の時は虎になる奴だから。猫の皮を被った獣だぞ。あいつ」
ネクストバッターサークルに入る春馬は、猿政からの疑問に曖昧な回答。
その近江はバッターボックスに右足から踏み込む。
立花はピッチャーを睨みつける彼女の横顔を目にすると、すぐさまサインを送った。
風のうわさで近江美優は蛍が丘ナンバー1のスラッガーであるとの情報を得ている立花。しかしいざ見てみると、彼女の身長はせいぜい150センチ。体重もさほどあるようにも見えず、この小さな体からホームランが打てるとは思えない。
『(こんな体でホームラン打てるなら、誰も必死こいて筋トレなんてしないって)』
うわさはガセか。それとも本当に長打を打てる『何か』があるのか。
そんな疑問の中、ピッチャー佐伯の初球。
『(打てる球、来た)』
「ストライーク」
近江は低めボール球のカーブに手を出し、空振りワンストライク。もっともボール球を空振りするのは彼女にしてみれば珍しい事ではない。
「ナイススイング。その調子、その調子」
その点を割り切っているチームメイトからは、その思い切りのいいスイングを賞賛する声が飛ぶ。
『(球速自体はそれほど速くない。さっきのも変化球だとは思うけど、日野先輩のボールに比べればあまり落ちてる感じはない。打てる)』
確信してピッチャーを睨みつける。リズムを掴んだピッチャーは、淡々としたテンポで第2球目。コースはアウトコースいっぱいのボール球。近江は手を伸ばして強引にバットへと当てた。
『(うわっ。ショートゴロかも)』
引っ掛けたようなあたりは、勢いはあるが抜けるほどではない三遊間のゴロ。サードが腕を伸ばすもその横を抜け、回り込んだショートが正面に入って捕球。
『(あっ、これなら内野安打になる)』
近江はスピードを早めつつ、1塁ベースに近づくなり頭から飛び込む。それとほぼ同時にファーストへとボールが渡った。
「セーフ、セーフ」
審判の手が開く。
「っしゃあぁぁ」
「ナイラン、近江」
「「「ナイバッティィィン」」」
ベンチに向かってガッツポーズの近江。1塁コーチの寺越が近江へと声を掛け、さらにベンチからも反応が返ってくる。
1アウト1塁。先制のランナーを1塁に置いて、ここでバッターは、
『6番、ショート、新田春馬君』
「下手くそだなぁ。さっきの、無理に正面に回り込まなきゃ完全アウト。僕や近江、ついでに三藤さんなら余裕で殺してる内野ゴロだったぞ?」
春馬は打席の横で素振りを何度かすると、打席に入る前にバットを脇に挟んだ。
『(えっと、サインは……初球は待て。ランナーは動くな。相手にプレッシャーを仕掛けるために、早めに仕掛けよう)』
2球目以降にエンドランをするために、現状維持で初球は様子見。春馬がランナーの近江へとサインを送ると、彼女は了解のサインを送ってくる。
ピッチャー佐伯はセットポジション。1塁ランナーの近江は2歩3歩とリードを取り始める。
「リーリーリー……バック」
いきなりの牽制。近江は悠々と1塁に戻る。あまりに早すぎる牽制に、彼女は大きくリードしきれなかったのだ。
再びセットポジション。今度は先ほど以上に大きなリードを取る近江。彼女の目が、マウンド上のピッチャー佐伯の背を射抜く。
「リーリーリー、ゴー……って、ちょっ」
佐伯の足が上がった時だった。近江が2塁へとスタートを切った。
1塁コーチの寺越もつい声を上げる。
『(マジかよ。動くなって言ったじゃん)』
インコース低めのフォーク。春馬の足元にバウンドしたボールを、立花はショートバウンドでキャッチ。
『(不幸中の幸い。この投球なら2塁はセーフ……)』
春馬の目の前を鋭い送球が通り過ぎる。立花の右腕から投げ出されたボールは、しゃがんだピッチャーの頭を越えてセカンド三藤のグローブへ。近江が三藤の背後に回り込んで2塁をタッチしようとするが、無駄な抵抗であった。
「アウト」
2塁審判の手が上がった。
『(あの馬鹿。サインを無視して盗塁した挙句、2塁で死にやがった)』
次でエンドランを仕掛けると言う作戦が企画倒れになり、ヘルメットをいじりながら苛立ちを押さえる春馬。
しかし近江はと言うと……
「ちょいちょい、近江」
1塁コーチの寺越が近江を呼ぶ。
「交代する」
「そうしてくれるのはいいけど、サイン、間違えてない?」
「え? 盗塁じゃないの?」
「なるほど。近江のサインミスかぁ」
寺越はベンチに帰りながら状況を理解する。
春馬が出したサインは、ランナーは動くな。
しかし近江の勘違いしたサインは、ランナーへの単独スチール。
完全な凡ミスでチャンスを潰した蛍が丘高校。6番の春馬はライトフライに倒れ、結果的に2イニング連続3人で打ち取られた。
