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蛍が丘高校野球部の再挑戦 ~悪夢の舞台『甲子園』へ~  作者: 日下田 弘谷
第2章 『蛍光祭』開催 そして夏大へ
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第6話 歌って踊る二遊間

 かれこれ時間も6時半少し前。山陰となっている蛍が丘高校は、既に日が沈んでおり薄暗くなっている。そんな中でもほぼ最小限の照明しか使っていないグラウンド。掲揚台の正面に仮設のステージが作られており、さらにその壁面には『蛍光祭 カラオケライブ』の看板が掲げられている。


「ふぅ、やべぇ、緊張する」


「曲はこれでOK?」


 ステージ横の制御エリア。モニターの前に座ってカラオケの機械を操作している南は、春馬に画面を指さして曲を確認。言うまでもなく、まさかの先頭バッターとなった、春馬・近江コンビによる選曲である。


 曲は男女のコンビが歌っているそこそこ有名なもの。昔、野球ドラマの主題歌に使われたものと言うこともあり、近江も春馬も上手いかどうかは抜きにして一応は歌える。


「それでいい。しかし南もまだ仕事してるのか。午前中はクラス、午後は生徒会、夜は文化祭実行委員として」


「どこかの副会長さんと違って仕事熱心なもので」


「まぁ、欲を言えば、どこかの副会長みたいに質のある仕事をしてほしいものだけど」


 皮肉に対して皮肉で返す。マイク付きのヘッドホンを頭にした南は、「負けた」と言いながら机に手をつき項垂れる。


「ん……あ、そろそろ始めるよ。準備はいい?」


 南はマイクに向かって呼びかけたのち、立ち上がってステージ上の司会者、スタッフ、そして春馬と近江の2人を確認。


「はい、じゃあ、全員OKね。それでは開始します。3、2、1、スタート」


 ヘッドホンの左耳に手を当て、さらに右手でステージ上を指さすかっこつけ。そんな彼女の合図に合わせ、隣の2年生男子がボタンを操作する。すると一斉にステージ付近のライトが点灯し、蛍が丘高校グラウンドが1か所だけ極端に明るくなった。


『お待たせいたしました。それではただいまより、蛍が丘高校生徒会・文化祭実行委員会主催、カラオケ大会を開催いたします。司会は私、2年2組の小早川愛華です。今日はよろしくおねがいしまぁぁぁぁす』


 ライブのテンションで客席に手を振る女子生徒。今日のために準備したのであろう衣装は学校の基準服ではなく、桃色を基調とした派手なスカートである。


『終了予定は9時。それまでの約2時間半。蛍光祭終了までのラストスパートを、みんなで思いっきり楽しんでいきましょう。それでは早速参りましょう』


 彼女はさりげなく南の確認を取ってステージから客席に目を向ける。


『1組目は、蛍が丘高校と言えばまさしくこの人。高校野球界に革命をもたらした女子高生球児と、彼女を導く監督兼、選手兼、生徒会副会長のコンビです』


 これを聞いて客席にいる多くの人がざわめき始める。


『2年4組、近江美優さんと、新田春馬くんです。どうぞぉぉぉぉ』


「行くよ」


 近江が春馬を先導する様に手を出し、彼は彼女の手を握ると共にステージ上へ。最初で最後であろうと思われる、蛍が丘野球部・最強二遊間による1曲限定ライブが始まった。


―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――


 教室から2人のカラオケを眺めるは最上と楓音。


「去年の音楽で音痴を振りまいた新田とは思えねぇな」


「そんなにひどかったの?」


「すげぇ酷かった。高音が出ないみたいで、高音の時は声がほとんど出てない」


 1年生の3学期。芸術で音楽を選択した人はカラオケ大会があったのだが、春馬の歌は非常に残念であった。最上の指摘通り、春馬は高音の声が上手く出せない。彼自身、極力キーの低い曲を選択したのだが、それでも高音部分は存在するものであり、見事にその部分で爆死したと言うわけである。


