表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

白いポストは知っている

作者: 月の位相
掲載日:2026/08/04

 梅ノ木駅の駅前ロータリーの隅に、白いポストが立っている。


 郵便ポストではない。あれよりひとまわり大きく、角ばっていて、全身がのっぺりと白い。正面には手書きの看板文字を印刷に起こしたような書体で、こうある。


『悪書追放 青少年に見せてよくない本を入れてください 梅ノ木市青少年健全育成協議会』


 設置されたのは四十年前だという。昭和の終わりごろ、全国で悪書追放運動が盛り上がった時期である。市内の母親たちが署名を集め、市議会が動き、除幕式では当時の市長が白いテープに鋏を入れた。その写真がいまも公民館の廊下に飾ってあり、写真の端では若き日の柴田重蔵──当時四十二歳、育成協議会の下っ端──が緊張しきった顔で直立している。当時は駅前に本屋が三軒あって、そのどれかで買われた「よくない本」が、月に数冊は入っていたらしい。本屋は平成のうちに一軒ずつ順に潰れ、いまは本屋が一軒もない駅前で、白いポストだけが残った。


 管理しているのは、育成協議会の会長・柴田重蔵、八十二歳である。柴田会長は月に一度、軍手をはめて南京錠を開け、中を確認する。ここ二十年、中身はほぼ一貫して空だ。ときどき空き缶とレシートが入っている。会長はそれを「悪書ではないが、悪意ではある」と言いながら持ち帰る。


 その白いポストが今年、市の広報誌に載った。「設置四十周年」という、めでたいのかどうかよくわからない節目である。市の生涯学習課が予算の消化先を探していたことと、柴田会長が「一度くらい、あのポストの意味をみんなで考えたい」と言い出したことが合わさって、妙な催しが決まった。


 題して「悪書追放四十周年記念・公開大喜利 青少年に見せてよくない本とはどんな本か」。


 ポスターのコピーは『笑って考える、悪書のこと。』。会長は「笑いごとではない」と渋ったが、生涯学習課の課長の「まじめにやって四十年、誰も考えませんでしたから」という一言で折れた。折れたというより、刺さったらしい。


 会場は梅ノ木市民会館・大ホール。出演は、梅ノ木市出身の噺家・楽々亭万丈とその仲間たち。テレビの日曜夕方でやっているあの番組と同じ並びで、座布団を積んだり取ったりするという。


 当日、四百席のホールは思いのほか埋まった。とはいえ客席の平均年齢は目測で六十五歳。肝心の「青少年」は、学校で配られたチラシに釣られて来たらしい制服姿が、後ろのほうにぱらぱらと十人ほど。そのほとんどが開演前からスマホを見ていた。チラシの隅には『参加した青少年には図書カード進呈』とあって、それが彼らの来た理由のすべてだった。


 緞帳が上がると、舞台には座布団が五枚、扇形に並んでいた。


 司会の楽々亭万丈は、紫の着物で真ん中に座り、よく通る声で言った。


「えー、本日はようこそのお運びで。梅ノ木が生んだ噺家、楽々亭万丈でございます。生んだはいいが育てた覚えはないと、市のほうでは申しております」


 客席が温まる。万丈が右手を広げた。


「本日のお題は市からの持ち込みでございまして。駅前の白いポスト、皆さんご存知ですな。『青少年に見せてよくない本を入れてください』。四十年間そう書いてあるんですが、じゃあ『青少年に見せてよくない本』とはいったいどんな本なのか。実は誰もちゃんと考えたことがない。今日はこの人たちに考えてもらいます。お手を拝借、どうぞ!」


 拍手の中、五人が座布団に着く。


 上手から、黒い着物の楽々亭黒門。一門きっての毒舌で、本人いわく「着物が黒いんじゃない、心が透けてるだけ」。


 その隣、桃色の着物の花吹亭こまち。一門初の女性で最年少、三十一歳。


 真ん中に、水色の着物の大昔亭ぽん平、八十八歳。高座で寝たことが三回ある。


 その隣、灰色の着物の楽々亭小市民。四十九歳、住宅ローンが残り二十六年。


 下手の端に、緑の着物で眼鏡の物知亭かしこ。前職は塾講師。


 座布団運びは、地元郵便局の山田くん、二十四歳。本物の郵便配達員が座布団を運ぶという、市の企画課渾身の人選である。


「さて、恒例によりまして、お一人ずつご挨拶をいただきます。黒門さんから」


「楽々亭黒門でございます。本日は『悪書追放』の催しと伺いまして、身の引き締まる思いでございます。先ほど楽屋で会場を覗きましたところ、追放されそうなのは私だけのようで、安心いたしました」


