最終話 蛍が丘高校野球部への再挑戦
エラーの優奈についても彼女は野球の初心者である。フィルダースチョイスの沖満も野球経験者とはいえ元外野で内野経験は浅い。送球判断自体は内野の特殊性であるだけに、そこが甘いのはやむを得ないところである。どこのポジションでも卒なくこなせる春馬や近江は例外中の例外なのである。
「沖満、ゲッツーシフト」
「は、はい」
いつもは春馬の指示に不満そうな表情を浮かべる彼女であるも、自らのミスでピンチを拡大させたとあってここは素直。2塁ベースに寄ったゲッツーシフトを取る。この判断が自分でできないあたり、まだ内野手として経験不足ということだろう。
『9番、サード、村雨さつきさん』
バッターは前の打席で空振り三振に倒れた9番バッター。なんてことのないバッターであろうが、春馬は少し緊張の面持ち。
『(こいつでダブれなければあいつか)』
ネクストに足を踏み込んだのは、ここまで鍋島相手に2打数2安打のトップバッター・岩井ひなた。
『(そりゃあ塁1つ空いてるから、歩かせるのも戦術的にはありだろうけど……)』
それをするにはどうもプライドが邪魔をする。
『(ほんと、よく山口工科は近江の全打席敬遠なんてできたよな。満塁策とはいえ、楓音も歩かされたことあったし)』
女子と一緒に野球をしたことはあっても、女子相手に野球をした経験が少ないゆえか。常にためらいが付きまとう。
「ボール」
初球はストライクこそ入ったが、2球目は少し力が入りすぎたかボール球。
「楽に楽に」
肩の力を抜けとばかりに声をかけてくる近江。
その彼女の声かけを聞いていないフリをしつつ、サイン交換をさっさと済ませてセットポジションへ。
カウント1-1となっての3球目。
春馬の足が上がると同時に2人のランナーが動き出す。
『(むっ、スクイズ)』
3塁ランナーを最も近い位置で見ていた猿政もスタート。
『(マジかよ。14点差だぞ)』
春馬も視界で捉えた3塁ランナーに驚き。しかしスクイズはないと思っていたからこそのゆったりモーションが功を奏した。今ならば多少のピッチドアウトは可能である。
『(いくら近江でもさすがにアウトハイは捕れない。なら外すべきところは――)』
春馬のリリースした投球は、近江の構えたミットより遥か下。さらに言うなれば、ホームベースより手前――ワンバウンド。
予期せぬ形でのピッチドアウトに、バントの構えを取っていたバッターは倒れ込むようにしながら食らいつく。ランナーは突っ込んでくる以上、どのような球であれ空振りはできないのである。
「当てた。近江」
なんとかバットに当たった。しかし打球はキャッチャー後方のファールフライ。春馬は指さすが、ワンバウンド投球を止めようと両膝を突いて壁になっていた近江。ワンテンポ遅れてマスクを投げ捨て打球を追う。
舞い上がったフライというよりは、むしろバットをかすめた小フライと言うべきか。
「ファール」
滑り込みながらの捕球を試みるも1メートル弱届かない。
近江は捕り損なったボールの処理を相手方のネクストバッターに任せてホームへと戻る。
「春馬君、やらせてもよかったんじゃない?」
「条件反射」
どうせ点差があるのなら、1点やらせてアウト1つ取るべきでは? と主張する近江だが、反射的に外してしまったと言われてしまえばどうしようもない。それがピッチャーと言う生き物である。
「しかし……まさかスクイズとはな」
この作戦から分かることがある。
琴ヶ浜女子は勝利はおろか、コールドゲーム回避すらも考えてはいない。ただただ目標は3塁ランナーを返すこと。つまり1点。欲を言えば春馬が防ぎたいと思っているものを、ぜひにとも奪いにきたのである。
「まさか2球連続はないよな」
カウント的にもこれで追い込んだ。まさかスクイズはないだろうと思うが、注意しておくことに損はない。
『(スライダーで三振を狙う、か。悪いサインじゃないな。スライダーならそう簡単にバントもできないだろうし)』
ひとまずスクイズを阻止し、カウント1―2と追い込んでの4球目。
『(よし。ランナーは動かない)』
ゆったりモーションもランナーは動きを見せない。
安心しつつ投じた投球は、少し要求したコースよりも高いか。
それでも決して悪くないコースを、バッターはやや泳ぎ気味にバットへ当てる。
「上げた。近江」
「今度は捕れる」
またもキャッチャーフライだが、次は高々と舞い上がったフライ。先のような小フライではない。春馬が近江が指さすより早く、彼女はマスクを投げ捨てて打球を追う。
「新田。ホーム空けるな。タッチアップあるぞ」
「バッキャロー。んなこと分かってる」
