表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛍が丘高校野球部の再挑戦 ~悪夢の舞台『甲子園』へ~  作者: 日下田 弘谷
第2章 『蛍光祭』開催 そして夏大へ
16/122

第4話 始まる文化祭は動乱の日

 いろいろな寄り道や、南・枢軸勢力と新田連合勢力の抗争もあったなか、なんとか迎えた6月中旬の文化祭。やや雲が多めではあるが、それでも空全体のうちに5割程度と、天気予報的には十分に晴れの定義を満たしている。むしろ日の光が常に差し込む快晴に比べてこれくらいの方が、気温が上がらず過ごしやすいとも言える程よいラインである。


「ねぇねぇ、春馬君。可愛い?」


「たしか、1週間前の試着の時も聞いてたよな」


「ねえぇぇぇ」


「はいはい、可愛い、可愛い」


 小さなエプロンを付けたウエイトレス・近江の質問に、調理担当と言うよりは科学者や医師を思わせる白衣の春馬が適当に返す。するとそうした適当な反応でも嬉しかったのであろう彼女は、満面の笑みを浮かべて春馬の隣に座る。


「でしょ、でしょ。撫でて~」


「どうしてそうなるんだよ。お前の話の流れは分からん」


「えへへぇ」


 と言いながらも頭を撫でてしまうあたり、面倒見がいいことこの上ない。撫でられ始めて10秒くらいは気持ちよさそうな目をしていたが、それ以上経った時だった。何かに気付いたように彼の顔を見上げる。


「暇ぁ」


「仕方ないだろ。朝からそこまで客が来るとは思えないし」


 開門から30分。2年4組の喫茶店には数人の客がいるものの、にぎわっているとは言い難い状況である。カーテンで仕切られた教室の前半分にあたる調理場では、担当の何人かが座って仕事を待っていた。


