『婚約破棄されたので、父が正義の女神テミスを召喚しました ~神の天秤に真実の愛を載せたら、軽すぎて吹き飛びました~』
婚約破棄されたので、父が正義の女神テミスを召喚しました ~神の天秤に真実の愛を載せたら、軽すぎて吹き飛びました~
春の柔らかな日差しが降り注ぐ王立魔法学園の大講堂は、本来であれば、厳かな感動と旅立ちの喜びに包まれているはずだった。
アーチ状の天井には星図のモザイク画が燦然と輝き、磨き上げられた白大理石の床には、目の覚めるような真紅の絨毯が敷き詰められている。
壇上には金銀糸の刺繍を施した礼服姿の卒業生たちが並び、来賓席では、この国の名だたる貴族たちが子女の晴れ姿を誇らしげに見守っていた。
ただし、最前列中央に設けられた国王夫妻専用の特別席だけは、ぽっかりと空いている。
国王陛下と王妃殿下は、隣国との通商条約締結のため、ひと月前から外遊中だった。
王家の名代として出席しているのは、卒業生代表でもある第一王子アルフレッド殿下ただひとり。
つまり、今日この場には、殿下の暴走を即座に止められる王族が誰もいなかったのである。
そして、その権力の空白が、最悪の形で実を結んだ。
「――よって、我が婚約者クラリス・フォン・グランドール! 貴様との婚約を、この場で破棄することを宣言する!」
大講堂の静寂が粉々に砕け散った。
壇上の中央で、金糸に縁取られた豪奢なマントを翻しているのは、第一王子アルフレッド殿下。
その隣には、子鹿のように震えながら殿下の腕にしがみつく、ピンクブロンドの男爵令嬢マリアがいた。
大講堂が凍りついた。
卒業証書を掲げていた学園長は、口を半開きにしたまま石像と化している。
楽士のひとりが動揺して手を滑らせたのか、コントラバスが「ぶぉん」と間抜けな重低音を響かせた。
その音だけが、やけに虚しく講堂に響いた。
名指しされた私、クラリス・フォン・グランドールは、ただこめかみを押さえていた。
(……今? よりによって卒業式の真っ最中に?)
怒りよりも先に、呆れが込み上げてくる。
もっとも、胸の奥に何も感じなかったわけではない。
幼い頃、庭園で転んだ私に手を差し伸べてくれた少年。
初めての舞踏会で、緊張する私に「大丈夫だ」と微笑んでくれた婚約者。
その人が今、別の女性を抱き寄せながら、私を悪女と呼んでいる。
十年以上積み重ねてきた時間が、薄い硝子のように砕けていく気がした。
けれど、私は公爵令嬢だ。
泣き崩れることも、取り乱すことも許されない。
だから背筋を伸ばし、静かに息を吸った。
殿下は勝ち誇った表情で、懐から長々とした巻物を取り出した。
「クラリス! 貴様の罪は明白だ! 我が真実の愛の相手たるマリアに陰湿な嫌がらせを繰り返し、教科書を焼き払い、あまつさえ大階段から突き落とそうとした! そのような冷酷無比な悪女に、未来の国母たる資格などない!」
周囲の生徒たちがざわめいた。
「父上と母上が不在の今、王位継承者たる僕の裁量で、この婚約を無効とする!」
私は深く息を吐いた。
「殿下。まず第一に、マリア様の教科書が燃えたのは、召喚実技でサラマンダーを暴走させた自爆事故です」
「なっ……!」
「第二に、大階段から落ちかけたマリア様を受け止め、足を捻挫したのは私です。保健室の記録にも残っております」
「そ、それは……!」
「そして第三に――」
私は壇上を見上げた。
「このような茶番は、裏の応接室で個人的にお願いできませんでしょうか。学園長先生が卒倒しかけております」
学園長がびくりと肩を震わせた。
「黙れ! 言い訳は見苦しいぞ! 証拠ならマリアの涙がすべてを物語っている!」
「泣けば嘘が真実になるのでしたら、国の司法裁判所はとっくに全焼しておりますわ」
その瞬間だった。
来賓席の最前列から、凄まじい魔力の奔流が巻き起こった。
「な、なんだ!?」
殿下がマントを押さえてよろめく。
見れば、我が愛する父、グランドール公爵が立ち上がっていた。
普段は温厚そのもの。
休日には庭の薔薇を剪定し、古代神話の原典を読みふける、少々研究熱心な父である。
しかし今、その銀縁眼鏡の奥の瞳は、娘を侮辱された怒りで燃え上がっていた。
「お、の、れ……!」
低い声が響く。