「それにしては上手いな」


 しかし今の春馬にそんな感じはない。


「あの曲、男性パートは声低いからね。春馬くんには歌いやすそう。女性パートは声高いから、近江ちゃんにとっても歌いやすそうだし」


「楓音も行けばいいのに。なんなら僕とデュエットする?」


 ほんのり笑い気味に口にした最上であったが。


「アイスコーヒー1つ。注文入りました~」


「だって。お仕事しないと」


「面倒くせぇなぁ」


 夜の部の当番である最上は、仕事が入っている。ウエイターからの注文を受けて、調理場へと戻っていった。昼間の間に散々遊び倒した彼は、当然ながら夜には遊ぶ時間などほとんど存在しない。かろうじてラストの花火まで、1時間は自由時間であるくらいであろうか。


「頑張ってね~。あ、最上くん。私はオレンジジュース1つ」


「へいへ~い」


 窓際の席に座りながら2人からは目を離さない楓音。


 ステージ上では、近江が自己流の振り付けなのか右へ左へと歩きまわり、手足を忙しく動かしている。一方の春馬はほとんど動かず、時折リズムを取るために小さく手を動かすくらいである。もっとも騒ぎ立てる彼女に手を引かれて、右へ左へと走り回ることになるのだが、それもせいぜいラスト1分程度だ。


―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――


 近江に付き合わされたカラオケも終わると、それ以降は観客に混じって騒いだり、機械の誤動作を処理する時間稼ぎのため、南による即席単独トークショーを聞いたり。なんだかんだ言いながらも、割と楽しんでいた春馬。


 カラオケ大会が少し押してしまい、それが終わったのはほぼ9時過ぎ。それから花火への移行は少し時間がかかり、打ち上げは予定よりも遅れることとなった。


「春馬君……あっという間だったね」


「そうだな。僕はほとんど仕事してた気がしたなぁ」


 2人は誰もいない屋上に来て花火待ち。文化祭の間は立ち入り禁止にすることが生徒会の間で決定していたのだが、そこは春馬が職権乱用で乗り切った。ここまでの職権乱用を行う人間は、生徒会規約に基づいて解任されそうなものではあるが、一方で善政を心がけていたり、誰も目を向けない不良たちにも目を向けていたり、いい面も目立つ彼は、解任しようにもできないところがある。


「楽しかった?」


「仕事はあまり楽しくは無かったかな。警備して金券売って。楽しいよりも忙しいと言うのが先にあった気がする」


「夜は?」


「まぁまぁ楽しかったと思うよ。近江は?」


「私は春馬君と一緒にいられて楽しかったぁ。できれば、また一緒にこういうことしたいなぁ」


「そうは言っても、文化祭はもう来年だけだけどな」


「でも、夏祭りとかあるよね? 近くの神社とか公園で」


「学校行事じゃなくて地元の?」


 てっきり学校行事で他に祭りがあったのかと探してしまった。あと卒業までに残った行事と言えば、文化祭が1回、体育祭が2回、そして野外活動が1回。修学旅行は残念ながら島根のほとんどの公立高校には存在しない。


