人間、やめてくれませんか -萌の壁、後編-
カンテン(青)はそれまで、自分のことを世界で一番幸せなカンテンだと思っていた。
過酷かつ雄大で、多様性に富んだ自然と、それらに適応した様々な種族の栄える世界において、カンテンとはほぼ最弱の種族だと言っていい。ただの小枝でも引き裂かれてしまいそうな柔な身体と、単純極まりない、思考とも呼べないような思考。食物連鎖に加わるのもおこがましいような、バクテリアと同列の生き物。それがカンテンである。
出来ることと言えば、その柔らかい身体で何かにまとわりつくことと、分泌される消化液で溶かすことくらい。大抵は、生まれてさほども経たないうちに、他の生き物に核ごと踏み潰されて終わりになるものだ。
そんな中で、カンテン(青)は、確かに幸運なカンテンであり、特別なカンテンであった。
気がついたとき、カンテン(青)は、ただ一体で森のなかにいた。他に同族の姿もなく、ゆっくりと震えながら、でこぼこした木の肌や下草を眺めていたのだ。
ごくゆっくりとではあったが、カンテン(青)は、本能に刻まれた自分という存在を理解していった。この世界について、カンテンという生き物について。もし文明的に教育を受けた人間などであれば、逆に不思議に思ったかもしれない。生まれたばかりであれば知りようがないことまで、カンテン(青)の本能には、なぜか組み込まれていた。
あるいはそれは、思考という能力の代わりなのかもしれない、と、後になってカンテン(青)は思ったものである。考える、ということが出来ないからこそ、カンテンという種族には最初から、本能という形で、ある程度の知識(と言えるのか)を与えられているのかもしれない、と。
つまるところ、本来カンテンというのは、考えるということとは無縁の生き物である。そして、ごく単純な快、不快と欲のみを行動原理とするはずなのに、どうしたことか、カンテン(青)は、きちんと物事を考えることが出来た。
突然変異、というものであるらしく、それはとても特別で幸運なことだが、実際、カンテン(青)にとっての幸運とは、自分の生まれそのものではない。
それは、たったひとつの出逢いだった。
いかに知能を備えた特別な存在でも、カンテンはカンテン。弱肉強食の世界で生き抜くのは並大抵のことではない。けれど、そんなカンテン(青)を、拾ってくれたものがいた。
カンテンよりはるかに多芸で器用に動く腕、素早く跳ねることの出来る身体。
静かな眼差しは理知的で、カンテン(青)の知る誰よりも優しい。カンテン(青)には見当もつかない経験を重ねてきただろう彼は、使い込んで傷の目立つガントレットに覆われた腕にカンテン(青)を抱き上げ、こう言った。
「私とともに、来るか? 望むなら、私はお前をこの世界で最高のカンテンにしてやろう。この私の全てを以って」
初めてだった。誰かに声をかけられたのは。害意なく誰かに触れられたのも。
そして初めて、カンテン(青)は誰かとともにある喜びを知った。
彼は、言葉どおり、様々なことを教えてくれた。カンテン(青)でも出来る、頭を使った獲物の狩り方や、動植物にたいての知識。何よりも、目標というものについて。
彼は言った。
「カンテンは、この世界で一番弱い生き物だ。だが同時に、世界で一番可能性のある生き物でもある。望むのなら、お前は何にだってなれる。私のような手を備えることも、私よりも大きくなることも。お前は、どんな自分になってみたい?」
だからカンテン(青)は、考えた。理想の自分を夢想してみた。
絶対なのは、強くなること。彼のように。そのために必要なことを考えた。
大きな生き物は、強い。見上げるほどの体躯があれば、草原に住む大抵の生き物には、負けないだろう。
素早いのも、良い。ひらりと敵をかわして攻撃を叩き込む彼の姿は、とても格好良かった。
器用さも必要だ。大きくても鈍重では意味がないし、素早くても単純では活かしきれない。
そうしてみれば、考えるまでもないことだった。
カンテン(青)は、彼のように、なりたい。
彼は、様々なものをくれた。
知識を、技術を、食べたことのないものを、心地良い寝床や安心を。
それから、ともに行くと決めた日、彼は言った。
「お前──いや、こう呼び続けるのもな。カンテン、お前に名が無いのなら、私がつけても良いか?」
やわらかく細められた、ふたつの光。ゆっくりと、カンテン(青)のつるつるした身体を撫でながら、提案してくれた彼は、問いの方ちを、取りながら、すでに次の言葉を用意してくれているように見えた。
自分だけの名を与えられ、それを彼に呼んでもらう──なんと素敵なことだろう、とカンテン(青)はうっとりした。それはまるで、自分が彼の中で少しでも特別なものとして認められた、ような。
だが、だからこそ。
くにくにと身体を震わせて、カンテン(青)は、たったひとつ、それだけを断った。