春馬は2回裏の守備に向かいながら、近江の前を通過。
「近江」
「え?」
「これは?」
「ランナーは動いちゃダメ?」
「分かってはいる、と言う事はサインの見間違えか」
サインそのものを間違って覚えているわけではなく、サイン自体を見間違えた様子。
「サイン間違えちゃったの?」
ネクストバッターサークルからベンチに戻り、ヘルメットを外した楓音が問いかける。
「近江がな。さっきこのサインを出したんだけど」
「あうぅ、ごめんなさい」
「気にすんな。痛かったには痛かったけど、少なくとも分かったことがある」
「分かった事?」
「立花すげぇ」
ランナーは鈍足の近江ではあるが、低めのワンバウンドなんて、高校レベルなら九分九厘盗塁成功である。それを殺すことができたのだから、送球技術だけではなく、捕球技術も大したもの。それこそ本当に、近江並の守備力に強肩を付加したような、手を付けられない名捕手である。
「だったら怒らない?」
「わざわざ怒るかよ。ただ、今後からは気を付けろとだけは言っておく」
「は~い」
怒られないと知って安心した近江は軽い気持ちで返事をし、ファーストの寺越から投げられたボールを捕るなり1塁へと送球。その動きは非常に軽く、先ほどのミスをまったく気にしていない。むしろ機嫌を悪くして守備に影響が出るのも問題のため、それは当然良い傾向ではある。
「ボールバック。セカンド送球行くぞ」
皆月からの声が飛ぶと寺越が1塁ベンチまで走っていき、内外野でキャッチボールに使っていた球を放り込む。その合間に皆月は最上からの投球を受け、2塁上の近江へと送球の練習を済ませる。その送球は、やはり立花の送球に比べると見劣りするのは否めない。
「2回の裏、バッター5番。しっかり守っていこう」
「「「おぉぉぉぉぉ」」」
先行逃げ切り型である蛍が丘高校。できればリードして迎えたかった2回の裏も、結局は無得点のまま突入。後追い展開にさせないためにも、先制点は許したくないところである。
バッターボックスに入るのは体の大きな右バッター。最上は大きな構えのバッターにも臆せず、セットポジションから気楽に皆月のミットめがけて投げ込む。
「ストライーク」
初球はアウトローへと118キロのストレート。初球は見ると決めていたか、狙い球ではなかったか。とにかく見逃しカウント0―1とストライク先行。
『(さてと、ストレートの球筋を見せたところで次は……)』
最上は迷うことなくいつもの投球パターンで投げ込む。コースは甘くど真ん中。バッターの手元でわずかに沈む。しかしそのシンカーをバッターはジャストミート。打球はサード猿政の頭上をライナーで越えてレフト線を破る。
「回れ、回れぇぇ」
1塁コーチが腕を回し、バッターは2塁を狙うべくやや膨らみ気味に1塁を目指す。
「因幡ぁ。中継」
引っ張り警戒だったために早く追いついた因幡。中継の春馬へと送球。
「セカンド、間に合う」
2塁上では近江が待ち受けている。因幡からボールを受けた春馬はセカンドへと送球。一瞬はいい送球で2塁アウトと思わせたが、2塁ベース手前で失速しショートバウンド。
「あっ」
さらに近江が捕球できず後逸。2塁に滑り込んだバッターはすぐさま立ち上がり3塁へと向かう意思を見せるも、カバーに入っていたライトの楓音がボールを内野の寺越に返したのを見て、2塁へと戻った。
「ドンマイ、ドンマイ」
「こえぇよ。まさかウチの二遊間がミスするなんてよ」
寺越からボールをもらいつつ、感情を表に出す最上。
春馬が送球ミスをするのは珍しく、ショートバウンドと言っても近江の守備力ならば捕れない球ではなかった。ヒットであるのは違いなく記録上はツーベースではあるが、さきほどのプレーでアウトが取れなかったのは大きい。
『(ノーアウトで2塁。バッターは6番か……新田からの指示は?)』
『(相手の出方が知りたい。最上、1球だけウエスト頼む)』
『(了解。皆月、初球はウエスト)』
最上は帽子を正すようにつばに指を触れ、そしてユニフォームを直すような素振りで左肩にもさわってサインを送る。原則ノーサインのバッテリーではあるが、さすがにウエストボールはノーサインで捕れないため、それだけは最上からサインが送られるのだ。
内野陣が定位置に戻り、最上はセットポジション。2塁ランナーはリードを取り始める。バッターは早くもバントの構え。
「「リーリーリー」」
1塁コーチと3塁コーチの声が重なる。そこで皆月が構えたミットを下に降ろすと、春馬が2塁ベースへと走り、最上が2塁へと牽制を送った。帰るのが遅れた2塁ランナーはベースへと頭から滑り込み、ボールを受けた春馬がランナーの手にタッチする。
「セーフ」
