第8話 能ある狐は何かを隠す
皆月が右バッターボックスへ。
同じ低打率でも近江のように一発があるわけでもなく、楓音や最上のように小ざかしい手を使うわけでもない。ただただ打撃下手なだけではるが、代打を出すような選手もいない以上は彼に頼らざるを得ない。
マウンドの赤月は3塁ランナーの沖満に目をやった後、ユニフォームの袖で額の汗を拭う。
「さすがに相手もしんどいか。天陽永禄との連投でどっちも1点差の接線」
その様子を見ながらつぶやく春馬。それにネクストの最上が答える。
「こうなると正直、どっちが上がっても地獄だわなぁ」
「・・・・・・そっか。信英館はさすが強豪か」
そしてその最上の返しによって春馬が気付いた。なぜ信英館が蛍が丘高校に塩を送るような真似をしたのか。過去に負けて苦手としている蛍が丘はなんとしてでも潰したほうがいい。それでも情報をくれた理由に。
大田山吹は赤月という最強のカードを使い減らし、蛍が丘も近江という中核選手を失った。もう両者、次なる相手・信英館に勝つ力は残ってなどいないのだ。
だがそんなこと両者分かっている。
それでもこの試合に負けることはできない。
これは最後の夏。しかしこれを最後の試合にはしたくはない。
その思いをこめた赤月の初球――
「うげっ」
「「「当たった」」」
皆月のデッドボールに全員の素っ頓狂な声。
「皆月っておいしいよな・・・・・・芸人なら」
「芸人ならね~」
春馬による心配の欠片も見えない一言に、楓音も痛烈な一言で続く。
「ナイスデッドボールです。皆月先輩」
「うぅ、なんで俺ってこんな役回りなんだよ」
「おいしいですよね」
「どこが!?」
さらに1塁コーチの島沢も同じ発想のようで。
何はともあれ、なんとか沖満と皆月を塁に置いて打順を回せた。バッターは曲者、最上。
すると彼、打席に入る前にベンチへと振り返った。
「新田。近江のために勝ちたいのはお前だけじゃない……やっていいか?」
「分かった。任せる」
春馬は頷いた。
彼は何かを決したように一旦タイムを要求。ベンチに戻った最上は、楓音が外したレガースと肘当てを借りて打席へと向かう。そう、楓音のものを借りた。
『9番、ピッチャー、最上君』
そして彼は、左バッターボックスへと踏み込んだ。
『(大丈夫か? 最上。お前の左打ちなんて、学校のソフトボールと、打撃練習でたまにしか見たことねぇぞ)』
しかし彼は右よりも左の方が打撃は優れているタイプである。にも拘わらず右打席に立っているのは、彼は右投げのピッチャーのため右腕を保護する目的だ。だがこの状況、そんなことは言ってはいられなくなってきた。唯一の懸念はまともに練習しているわけではない逆打席でどれほど対応できるかであるが、この危機的状況において、能あるキツネが隠していた牙を見せた。
「タイム」
その動きに相手が守備のタイムを掛けてマウンドに上がる。そしてベンチからも監督から指令を受けた伝令が飛び出す。
ただピンチなだけではなくバッターは足の速い選手である。そんな彼が左バッターボックスに入ったのだから、ここは注意すべきところでもある。
対する春馬はもう最上にすべて任せたとばかりに伝令は出さない。
3塁ランナーの沖満や、1塁ランナーの島沢との打ち合わせもない。その守備タイムを個人が集中する時間として用いる。ただまったく何もしないというわけにもいかないだろう。
「楓音。3塁コーチ。鍋島とチェンジ」
「う、うん。沖満さんに伝令?」
「いや。むしろ鍋島にブルペン入りの」
「このタイミングで?」
「守備から帰ったタイミングで言おうとしたけど、タイミングを逃してた」
「了解」
代わりに楓音を3塁コーチに走らせる。
赤月がこれだけ疲労しているのである。
最上ももうそろそろと見て間違いはないだろう。
伝令を受けた鍋島が3塁から戻り、打順の遠い猿政を連れてブルペンへ。そうしていると相手の守備のタイムも解散。
そうして相手の引いた守備陣形は前進守備。ファースト・サードがそれぞれ1塁・3塁ベースから離れているあたり、ランナー無視のセーフティ封じと見て間違いはない。
タイム明け、相手の初球。
赤月の投球モーションに合わせてキャッチャーが大きく外す。最上の出方を見るかのような動きであり、ファーストやサードにはわずかにバントを警戒するような前傾姿勢の構えも見せた。
ただそれでも最上は一切の動きを見せない。
相手にとっては一切何を狙っているのか分からないだろう。
カウント1―0。
大田山吹にとって状況が読み込めない中で第2球。
『(インコースっ)』
皆月へのデッドボールが頭の中にあるものの、そんな状況で投じられた148キロのストレート。これを最上は芯で捉える。
「「「抜けたぁぁぁぁ」」」
抜け球を捉えた最上の一打は、一二塁間をきれいに破ったライト前ヒット。3塁ランナーの沖満が悠々とホームを踏む。天陽永禄ほどの強豪が取れなかった1点を、貧打の蛍が丘がもぎ取った。
この動きに意気上がる蛍が丘高校だが、もう1つ動きを見せる学校があった。
「田部さん。そろそろ帰ります」
「え? いいところですよ?」
「赤月は1回戦の天陽永禄、2回戦の蛍が丘と度重なる接戦で疲弊している。おそらく試合間隔がさらに狭まる3回戦では、登板回避か、投げても調子が出ないか。エースがそれならば、信英館は負けることはない。そして蛍が丘高校が勝ち上がってきたとしても、蛍が丘には悪いが――」