「うん。いつか行きたいなぁ」


「浴衣でも着て来るのか?」


「春馬君は私の浴衣姿見たい?見たいなら絶対着て来るけど」


「僕は別にどっちでも? ただ、見たことないから見れるなら新鮮かなとは思ったけど」


「春馬君が喜んでくれるなら着てくる~」


 なんだか知らぬ流れで夏祭りに行くのが決まってしまったようで。


「できれば夏祭りに行けないのが僕らにとっては最高なんだけど」


「なんで? 行きたくないの?」


「夏祭りに行くってことは、甲子園に行けないってことだぞ?」


「うぅ、そんな言い方酷い。始めから言えばいいのにぃ」


「ごめんごめん」


 近江の頭を撫でていると、屋上のドアが開く音がした。暗闇の中から出てきたのは、1匹のキツネと1人の女子学生。


「よっ。もしかして邪魔しちゃ悪かったか?」


「別に?」


「誰もないない屋上に、年頃の男子と女子が」


「最上。黙るかキツネそばになるか選べ」


「黙ろう」


 最上はそう口にしながら、持っていたビニール袋を床に置いた。


「これ。適当にそこらの屋台で買ってきた。飲み物は自販機だけど」


「おぉぉ。何があるのぉ?」


 袋を勢いよく開けて中を覗き込む近江。


「たこ焼きとか、焼きそばとか。飲み物はジュース類と、スポーツドリンク数本」


「だったら、だったら、私はねぇ、えっと~」


「そこまで喜んでもらえたら買ってきたかいがある」


 最上は適当な段差に腰かけ、何やら準備中のグラウンドへと視線を落とす。


「えっと~たこ焼きと、オレンジジュース」


「カラオケ前に散々食ったのに、まだ食うのか」


「おなか減ったぁ」


 近江は『タコヤキ』とペンで書かれた入れ物と、ペットボトルのオレンジジュースを取り出す。そして春馬のかいていたあぐらの上に、ゆっくりながら素早く座りこんだ。


「えへへ。ここが私の定位置」


「ふ~ん」


 ひざまくら事件があったせいか、謎の敵対意識を燃やす近江と、それを冷静に受けながす楓音。


「かの~ん。うらやましいでしょ? ねぇ、うらやましいでしょ?」


 しかし楓音はかなりの落ち着きを見せながら、無視する様に内ポケットから携帯電話を取り出して着信履歴をチェック。


「ほらほら。こうやってスカートをめくったり~、シャツのボタンを外して胸元を強調したりして、春馬君を誘惑とか~。あと、春馬君にスリスリ~」


「残念だが、この位置からはお前の頭で死角になって見えない。よってそれは無意味行動」


「そう言いながら、実はぐへへなんだよね? いいよ? 抱きしめても? 抱きしめたいでしょ? ナイスバディな可愛い女の子だもんね」


「そうか。だったら、少しいいか?」


「うん」


 春馬に抱きしめられるのか、それとも頭を撫でられるのか。心して待ち受ける近江。そんな彼女へ春馬が行ったのは……


「いい加減にしろ」


「ふぎゃっ」


 頭への鉄拳制裁であった。


「しゅ、春馬君。いつもいつも痛いよ?私の事、嫌い?」


「いやいや近江。嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろ?だから新田は、近江の事を嫁にしたいくらい好き……」


「オイこら、野良ギツネ。キツネそばとキツネうどん。どちらか選べ」


「すみません。せめて『黙る』と言う選択肢をください。それと『もがみ』でもいいんで、名前で呼んでください」


「えへへ~、春馬君、私をお嫁さんにしたいくらい好きなんだぁ。私も春馬君がだ~い好き」


「お前は誤解の生まれやすそうな発言をするんじゃない」


 近江は直球表現が多く、最上や楓音も彼女の大好き発言は聞き慣れたもの。それどころか、2人も彼女から大好き発言を受けた事があるくらいなのだ。とは言え野球部以外のメンバーは聞き慣れておらず、2年生の間で春馬&近江のカップル成立疑惑が持ち上がったこともあるにはあるほど。春馬としては近江の大好き発言は極力控えてほしいところではあるが。


