羅睺 その05
夢を渡る時間は、私にとってはどうでもいい時間だ。そのはずだった。ほかにやることもないから夢を渡るだけ、それだけのことだった。
私という存在、魔人羅睺はこの次元を破壊するための忌まわしきもの。
不吉で邪悪な半分の怪物。月と太陽を喰らうもの。この世界の敵。
慈悲も寛容も微塵すら持たぬ、破壊のためだけの怪物。
死人のような青紫の肌、悪くなった血液みたいな赤黒の髪、黒い眼球と金色の瞳、蛇のような瞳孔。
「先輩、先輩、見て下さい」
今宵もまた、晴井先輩の夢に来ていた。今日の先輩はいつにも増して落ちていた。ひどく暗く落ち込んだ気配が、どことも知れぬ学校中に広がっていた。
落ち込んでいるのは私も同じだった。虚しかった。憎かった。
私がどれだけ先輩を求めても、先輩は手に入らない。なぜなら私は怪物なのだから。
それでは、この次元を滅ぼして、先輩の命を奪ってしまえば、私と先輩の関係は永遠になる。完結しない。ずっと半端なままだけれど、悲しい結末には辿り着かない。
なんて、思ったけれど。それって独り善がりな嘘っぱち。
先輩を殺してしまっている時点で、悲しい結末に決まっている。
夢の中の晴井先輩が、泥のような人形になっている。その前で修道服を脱ぎ捨てていく。
知ってほしい。見てほしい。本当の私を。その上で、拒絶されて、憎まれたなら、私は私は…………怪物に戻れるのではなかろうか。
「これが私、これが乳母崎羅睺の本当の姿」
頭巾を投げ捨てる。頭の右半分の髪が、ドス黒い血の色の髪が、炎のように踊る。右こめかみからはねじれた角が生えている。
白目が虚穴のように黒くなり、瞳が黄金のように輝く。瞳孔は縦に長く、蛇のように鋭い。
髪と角と目玉は、普段は抑えられている。強い感情や魔力の解放がなければ隠し通せる。
だが、肌と牙は違う。
歯をむき出しにすると、右の犬歯が牙のように鋭いのが見えるだろう。切歯も右側だけが牙状であり、昔は吸血鬼みたいだと恐れられた。
修道服を脱ぎ捨てる。頬や首……いや、右半身には屍斑を彷彿とさせるカビのように青黒い斑点が浮かんでいる。
これはどんな努力をしても消せない。化粧品と服で隠すしかできない。
「醜い。怪物そのもの。汚らわしい。皆そう言う」
泥のような姿の先輩が、のそりのそりと近付いてくる。口に当たる部分から、反響する風のような音を出しながら。
私は下着姿を晒したまま、嘲笑した。
来るがいい。そして私を拒絶しろ。バケモノめと罵って、武器を片手に追い立てて見せろ! なんでもいい。銃でも斧でもナイフでも! ここは夢なんだから、望む武器が出せるだろう?
「『恐怖心の正体は、常に自分の心のありようなのだ。
君が出会う最悪の敵は、いつも君自身であるだろう』」
私の耳元で何者かが力強い言葉を放った。温かい外套がかけられる。寒くなんてなかったはずなのに、私は身体が冷え切っていたことに気付かされた。
見上げると、不機嫌なしかめっ面した、口髭の白人男性がそこにいた。
「『彼は君の悩みに対して安息の場所となりたいと思っている。だが、いうならば、堅い寝床、戦陣用の寝床だ。そうであってこそ彼は君に最も役立つものとなるだろう。その理由を、君はすでに知っているな?』」
「あ……あなたは……?」
私は打ち震えた。ここは夢なのだ。渾沌なのだ。であるならば、こんな事があっても何もおかしくはない。
それどころか、先輩の夢であるのならば、この人が平然と闊歩していても何の不思議もない。
フリードリヒ・ニーチェ。
よろめきながら歩いてきた先輩の手が、私の右手を握った。誰もが距離を置いた、恐れた手を、躊躇わずに。
不愉快な泥の中に、ひんやりと温かい、あの手がある。左手が顔に伸びてきて、怯えたように引っ込められた。自分の身体が泥でできていることに気が付いたのだ。その泥で私が汚れてしまうだろうことに。
「嫌い」
私はそんな先輩を口で拒絶しながら、泥のような手をつかんで頬に引き寄せた。
「みんな嫌い」
「うう……」
先輩の腕が私を抱き寄せる。ヘドロのように目鼻を刺す汚泥に、私は望んで抱きついた。
「猫魂先輩も、マナミさんも、晴井先輩も嫌い!」
このままではこの柔らかで温かな泥に沈んでしまう。だから私は憎悪を口にすることで自分を保とうとした。そうしないと壊れてしまいそうだった。
思い出せ、苦しみと憎しみを。
孤児として引き取ってはくれたけれど、私を悪魔の子と呼んで棒を振り回した祖父を。
仲良くしてくれたと思ったのに、肌のシミをみた途端にひきつった『友達』の顔を。
同じ教室に通わせるな、移ったらどうすると叫ぶクラスメイトの親を。
お前のせいで私の学級は無茶苦茶だと、誰にも見えない場所で何度も殴ってきた教師を。
仲良くなったと思ったのに、もう来ないでくれといい出した本屋さんを。
私を拒絶した全てを思い出せ。
私が拒絶する、全ての理由を思い出せ……!
「あんな風に誰にでも優しいのは誰にも優しくないからだ! きっと私のことも興味がない、どうでもいいと思っている!!」
誰にでも優しくて、いつでも明るく笑っていて、こんな私の陰鬱さを際立たせるだけの猫魂先輩。
いつでも楽しそうで、幸せを体現していて、眩しすぎて目が潰れそうだけれど、少しでもそばにいたいと思わせてくれる人。
「自分を犠牲にしているとか言って、頼んでもないのに私を束縛して、善人ぶるな!」
祖父にすら拒絶された私を引き取って、私のために若さと時間を浪費して、シミを隠すためのお化粧を教えてくれたマナミさん。
本当は教会なんて飛び出したかったはずなのに。私に付き合って修道女になっている。こんな怪物に、人生を壊された哀れな被害者。
「いつもヘラヘラして、どれだけ罵られてもどこ吹く風で、何考えてるのか何も分からなくて本当にキモチ悪い!
なのに私の欲しい言葉を、求めてることを全部くれて……」
泥で窒息してもいい。私は泥でできた顔面に頬擦りする。ねっとりと不気味な感触。これは先輩の拒絶そのもの。世界への、他者への。拒否反応。
「期待させないで。もしかしたらなんて甘い夢を見せないで。私のことを許さないで。笑いかけないで。
あなたといると幸せな気持ちになるの、憎しみなんてどうでもよくなるの、苦しい。苦しい」
泥の手が私を撫でる。だから優しくするなって言っているのに。
「私は世界を壊さなきゃならないのに。私は世界を、殺さなきゃいけないのに。
お願い。お願いします。私を拒絶して、石を投げて、罵倒して…………でないと、でないと……………………」
すがりつく私の耳に囁くような声が届く。
「怖がらないでいい。乳母崎さんは『第二階梯』になったんだ」
「もう……こんな時までニーチェなの?」
「他にいい言葉を知らないからね」
「馬鹿。唐変木。私は、あなたの言葉が欲しいのに……」
力を込めて抱きつくと、恐る恐る抱き返してくれる。本当に、本当にこの人は、この人が……。
私の価値観を殺してしまった。