「でも、少し暇過ぎない?」


「どうせ忙しくなったら忙しくなったで、疲れたとか言うんだろ?」


 近江の愚痴に春馬は廊下の様子を遠目に確認しながら答えた。


「いいじゃないか。午後から遊べるし。僕はクラスの担当が終わったら、生徒会の仕事に引っ張り出されるわけだしな」


 袖をめくりあげると、顔を覗かせたのは『蛍が丘高校生徒会』と書かれた腕章。


「春馬君、忙しいの?」


「忙しい」


「じゃあ、一緒に文化祭、遊べない?」


 弱弱しく目を細めて俯く。


「昼の部の間にもいくらかは休憩時間があるけど、ほとんど授業の合間の休憩みたいなものだからなぁ。1番長い昼休憩でも、ほとんど昼食取ったら終わりだし」


「うぅぅ」


 小さく唸り声を挙げながら、春馬の袖を右手で掴む。


 前々から一緒にまわりたくて楽しみにしていたのに、春馬が忙しくて一緒にいられないのを知って、非常にショックだったようだ。


「そんなに寂しがるなって。夜の部はそこそこ時間があるし、昼の部だって仕事が順調に行ったり、問題が起きたりしなければ時間に余裕ができるかもしれないからな」


「だったら……」


 近江がほんのり上目づかいで春馬を見上げる。


「時間が空いたら、一緒に文化祭まわれる?」


「分かった。時間が空いたら、な」


「……指切り」


「はいはい」


 近江が小指を差し出すと、春馬も小指を出して絡ませる。


「指切りげんまん、嘘ついたらハリセンボンの~ます。指切った」


 そう言って指を解く近江。そこで春馬は彼女の言葉の発音に違和感を覚えて聞き返す。


「針、千本?」


「ハリセンボン。お魚だよね?」


 口語にして微妙な差である。もっともハリセンボンも漢字で書けば『針千本』で、名前の由来はそのままであるため、あまり気にするほどの問題ではない。


「まぁいいか。無いとは思うけど、あまり問題ごと起こすんじゃないぞ。僕としても面倒だし、何より野球も夏寸前だから。それと、一応は4組の人間として仕事を頑張れよ」


「うん。頑張る。ものすごく頑張る。だから、約束忘れないでよね?」


「はいはい」


「何時くらい?」


「知らん。けど、多分は5時くらいじゃないか?」


「分かった。じゃあ、5時に渡り廊下のところで待ってる」


 待ち合わせの約束も終わり話題に一区切りついたところで、近江が春馬へと両手を伸ばす。


「春馬君。暇だからだっこ~」


「ふざけんな。支え切れねぇよ」


 支えられるならOKのような言い方である。


「そんなに重くないもん」


「何キロ?」


 春馬が聞き返すと、周りの女子から「え?年頃の女子に体重を聞く?」と言うような目が向けられる。が、近江は女子であって女子ではない。


「45キロ。去年と比べて2キロも増えた~」


 体重増加も嬉しそう。理由は『体重が増えればホームランが打ちやすくなるから』であるのだが、近江らしいと言えば近江らしくもある。


「身長は?」


「149、8センチ」


 BMIで言えば標準ではあるが、他の女子に比べれば重め。にもかかわらずこれと言って太っているように見えないのは、数学や物理的な話にすると体内の密度の問題であろう。


 そうしているとホールから店員を呼ぶ女性の声。いつのまにやらお客さんが来ていたようである。


「すみませ~ん」


「はい、近江。GO」


「緊張する……」


「大丈夫。客は厳ついお兄ちゃんじゃなくて、女子大学生っぽい人の3人組」


「うん。行ってくる」


 近江は注文を取るためのメモ用紙とボールペンを手に厨房を出ると、手を上げていた女子大学生の元へと走っていく。するとそんな彼女の走り方を見て、女子大学生たちが生まれたての子犬を見るように目を輝かせる。


「ご注文をおねがいします」


「見て見て~、この子、凄く可愛い~、頭撫でていい?」


 彼女はそう聞くと、近江の返事を待たずして近江の頭へと手を乗せた。


「すごく気持ちよさそうな顔してる~、こんな妹欲しいなぁ」


「あんたって、昔から可愛いものには目がないもんね」


「私も可愛いと思う~、今度は私が撫でてみていい?」


 ウエイトレス近江を取りあい撫であう。近江はこれと言って嫌がるようなそぶりもみせておらず、客が困っているわけでもないため、春馬たち店員も救援には向かわない。もっとも面倒だからと言うのもある。


「ねぇねぇ、あなた、なんて名前~」


「おおみみゆ……」


「おおみさん? どんな字? 大きな海とか?」


「『近い』に、江戸の『江』です」


「へぇ、近江さんかぁ。良い名前~」


「じゃあ、近江さん。私はアイスコーヒーと~」


「はい。アイスコーヒーひとつと……」


 女子大生が注文を始めると、近江はメモ帳にメモを取り始める。


「意外と近江って人気だな。あいつ、女子から見てどうなの?」


「どうって」


「言われても……」


 春馬がふとクラスメイトの女子に聞いてみるが、彼女たちはあまり歯切れのよくない返答。


「私たちはあまり思う事はないけど、年上には可愛く見えるんじゃないかな」


「ふ~ん」


 最終的には調理器具のチェックをしていた女子が答え、春馬も相槌を打つ。


「それじゃあ、近江さん。頑張ってね」


「ファイト」


「グッドラック」


「頑張ります」


 近江は3人の女子大生に励まされながら調理場へと早歩きで戻ってくる。


「春馬君。えっと」


「僕じゃなくてみんなに」


「う、うん。えっと注文は、アイスコーヒー3つと……」


 近江の注文を受けて厨房が忙しく動き始めた。


「それで、春馬君」


「ん?」


「『ドッグラン』ってどういう意味?」


「犬が遊べるとこだけど、おそらくは『グッドラック』の聞き間違いだろうな。頑張れって意味でいいと思う」


 さすがに同じ教室内とあって春馬にも女子大生と近江の会話が聞こえていた。もしも聞こえていないとすれば近江が謎の言葉を記憶していただけに、客が少なかったのはある意味でよかったとも言える。


