乳母崎ラコ その03
「は、晴井先輩はなんでこの高校? バカで愚鈍で変態だが、頭は悪くなさそう」
「褒めてる?」
「貶している」
乳母崎さんの質問に俺はなんと答えるか少し悩んだ。どう言えば軽くなるだろう。
「俺の志望校は県立総合だったんだけど、落ちてさー」
「偏差値70?」
「俺のときは69だったよ。内申も問題なし、テストもA判定。自己採点でも合格間違いなしだった」
そう、俺は学区内でトップ高校を目指し、そして合格した。努力は成果となり、次は四大を目指すつもりだった。
「…………ケンカとか?」
「するように見える?」
「見えない。カツアゲされそう。素行不良は……痴漢か下着泥だな? 両方だろう」
「わはは」
俺はケンカをしたことないし、腕っぷしに自信もない。不良に絡まれたら財布を出すことになるだろう。
ちなみに痴漢も下着泥棒もしたことありませーん。
「親が手続きと振り込みし忘れて、合格がキャンセルされた」
「それは……」
「笑えるでしょ?」
というか、笑うしかない。そんな事本当にあるの!? ってビックリして欲しい。笑い話にしないとやってられない。
俺は笑顔で続ける。
「一昨日、俺が叫んでたのを、乳母崎さんはくだらないって言ったよね」
「ニーチェの運命論だな。くだらない。理解できない。どんなひどいことも自分の行いが原因であるならば、理不尽な不幸で憎むべきも自分になる」
『お前の運命を決めるのは神でも悪魔でもない。その行動をしたか否か。最後まで成したか途中で放棄したか。捨てたか拾ったか。
とにかく己の行動が次の運命を形作る。その時にどう振る舞うかが、また次の運命的な出来事を構築するのだ』。
「ニーチェがあったから耐えられたとでも?」
「いや、俺がニーチェ先生を知ったのはその後。荒れてる中で自分を慰める言葉を探して辿り着いた。だから実はニーチェ歴二年未満のにわかなんだよね。何言ってるか分からない物も多いし、解釈も結構違う」
でも、ニーチェ先生が俺を救ってくれたことは確かで、ニーチェ先生のお陰で、少なくとも表向きは楽しそうに学校生活を送れている。
「ちなみに、この学校に来ることになったのはもう怒っていないんだぜ? 乳母崎さんにも会えたし」
「…………」
怒ってはいない。ただ虚しいだけ。
その出来事が俺の人生の全てを、これからはもうずっと『そう』なのだと囁いてくる。俺は努力の果てに何も手に入らない。バカみたいな理屈で踏みにじられる。
『運命潮力』もそうだ。俺の努力を踏みにじるために世界が差し向けてきた刺客だ。
おっぱいや『アルメ』に夢中になっている瞬間だけは、諦念を忘れられる。物わかりの悪い子供みたいに世界を憎むこの俺の痛み止め。
それすら許されないのなら、俺は『運命潮力』とやらに反逆する。ボコボコにしてやる。
戦い方は極めて『運命的』なことにニーチェ先生が教えてくれる。懐疑論だ。
俺の運命論と奴らの運命潮力、どちらが強いか比べてみよう。だが、やるなら覚悟をしておけよ? ニーチェ先生は既成概念殺しの名手だからな。
「…………」
何秒、俺は自分の思考に沈んでいたのだろう。頬張ったおにぎりをお茶で流し込む。
隣に可愛くておっぱいの大きい後輩がいるのに、何を血迷っているのやら。
「そういえば大稲デイヤとどんな話をしてるの?」
「ん? 嫉妬か?」
「そうでーす」
俺の不貞腐れたような答えに、乳母崎さんは鼻で笑い。俺の頭から足の先までジロジロ見た。
「顔、人間性、優しさ、頭の出来、スタイル、喋り方、体臭、気遣い。どれも比べ物にならない」
「ごめんちょっと火力高すぎる。俺のメンタル消し炭なんだけど??」
「馬鹿。鈍感。ぼんくら」
「なんで追撃するの!?」
乳母崎さんは鼻先で笑い飛ばした。くそー。いつか必ずそのおっぱいのサイズを知ってやるからな……。
「なぜ知りたい?」
「今のところ、俺は大稲デイヤを嫌いな要素しかないんだよね。でもさ、それじゃダメだと思うんだ」
「なぜ? 敵を憎んで何が悪い」
敵。乳母崎さんは少しも恐れずにそう呼んだ。大稲デイヤは猫魂さんを巡る敵かもしれない。しかし、本当にそうか?
