第5話 失敗から始まるチャンスメイク
「おや?」
春馬は意外そうな表情をベンチにて浮かべる。
カウント0―1から皆月に投じられた2球目。ここまで蛍が丘高校上位打線が打ちあぐねていた赤月相手に、皆月がストレートを弾き返す。打球は三遊間ど真ん中を破ってレフト前へと抜ける。
「まさか皆月が突破口を開くとはなぁ」
「あのピッチャー、もしかして下位打線は手を抜いてるのかも」
「かもなぁ。それでも140キロ超えた球をよく打ったとは思うよ」
春馬は意外そうな表情も、おそらくは自らも手を抜かれた楓音はなんとなく皆月の一打に理解を示す。前試合の天陽永禄相手にはシャットアウトできたのは、さしずめ天陽永禄には上位も下位もないため、終始トップギアであったためだろうか。と、なると試合を動かすのは存外下位打線か。
『(1アウト1塁で最上。仕掛けたいけど皆月じゃなぁ)』
それでも春馬の出す指示はいつもどおりのノーサイン。そもそも盗塁を狙っていけるほど足があるのは、大崎、因幡、春馬、最上。楓音が時折、妙な走塁センスを見せるが、基本的にはその4人だけである。それだけに皆月がランナーとあってはそれほど大きな勝負はできない。
「頼むぞ、最上。ここはなんとか繋いでくれ」
意地でも生かしたいこのランナー。仮に生かせないのだとしても、何か今後の攻撃に繋がるものとしたい。野球は1イニングで終わるスポーツではないのだ。
『(ランナーが出ることによるピッチャーの乱れ。キャッチャーの送球能力不足。なんでもいい。だから頼む。皆月、最上)』
自分はまったくと言っていいほど何もできず、今できるのはただただ指示を出すのみ。自分の打席は何もできず、そして今現在も何もできない自分自身に、春馬はただただ手を握り締めて期待の目を最上へと向ける。
『(う~ん。新田もさすがに打つ手なしか~)』
その最上は春馬からのサインをチェックした後、相方の1塁ランナー・皆月へと視線をやる。最上ももしここでランナーが皆月以外ならと思うところもある。だが代走に出す控えはいないし、仮にいてもキャッチャーに代走を出す余裕は無い。いずれにせよ皆月はどうしようもない。
打席の最上はバットを構えるなり、相手投手の赤月から視線を逸らさない。何気ない癖を見逃したりしない彼にとっては、こうした場での集中力は並みのものではない。それこそ守備の時の春馬に匹敵するのではなかろうか。
セットポジションに入った赤月は、1塁の皆月を横目で確認して牽制球を投じる。その一回を見ただけで春馬には十分に分かるが、相当上手い部類の牽制球である。皆月が元からリードの小さいタイプの選手であることが幸いしてのセーフと言えるだろう。
「ふ~ん。いい牽制」
左足を打席から外して感嘆の一言。やはり本職投手の最上にも今の牽制の上手さが分かるのだろう。次に返球を受けた赤月がセットポジションに入ると、皆月は再びリードを取り始める。しかしそのリードは今までのそれよりも小さいものとなっているあたり、牽制の効果は抜群と見える。
小さいリードの皆月。バッターは9番の最上とあっては、赤月もピッチングに集中できるというもの。ゆったりとした投球モーションから投じられた初球。赤月のリリース寸前に最上はバントの構えを取る。
「ストライーク」
初球のアウトコースへのストレート。これをバットを引いて見逃してワンストライク。
『(これはウチの上位でも打てないよなぁ)』
ヘルメットを被りなおしながらバックスクリーンを一瞥。
『(145キロ。スピードの割りに速いけど、いわゆる伸びなんだろうなぁ)』
そこまで考えて改めてバットを構えなおす。
『(ピッチャーとしてはそんなところ。守備もバントへの反応は早かったけど、1アウト1塁で9番バッターなら、こっちがバントしてくるのも十分考えうること。あの反応の早さも不自然ではないかな)』
下位打線相手には手を抜いているように見える今イニングの攻め。セットポジションになったこともあってボールのスピードがやや抑え気味のようである。
『(やはり新田からの指示は特に無し・・・・・・ちょっと仕掛けてみようかな?)』
2球目。セットポジションに入りなおした赤月。1塁ランナーの皆月も相変わらず小さなリード。どうにも攻め手に欠く展開であるが、最上の頭の中にはひとつの算段があった。ただ少なくともそれをやることのデメリットとしては、近江の姉ちゃんに怒られるということくらいだろうか。
クイックモーションから投じられた次の球。皆月が相変わらず小さな第2リードまで広げたところで最上が動く。
