「事実と真実は違う」の考察
「事実と真実は違う」という言葉を聞くことがある。
その「違い」の考察をしたエッセイになります。
まぁ、素人なんで読みにくい部分や専門家から見たら稚拙な部分があるとは思いますが、極力AIの使用は極力避けて自分の文章で書いたつもりです。
「事実と真実の違い」について参考になったら幸いです。
事実と真実は違う
この言葉をたまに見かけるが、このことについて考えてみる。
先に結論を書くと、「事実」は現象を表し、「真実」は認識を表した言葉という違いがあると思っている。
これを簡単に表したものを書くと。
テレビカメラでの画像に美しい花畑が映る。それを見て人は天国のような場所で幸福感・安堵感を感じるが、カメラの視野を広げるとそこは悲惨な戦場で地獄のような場所だった。
イメージしやすいだろうか?
花が咲いているのは「事実」だし、戦場であることも「事実」だった。
ただ、視野を広げると花の咲く美しく天国のような場所と思われていたのが、悲惨で残酷な地獄のような場所である事が分かり天国のような所ではないことが「真実」だった。
これは「偏狭な部分で切り取った事実は真実を180度変える」ということを表している。
我々は事実という現象を見たとき、それを解釈をへて認識しようとするが、その解釈には見る人の主観が少なからず混入してくる。
それはサングラスというより赤・青・黄といった様々な色メガネのようなものであり。
そのメガネが赤だったら赤い色のものは打ち消しあって無色に見え、青のような色は暗くダークな色に変わる。
そのように人によって「見え方」が変わり、その結果により認識が人によって変わり、それぞれの「見え方」で得た認識が主観と呼ばれるものだろう。
真実とは、そのような色をなるべく無色透明にして共通の認識を得ようとすることであり、事実が現象であるのに対し真実は検証して共通認識を得るためのプロセスであると言えるだろう。
そして同時にそのようなプロセスを経た見解に対して、多くの人が「このようなものである」と共通に認識されたものだろう。
だが、一つだけ注意すると。
実は「真実」と言われたものが歴史上で大きく変化したことがあった。
「コペルニクス的転回」
この言葉を聞いてピンと気付いた人は多いだろう。
詳細は省くが地動説・天動説の話である。
その当時は天動説が常識で真実だとされていた。
だが、現在はどうだろう? ほとんどが地動説であるはずだ。
このように、真実はときに180度姿を変える。
他に事実と真実について考えていたら思い浮かんだ人物がいる。
古代ギリシャの哲学者で名をエピクロス(エピキュロス)という。
この人物は「快楽こそ最高の善」だと説いた。
これを聞いてあなたはどう思うだろうか?
私は初めてこの言葉を聞いたときは、素直に「己の欲求を追い求めるような快楽主義の人物か?」と思った。
だが実際は違った。
彼のいう「快楽」とは生命を維持する分量だけの食事が摂れていて、それを持続できる状態を「満ち足りた状態である」として、それを「快楽」と定義したものだった。
これは東洋思想の「足るを知る」に非常に近い概念だ。
だが「快楽こそ善」という言葉は、私が抱いた初期の印象と同じように捉えられ、彼のその哲学は長い間不遇な扱いを受けていた。
彼は「快楽こそ善である」といったことは事実であり。それによって「快楽主義者=享楽主義者」と受け止められ、それが長い間で真実としての彼の評価だった。
しかし、近代に入ってから彼の哲学は脚光を浴び現在も研究が進められている。
彼の哲学に関する真実は、いま静かに変容している。
このように真実は、ときに人の認識によって大きな誤解を生むが、正しく認知されるとその姿を変える。
だから、真実とは、確固たる認識を求めるプロセスであり、同時にそのプロセスによって生じた「現時点で最も頑健に支持される認識の総体」であると言えるだろう。
SNSの時代において、私たちは事実を得ることは容易ではあるように見えるが実に乱雑で正確なものを得ることが難しかったりする。
ましてや、認識においては真実を知ることは不可能とさえ思ってしまう。。
なにせ自分がどんな色メガネをかけているか認識さえしていない人がいるからだ。
色メガネというバイアスを無くすのは、人間にはかなり難しい、いや不可能とさえいえる。
だから無色透明を意識しつつ、自分のメガネの色を知り相手のメガネの色を知ることが真実に繋がるのかな?と思いつつ、これまでの話が私の「事実と真実の違い」という考察になる。
あなたは、どうお考えだろうか?
事実や真実という言葉を聞くとき、切り取られた事実なのか誰にとっての真実なのかを静かに見る目が必要だろうなぁ、と思っているんですけど、これが難しい……




