141話・曹駛は見た! ……いや、見てない。
―武元曹駛―
一体何を言っているのか。目の前の少女が一体何を言っているのか、理解するのに時間はかからなかったはずだ。だからこそ、思考することを放棄して、少しでもそれまでの時間を伸ばそうとした。そんなことに意味はないのに。
「驚きすぎちゃって、心臓でも止まったの?」
その一言で、意識が戻ってきた。
「あ、ああ、心臓が止まるかと思った。だが、止まってはいない……」
目の前の少女……テンチェリィだと思っていた少女は、武元と名乗った。それがどういうことを意味するか、そんな珍しい苗字の人とは、麻理以外には、会ったことはない。それに、苗字が前に来ている。そんな古い名乗り方をする人もあまり多くはない。
「お、お前は……」
「うん、その通り、やっと会えたと思ったけど、やっぱり覚えていなかったか。お兄ちゃん。私は、武元曹駛と武元麻理の妹、武元天だよ」
「で、でも……」
「そんな記憶はない? まぁ、それも仕方ないことだけどね。理由は言えないけどね。でも、とりあえず、私の所為とだけは言っておくよ」
……駄目だ、やっぱり記憶にはない。けれど、嘘をついているようにも思えない。なぜか。不思議と。そんな根拠も何も無いけれど、謎の信頼というか、分からないけど、多分嘘をついていないと思う。もちろん、嘘を言っている可能性もある。いや、実際にはそっちの可能性の方が高いはずだが、でも、それでも、嘘をついているとは思えない。
「さてと、久しぶりの再会って言っても、私は一方的に再会していたわけだけど、お兄ちゃんとっては久しぶりでしょ、それでも、実際にこうやって自由に喋りあうのは久しぶりなわけだし、久しぶりって事でいいんじゃないかな」
「……あ、ああ」
「もう、どうしたの? 元気ないね。本当に心臓止まりかけたとか」
「いや、そう言うわけじゃないけど……」
正直戸惑っている。俺は、どう接すればいいのか、どう接するのが正しいのか。それが分からない。目の前にいる少女は、テンチェリィだ。どう見てもテンチェリィなのに。どう考えても、どう思っても、テンチェリィじゃなくて、俺も麻理も知らないもう一人の妹だと考えられるし、思えてきてしまう。
「あ、ああっ、そうか、ごめんね」
「え、いや、何だ?」
天と名乗るテンチェリィは、俺の肩に手を乗せた。
「ごめんね、その、本当に刺すつもりはなかったんだけど、手が滑って……ごめんなさい。その、あんまり痛そうにしていなかったから、平気なのかと思ったけど、そんなわけないよね。ごめんなさい。ごめんなさい」
天はそう言ってぺこりぺこり、何度も頭を上下させている。涙目で。
「別に、これくらい慣れてるし、平気だって、それに関しては心配するなよ」
まぁ、実際は痛いんだが、肩をくるくる回して、平気アピールをする。ああ、不思議と痛くはないな……いいとこと見せようと体が頑張ってくれているのかもしれない。
……あれ、傷口は? 服には穴が開いているし、血も付いているけど。傷口が無い。さっき手を乗せて来た時に何かしたのだろうか。よく分からないが、それしか考えられないからな。どうやって治したかは依然謎だが。
「あ、その、ふ、服もだよね、ごめん、ちょっと貸して」
そう言うと、雨は服を脱がそうとしてきた。
「い、いや、いいから。別に、そう言うの」
「だめ、私が穴開けたし、汚したんだから、私がきれいにする。ほら、血は早く落とさないと落ちなくなるから早くして」
「そうじゃなくて、ああ、まぁ、そうだけど、そうじゃなくて」
なんて言っているうちに、脱がされてしまった。不覚……
「じゃあ、行ってくる」
と、言い残した天は、どこかへ行ってしまった。え、行ってしまった? い、行ってしまった。
「マジかぁ…………………………………………………………………………追わなきゃっ!」
どこ行ったか分からないが、今、外に出られるといろいろ面倒なことになる。あれは、テンチェリィの見た目をしているが、中身が別人だ。何をするか分かったもんじゃない。服を何とかしに行くと言ったあいつを信用しない訳じゃないが、外に出ない保証がある訳でもない。
俺は、適当な服を引っ張り出して、それを着ながらに駆けだした。
「えっと、まぁ、まずは、風呂だっ!」
とりあえずは、屋敷の中を探る。まだ外に出たとは限らないしな。
そして、風呂場を選んだ理由。それは、水が有るからだ。あそこなら、血を洗い流すにはぴったりだろう。
そう思って、駆け込んで風呂場の扉を開くが、いない。そうか、ハズレか。なら、次は、トイレ近くの洗面場に行こう。あそこも水が出る。
……いないっ!
じゃあ、次は、庭だ。あそこも水が使える。っと、その前に、一応。本当に一応、キッチンも覗いて行こう。……いるわけないか。よし、ある意味一安心。じゃあ、庭に走ろう。
……あれ、いない。
てっきりここにいるもんかと思っていたが……あと、水を使える目ぼしい場所は……ん、いや、待て、そうか、先に縫ってから洗うと言う可能性もあるかもしれない。実際、その順番だと、血が固まってしまうだろうし、それが正しいのかどうかは俺には全く知らんが、その可能性もある。じゃあ、まずは……まずはも何もねぇ、どこでもできることだ。とりあえずは、テンチェリィの部屋、レフィの部屋を探して、居なかったら戻ってきていることも想定して俺の部屋、あとは、客間とかも見よう。
俺は、走った。家の中を走りまくった。縦横無尽に走りまくった。
それで、結果と言えば……
「いねぇーーーーっ!!」
どこにもいなかった。
本当に外に出たのだろうか。マジかよ、追わなきゃッ!
と、そ、その前に……えっと、こ、これも、い、一応た、確かめておこう。まだ、地味に確かめてないとこあった。というか、確かめるか、そんなん普通。
俺は、洗面場まで戻ってきた。そして、そのまま進む先にはトイレ。トイレの個室の戸を開ける。そこには……いた。いや、なんでだよ。
「あ、あふぇ、おひいひゃん……?」
そこには、俺の服を咥えたテンチェ……天が便座に腰を掛けていた。辺りには散乱したトイレットペーパー……
「あ、あ、あ……」
俺の服は口から解放され、下にはらりと落ちていく。それを目で追うと、途中、圧倒的肌色を見た気がする。気がしただけだと信じたい。
「あ、ああ、で、出てってっ!」
俺は、トイレの個室から追い出された。……よし、部屋にもどろう。俺は、何も見ていない。だから、俺は、今、ただ、トイレに用を足しに来ただけだ。そして、今終えたところ。それだけ、だからもう戻ろう。自分の部屋に。
一時間後くらいに、天が縫い目も血の跡も分からないほどに完全に元通りになった俺の服を持ってきたが、その服は……まぁ、当分いいかな。