「安心しないでください。こまちさん」


「花吹亭こまちです! 本日は一門でただひとり、青少年にいちばん年齢が近い者として参りました!」


「近くないだろ」と黒門が横から言った。


「近いんです! 誤差です! 四捨五入の仕方によっては!」


「どう四捨五入しても三十一は三十だよ」


「ぽん平師匠、ご挨拶を」


「……大昔亭ぽん平でございます。ええー、本日は、なんの会でしたかな」


「悪書追放です」


「ああ、そうじゃった。わしの出した本は一冊も売れとりませんので、追放のしようがございません。どうぞ安心してお聞きください」


「売れてない自慢が出た。小市民さん」


「楽々亭小市民です。住宅ローンが残り二十六年ございます。本日は座布団を一枚でも多く持って帰りたいと思っております」


「座布団は換金できませんよ」


「座れれば財産です」


「かしこさん」


「物知亭かしこと申します。前職は塾講師でございまして、いまだに人さまを見ると偏差値をつける悪い癖が抜けません。本日の客席は、実に味わい深い分布をしておられます」


「褒めてるんですかそれは。……ご挨拶はこのくらいにいたしまして」


「それでは一問目」万丈が扇子で見台を打った。「ずばり伺います。『青少年に見せてよくない本』とは、どんな本か。はいどうぞ」


 真っ先に手を挙げたのは、こまちだった。


「はい! 表紙にビニールがかかっていて、めくれない本!」


「ほう。めくれないなら見せられないから、ちょうどいいじゃないですか」


「よくないんです。めくれないのに、中身が全部想像できちゃうんです。想像させる

 本がいちばんよくないんです。わたしそれで想像力が育ちました」


「育っちゃったよ。しょうがない、一枚」

 山田くんが小走りで座布団を運ぶ。運び方が完全に郵便物の扱いで、丁寧に両手で差し出すのがおかしくて、そこでも笑いが起きた。


「はい次。小市民さん」


「うちの住宅ローンの返済予定表ですね」


「本じゃないでしょう」


「製本してあるんです、銀行が、ご丁寧に。最終ページに『完済時年齢七十五歳』と書いてある。三十五年ローンの三十五という数字は、青少年には刺激が強すぎます」


「刺激が強い(笑)。まあ、たしかにあれは早くから見せると人生に絶望しますな。一枚」


「ありがとうございます。座布団は無利子でありがたい」


「かしこさん」


「はい。巻末に答えがすべて載っている問題集です」


「あれは便利なもんじゃないですか」


「よくないんです。人生の問いには、たいてい巻末がありません。答えのない問いに耐える前に、答えを見る癖がつく。私は塾で二十年、答えから先に読む子どもを量産してまいりました」


「自首だ、いま。自首しましたよこの人。……うまいこと言ったって顔がちょっと憎らしいが、一枚」


「ぽん平師匠、どうです」


 ぽん平がゆっくり顔を上げた。間が長い。客席が身を乗り出す。


「……わしの日記じゃな」


「師匠の日記。なんでまた」


「字が汚うて、わしにも読めん」


「読めない(笑)」


「読めん本を読ませるのは、いちばんよくない」


「理屈は通ってる! 一枚」


「はい、では二巡り目参りましょう。同じお題で結構です。こまちさん」


「連載中の漫画の、最新刊です!」


「ほう。最新刊のどこがいけません」


「最後のページが『続く』で終わるんです。続きが気になって、何にも手がつかなくなります。わたし、あれで国家資格に二回落ちました」


「何の資格です」


「それは……言えません。三回目を控えてますので」


「験を担いでる。一枚」


「小市民さん」


「デパ地下のグルメガイドですね」


「おいしそうで、いいじゃないですか」


「よくないんです。金のない青少年に、一切れ三千円のローストビーフの写真だけ見せてどうするんですか。腹が減るだけです。ああいう本は、買える人間だけが読めばいい」


「あなたは買えるようになっても奥さんが許さないでしょう」


「そこには触れない約束で来ております。……はい、一枚どうも」


「かしこさん」


「『十分でわかる哲学』という類いの本です」


「ああ、駅の売店にもありますな」


「哲学者たちが二千五百年かけてわからなかったことが、十分でわかるはずがないんです。恐ろしいのは、読み終えた青少年が『わかった』という顔になることでして。わからないままの青少年より、わかった気になった青少年のほうが、はるかに手に負えません」