「しかし、冗談抜きで新田にベタ惚れだよなぁ。もっともこいつ、かなりモテるタイプだから不思議でもないけど」


 最上は近江に続いて楓音に目配せ。それに気付いた楓音は視線を逸らす。


 そんな意味深なやりとりにも、まったく気付かない近江は春馬を見上げる。


「ねぇねぇ、春馬君、彼女いるの?」


「前も聞かれたような、聞かれて無いような……」


「話逸らさないでよぉ。いるの?」


 頬を膨らませる近江は、特に珍しくもなく見慣れた様子。


「いたら?」


「寂しくなる」


「あいにく彼女はいないな」


「本当? 浮気してない?」


「浮気の意味分かって言ってるのか?」


「仲のいい女子がいるのに、他の女子と付き合う事」


 間違いではないが正解とも言い切れない微妙なラインである。だが、むしろここは間違いと言っていてもいいのではなかろうか。


「春馬君は私だけの相方だもん」


「相方って、漫才コンビじゃあるまいし」


「じゃあ、私だけのモノ~」


「だから、語弊があるような発言はやめろと言ってるだろうが」


「ごへー?」


「近江ちゃん。誤解を招きやすいみたいな意味だよ?」


 楓音辞書が言葉の意味を教えると、彼女は春馬を見上げる。


「ごへーなんてないもん。春馬君は私のもの~」


「独占欲つえぇぇ。これは新田が将来、結婚しようものなら発狂しそう」


「結婚したら寂しくなる……」


「だったら、近江が僕と結婚するか?」


 春馬が冗談交じりに近江に聞いてみると、彼女は首を横に振った。


「結婚は面倒くさいからしない」


「生まれてこの方、最高に面倒くさい女子を見た気がする」


 最上は自身の頭を押さえる。重度の独占欲がありながら、結婚はしたくない。要するに一戦は越えない程度にベストフレンドでいたい様子だ。


「でも……」


 近江はほんのり上目使い。


「春馬君がどうしてもって言うなら、してもいい……」


「それはないから安心しとけ」


「安心する~」


 話もひと段落ついたところで、春馬は思い出したようにポケットに手を突っ込む。


「そういえばキツネそば。これ」


「キツネそばって……で、なんだ、これ?」


 春馬から何かを手渡され、最上は月明りに照らしながらそれを確認する。


「文化祭の金券。さっきお前が買ってきた分。来週あたりに余った金券は換金するから」


「いや、いらねぇって」


「いいんだよ、別に。生徒会の仕事で余ったやつを、給料代わりに正当にもらってきただけだから。ちょ

っと会長さんを論破して、残業代として多目にもらったけどな」


「お、まさしく『職権(食券)乱用』ってか?」


「食券じゃなくて金券だけど、まぁ、屋台で食い物を買えるって意味では食券か」


 ボケに対して真面目な返答をされ、ほんのり恥ずかしさが増す最上。そうしていると、まるでそんな彼を助けるかのように、グラウンドのステージから生徒会長・南の声が聞こえ始めた。


『花火の準備ができました。みなさん、カウントダウンをお願いします』


「お、新田。花火の準備ができたってよ」


「楽しみにしろや。教員との協議で、かなりの予算をぶち込んだ大花火だ」


 その予算の出所は、ある意味で野球部。春のセンバツ出場のためにカンパを募ったのだが、結果は1回戦敗退。それで大量に余った予算を、使える時に消費しようという魂胆である。


『それでは、5秒前』


 校舎やグラウンドから、聞こえるカウントダウンの声。


『4』「「「4」」」


「4」


 そこに近江も声を重ねる。


『さ……』


 直後。グラウンドの隅から天に向かって一筋の光が走り、大きな音を立てて花が開いた。完全にタイミングをずらしての奇襲であった。


「ありゃあ、南のヤツ。やっちまいましたなぁ。ここぞと言う時にリズム外しやがって」


「むしろあれは、打ち上げる側の問題じゃないか?」


 嫌味のように漏らす春馬に対し、南をフォローするような最上。


「そうかもしれないけどさぁ。ここぞとばかりに南を叩くスタイルで」


「まぁどっちでもいいじゃないか。ごたごた言ってないで、打ち上げ花火を楽しもうや。近江みたいに」


 気付くと近江は春馬のひざの上からいなくなっており、フェンスにしがみついて打ち上げ花火を凝視していた。そう言われては反論できない春馬は、他の3人と同じように夜空を見上げる。


 絶え間なく大きな花火が上がり、蛍が丘高校が明るく照らされる。


「うわぁ。きれ~」


「凄いな。よくまぁ、公立校がこんな盛大な事できたもんだ」


 近江と最上の2人は完全に花火にのめり込んでおり、春馬はスポーツドリンク片手に焼きそばを口にしている。普段なら近江がピッタリくっついている彼も、今となっては1人。


「隣、いい?」


「ん? 別にいいけど?」


 そんな彼の横へ、楓音は許可を取ってさりげなく腰掛ける。近江ほど接近してはいないが、ちょっとした動きで体が触れ合うような至近距離だ。


「春馬くん、そろそろ夏の大会だね」


「そうだな。来週が組み合わせ抽選会。3週間後には本番開始。もう残り1ヶ月切っているんだよな。あのセンバツ以降で初めての、甲子園を賭けた島根県大会」


 立ちはだかる敵は古豪・信英館学院大学附属高校に、去年は春夏連続で甲子園大会を果たした天陽永禄学園。そしてプロ注目の左腕変化球投手でありながら、打率5割・ホームラン2桁のスラッガーでもある日野啓二を有する大野山南高校。信英館ほどではないが、重量打線を誇る松江水産高校。ベスト8の常連と言われ、攻守に欠点のない安定した力を持った総合鈴征学院そうごうりんせいがくいん大学附属出雲共和(いずもきょうわ)高校。それ以外の無名校の中にも、必死の練習でレベルアップした学校や、才能あふれる新入生を迎えた学校もあるだろう。