『(高めストレート。いい球っ)』
またもバントの構えを取った最上。内野はこちらもまた猛ダッシュで駆けてくるが、今度は構わずバットに当てた。
「お、送った」
ベンチから身を乗り出してチャンスメイクを確信する近江だが、一方の春馬は眉をひそめる。
「いや、打球が速い」
真芯を食ったのであろう打球は、突っ込んできたファースト、サードの間を抜くプッシュバント気味となる。しかしその先にいたのはピッチャーの赤月。
「ボールセカン」
ゴロを受けた赤月はキャッチャーの指示通り、振り返って矢のような2塁送球。それすら150キロ出ているのではないかと思う送球に、皆月の鈍足が到底敵うはずもない。2塁カバーに入ったショートが、送球をしっかり両手で確実に捕る。それからワンテンポ置いて1塁送球。
「セーフ」
2塁審判の手は上がったが、1塁は最上の足が速かった。
「っぶなぁい。最上君の下手くそ~」
「お、近江ちゃん。あまりそんなこと言っちゃ・・・・・・」
気落ちするベンチ・スタンドを含めた蛍が丘勢。特に近江は味方すらも野次り始める不満な様子。春馬もチャンスの拡大失敗に頭をかきながら不満を見せるも、指揮官として気持ちを持ち直す。
「大崎。2巡目だぞ。前の打席を生かせよ」
「う、うん」
2巡目となり初めて見た球というわけではなくなるが、逆にそれが打てる気がしないというマイナスの感情を助長させる。情報を得て有利にするどころか、情報を得て絶望してしまったといったところか。
「くそっ。2塁がセーフならな・・・・・・」
春馬はサインを出そうとしたが、その前を影が通り過ぎる。
「皆月。邪魔。サインを出してるとこ」
「あっ、すまん」
アウトになりヘルメットを定位置に片付けにきた皆月だ。彼が春馬の前を通りすぎてしまたので、改めて大崎にサインを出し直しだ。
「まったく皆月は・・・・・・ん? 皆月?」
「お、おぅ?」
と、春馬。ヘルメットを片付ける皆月と視線を合わせた後、すぐさまグラウンドへと目を戻す。
「動かせる。仕掛けられるぞ」
『(よし。新田も気付いた)』
出そうと思っていたサインを切り替える。その行動に最上も満足。1アウト1塁では勝負できなかったが、2アウト1塁となって勝負できるようになった。厳密には、
「ランナーが入れ替わった。状況が変わった」
アウトカウント1つと引き換えに、ランナーが皆月に代わって俊足・最上。しかも打順は1番の大崎。
赤月がセットポジションに入ると同時の最上はリードを取る。しかしそれは先ほどの1塁ランナー・皆月のものとは違う。次の塁を目指す強い積極性を見せる、明らかに大きなリードだ。
『(さぁ、やろうか、新田。蛍が丘高校の9番から始まる機動力野球を)』
さすがにそのリードは見逃せないとみたか、オーバーリードゆえ殺せるとみたか、いずれにせよ素早い牽制球を1塁へと放る。ところが最上はいとも簡単に足からのスライディングで帰塁に成功する。皆月ではまったくプレッシャーがかけられなかったため、最上によって相手のランナー耐性を試しておきたいところだ。
さすがにそのリードの大きさ、さらには帰塁のスピードから最上の盗塁を警戒したのだろう。さらにもう1球牽制球を放るしつこさを見せる。だがそれにも依然屈することのない最上は大きなリードで相手にプレッシャーをかける。
『(どうするかは任せる。ただ一応、サインは出しておくからな)』
エンドランやスクイズといった打者・走者の連携プレーならまだしも、単独作戦なら現場の判断で中止可能なのが蛍が丘流である。ひとまず春馬はサインを出してこそいるが、ここで勝負を仕掛けるか否かは現場に任せられる。
ワンテンポ置いてからの赤月。ランナー・皆月の時には見せなかったクイックモーションで投球開始。その足が上がった瞬間に最上が地面を蹴る。
「ここで仕掛けた」
春馬は最上や赤月以上にキャッチャーへと視線を移す。もしもこのチームがピッチャーだけで成り立っているチームなのだとすれば、この試合を動かす鍵は別のところにある。
投球はアウトコースに少し外れたストレート。これを大崎は見送ってワンボール。しゃがんだ状態で確実に受けたキャッチャーは、そこから腰を浮かせ足を前に踏み出して2塁へと送球。さすがに赤月の投球を見た後では見劣りするその送球は、ストライク送球と言うには少し高いもので2塁カバーに入ったショートのグローブへ。
「セーフ」