―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――


 春馬―近江の黄金コンビは野球以外でも発揮できるようである。昼前と言う喫茶店の混雑期に、この2人が絶妙な連携で対応。ドジっ娘の近江が注文の品をひっくり返すのでは? などと事前には心配もされていたが、小学校時代から一本足を続けており、守備の名手でもあるだけあった。驚異の体幹と、優れたバランス感覚で、ドジっ娘の「ド」の字も見せない素晴らしい働きっぷりを見せたのだ。そして春馬は、彼女と無言の連携をいとも簡単に成し遂げ、4組の喫茶店を支えた。


 そんな午前中の4組の仕事を終え、午後からは生徒会の仕事を引き継ぐことになる。そして春馬へと引継ぎが終わった途端に面倒な緊急事態が起きたのであった。


「あぁん? なんだって?」


『えっと、その、南さんが他校の生徒に……』


「しゃあねぇなぁ」


 緊急連絡を考えて番号を教えていた春馬の携帯電話へ、1年生の文化祭実行委員女子から連絡が入った。


 事態を煎じ詰めて言えば、他校の生徒が蛍が丘高校の1年生女子を校舎裏の駐車場で口説いていたとのこと。そしてそれを拒否した時、逆上して恐喝に。そこへ偶然、南が通りかかって介入したのだが、さらに一触即発の状況に。彼女に付いていた女子実行委員が連絡を入れてきたのだ。


『(まったく、あの馬鹿が)』


 大崎ほどではないにせよ快足を飛ばし、俊敏な動きで障害物や人を回避。奇異の目で見られる中、ポケットから『蛍が丘高校生徒会』と書かれた腕章を取り出し、左腕にくぐらせる。


 玄関から飛び出し駐車場へ。さらに3塁を蹴ってホームを突くランナーのごとく、校舎の角を曲がって現場へと向かう。


『(あれかっ)』


「生徒会副会長兼、文化祭実行委員長だ。ちょっとケンカをやめようか」


「なんだお前」


「お前もやられたいのか」


 睨みを利かせる2人組。しかし春馬は勝利への確信を得る。


「制服からして……大野山南高校か」


「おぉやっぱ分かるか。やっぱ有名だもんな」


「そりゃあ、進学校だし、野球部も強いしなぁ」


 両名、胸を張る。さらに春馬はさりげなく立ち位置を変え、肩から掛けているカバンの名前を確認。右手に持っていた携帯電話を開くと、自然な流れで操作し、即座に耳に当てる。