「今は──頂けません」
意外だったのだろう、彼の顔の中で、ふたつの光が真ん丸になった。
「ボクは、ただのカンテンです。今はあなたに甘えるだけの。でも、ボクはこのままではいないと、決めました。だから」
出来るかぎりで、カンテン(青)はぴしりと身体を伸ばした。少しでも、彼の視線に近付けるように。
たったふたり、隠れる場所もない草原で、森の中にいた頃には恐ろしいとすら思っていた明るい光を浴び、カンテン(青)は、彼に乞うた。
「だからボクが、目指す自分になれたとき。そのときこそ、どうか、ボクの名前を、ください」
そうして彼は、そんな生意気なことを言ったカンテン(青)に、はっきり笑ってくれたのだ。
「良いだろう。良い意気だ。ならば、お前が」
「はい。ボクが──」
ああ、とカンテン(青)はため息をつく。今でも鮮やかに思い出せる、あの日の約束。頷いてくれた、彼の顔。
あれから、随分と時が過ぎた。彼とともにたくさんの場所を巡り、多くのものに出会い、数多の技を身につけた。
いまだカンテン(青)はカンテンだが、生まれた時にもまして、特別なカンテンに成長しているのは間違いない。
予感があったのだ。このままいけば、遠からず望みに手の届くところまで、きているのだと。もう少しで、カンテン(青)はカンテンの限界を飛び出した何者かになれるのだと。
カンテン(青)は、思っていたのだ。望みが叶ったそのときにこそ、彼に、ずっと心の中にあった言葉を告げよう、と。
カンテン(青)が、ただのカンテンを超えた、ナイト・オブ・カンテンに進化したとき。
そう、「彼」と、同じところまで行き着けたなら──
「なのに、なのに……」
はらはらと、カンテン(青)は身体と同じ色の涙をこぼす。粘度が高いのか、筋となって流れることなく、玉となって転がり落ちる滴までが、今の自分と彼との違いを見せるようで、より切なくなった。
見上げる高さは、変わらない。ゆっくりと撫でてくれる指のやさしさも、カンテン(青)を呼ぶ声も。
けれど、その指は柔らかくともつるりとしておらず、びっくりするほど温かい。かつてはガントレットに覆われていた腕が、今は金属音のひとつも立てない。
防御力などカケラもなさそうな布の服に包まれた身体も同様で、バイザーを通さずに見える両の目は、あの頃のような翠の光ではない。
全く変わらないのは声くらいなのに、どうして、カンテン(青)には、わかってしまうのだろう。いっそ、「彼」ではないと勘違いしてしまえれば、良かったのに。
カンテン(青)が「彼」をわからないなんてこと、ありえないのに。
たとえ、彼が、変わり果てた姿になってしまったのだとしても。
嗚咽を飲み込みながら、それでも諦められなくて、カンテン(青)は、訴えた。
「どうして、どうして人間なんですか、ピエール……!!」
「……いや、どうしてと言われても」
カンテン(青)の魂の叫びに、彼──ピエールは困った顔をして、その場に視線をさまよわせる。同じような苦笑や何を考えているのか分かり難いにやにや笑い、我関せずの無表情。様々な反応が返ってきたが、その中に彼の役に立つものはなかったらしく、ひとつため息をついて髪を掻き回す。
カンテンにはどうにもすわり心地の悪い建物は、何度も連れられてようやく目に馴染んできた。彼曰く、手軽に食事をとるための店だと言うこの場所には、現在、カンテン(青)とピエール以外にも何組かが同席している。いつものことだ。
恩人であり、目標でもあるナイト・オブ・カンテンのピエールとのふたり旅のさ中、突如としてこの世界に落とされた。
それまで生きてきた森とも草原とも荒野とも違う場所。数度だけ訪れたことのある、人間の街ともどこか違うこの世界に、カンテン(青)は最初、パニックになった。
見たこともないものであふれた、狭い部屋。まるで馴染みのない人間という生き物が一体、目の前にいて、カンテン(青)はもう少しで炎の息でも吐いてしまうところだった。
それを止めたのは、まるく見開かれたその人間の眼差しと、思わずというようにこぼれ落ちた、カンテン(青)を呼ぶ声。
彼だ、と、カンテン(青)は悟らざるを得なかった。
それが、どんなに辛いことだったとしても。
「カンテン(青)は、一途だよなぁ」
しみじみとつぶやくのは、ヒョウガという名の男。ピエールの友人だというその男は、初めからカンテン(青)にはずいぶんと好意的かつ同情的だった。
つるつるとした身体を震わせるカンテン(青)を指先でつつき、ピエールに視線を戻してにやりと笑う。
「男冥利に尽きるってやつだろ。応えてやれば?」
「おい……」
「まあ、この健気さは、応援したくなるかも」
じとりと睨みつけるピエールの斜め向かいから、ヒョウガの意見を支持する声が上がった。それにうなずくものが少なくないことを見てとって、とうとうピエールは頭を抱えてしまう。