「元塾講師の実感がこもってる。一枚」


「ぽん平師匠、二巡り目です」


「……薬の説明書きじゃな」


「薬の。あの、小さく折り畳んである紙ですか」


「あれの、副作用の欄じゃ。読むと、飲む気が失せる。わしゃあれを読んで血圧の薬を三日やめて、えらい目に遭うた」


「それは師匠が読んじゃいけないやつだ。青少年、関係ないでしょう」


「青少年も、いずれ年寄りになる。早めに言うておくんじゃ」


「五十年先回りの答え! 一枚」


「黒門さん、お待たせしました」


 黒門は腕を組んだまま、顎で万丈を指した。


「あんたの自伝だよ」


「私の?『楽々亭万丈 わたしはこうして売れた』、おかげさまで」


「売れてないだろ、あんた。売れてない人間の『こうして売れた』は嘘の本だ。青少年に嘘を見せるわけにはいかない」


「山田くん、この人の座布団ぜんぶ持ってって」


 山田くんが座布団を回収する。黒門が畳に直に座らされて、客席は今日いちばんの笑いになった。黒門は動じない。


「いいんだ。畳のほうが、あのポストの気持ちがわかる。あれも四十年、直に立ってる」


 笑いの端に、少しだけ違う種類の音が混じった。


「えー、続いて二問目」万丈が仕切り直す。「せっかくですから、駅前の白いポストご本人の気持ちになっていただきましょう。実は私、昨晩ロケハンと称して駅前のポストを見て参りました。三分ほど眺めておりましたら、交番のお巡りさんに職務質問されました。白いポストの前に立っているだけで、いまや不審者でございます。──では、『白いポストの一言』、なんでも結構です。はいどうぞ」


「はい!」こまちが挙手する。「『わたし、ほんとうは冷蔵庫になりたかった』」


「なんで冷蔵庫」


「冷蔵庫は一日に何回も開けてもらえるんです。わたしは月イチ、柴田会長だけ」


「会長、月イチだそうです。……あ、客席で会長がうなずいてる。事実らしい」


「しかも会長、開ける前に必ず一礼するんです」


「見てきたようなことを言うね」


「見てきたんです、昨日」


「ロケハンかぶった! 一枚」


「小市民さん」


「『隣の赤いやつが羨ましい』」


「赤いやつ。郵便ポストね」


「ええ。あっちは年賀状の時期だけでもちやほやされる。回収も一日二回来る。こっちはここ二十年、空き缶とレシート。同じポストに生まれて、この格差ですよ。……山田くん、きみ、赤いほうの回収やってるんだろ」


 座布団の脇で山田くんが直立して「やってます」と答え、拍手をもらった。それから小さな声で「……白いほうも、局で一緒に回収できたらいいのにって、ときどき思います」と付け足して、もっと大きな拍手をもらった。


「座布団運びがいいことを言った。きみに一枚──はあげられない決まりなんだ。ごめんね」


「かしこさん」


「『投函口が狭すぎます』」


「ほう」


「設計された四十年前、悪書というのは薄い本だったんです。ところがいまの青少年が持っているものは、分厚い攻略本か、カード何百枚か、あるいはそもそも──紙ですらない」


「紙ですらない」


「はい。いちばん見せてよくないものは、たぶんもう、あの投函口には入らないんです」


 万丈がすぐには返さなかった。客席の後ろのほうで、スマホを見ていた制服の何人かが、なんとなく顔を上げた。


「……一枚。ぽん平師匠」


 ぽん平は今度は間を置かなかった。


「『はよ、入れてくれ』」


「師匠」


「『二十年、空じゃ。悪書でもええ。ようない本でも、ええ。……本を、入れてくれ』」


 笑おうとした客席が、笑いそこねた。ぽん平は素の顔で続けた。


「口を開けて四十年待っとるのに、入ってこんのじゃ。悪い本すら、もう」


「…………師匠、それはお題の答えですか」


「ポストの気持ちじゃて」


「二枚あげてください」


 山田くんが二枚運んだ。拍手が、さっきまでとは違う速さで長く続いた。


「黒門さん。畳の上からどうぞ」


 黒門は白いポストの方角、つまり駅のほうを見るように少し首を回してから言った。


「『白く塗り直されるたびに思う。汚れとるのは、本のほうかね』」


「というと」


「あのポストな、五年にいっぺん、市が白く塗り直すんだ。悪書を入れる箱だけは、真っ白にしとかないと気が済まない。……汚れてるのは本か、それとも、本に汚れてもらわないと困る大人のほうか。ポストは四十年、口を開けたまま考えてる」