「お、お前、何やってんの? まさか警察とか」


「そんなわけねぇだろ。警察が来るかよ」


 あわてる2人だが、春馬は小さくため息。


「あいにくな。蛍が丘交番に大崎さんって言う、島根県警の知り合いがいるけど、こんなことじゃ呼べねぇよ」


 そして電話がつながり、ある人物の声が聞こえるのを確認してから話しだす。


「実はそっちの『斉藤』って奴と、『小崎』って奴が蛍が丘の文化祭で悪さしてまして……はい、はい」


 さらにその電話を2人に手渡す。


「はいよ、電話」


「な、なんだよ、急に」


 急な事に驚きながら、とりあえず電話を受け取る。


「だ、誰だよ」


『はいは~い、大野山南高校野球部のキャプテンでエースの日野啓二さんやでぇ~。因みに、偶然やけど横に監督もおるで~』


 声がスピーカーから漏れていることもあり、2人揃って顔面蒼白。


『その前におる人、ワイの親友で新田春馬君やで? 気付かんかったんか?』


「え……あ、そ、その……」


『いやぁ、大変やなぁ。他校で問題起こすって、これはレギュラー無くなるどころか、下手したら除名処分やな』


 電話の相手は警察よりも怖い相手であった。そしていったい何が起きているのか分からない南は、春馬の肩口を指で突く。


「ね、ねぇ、新田。誰と繋がってるの?」


「あの2人の先輩で野球部のエース」


「野球部のエース?」


「うん。あの顔、春に大野山南と練習試合をした時にみた記憶があって、もしかしたらと思ったらご名答」


 他にも、彼らが肩から掛けているカバンが、まさしく野球部のそれであったことも判断材料になったわけだが。


「は、はい。すみません。……あ、あの新田さん? 電話」


「うっす。で、日野さんはなんだって?」


「あの……新田さんに変わってほしいと。それと、あの……」


 2人は息を飲んだのち、大きく頭を下げた。


「「すみませんでしたぁぁぁぁぁ」」


 そして全力疾走で逃げて行った。


 その背中を途中まで目で追いつつ、しかし電話を待たせていることもあり、すぐに電話へと出る。


「はい。電話代わりました」


『あのな、新田君。ほんまごめんな。後ろで監督も平謝りや』


「ほんと、部員数の多い所は管理が大変そうですね」


『せやな……』


 明らかな皮肉なのだが、今回は大野山南に非があることもあって、あまり強く出られない様子。むしろ腰を低くしたまま話を続ける。


『なぁ、新田君? あまりな、大きな顔して言えへんのやがな?』


「はい、なんですか?」


『今回の事、黙っててくれへんかなぁ。ワイかて甲子園出たいんや。対外試合禁止なんてキツイわ』


「大野山南を甲子園に行かせるわけないじゃないですか。何言ってんですか?」


『そこをなんとか。頼むわ。ワイと新田君の仲やろ?』


「ダメです。地区大会(・・・・)で僕らが止めます」


『そっか……じゃあ、仕方ないなぁ。ワイらも実力行使させてもらうわ。地区大会(・・・・)で蛍が丘を迎え撃ったるからな』


「はい。楽しみにしてます」


『ほな。今回はほんま、すまんかったな。そのうち、直に謝りに行くわ』


 一触即発の空気から一転、和やかな空気に変わってから通話が切れる。それが終わってしまうと、遠くから文化祭ゆえの騒がしさが聞こえる程度で、この近辺からは小鳥の鳴き声が聞こえる程度だ。