 春夏共に甲子園優勝がかつてない島根県勢とは言っても、油断できる隙などは無い。


 今後戦う事になるであろう相手を思い浮かべる春馬の横で、楓音は内ポケットの中に右手を入れ、中に入っている物を軽く握りしめた。


「こ、これ。受け取って」


 楓音が握り拳を春馬の目の前へ。彼が手を出して受け取ったものは、手のひらサイズより一回り小さめの小袋。


「何、これ?」


「必勝祈願の手作りお守り。中身は見ないでね?」


 お守りを乗せた春馬の手を、包み込むように握る楓音。こうしたわずかな動作にも、彼女の顔はほんのり赤くなっており、そして心拍数も跳ね上がっているのだが、光源が花火と月明りくらいしかない屋上では、春馬も顔の変化に気付かず。心拍数に至っては分かるわけがない。


「なんで僕に? それとも、既に他のメンバーに渡してるとか?」


「春馬くんは、組み合わせ抽選会の時点から勝負が始まるからね。少し早めに」


「なんだか、マネージャーみたいだな」


「一応、マネージャーのはずなんだけどね」


 マネージャー志望で野球部に入ったものの、近江の策略によって部員の1人とされてしまったのも既に1年以上前。そう言う意味では、蛍が丘高校野球部の本当の女子野球部員は近江だけとも言える。


「楓音。もしも引退までの間に野球部の部員が増えたら、マネージャーに専念したいと思うことはあるか?」


「選手を辞めるって事?」


「一応は緊急時のために選手登録はするけど、本当に臨時であって、基本はマネージャー業1本って事」


 今は選手に余裕がないからこそ、彼女はマネージャーではなく選手である。一方でもしも選手が増えれば、彼女はマネージャー業に専念することもできる。


 1年前の彼女なら、間違いなく選手を辞めると言っていた事だろう。ところが今の彼女は、


「昔は下手で辞めたいって思ったこともあったけど、今はすごく面白いからね。もし部員が増えたとしても、私は意地でもレギュラーを守り抜くつもりだよ?」


 迷うことなく断言した。


 1年生の頃はフライやライナーはもとより、速いゴロも捕れず、遠投はせいぜい10メートル強。打者としては下投げでの緩い球も打てないほどだった。


 しかし今となっては打球の読みに優れ、蛍が丘高校の強固たる守備を支える右の翼。打席を右から左に変更したバッティング面は、バッティングセンターの150キロを当てるどころか、セーフティバントを始めとして、非力を補う技術力を身に着け大覚醒。


 クレーバーピッチングが得意な山陰の狐・最上。扇の要を司る皆月。地味ながら手堅い守備と巧打に優れる寺越。強打堅守の近江。打線の核を担う猿政。強肩といやらしいバッティングが魅力な因幡。攻守共に走力が光る大崎。そして彼ら彼女らをまとめるは、監督として優れた統率力、選手としても並はずれた守備力を有する新田春馬。


 そんな8人に比べると明らかに見劣りする楓音ではあるが、少なくとも足を引っ張るほどの力ではない。戦力として計算できる立派な実力を付けたのだ。


「ま、頑張ってな。今年の新入部員は結局0だったけど、来年は分からない。小中で野球やってたような連中も来るだろうから、下手したら楓音より遥かにレベルが高いかもな」


 中学1年から野球を始めたとしても野球歴3年。小学生からならそれ以上。一方の楓音は来年の時点で野球歴2年になる見込み。経験の差がそのまま実力になるとは限らないが、全く持って無意味な差と言うわけでもないだろう。


「大丈夫。自信はある。ライトのレギュラーは引退まで私だけのものだから」


 夏大会を前に、高校野球と言うものに対して決意を固める。


「頑張れよ。来年にならないと分からないけど、監督としてレギュラー選抜は容赦するつもりはないからな」


「うん」


 元気よく返事を返す楓音。良い感じに話も終わった当たりで、春馬が「ところで」と一言置いた。


「いつまで僕の手を握ってるんだ?」


「へ?」


 よく見ると、彼女の手は御守りを渡した時のまま。彼の手を包み込むように握って微動だにしていない。


「あ、え、そ、その、ご、ごめん」


 恥ずかしかったのか、俯き、そしてスカートの端を両手で握りしめる。


「いやいや、気にするな」


 彼女の頭を撫でるように叩く。


「さてと、楓音からプレゼントももらったことだし、まずは今度の組み合わせ抽選会。がんばりますか」


『(ま、くじ引くのはアイツだけど)』

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