 万丈は扇子を開きかけて、閉じた。


「三枚。……座布団と一緒に、私の立場も持ってかれた」


 三問目の前に、万丈は見台の水を一口飲んだ。客席の後ろの制服の並びは、いつのまにか全員スマホをしまっていた。図書カード目当てで来た十人が、いま舞台を見ている。四十年分の予算の中で、たぶんこの瞬間がいちばん安くて、いちばん効いていた。


「えー、ここまで『見せてよくない本』を伺ってまいりました。最後は逆から参ります。『青少年に、ぜひ見せたい本』。これを伺って、お開きにしましょう。はいどうぞ」


「はい」小市民が先に挙げた。「父ちゃんの給与明細です」


「あなたさっき、返済予定表は刺激が強いって」


「給与明細は現実です。刺激が強いのと現実は、両方見せておいたほうがいい。うちの娘はあれを見てから、風呂の湯を張り直さなくなりました」


「教育効果が出てる」


「ついでに娘は、進路希望の欄を『公務員』と書き直しました」


「夢がないなあ」


「夢は金がかかるんです。給与明細を見た人間から順に、それを知るんです」


「世知辛い。一枚」


「こまちさん」


「親に隠れて読んだ本、です」


「ほう。何の本です」


「何でもいいんです。題名じゃなくて、『隠れて読んだ』ってことのほうが大事なんです。押し入れの中で、懐中電灯で、親の足音を気にしながら読んだ本のことは、大人になっても全部覚えてます。堂々と読まされた教科書は、一冊も覚えてません」


「ちなみに、こまちさんは何を隠れて読んだんです」


「言えません」


「またそれだ。国家資格といい」


「言えないってことが、答えなんです。隠れて読んだ本は、大人になっても隠すんです」


「……耳の痛い話ですな、市の皆さん。一枚」


「かしこさん」


「一行も理解できない本です」


「見せてもわからないでしょう」


「わからない、ということを見せたいんです。世界には自分の知らないことが書いてある本が、図書館の壁一面にある。あれを一度浴びておくと、人間、簡単には威張れなくなります。ちなみに私は学生時代、ドイツ語の哲学書を三年かけて四ページ読みました」


「進まないねえ」


「四ページで人生観が変わりました。速度で言えば徒歩以下ですが、行き先は遠かった」


「威張ってる大人は浴び忘れたんだ。一枚。……客席の皆さんも、隠れて読んだ本のひとつやふたつ、おありでしょう。ああ、皆さん、急にいいお顔になった。今日いちばんいい顔だ」


「ぽん平師匠」


 ぽん平は、しばらく黙っていた。寝たのかと思った客が笑いかけたところで、口を開いた。


「わしゃな、十五のとき、ありゃ読んじゃいかんという本を読んだ」


「ほう」


「先生に取り上げられて、親父に殴られて、それでも隠れて読んだ。落語の速記本じゃ。芸人なんぞになったらいかん、あんな本を読むな、と言われとった時代じゃった」


 ホールが静かになった。


「その、読んじゃいかん本のせいで、わしは噺家になった。七十年やって、こうしてまだ高座におる。……見せたい本と言われてもな、わしにはわからん。わしを作ったのは、見せてよくない本のほうじゃったから」


 万丈は座布団の枚数を言わなかった。山田くんが、指示を待たずに一枚運んだ。それでよかった。


「……黒門さん。締めてください」


 黒門は、初めてまっすぐ客席を、それも後ろの制服の並びを見て言った。


「ない」


「ない、とは」


「大人が『ぜひ見せたい』と思った瞬間に、その本はつまらなくなる。青少年ってのはな、大人が読ませたい本は読まない。大人が隠した本だけを読むんだ。昔からそう決まってる」


 黒門は畳の上で座り直した。


「だから会長。あんたには四十年言いそびれてたが──あの白いポストはな、悪書の回収箱じゃないよ。あれは宣伝箱だ。『この世には、大人が青少年に見せたくないほど面白い本がある』って、駅前で四十年、宣伝してくれてたんだ。……ここの本屋が三軒とも潰れるまで、あれがいちばんの広告だったろうよ」


 客席の最前列で、柴田会長が笑ったのか泣いたのか、どちらとも取れる顔で頭を下げた。万丈が扇子で見台を打った。


「座布団十枚。……と言いたいところですが、この人には畳のままでいてもらいましょう。そのほうが様になる」


 万丈は客席に向き直った。


「えー、本日のお題、『青少年に見せてよくない本とはどんな本か』。二時間かけまして、わからない、という結論が出ました。ご安心ください、これで正しいんです。四十年わからなかったものが二時間でわかったら、それこそ『十分でわかる哲学』でございます。かしこさんに叱られます。本日はこれにてお開き!」