「さて、一件落着だ」


「……えっと、うん。ありがと」


「どういたしまして」


 思いがけない終焉に、リアクションの取りづらそうな南。


「ちょっと思ったんだけど、もしケンカになったりしたらどうするつもりだったの? 見た感じ、先生とかも呼んでないみたいだけど」


「先生は呼んでないけど、助けは呼んでたよ」


「へ?」


「すみませ~ん。大丈夫です。解決しました~」


 彼が振り返って手を振ると、車や植木の陰から3人の人影が。


「えっと、あの人たちは?」


「ん? 蛍が丘高校不良同盟のみなさん」


「はい?」


 見ると、校則では髪を染めるのは禁止にもかかわらず、金髪にしているにぃちゃん2人、ねぇちゃん1人。手にはタバコの箱で、制服のポケットからは短い金属の棒が見える。


「なんだよ、終わったのか?」


「あの、その、あの……」


 完全に怯えており、正気ではない南。しかし春馬はいたって冷静。


「はい。さくっと」


「おい、新田ぁぁぁ」


 番長格なのであろう男子学生が春馬の前に歩み寄り、彼の顔を睨みつける。そして他の2人は彼を囲むように立つ。


「怪我、ねぇか?」


「大丈夫か?」


「野球部の大事な選手だからね」


「はい。大丈夫です」


「「「いやぁ、よかった」」」


 再び張り詰めた空気が、また和む。


「困った事があればぜってぇに呼べよ。てめぇが手ぇ出したら、野球部の問題になっちまうんだからよぉ」


「はい。ありがとうございます。それでですけど~」


 厳つい不良たちにも正面から向き合う春馬は、彼の手にあったタバコの箱を指さす。


「校内は禁煙。それと20歳以下は犯罪ですよ」


「ちょ、新田?」


 いくらなんでも言いすぎと、あわてふためく南だが。


「あぁ、すまねぇ。これはポイ捨てされてたやつでさぁ。ちゃんとゴミ箱に入れとかねぇと、って拾ったんだ。吸ってたわけじゃねぇ。だいたい、タバコはおめぇに言われて、春先にやめたしよぉ」


「そうでしたか。疑ってすみません」


「いやいや。良いって事よ。それじゃあな」


「はい。ありがとうございました」


 軽く会釈して彼らを見送る。2人の男子はかっこつけて素っ気なく、女子は笑顔で小さく手を振りながら、雑踏の中へと消えて行った。


 2段階の緊張感を駆け抜けた事で、完全に脱力してしまった南。コンクリの地面へとへたりこんでしまう。


「南。スカートが汚れるぞ」


「い、今の何?」


「友達」


「と、友達ぃ?」


「サボり友達。以前の春季大会も学校をサボって応援に来てくれたし、甲子園の後にマスコミに追っかけまわされた時も、問題にならない程度に守ってくれたし。割と仲良いぞ」


 彼女としては、彼の腕章に書かれた『蛍が丘高校生徒会』の文字の正しさが疑わざるをえなくなる。


「ねぇ、あんた、本当に優等生?」


「いや。僕は生まれてこの方、一度も優等生だと思ったことなんてねぇよ。時に南。あんまり怖がらなくてもいいぞ。あの人たちだって、根はいい人だから。周りが怖がったり避けたりするから、あの人たちも反応せざるをえないんだよ」


「それはそうかもだけど……だって金属の棒を持ってたでしょ。あれ、武器でしょ?」


「あれはたしか、飴玉を入れたケースじゃなかったっけ?」


「へ?」


―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――


 午後も様々な騒動が立て続けに起きることとなった。昼過ぎのケンカに続き、3年生のオブジェが倒壊して廊下を塞ぐ。迷子の幼稚園児の発見。落し物の捜索。等々、『文化祭本部』もとい生徒会室は夕方まで騒がしくしていた。


 そんな春馬のあわただしい午後の部も終了し、夜の部は文化祭実行委員長がメインとなって、彼の仕事を引き継ぐ。はずだったのだが、委員長はクラスの仕事が忙しかったらしく、少し予定の時間よりも押してしまう事態となった。


「あの馬鹿。早めに来いって言ったのに」


 遅れてきた文化祭実行委員長の女子の顔を思い浮かべつつ、左手に付けた腕時計へと目線を落とす。既に短針は5の位置を通り過ぎており、長針も今となっては4の位置を指そうとしている。


『(まずいな。近江との約束は5時だったし、だいぶ過ぎてる)』


 約束の時点では「5時くらい」と曖昧な言い方をしておいたが彼女の事だ。きっと「5時ジャスト」と受け取っているに違いない。


 春馬は夜の部とあってかなり多くなってきた人の中をかき分け、約束の場所を目指す。さすがに東京のラッシュアワーの通勤電車とは言いすぎだが、それでもそこそこの混み具合であろう。


 ようやく渡り廊下のところまで来たが、そこに近江の影は無かった。尻尾をパタパタさせている小動物のように待っていることを想像していたが、その予想を裏切られる形となった。