「お前ら、他人事だと思って好き勝手……」
「いやだって、ねえ?」
「なあ?」
意味ありげに笑う人間たちに、横から呆れたようなため息。
「ヒョウガも、ののさんも……そんなことを言って、ピエールさんを困らせるのは良くないわ。ひとには事情というものがあるのだし、そもそも、そんなに簡単な話でもないのよ?」
たしなめるようにその二人を見るのは、真っ赤な鱗もつややかな、雌のドラゴン。ある意味ではカンテン(青)と似たような立場にあるはずの彼女だが、その意見はむしろピエール寄りにあるらしい。
絶望したように延び広がりながら、カンテン(青)はさらに涙を落とす。彼女ならわかってくれると思ったのに、という恨めしげな眼差しに気づいたのか、居心地悪げにひとつ尻尾を振って、彼女、フィアンナは長い首を傾けてカンテン(青)を覗き込んだ。
「ねえ、カンテン(青)。あなたもわかっているでしょう? わたしたちがこちらにきたのは、事故のようなもので……本当は、起きるはずがなかったことだから、ピエールさんだって、あなたを騙したりとか、そんなこと考えていたわけじゃないって」
「……はい……」
「わたしだって、ずっと、あちらでヒョウガと一緒にいられると思っていたもの。あなたの気持ちもわかるわ。だけどね」
「わかって、るんです。ピエールは、悪くない……今だって、ピエールは、カタチは変わってしまったけど、ボクをそばに置いてくれてるし、中身が変わってしまったわけじゃない……でも、でも……」
わかっている。ピエールの身体は違うものになってしまったし、ここでは思うように自分を成長させるのは難しいけれど、ピエールとカンテン(青)の関係は何も変わらない。むしろ、前よりも優しくなったくらいだ。
それでも。それでも、たったひとつのことが、カンテン(青)を絶望させるのだ。
だって、カンテン(青)は。ずっと、ずうっと、それを目指して己を高め続けてきたのだから。
「人間じゃ、ピエールに……ピエールとの子づくりがが出来ないじゃないですか……!!」
ぶふう、と飲み物を吹き出す音がそこかしこから聞こえてくる。ばしゃり、と紙のカップが倒れて中身がこぼれているのはピエールの手元だ。
しばし時を止めたテーブルだったが、ぎぎぎ、と音がしそうな仕草で同席者たちの視線が一人に集まる。
「ピエール……?」
「あなた……まさか……そんな趣味を……?」
「待て待てまてまてまてえーいっ!!」
一度顔に集まった視線たちがごく自然な動きで腹まで落とされ、赤くなればいいのか青くなればいいのかわからない顔でピエールが叫んだ。
彼らは気にもしていないが、先ほどから店内は静まり返り、レジカウンターの注文の声すら聞こえていない。フライヤーのタイマー音だけが長閑に調理完了をお知らせしてくれるが、それに対処すべき店員ですら、このカオスなテーブルに注目していた。
「誓って言うが、俺とこいつはそんな関係じゃない、というか俺にそんな性癖はないからな!? というか、お前、そんな願望あったの!!?」
「当たり前じゃないですか! ボクが何のために鍛錬を積んできたと思ってるんです、あなたと同じナイト・オブ・カンテンになれたなら、そのときこそあなたにボクの子どもを生んでもらおうとずっと」
「いいからお前ちょっと黙れ!?」
ぐにん、とピエールに上から押さえつけられ、カンテン(青)は不満げに唸りながらも素直に黙る。カンテンだから別に口はないし、潰されたところで喋るのに支障はないのだが、カンテン(青)は基本的にはピエールに従順なのだ。
願望はまったくもって従順でないことがたった今発覚したけれど。
「下剋上の上に種付け希望とは、なかなかやりおる」
「なんかある意味、卒業試験みたくないか? 師を超えたことを身を持って証明する的な」
「そういうと少年漫画っぽいけど、やることはまんまエロゲな件」
「こんなに成長したボクを見てください、と」
「どこが成長したんですかねぇ(ゲス顔)」
「言わせんなよ恥ずかしい」
「お前らの口にスライム突っ込んでやろうかほんと!」
きゃーこわーい、とわざとらしく怯える馬鹿どもに青筋を浮かべるが、この歴戦の猛者たちその程度でおとなしくなるわけもない。
にやにや笑いながらぐっと親指をやってはいけない仕草で突き出し、一人はけしかけ、一人は強くうなずく。
「ピエール、がんば☆」
「大丈夫だ。愛があれば種族の違いも、それによるプレイの方法の違いも乗り越えられる」
「だから俺は、ピエールと違って純粋なモンスター燃え派でモン姦趣味はねえっつってんだろお前らなんか嫌いだあぁぁぁぁぁ!!!」
複雑そうな顔で彼らを見るフィアンナと、何やら希望を見出し(てしまっ)たように丸く膨らむカンテン(青)。
どうやら、彼らの旅とカンテン(青)の進撃は、まだ終わらないままのようだった。
いろいろごめんなさい。