 緞帳が下り、拍手が鳴りやんだあと、質問コーナーが設けられた。市の企画課が「双方向性」のために入れた時間で、正直、誰も手を挙げないと思われていた。進行台本には『質問が出ない場合、生涯学習課長がサクラで一問』とまで書いてあり、課長は膝の上で想定問答の紙を握りしめていた。


 後ろのほうで、制服の女子が手を挙げた。


 マイクが渡される。彼女はスマホを制服のポケットにしまってから、立った。


「あのポストに入れられた本って、そのあと、どうなるんですか」


 舞台袖から促されて、柴田会長が客席マイクの前に立った。会長は少し考えてから言った。


「規約ではな、焼却場に持って行って、処分する決まりになっとる」


「規約では?」


「……四十年前、あのポストに最初に入った本をな、わしはまだ持っとる」

 ホールがざわめいた。会長は構わず続けた。


「回収して、焼却場の前まで行った。行ったんじゃが、表紙を見たら、わしが十六のときに隠れて読んだ本と、同じ本じゃった」


 会長は、上着の内側を軽く押さえた。持ってきているのだ、と全員がわかった。


「悪書かどうか、四十年考えたが、まだわからん。わしはあの本で夜更かしを覚えて、活字を覚えて、ついでに嘘のつき方と、人の気持ちの想像の仕方を覚えた。ようない本じゃったのは間違いない。じゃが、それでこうなったわしが、悪かったのかどうかは、まだわからん。……わからんうちは、焼けんじゃろう」


「ちなみに会長、なんという本です」と、舞台袖から万丈が訊いた。


「言わん」会長は上着を押さえたまま首を振った。「言うたら、あんたら、明日探すじゃろう」


 ホールが笑った。会長は笑わなかった。


「……そういう本のことじゃよ。悪書というのは」


 女子高生は少し黙ってから、もうひとつ訊いた。


「もし、これからもずっと何も入らなかったら、あのポスト、いつまで置いておくんですか」


「わしが生きとるうちは、置く」会長は即答した。「そのあとのことは、そのとき駅前におる誰かが決めればええ。……あんたが決めてくれても、ええんじゃよ」


 女子高生は「わかりました」とだけ言って座った。何がわかったのかは、彼女にしかわからない。ただ、座るときにもう一度ポケットのスマホに手をやって、結局出さなかったのを、舞台の上から黒門だけが見ていた。


 帰り際、制服の十人はロビーで図書カードを受け取った。五百円ぶん。何に使うかは彼らの自由で、本に使う義務はどこにも書いていない。それでも、と会長は配りながら思うことにした。それでも、五百円ぶんだけ、口実は渡した。


 その晩、催しの片付けを終えた山田くんは、配達用のカブで駅前を通った。ロータリーの白いポストの前で、なんとなく速度を落とし、それからちゃんと停まった。仕事では毎日、赤いほうのポストを開けている。白いほうの前に立つのは、思えば初めてだった。


 投函口を覗くと、中はただ暗かった。二十年ぶんの暗さだ、と山田くんは思った。郵便屋の癖で「集荷は月一回です」と口の中で言ってみて、ひとりで少し笑って、ヘルメットの上から一礼して、カブに戻った。


 白いポストは、街灯の下で、いつもどおり白かった。五年ごとに塗り直された白は、夜に見ると少し青い。投函口は、四十年前と同じ幅で開いている。薄い本しか入らない、時代遅れの口だ。


 ベンチに制服の女子が座って、スマホを見ていた。昼間、質問をしたあの子だった。彼女は一度だけ顔を上げて白いポストを見て、それから、またスマホの画面に戻った。画面の中に何があるのかは、ポストにはわからない。投函口に入らないものの中身は、確かめようがない。


 青少年に見せてよくない本とはどんな本か。


 四百人で考えて、答えは出なかった。座布団は積まれ、取り上げられ、結局ぜんぶ舞台に置いて帰った。わかったことがあるとすれば、ひとつだけだ。その問いに四十年間、誰よりも真剣に付き合ってきたのは、育成協議会でも、噺家でもなく、駅前で口を開けたまま立っている、あの白い箱だということ。


 白いポストは、今夜も待っている。


 悪書でも、良書でもいい。誰かが本を読んで、面白がって、うしろめたくなって、隠して、それでも捨てられなくて、さんざん迷って──それからようやく、ここへ入れに来る。その一部始終ごと、口を開けて待っている。


 入れられた本がどうなるかは、会長しか知らない。


 そして会長は、まだ一冊も焼いていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