彼はバックスクリーンの5番バッターを目にする。
「打撃の軸でありながらセンターラインを担う近江美優。彼女がいない蛍が丘高校は怖くない」
堅牢な守備を誇る蛍が丘高校だが、守備がどれほどよくても守備で点を取ることはできない。野球とは点を防ぐスポーツではなく、点を奪うスポーツなのである。彼らはその力の軸たる守備力の軸と、虎の子の打撃の軸を共に失った。こうなった以上、信英館の敵ではない。
今、二頭の虎がお互いに争い傷付いた。そこへもう一頭、別のところから現れた虎が牙を見せた。
「彼女には不憫だけど、これが、一発勝負の高校野球だ」
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――
8回の表の攻撃は同点に追いつくも後が続かず。
しかし8回の裏。気合が入りすぎて疲労が溜まったか。1アウトからあっさりと弓張にフォアボールを許した最上。
「まだ投手交代は早いか?」
春馬は最上の体力を心配しつつも、ブルペンで投球練習中の鍋島を見る限り準備はまだであろうか。もっとも相手が島沢ではそれほど思い切って投球練習はできない。まだ主力メンバーがベンチにいる攻撃中ならもっと練習できたであろうものを。こうなるとつくづく8回表の頭にブルペンに入れなかったのはミスである。
「先輩」
と、そこで沖満。珍しく春馬に声を掛けると、1塁ランナーへと目をやった。1塁ランナーの弓張は、近江に対して危険なスライディングを仕掛けた女子選手である。
「沖満。判断に迷ったら僕がセカンに入る。あいつは下手したら、またやりかねん」
「でも先輩。先輩までケガしたら――」
「ひとつだけ言っておこう」
春馬は彼女を睨みながら彼らしくない一言を告げる。
「アマチュア最高と言われる守備力を舐めるな」
最上が三振なりフライなりで打ち取ってくれればいい。そうすれば2塁でのプレーは発生しないはずである。しかし最上はゴロで打ち取るピッチャーである。そう簡単にはいかないものだ。
打球はサード真正面の緩いゴロ。普通であればセカンドが2塁カバーに入る打球だが、
「沖満、引け」
サードの打球処理は猿政に任せて春馬が2塁に駆ける。
猿政はそんな不可思議な動きにも、春馬の守備力を信用して2塁へと送球。上半身だけをひねって捕球した春馬は、右足で2塁ベースをこする。
『(さっきはすみませんでした。でも、甲子園に行くには、仕方ないんです。悪くは思わないでください)』
彼の左足へとスライディングは、位置的に相当無理がある。しかし右足なら刈れる。そう判断した彼女は迷わず春馬の右足を刈りに行く。しかし、
『(あいにく僕は善人じゃない。仕掛けてくるなら、相応の見返りは払ってもらうっ)』
春馬はそれに対応。ゲッツー崩しに来ると見るや否や、右足をわずかに上げて足を刈られないようにする。しかも送球の勢いと見せかけて、その足を一気に振り抜いた。
送球は問題なく1塁へ転送。一方で彼の右足はゲッツー崩しを仕掛けた弓張の顔面に直撃し、さらにそれを振り抜かれたことでヘルメットも吹き飛ぶ。さながら顔面を蹴飛ばされたかのような状況だ。
『(悪いな。僕、サボり常習犯の不良なもんで)』
弓張のゲッツー崩しで近江が負傷したかと思えば、今度は春馬の『ゲッツー崩し崩し』で弓張が顔面を押さえてうずくまる。少しだけ見てみると、それほど大量ではないものの血が滴ってきている。
なにせただの接触ではなく、正当な守備行為に見せかけて顔面を蹴飛ばしたのである。もっとも正当な走塁行為に見せかけて、近江は右手首を負傷したのだから、まぁまぁ妥当な返しであるとはいえる。
こうして近江の報復と今後の牽制も兼ねたギリギリのワンプレーもあったが、試合そのものは大きく動く気配を見せない。
そして先に動いたのは蛍が丘高校。
『9回の裏、蛍が丘高校選手の交代です』
疲労の見え始めた最上がマウンドを降りる。代わりにマウンドに上がったのは鍋島であり、最上はそのままライトへ。楓音がベンチに引いて鍋島が彼女の打順に入る。
負けられない蛍が丘高校の継投策。
下位から上位に繋がる9回の裏の守備。1点でも取られればサヨナラの中、1年生左腕・鍋島が蛍が丘の鉄壁守備陣に助けられながら無失点。
1対1から動かない試合展開。
両者共に次の試合を考えず、ただただこの試合だけに賭けると言わんばかりの、総力戦という名の死闘。
10回の裏。
「あっ」
振り返る鍋島。
ランナーを2塁に置いて4番・赤月の打球は一二塁間へ。近江がセカンドならば1塁でバッターを殺せただろうが、沖満にそれまでの守備範囲はない。3塁コーチは思い切って腕を回し、ランナーは一気にホームを突く。
「させるかっ」
だがそのホームは意地でも踏ませない。
弱肩の楓音に代わってライトに入った強肩・最上。投げ出されたボールは見事にホームベース上にて構える皆月へ、ワンバウンドのストライク送球。
「アウトっ」
これを刺して、こんなことで試合を終わらせなどしない意思を見せる。
まだ終わらせない。
自分たちの最後の夏は――近江の夏は終わらせない。
もうまともな控えの残っていない蛍が丘高校は、そしてリリーフのいない大田山吹は、いつ終わるか分からない終盤戦へと突入する。
『延長14回の表。蛍が丘高校の攻撃は、1番、センター、大崎君』