「手塩にかけて育てた我が至宝、クラリスを……公衆の面前で悪女呼ばわりだと……!?」
「お父様?」
「許さん……断じて許さんぞ、親の目を盗んで好き勝手する不届き者があぁぁぁっ!」
「お父様、お待ちになって! ここは神聖な学園の大講堂です!」
私の制止は届かなかった。
父は懐から年代物の羊皮紙と、虹色に明滅する巨大な魔石を取り出した。
父はかつて、歴代最年少で宮廷魔道士長を務めた天才である。
しかも専門は『太古神話召喚術』。
失われた神々との契約を研究し続ける、筋金入りの召喚術オタクだった。
嫌な予感しかしない。
「天に座す星々よ! 始源の理よ! 不条理を断ち、偽りを暴き、真実の秤を掲げる白銀の女神よ!」
「お父様!? まさか――!」
「我が血と魔力を対価とし、今ここに絶対なる正義の化身を顕現せしめよ――!!」
眩い閃光が炸裂した。
轟音とともに大理石の床が震え、講堂全体に冷徹で神聖な威圧感が満ちていく。
護衛騎士たちは膝をつき、生徒たちは悲鳴を上げて身を伏せた。
光の柱が収まったとき、壇上にはひとりの女性が立っていた。
純白のトガをまとい、黄金の髪を優雅になびかせた、息を呑むほど美しい女性。
左手には黄金の天秤。
右腰には、青白い燐光を放つ長剣。
そして双眸は、いかなる偏見にも惑わされぬよう、純白の布で覆われていた。
――法と秩序を司る、ギリシャ神話の女神テミス。
神話の存在が、現実に降臨したのである。
『……我を呼び覚ましたるは誰か』
氷の鈴を転がすような美声が響いた。
『この地に不義を働き、天上の秩序を乱したる者は……』
「女神様! あいつです!」
父が真っ先に、壇上の王子を親指でビシッと指差した。
「あの頭の軽そうな金髪の若造です! 我が愛娘に濡れ衣を着せ、あろうことか卒業式で婚約破棄を宣言しおったのです! 王が不在なら、神に裁いていただくしかありません!」
テミス神はゆっくりと父へ顔を向けた。
『……召喚者よ』
「はっ!」
『静まれ』
「は、はいっ!」
『我は汝の怒りに従うために来たのではない。真実を裁くために来たのだ』
父は瞬時に背筋を伸ばした。
『たとえ汝の娘であろうと、罪があれば裁く。それでもよいな』
「も、もちろんでございます!」
『ならばよい』
女神は壇上へ向き直った。
『さて、王子とやら。汝の言い分を述べよ』
アルフレッド殿下は、尻餅をついたまま歯を鳴らしていた。
「め、女神……!? ぼ、僕が悪いんじゃない! すべてはクラリスの嫉妬だ! マリアがそう言ったんだ! 僕たちは真実の愛で結ばれているんだぁっ!」
『真実の愛、と申したな』
テミス神が黄金の天秤を掲げた。
カラン。
殿下の言葉が光の粒となり、右の皿へ落ちる。
すると、皿がふわふわと浮き上がった。
そのまま、綿毛のように軽々と跳ね上がってしまった。
『……軽すぎる』
女神の眉がぴくりと動いた。
『羽毛よりも、朝露よりも、ひと夏の蝉の抜け殻よりも軽い』
「ひっ……!?」
『己の不貞と身勝手な欲望に、「真実の愛」などという神聖なる名を冠するでない。片腹痛いわ』
殿下の顔から血の気が引いた。
続いて、テミス神はマリアへ顔を向けた。
『次なる者よ。汝の涙の重さを量ろう』
マリアは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら訴えた。
「わ、私はただ殿下をお慕いしていただけでぇっ! クラリス様はいつも怖い顔で睨んで、冷たい言葉ばかり浴びせてきたんですぅぅ!」
カラン。
天秤の左皿に言葉が載った。
その瞬間、針が狂ったように揺れ始めた。
「虚飾」
「自作自演」
「打算」
「玉の輿願望」
黄金の天秤に次々と文字が浮かび、最後には黒煙がプシュウと噴き出した。
『……悪意と虚言による重力過多である』
女神の声が絶対零度まで下がった。
『己の不手際を他者に擦り付け、涙を武器に男を操り、無実の者を陥れる。その精神、醜悪極まる』
ジャキッ。
女神が腰の長剣をわずかに引き抜くと、青白い雷光が弾けた。
『この剣で、汝の虚飾を断ち切ってくれようか』
「ぎゃあああっ! ごめんなさい! 嘘です全部嘘でしたぁぁぁ! 将来の王妃になって贅沢三昧したかっただけなんですぅぅ!」