そして最上もベンチから指示を出すが、そんなこと春馬も分かっているのである。キャッチャーフライでランナーが帰ってくるなど考えがたいが、今の琴ヶ浜の1点への貪欲さは何をしてくるか分かったものじゃない。
風に乗ったか回転の問題か、予想以上にフェンス方面に流された打球。近江はフェンスへの衝突を恐れず、ジャンプしつつ打球をもぎ取る。たださすがに顔面からフェンス直撃は怖かったのか、空中で体をひねりつつ背中からフェンスへと激突する。フェンスに沿って滑り落ちるように着地した彼女は、すぐさま体勢を整えて3塁ランナーを目で牽制。
「アウト」
捕球を確認した球審の手が挙がる。
「よし。ツーアウト。近江、ナイスプレー」
「壁ドン」
「それ、そういう意味じゃないと思うぞ」
打球を取るために壁・フェンスに突っ込みながら捕るのを『壁ドン』とは、なんとピンポイントで用例の少ない単語なのだろうか。春馬は近江による相変わらずのアホ発言へのツッコミもほどほどに、彼女からの返球を受けてマウンドに戻る。その道中で1塁ランナーを一瞥。
『(これでツーアウトだけど……さすがに動かさないよな?)』
ランナーが1塁にいることで、蛍顔か高校はゲッツーシフトを敷いていた。それによって一二塁間・三遊間が大きく開くも、それはワンアウトまでの話である。ゲッツーがなくなったツーアウトとなると、守備はもちろん通常シフトへと戻すことになる。と、なると琴ヶ浜はランナーを1塁に置いておくメリットはない。もちろん盗塁となるとリスクを背負うことになるが、ダブルスチールを仕掛けて1点だけでも奪う可能性もないわけじゃない。
しかし春馬はネクストに目をやってその可能性を消した。
『(いや、あいつの打席でそんな博打は打たないか。さて)』
春馬がそのバッターをにらみつける。
『(最後の勝負といこうか)』
『1番、ショート、岩井さん』
ツーアウト1・3塁で迎えるバッターは岩井ひなた。
琴ヶ浜が誇る大型遊撃手だ。
『(むぅ、春馬君、本当なら3人でピシッと抑えてたのにぃ)』
愛する春馬が苦労しているのを見ると、自分の事のように腹立たしいのであろう近江は、エラーした我が妹と判断ミスをやらかした後輩に不満顔。しかし春馬が何度も言うように、一番苦労した赤点製造機にはさほど思うところがないようである。
『(仕方ない。しっかり抑えよ。ね)』
サインを出した彼女はミットを叩いてから大きく指定コースにて構える。
「ストライーク」
寸分たがわずそのコースに飛び込むストレート。岩井も手が出ずまずはワンストライク。この調子ならば抑え込める。
『(ツーアウトならスクイズもない。少し変化球でタイミングを外すくらいでいいかな?)』
『(曲げるか。まぁ、妥当な判断じゃないか?)』
つくづくまともなリードをするようになったものである。キャッチャーのなり始めにやっていた、気合と根性で乗り切る野球漫画的ど真ん中勝負が懐かしい。
足を大きく上げてのゆったりとした投球モーション。
まず順調にストライクを取ってからの2球目。
低めギリギリいっぱいのコースに手がでかける岩井であったが、ゆるい変化球と見てそのバットを止める。その予想通り低目に沈んだスライダーは地面へと叩きつけられ、さすがの近江も捕れずに腹で受け止め前に落とす。
「ボール」
「スイング」
岩井がランナーを制する中、近江は3塁審を指差してハーフスイングの判定を要求。たださすがにこれはスイングを取られない。3塁審の手は両サイドに開いてワンボール。
「さすがにこいつはレベルが違うか。他の奴なら九分九厘振っているんだろうけどな」
いくらストライクカウントに余裕がある状況とはいえ、今の球を見切られるのはなかなかに厳しいところがある。
『(もう少しストライク寄りじゃないと厳しいか……と言っても、僕にそこまでの制球力はないしなぁ)』
やや不安の残る中で春馬はお生みからのサインに首を縦に振った。
『(あと1つ。アウトはあと1つ)』
何度も念じながら投じる3球目。
『(あ、甘いっ)』
『(絶好球)』
ど真ん中への抜け球に、打たれることを覚悟する近江。
岩井は当然のようにそれを見逃すわけもなく、ベストのタイミングでバットを振り出す。
ど真ん中の理想はセンター返し。
しっかり真芯でボールを捉え、しっかり振り切った。
「はい、ゲームセット」
痛烈なピッチャー返し。高校野球レベルならば十中八九センター前に抜ける打球を、いとも簡単にもぎ取られた。それも余裕の表情で。
岩井は1塁に駆けだしたその惰性で数歩進みながら目を丸くする。その様子はこれで負け、自分たちの夏が終わったという事よりも、今の会心打が捕られたことを信じられないかのような表情。
「えぇぇぇ、い、今の捕れるんですか」