ぎりぎりのタイミングも、なんとかランナーの手が間に合いセーフ。完全に虚を突いた牽制ではあったものの、ランナーがあまり積極的な走塁をしないタイプだったのがアウトにできなかった原因のようだ。
「最上。ナイケン」
「おぅ」
春馬は最上にボールを返しながら、それとなく指示を送る。
『(バッターの動きからしてバント。やらせてしまおう)』
『(バント警戒ね。やらせて3塁で殺すのか)』
春馬からのサインが内野陣へと伝わる。バッターは既にバントの構えをしており、猿政と寺越はやや前進守備を取る。最上の足が上がると寺越・近江は猛ダッシュ。猿政と春馬は2塁ランナーの動きを警戒しながらゆっくりと動く。
「任せろ」
最上の投球を当てた結果、打球はピッチャー正面への弱いゴロ。最上がマウンドを降りて打球へと向かう。3塁を空けた猿政に代わり、春馬が3塁ベースカバーへと向かうが、
「ボール1つ」
3塁は間に合わないと判断した皆月が1塁を指さす。ボールを捕った最上はためらうことなく1塁へと送球。1塁ベースカバーに入っていた近江が捕球しバッターアウト。彼女は3塁ランナーの牽制の意味で、ボールを持ったままでマウンド付近まで走っていく。
「ランナー3塁だけど楽にね」
「近江もな」
近江は最上の差し出したグローブの中にボールを落とす。
「内外野前進。内野、捕ったらボールバック。外野タッチアップあるぞ」
春馬の指示に、内外野が前進気味にと守備位置を変える。内野ゴロなら確実にホームでランナーを殺し、外野フライでも定位置ならタッチアップを許さないほどの前進守備だ。
「スクイズも忘れずにね~」
春馬の指示に付け加えるように、近江は大きな声で内野に言い聞かせる。
『(スクイズか。そう言えばそれも気を付けないと)』
最上は3塁ランナーの動き、バッターのしぐさ、相手ベンチの雰囲気などに注意し、スクイズに警戒する。
『(さすがに初球スクイズはないだろ。初球は通す)』
最上は3塁ランナー目で牽制しながらクイックモーション。
「ストライーク」
初球はバッターが見逃しストライク。ストライク先行カウントとなってボールカウントに余裕ができれば、向こうのチームはスクイズが仕掛けづらくなる。蛍が丘高校としては1歩有利に立つ。
『(向こうは次こそ外してくると思ってるだろうから、当然ストライク。となるとカウント0―2だから、スリーバントスクイズは考えがたい。スクイズ封じの鍵は初球ストライクってな)』
「ストライクツー」
あっさりと追い込んだ最上。
『(で、カウント0―2から遊んでくると思うだろ?そこで勝負するのが僕なんだなぁ)』
ランナーなど気にしない最上。彼のクイックモーションが始動。
その時だった。
「「「ランナー走ったぁぁぁ」」」
内野陣から声が上がる。
『(やべっ。スクイズかよ)』
視野の隅でホームに向かって走っている3塁ランナー。バッターはバントの構えに変わる。
ここから外すのは最上としてはできなくもないが、いきなり外せば皆月が捕れずに暴投になるのが目に見えている。こうなるとバッターのバント失敗か、内野陣に託すしかない。最上はやや高めを意識してストレートを投げ込んだ。
「マズイ」
バッターは高めのボール球を上げてしまい、3塁方向へのハーフライナー。捕られると判断した3塁ランナーは一瞬戻ろうとする。
「くそっ」
「くっ、届かぬかっ」
最上と猿政が飛びつくも捕れず。打球はサードとピッチャーの間を抜けた。それを見てランナーはホームへと再突入。ボールはと言うと……
「皆月っ」
3塁ベースカバーに入っていた春馬。3塁前に転々としていたボールを素手で掴み、ホームへとバックホーム。皆月が春馬からの送球を捕り、突っ込んできた3塁ランナーへとタッチしようとした。
「セーフ、セーフ。ホームイン」
しかしランナーは皆月の背後に回り込んでベースをタッチしてセーフ。
「セカンドぉぉぉ」
気を抜いていた皆月に、近江が怒号でバッターランナーを警戒させる。彼は立ち上がって1塁へと投げる素振りを見せて牽制。センター大崎が2塁に入っていたこともあり、バッターランナーは1塁へと戻り、無駄な進塁は阻止した。
だが、この試合の先制点は総合鈴征に入った。
「よ~し、先制点」
「センバツ出場校から1点取ったぞぉ」
「このまま守りきれば勝てる」
3塁側ベンチは盛り上がり始め、一方の蛍が丘高校にはやってしまったと言った悪い空気が漂い始める。極度の守備偏重型チームの蛍が丘高校。そんなチームが1点を失う事は、通常の『1点』よりも意味が大きい。
「こ、ここからだよ。ここから。みんな、気合い入れていこう」
近江が手を叩いて注目を集めながら喝を入れた。
まだイニングは浅い。ここからである。