マリアは床に平伏した。
周囲の貴族たちから、冷え切った視線が突き刺さる。
殿下は慌てて後ずさった。
「ま、待ってください! 僕は一国の王子ですぞ!? 父上と母上が戻られれば――!」
『黙りおれ』
静かな一喝で、講堂のステンドグラスが激しく震えた。
『法の上に立つ王など存在せぬ。ましてや王族たる者が、公の儀式を私情で汚し、証拠もなく他者を断罪するとは何事か』
女神は黄金の天秤を高く掲げた。
『汝のような愚昧が玉座に就けば、国は三年で瓦解するであろう』
「さ、三年!?」
『……いや、二年かもしれぬ』
「短くなったぁぁぁっ!」
『国庫は一年目で底をつき、二年目には民が蜂起する。三年目には、歴史書から汝の名が消されておろう』
「ひぃぃぃっ!」
女神は深く息を吐いた。
『……さて、判決の前に、もうひとり尋ねねばならぬ者がおる』
その顔が、私へ向けられた。
『クラリス・フォン・グランドール』
「は、はい」
『汝は、あの王子を憎んでおるか』
思いがけない問いだった。
私は答えに詰まった。
憎んでいるのだろうか。
幼い頃から、王子の隣に立つ未来を疑ったことはなかった。
勉学に励み、礼儀を学び、国母となるために自分を磨いてきた。
それなのに、あの人は私を信じなかった。
たったひとりの女性の涙を信じ、私の言葉には耳を貸さなかった。
胸の奥が、きりりと痛んだ。
「……憎いと、思います」
私は正直に答えた。
「でも、それ以上に……悲しいのです」
声がわずかに震えた。
「十年間、殿下をお支えするために努力してきました。けれど、その時間は殿下にとって、何の意味もなかったのでしょうか」
講堂が静まり返った。
私は唇を噛み、顔を上げた。
「それでも私は、殿下に不幸になってほしいわけではありません。ただ……もう、あの方の隣には立ちたくないのです」
テミス神はしばらく沈黙した。
やがて、穏やかに告げた。
『憎悪を抱くことは罪ではない。悲しむことも、涙を流すことも罪ではない』
黄金の天秤が柔らかく輝いた。
『だが、その感情を理由に虚偽を述べ、他者を陥れれば罪となる。汝は己の心を偽らず、それでも他者を害そうとはせなんだ』
女神の声が、少しだけ温かくなった。
『よく耐えたな、娘よ』
その一言に、私は思わず目を伏せた。
胸の奥に張り詰めていたものが、静かにほどけていく気がした。
『――よって、判決を下す』
女神は再び厳格な声音に戻った。
『クラリス・フォン・グランドールに非は一切なし。婚約破棄を承認し、王子アルフレッドの私有財産の八割を慰謝料として差し押さえる』
「は、八割!?」
『なお、王室公費からの補填は一切認めぬ。己の愚行は己の財で償うがよい』
「そ、そんなぁぁぁ!」
『残る二割は生活費として残してやる。感謝するがよい』
なんとも実務的な判決だった。
「……ありがとうございます、女神様」
私は深々と頭を下げた。
『そしてアルフレッド。汝には反省の重みを学ぶ刑を処す』
女神は剣の切先を殿下の鼻先に突きつけた。
『国王夫妻が帰還するまで、目隠しをして神殿の大理石磨きに従事せよ。己が何も見ず、何も確かめず、他者を裁いた愚かさを、その身をもって知るがよい』
「ひ、ひぃぃぃっ! 父上ぇぇぇ! 母上ぇぇぇ助けてぇぇぇ!」
殿下は情けない悲鳴を上げながら、近衛騎士たちに拘束された。
彼らは国王直属の生真面目な部隊であり、すでに女神の裁きに深く感銘を受けているようだった。
そのまま王子は、ずるずると講堂の裏へ引きずられていった。
嵐のような断罪劇が終わった。
……かに思えた。
『さて、召喚者よ』
テミス神が父へ向き直った。
「はっ! 女神様、このたびは我が愛娘をお救いいただき――!」
『汝にも罪がある』
「……は?」
父の笑顔が固まった。
『神聖なる卒業式を、無許可の超高位召喚術で混乱させた罪だ』
「そ、それは娘を守るためでして!」
『動機は理解する。しかし、法は法だ』
「め、女神様ぁぁぁ!」
私は思わず口元を押さえた。
まさか、お父様まで裁かれるとは。
テミス神は黄金の天秤を掲げた。
『……ただし、汝の娘への愛情に偽りはない』
カラン。
父の思いが光の塊となり、天秤の皿へ落ちた。
その瞬間。
ガゴォンッ!!