「トイレかな? それか、知り合い見つけたか。さすがに20分もオーバーしちゃったし」


 時計を見ながら1人ごとを漏らした時、誰かが後ろから抱きついてきた。


「むぎゅう。だ~れだぁ」


「変質者」


「うぅ、違うもん。変質者なんかじゃないもん」


 近江であった。柱の陰に隠れていて、春馬が背を向けた瞬間に飛び出してきたようである。


「春馬君、遅刻~。ずっと待ってたんだよ?」


「いや、文化祭の仕事だからさぁ」


「遅刻ぅぅぅ」


「はいはい、悪かった」


 春馬は謝罪の意味を込めて近江の頭を撫でる。このくらいで機嫌をよくするのだから、良く言えば手間のかからない、悪く言えば単純な女子だ。


「えへへぇ。春馬君は、これからはお仕事ないの?」


「うん。お呼び出しがあれば話は別だけど、呼び出しなら呼び出しで、生徒会長の南が優先だろうよ。あいつに処理できなければ僕にも来るかもしれないけど」


「えっと、それってつまり、お仕事は無いの?」


「緊急の仕事はあるかもしれないけど、現時点での仕事は無いかな」


「やったぁ。だったら、だったら」


 近江はポケットに入れていて円筒状になったパンフレットを取り出し、迷うように眺め始める。


「近江は昼の間は何してたの?」


「暇だったから、みんなのところ行ってた」


「みんなって、野球部の?」


「うん」


 野球部のみんなのところ。とは言っても、野球部は2年生に集中しており、なおかつクラスが4つしかないため、近江は4時間ほどありながら、自分のクラス以外の3つしか回っていないことになる。


「他に友達作れよ」


「いいもん。春馬君との夜が本番だもん」


 誤解を招くような絶妙な発言をしながら春馬の前にパンフレットを出す。


「おなかすいたぁぁ。何か食べたい」


「何食べたいの? つーか、昼は何食べた?」


「あんまり食べてない。つまみ食いしすぎて食べれなかった」


「お前って奴は……」


 春馬も午前中のつまみ食いで今までもたせたので人の事は言えないが。


「私はね~私はね~えっとね~、いろいろ食べたい」


「食べ歩き?」


「食べ歩き」


「まぁいっか。じゃあ、適当に歩き回りながら、食べたいものがあったらほどほどに食べようか」


「うん。あ、春馬君」


 予定が決定したところでとりあえず歩き出した春馬であったが、彼を近江が呼び止めた。彼女は俯き気味に開いた右手を差し出す。


「手、握って」


「はぁ、仕方ないな。この混雑で別れても面倒だしな」


「えへへ、ありがと~」


 午前は仕事。午後は春馬の生徒会としての仕事と、文化祭であるにも関わらず楽しめたとは言い難い。しかし夜からは春馬と一緒に回れる。今日1番の満面の笑みを春馬に向けて、近江の楽しい夜の部が始まった。


―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――


 春馬と楽しそうな近江。手をつなぐ2人を3階から見つけ、小さくため息を漏らす女子生徒が1人。そんな彼女の前に紙コップが差し出される。


「麦茶だけどいい?」


「うん。ありがとう。最上くんは、お仕事いいの?」


「まだ夕食時には早いし、今は小休憩ってとこかな。あと30分くらいで忙しくなるだろうなぁ」


 最上は楓音の横に窓を背にしてもたれかかる。まるで会社で失敗した平社員と、他の部署に行った仲のいい同僚の光景である。


「どうしたよ。昼の仕事も終わって疲れたとか」


「ううん。おやつ時は少し忙しかったけど、あまりそんなことはないかな」


「じゃあ楽しめばいいのによ。せっかくの文化祭だぞぉ」


「うん……そうなんだけど……」


「恋煩い、とか?」


 最上が意地悪そうに口にすると、お茶を飲んでいた楓音が急に咳き込んだ。そしてすぐに最上の方に向きかえると、顔を真っ赤にして反論をしようとする。しかしどう反論したものか分からないため声が出ず、時間経過とともにどんどん顔が赤くなっていく。