「あれができるのは新田だけだよなぁ。次点で近江……でも無理かぁ」
こちらも味方ながら捕ったことが驚かずにはいられない鍋島。そんな彼に最上が答えながら立ち上がる。
「さてと、みんな行こうか。整列」
琴ヶ浜の希望を乗せた打球を、片手で簡単に阻んだワンプレー。その大ファインプレーも、春馬の守備に慣れきった3年生たちは当たり前のようにベンチを出る。遅れて鍋島もベンチから歩み出る。
「えっと、今のピッチャーライナーで……」
武川も今試合最後のスコアブックへの記入を済ませると、礼に備えて立ち上がる。
「春馬君、ナイスプレー」
「一瞬、ドキッとしたけどな」
マウンドとホームの中間地点あたり。そこまで来ていた近江が、マウンドから降りてきた春馬とハイタッチ。
「よ、よかったぁ。春兄ぃに助けられたぁ」
「無失点で一安心、ですね」
ライトの優奈、ショートの沖満と女子2人も安堵の様子でホームへ駆けてくる。
蛍が丘高校の全員が各々の反応で勝利を示す中、琴ヶ浜女子の3塁ランナーがホームを惰性で走り抜ける。
3塁ランナーの近郷、バッターの岩井。それぞれ確かにホームを踏む瞬間を目にした。これが5イニングの戦いで追い求めたホームベースの感触であり、彼女たちの目的地であった。しかしその行動に『1点』は付いてこない。果てしなく意味のないワンプレー。
その瞬間にその2人、そして1塁ランナー、ランナーコーチ、ベンチ、それぞれの場所にいる3年生が悟った。
去年から動き始めたばかりの野球部。たった1年程度の短さであり、蛍が丘の3年生にしてみれば半分以下の長さ。それでも自分たちの最後の夏が、高校野球人生が終わりを告げた瞬間であると。
キャプテンの岩井は涙がこみ上げる中、それを必死で耐える。もう耐えられず泣き出してしまった3年生たちを、霧島監督がベンチから叩き出す。こちらもそれぞれの感情を露わに、人によっては押し殺しながらホーム前へと整列する。
安堵と充足された気持ちにあふれる蛍が丘野球部。
対して悲しさと悔しさにあふれる琴ヶ浜女子野球部。
ホームベースを境に右と左で対比的な感情が分かれる中、審判はただただ淡々と述べる。
「琴ヶ浜女子と蛍が丘の試合は、14対0で蛍が丘の勝ちです」
そして手を挙げる。
「試合終了」
「「「ありがとうございましたぁぁぁぁ」」」
終わった。
彼女たちの蛍が丘高校への再挑戦は、14―0で幕を閉じた。
「岩井」
春馬はただ一歩だけ前に出て彼女へと手を出す。
「ありがとうございました」
彼女は涙との格闘を続けながら春馬と握手を交わす。
「……勝ってくる」
「はい」
「琴ヶ浜の分も勝ってくる」
「お願いします。きっと、甲子園に……」
「頑張るよ」
一瞬だけより強い力で握られたように思えたが、すぐに彼女は手を離して振り返った。そこで春馬も振り返り自軍のベンチへ。
「ねぇねぇ、春馬君」
「どうした?」
プロテクターの音を鳴らしながら、隣で並走してくるのは近江。
「向こうのピッチャー、泣いてた」
「だろうな。僕と握手したキャプテンの岩井も、相当、涙をこらえているぽかったからな」
握手したのは春馬だけではない。それぞれ登録人数が18人と13人で全員ができたわけではないが、少なくとも近江はエースの石井と握手を交わしていたのである。
春馬はベンチに入る前でもう一度振り返り、琴ヶ浜のベンチへと目をやる。
すると今まで耐えていたのであろう岩井は、エースの石井と抱き着いて声をあげて泣いていた。3年生たちが悲しみに暮れる中、監督と下級生が次のチームにベンチを明け渡すための準備を整える。
『(次は……僕らの番かもな)』
明日は我が身。なにせ次の相手は予想通りならば超名門の天陽永禄。ここまで蛍が丘高校は2戦2敗と勝てたことがない因縁の相手である。あの姿はきっと他人ごとではない。
「春馬君?」
と、近江の声に呼び戻される。
「どうしたの?」
首をかしげて問いかける近江に、春馬は彼女の頭を荒々しく撫でながらベンチへと引き上げる。
『(いや、僕らの番はまだ先だな)』
近江が頭を撫でてくれたのは勝利のご褒美かと笑みを浮かべるが、
「近江」
「なぁに?」
「勝つぞ」
「え?」
急にそんなことを言われてなんのことか分からなかった近江であるも、春馬はそれを補足するように続ける。
「勝って、甲子園にいくぞ。あの悪夢の舞台に、再挑戦するぞ」
すると彼女は先ほどの笑みとは違う類の満面の笑みで深く頷き。
「うん。頑張る」
蛍が丘高校は甲子園に向けて好スタートを切った。
しかし出場校の少ない島根県であっても、それはまだ道半ばどころか最初の一歩と言ったところである。決して平たんな道ではない。それでも蛍が丘高校のメンバーは目指す。
最後の夏、逆襲の甲子園を。