凄まじい音を立てて天秤が傾いた。
『……重い』
女神の眉がぴくりと動く。
『重すぎる。山よりも、大海よりも、神殿の礎石よりも重い』
「当然です! クラリスは世界一可愛らしく、世界一賢く、世界一心優しい、我が家の至宝ですからな!」
『……誇張が甚だしい』
「な、なんと!?」
『ただし、愛情だけは真実である。……少々、度が過ぎておるがな』
私は顔を覆った。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
『よって、召喚者には罰として、向こう一年、我が神殿への奉納を命ずる』
「ほ、奉納でございますか!?」
『毎月一度、最高級の焼き菓子と薔薇ジャムを献上せよ』
「……は?」
『忘れるでないぞ』
父は数秒ほど呆然としていたが、やがて満面の笑みを浮かべた。
「おおっ! 女神様! それならば我が領地特産の薔薇ジャムを、ぜひとも!」
『……ほう。薔薇ジャムか』
女神の耳が、ぴくりと跳ねた。
私はその反応を見逃さなかった。
「あの……テミス様」
『何だ、健気なる娘よ』
「よろしければ、卒業パーティー用に用意された焼きたてのタルトと、最高級茶葉の紅茶など、召し上がっていかれませんか?」
女神は一瞬、動きを止めた。
『……タルト、とな』
「はい。林檎と蜂蜜を使ったものです」
『……蜂蜜』
黄金の天秤が、かすかに揺れた。
『……まあ、天秤の絶対的な均衡を保つには、相応の糖分が必要不可欠なのだ』
「そうなのですね」
『うむ。決して甘味に心を奪われたわけではないぞ』
「もちろんでございます」
『……では、少しだけ付き合ってやろう』
神々しい威厳を漂わせたまま、テミス神はすたすたと壇上を降りていった。
その後ろを父が、
「女神様! 我が家の薔薇ジャムは三代にわたり改良を重ねた逸品でして!」
と嬉々として追いかけていく。
取り残された講堂では、学園長が震える手でマイクを握り直していた。
「えー……それでは……卒業証書授与式を……厳粛に再開いたします……」
誰もが、何事もなかったかのように拍手をした。
もっとも、全員の顔には「今のは一体何だったのだ」という疑問がありありと浮かんでいたけれど。
その日の夕暮れ。
卒業式を終えた私は、中庭の薔薇園でテミス神と向かい合っていた。
白いテーブルには、蜂蜜の香る林檎のタルトと、湯気を立てる紅茶。
女神は目隠しをしたまま、実に器用にフォークを操っていた。
『……うむ。悪くない』
その声は、どこか満足げだった。
私はしばらく迷った末、静かに尋ねた。
「女神様。正義とは、何なのでしょう」
テミス神はフォークを置いた。
『……難しい問いだな』
春風が薔薇の花びらを揺らした。
『正義とは、ただ罪を裁くことではない。罪の向こうにある事情を知り、それでも公平であろうと努めることだ』
私は黙って耳を傾けた。
『そして、己の心に嘘をつかぬこともまた、大切な正義であろう』
女神は静かに微笑んだ。
『娘よ。汝はこれから、何を望む』
私は空を見上げた。
夕陽が、薔薇園を柔らかな黄金色に染めていた。
婚約者を失った。
未来の王妃という立場も失った。
けれど、不思議と胸は軽かった。
長い間、誰かのために生きることばかり考えてきた。
これからは、自分のために歩いてもよいのかもしれない。
「……まずは、旅に出てみたいです」
『ほう』
「王妃教育ばかりで、領地の外をほとんど知りませんから。世界を見て、たくさんの人に出会って……自分が本当にしたいことを探したいのです」
テミス神は満足げに頷いた。
『それでよい。汝の人生は、汝自身のものだ』
胸の奥が温かくなった。
私は微笑んだ。
「ありがとうございます、女神様」
『礼には及ばぬ』
そう言って、女神は再びタルトへ手を伸ばした。
『……ところで、娘よ』
「はい?」
『この菓子は、持ち帰ることができるか』
「もちろんです。お包みいたしますわ」
『うむ。では、三つほど頼む』
「三つ、ですか?」
『……オリュンポスにも、甘味を好む者がおるのでな』
そう言いながら、女神はなぜか少しだけ顔を背けた。
私は笑いをこらえながら、侍女に包みを用意させた。
こうして、私の波乱万丈な卒業式は幕を閉じた。
後日、外遊から戻った国王陛下が、神殿で大理石を磨く第一王子を見つけて卒倒しかけたという話を聞いたのは、それから半月後のことである。
ちなみに、お父様は毎月の奉納をたいそう楽しみにしており、最近では女神様専用の焼き菓子工房まで建設しようとしている。
……お願いですから、お父様。
今度こそ、ほどほどになさってくださいませ。
もっとも。
正義の女神様が毎月楽しそうにタルトを召し上がっていると聞くと、私も少しだけ嬉しくなってしまうのだけれど。
――神の天秤は、嘘も罪も見逃さない。
けれど、どうやら甘いものには、少々判定が甘くなるらしい。
〈完〉