「お、図星?」


「そ、そんな、そんなことは」


「別にごまかすことはないって。そうだとしても、別に冷やかす気はないない。なんせ僕は、小学校時代に結婚を約束した相手がいたくらいだから」


「あ、そういえば」


 たしかにそうである。これが他のクラスメイトなら冷やかしてきもしただろうが、目の前にいるのは自称・一途で、しかも今現在も彼女の事を思っている最上義光である。


「さしずめ、その相手は新田、と言うと面倒だな。春馬か?」


 楓音は顔をさらに赤くしながら俯く。


「あながちウソでもないってとこかな」


「最上くんはズルい。人の心がなんで読めるの?」


「ただ過去の自分と照らし合わしてるだけ。自分ならこう思う。自分ならこう考える。みたいにね。本題に戻るけど、そこまであいつの事が好きなら、今日もあいつと一緒に回ればいいだろうよ。別に拒否したりはしないさ」


 伊達に頭だけで相手を抑え込む変則投手でない。


「でも、近江ちゃんが……」


「あいつは気にすることはない。近江は新田と仲がいいけど、あれは友人や仲間としての信頼関係であって、恋愛関係じゃない。要するに新田は今のところフリーだ。陰で彼女作ってたら知らんけど」


 非常に説得力がある切り返しだった。春馬と近江が恋仲ではないと言うのは、そもそも春馬と近江自身から公言されているものである。時折近江は春馬といちゃつくこともあるが、それは彼女が人懐っこい性格であることを考えれば納得がいく。何より、近江が春馬とよく一緒にいるため誤解されるが、そこにいる最上とも非常に仲がいい。撫でられて笑みを浮かべるのも、春馬に対してだけではないのだ。


「でも、やっぱりいい」


「どうして? 別に恋愛するのは人として至極当然の事じゃないか?」


「いいの。なんだかこの恋心、今以上に春馬くんに近づいちゃったら抑えきれなくなっちゃう気がする。でも、春馬くんは私と同じ部の部員。あまり恋愛関係持っちゃうと、チームが崩壊しちゃうから」


「たしかに。それは案外的を射た事だな」


 彼女の思いは1つ。春馬の事が好きである。彼に近づきたい。しかしその感情を、野球部員としての立場がストップをかける。選手兼任ではあるが、監督と選手の関係。下手な関係はチームの和が崩れかねない。


 2つの立場の新田楓音が、相反する2つの思いをぶつからせ、答えを導き出す。


「うん。だから、私はこのままでいい。今まで通りに接して、それで野球部を引退したときが、私の勝負どころ」


「そっか。あまり人の恋路に踏み入るのもなんだしほどほどで引いとくけど、何か相談事があったら自由に言えよ。もしも協力してほしいって言えば、できる限りの事は協力してやるからさ」


「ありがとう。でも、なんだか最上くん、すごく積極的だね」


「恋愛経験者だからかな。他人ごとに思えないんだよな。自分の恋が叶わなかったから、他に人の恋を成功させたいってのもあるのかもな」


 説明しながらも小さく笑う最上。


「それじゃあ、そろそろ教室に戻ることにするよ。今日は祭りだし楽しめよ」


「うん。ありがとうね」


 彼は楓音の手から空になった紙コップをさりげなく取ると、教室へと戻って行く。


「ねぇ、最上くん。最後にひとつだけいい?」


「相談?」


「どちらかと言うと質問かな。なんで最上くんの恋は叶わなかったの?」


「なんでって、小学校卒業前に……」


「あ、ごめん。言葉足らずだったね。中学が遠くても遠距離恋愛って手段あったよね。なのにそれをできなかった理由って言えばいいかな」


 楓音は言葉の選択に迷いながらも最上の背中に問いかける。


「そう言う意味で、なんで恋は叶わなかったの?」


 最上は黙りこくるも、わずかに時間をかけて1つの言葉をひねり出した。


「不運、かな」

狐の恋模様も少し入れました

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