「ニーチェ先生曰く『軽蔑すべき者を敵として選ぶな。汝の敵について誇りを感じなければならない』」
「…………誇り?」
「そう、ニーチェ先生は悪意や憎悪を振り回すことに否定的なんだよ、先生の一番有名な言葉は知ってる? 『深淵を覗く時』」
あまりに有名過ぎて、ニーチェ先生の言葉だという事すら忘れられてそうな警句。乳母崎さんは頷いた。
「先輩が胸を見た時、私は気付いている」
「おっぱいは男の夢と希望と愛を詰め込んだ底なしの深淵そのもので、その谷間の影に何があるのか興味と探究心は尽きないけどそうじゃなくてえ!」
「『深淵もまたお前を見ている』だな?」
俺は荒い息で額を拭った。乳母崎さんは俺なんかをからかって楽しいのかな?
「もう一つ極めて有名な警句があると見せかけて、実はそれらは二つで一つなんだよ。これも聞いたことがあるだろ?
『怪物と戦う時、己が怪物とならぬように注意をせねばならない』」
『怪物と戦う時、己が怪物とならぬように注意をせねばならない。深淵を覗く時、深淵もまたお前を見ているのだ』。
繋げることで、『深淵』と『怪物』の意味がそれぞれ補完される。二つは同じものであり、同時に戦わねばならない相手であり、目を凝らして正体を見極めたい概念なのだ。
「俺はね、怪物や深淵てのはを自分自身の心の闇。あるいは憎悪だと考えている」
「…………憎悪」
憎悪に飲まれるな。心を強く持て。そうでないと、お前が憎んだ存在と同じものに成り果てるぞ……! ニーチェ先生はそう仰られている。
俺は自分が取るに足らないモブの雑魚だという自覚がある。それは、誰にとっても毒にも薬にもならないどうでもいい存在だということだ。決して悪党ではない。憎まれているわけでもない。
善なる生き方こそしていないが、少なくともおっぱいに顔向けできないような生き方はしていない。邪悪ではないと胸を張れる。
「大稲デイヤが、猫魂さんというものがありながら乳母崎さんにまとわりつくような悪い奴ではなく、尊敬できて面白い相手の方がいいと、俺は思ってんだよ」
「馬鹿。お人好し……デイヤはいつもいつも、猫魂先輩の話しかしない」
「ん?」
「あの男、そんなに気になるなら、自分から話をしに行けばいいのに」
「つまり、ちょっと冷戦状態の猫魂さんの現状が気になっちゃって、ソワソワしながら共通の知人である乳母崎さんに様子を見てもらってるってことなの?」
「そう。笑える」
乳母崎さんの言葉に俺は想像してニヤついた。それはいい。気持ちは複雑だが、もっと気にして頂きたい。
何よりも、猫魂さんのことが気になって仕方がないということは……猫魂さんに勝ち目があるって事じゃないか! 素晴らしい。
「業腹だが、一つだけ謝罪をしよう」
「え? 業腹ってなに?」
「猫魂先輩には新しい男ができて、先輩は夢中になっている」
「はぁ!? どこのどいつだ!?」
俺はいきり立った。大稲デイヤはギリギリ認められるが、他の男!? どこの馬の骨だ! お兄ちゃんは認めませんよ!! 俺はそんな事言える立場じゃないけど!
乳母崎さんは哀れなものを見るように俺を見た。例えば背負った荷物が重すぎて運べないアリンコを見るような。
乳母崎さんが指をさす。俺は後ろを振り返った。当然誰もいない。
「晴井先輩の事ですよ。鈍感。唐変木。甲斐性なし。変態。女の敵」