最上のスライディングが早かった。2塁審判の手が両サイドに開くセーフコールに、蛍が丘サイドのスタンドから拍手が巻き起こる。天陽永禄が9回までランナーすら出せなかった相手に、3回にして早くもスコアリングポジションにランナーを置いたのである。
「よし。最上、よくやった」
チャンスメイクに士気上がる蛍が丘ベンチの中で春馬がガッツポーズ。そしてさらに一言。
「これで相手チームの綻びが見つかった」
「綻び?」「そんなんあったのか?」
その小さな声をネクストにいた因幡、さらにそのネクストとして控えていた寺越が拾う。
「と、言っても赤月自体を攻略したわけじゃないから、安定した攻めはできないがな」
「その心は?」
「ランナーが出たとき限定」
因幡の問いに答えた春馬であるが、その返しに寺越が肩を落とす。
「うげぇ、そのランナーがなかなか出ないんじゃねぇのかよ」
「だからそれをこれから探さないといかんな。タイムリミットは残り6イニングとアウト1つ分。いや、攻撃に時間を割かないといけないから、もっと短いか」
それが今見つけた綻びの問題点だ。その綻び自体に前提条件があるのだが、その前提条件に持っていくまでが苦労なのである。
「で、春馬。綻びの話は?」
「話が逸れて悪いな、因幡」
「言うほど逸れてない」
「とっても簡単な話。赤月の投球や送球が速いせいか、もしくは手元でめちゃくちゃ伸びるせいか、相手は手堅く捕球するような特徴がある。裏を返せば、捕球から送球までに長いタイムラグがある」
もちろん最上自身の足の速さもあるが、それがあったからこそ先のゲッツー崩れで最上が出塁できたと言える。
「しかしよぉ、相手キャッチャーって割りと捕ってすぐに送球姿勢に入ってなかったか。そりゃあワンテンポ遅かったかもしれないけどさ」
寺越の主張ももっともだ。確かにキャッチャーの送球姿勢への移行は捕球からワンテンポ置いて行われたものに見えたが、言い換えればワンテンポしか置いていない。にも関わらず春馬が綻びとまでいう理由は。
「皆月、近江」
「おぅ」
「なぁに?」
「2人とも、キャッチャーやってるとき、ランナー走ったらどのタイミングで送球姿勢に入る?」
「すぐ」
「そのすぐっていつだよ」
春馬の鋭いツッコミ。
「俺はそうだな・・・・・・ランナーが走ったと思ったら、その時には腰を浮かせとくかな。あまり意識してないから分からんが、気持ち前傾姿勢にはなってるかも」
「私はわかんない」
春馬の希望通りの回答の皆月と、堂々と主張する近江。春馬はため息を漏らしつつフォロー。
「と、近江は言ってるから僕が話そうか。こいつは打者の右左で違うけど、基本的には捕球時点では既に半身になって送球動作に入ってる。つまり良く言えば皆月よりもワンテンポ、ツーテンポ早い。悪く言えば元内野手だから、そこのところキャッチャーらしくないのかもな」
もしくは優れたキャッチングセンスがあるからこそ、多少キャッチングが雑でも問題ないということもあるのだろうか。
「ふふふ~ん。やっぱり春馬君は私のことを見てくれてたんだぁ」
「とりあえず今は黙ってろ。マジで」
普段なら聞いてやらないこともないが、今はそんな事に構っている余裕は無い。話を一旦中断して最上や大崎にサインを送っておき、改めて話を元に戻す。
「対して相手のキャッチャーは、腰を上げたのが捕球後。近江はあまりにも早いとはいえ、皆月は腰を上げるのが捕球前。いずれにせよ捕球している時点では送球姿勢に移行し始めているといっていい。しも寺越の言うように、キャッチャーが送球動作に入ったのが捕球からワンテンポ置いてからなのだとしたら、それは本来のキャッチャーの送球動作からワンテンポ以上は遅れていることになる」
捕球と同時に動くとしても普通より遅いのである。ならば捕球から少し遅く動くのであれば、もっと遅いということになるであろう。
「端的に言えば、盗塁がしやすいってことだな」
「ランナーはどう出すんだよ・・・・・・」
「それは今から」
皆月の小さなツッコミに言葉を返す。
ただそれが分かっただけでも十分だ。これでランナーさえ出せばなんとかなるかもしれないという希望には繋がった。ランナーを出すことに集中できる。
「さぁ、大崎。ランナーを返そうか。どうやって返すかは考えないとダメだけどな」
2球目はアウトコースにはっきり外れるボール球。おそらく余裕のあった2盗から、3塁まで狙う可能性を考えたのだろう。しかしここで最上は動かない。内野安打で1点を奪える3塁を取ることができれば大きいが、それだけに相手だって警戒しているのである。いくら相手の実力が低くても、警戒している相手から盗めるほど簡単ではない。