晴井彗 その07
いつもの悪夢を見た。
俺は通っている私立九曜学園高校ではなく、県立総合の学内をさまよっている。俺が行くはずだった。行けるはずだった高校だ。
困ったことに俺の優秀な頭は、学校見学で見て回った学内を正確に憶えていた。
学内では生徒や教師が充実した学校生活をしている。しかし、俺は完全に蚊帳の外で、誰一人顔も名前も知らない。
完全に断絶していて、今以上に孤独で、どこにも居場所がない。
夢の中で俺は居場所を求めてさまよい続ける。しかし、どこに行っても誰かがいて、俺を完全に無視しながらも、俺の存在に警戒する。
俺は逃げるように空き教室に飛び込み、何かに怯えるように教室の端っこで震え続けるのだ。夢が終わるまで。
…………だが、今日に限っては違っていた。
空き教室には隠れるように一人の生徒がいて、『アルメ』をいじっているのだ。
俺は彼か彼女か分からないその人物に対して、「『アルメ』好きなの? 俺も俺も!」と話しかけたかった。猫魂さんが俺を救ってくれたように、その誰かに手を差し伸べたかった。
しかし、言葉が出なかった。俺みたいな奴に誘われたら嫌だろうなとか、断られたらどうしようとか、そんなくだらない事で頭がいっぱいだった。
俺が動けないでいると、逆にそいつが俺に気付いて、何か声をかけてくるのだ。
なんて言われたのかは分からないけれど、優しい言葉だったのは確実で。
きっと、この夢は俺が猫魂さんに誘われたから見たのだろう。
俺も猫魂さんみたいに、無邪気に誰かに話しかけられる人になりたい。きっとそれは、俺自身を救ってくれることだから。
だから今日の悪夢は、悪夢ではなかった。
昼休みに入ってすぐに、俺は一年の教室の廊下をぶらつき、続いて図書室に向かった。
乳母崎さんはすでに昨日と同じ場所にいて、昨日俺が座っていた席には、今日は大稲デイヤが座っていた。
俺はそれだけ確認すると、静かに移動した。乳母崎さんに特別な用事があった訳では無い。そもそも俺自身昼メシがまだだ。
嫌な気持ちと向き合いたくなくて、図書室を出た。クソ暑い屋上にでも向かうかと考えた所で、襟首を掴まれた。
「どこへ行く、私に会いに来たんだろ?」
「あ、いや……迷惑かなって」
「迷惑だ、二度と来るな。何様のつもりだゴミカス」
辛辣な言葉とは裏腹に、その声は弾んで聞こえた。俺の勝手な感想だけど。
「乳母崎さんお昼は?」
「私は人前で食事をしたくない。言わせるな。鈍感。無思慮。静かで涼しくて食事の取れる場所に心当たりは?」
「静かが入ると急に困難にならない?」
「なら、踊り場でいいな?」
階段を登り、開放はされているものの暑すぎて誰もいない屋上の手前、踊り場に俺は腰を下ろした。
少し間を開けて座る乳母崎さん。相変わらずのカーディガンにハイネックインナー、手袋にタイツ。露出はほぼないスタイル。
「暑い」
「スポドリいる?」
「ママから知らない人から物をもらうなと言われている」
「知らない人扱い!?」
ボディブローみたいな拒絶。不審者扱いで知人以下かぁ。
二人の間に置いたコンビニ袋から、俺はおにぎりを取り出す。味はツナマヨと鶏五目。シャケとおかかもあるよ。
「実は先輩の本名を知らない」
「最初に名乗ったけど?」
「忘れた。地味すぎる。記憶に残らない顔。半年したら名前も忘れそうな無個性」
「晴井彗だよ。改めてよろしく」
苦笑いする俺に、乳母崎さんは右手を差し出してきた。握る。
「ぴゃっ!? 違う! 頭に乗るな変態!」
「握手じゃなかった?」
「…………スポドリ、ありがとう」
「ぷっ」
目元を赤くして目を泳がせる乳母崎さんに、俺は思わず吹き出した。スポドリね、スポドリ。はいはい。
自己紹介したから知らない人じゃなくなったのね。
「笑うな。ひどい侮辱だ。謝罪と賠償を要求する」
「ごめんね、スポドリどうぞ」
「ありがとう先輩……いや、自分の飲み物は?」
「おにぎりにはお茶でしょ?」
ちなみにスポドリとお茶は校内の自販機で購入したものだ。どちらもまだ冷たい。
乳母崎さんは俺とお茶とスポドリを見比べた。
「…………ありがとう」
三度もお礼を言われるほどのものでもあるまい。そもそも、涼しい図書室から連れ出した俺が悪いし。
乳母崎さんはペットボトルの蓋を開け、マスクを引き上げて口を付けようとした。形のいいピンクの唇。シャープな顎。俺はなんだかイケナイものを見ている気持ちになった。ドキドキする!
「えっち」
「うわ、ごめん! つーか、こういう時はもっとたくさん罵って!」
「変態。覗き魔。私の口を見て何を思った? ゲス。色狂い。最低。キモい」
「お、いつもの乳母崎さんだ」
一息ついた俺はおにぎりを剥いてかぶりつく。
「何か用事?」
「特にないけど、今日の事謝っとこうかなってくらい」
「ふぅん」
実は、今日の放課後はバイトが入ってしまったのだ。五時九時なので教会に顔は出せない。
「用事がないのに引っ張り出してごめんね」
「暑い。最悪。大会週末なのにバイトとか入れるな」
「日曜のシフト無理やり代わってもらったから断れなくてさ」
むしろ火曜日に大会のことを言われて、スケジュール確保できたことを褒めて欲しいね! 猫魂さんはむちゃくちゃ感謝してくれました。
「何のバイトを?」
「駅前の中華のボーイ。中華好き? 食べ放題あるよ」
「外食は……」
「個室があるんだな。俺がいる時に来たらクーポン出せるから、シスターと来たら?」
不安そうな視線を向けてくる乳母崎さん。長いまつげが震える。目元だけでも美人だな。
一緒に行こうとは言えない。昨日もお菓子を食べる時口元を隠していた。詮索はダメ。絶対。
「乳母崎さんバイトは?」
「禁止されてる」
「シスターに?」
「学校に。私はある種の特待生で、学費免許の代わりに奉仕活動の参加義務と、一定以上の成績を維持する責任がある」
私立高校の学費は高い。経済的に余裕がないと厳しかろう。俺の家も余裕がない。しかし、親は俺が快適な高校生活を送れるようにする義務がある。
「例の大会でさ……」
「ん?」
「なんでもない」
優勝したらバイト代で奢ってやるよと言いかけて、俺は口を噤んだ。乳母崎さんはチームメイトではないし、奢られる理由もない。そんなの、勝手に哀れんでいるようなもので、彼女への侮辱に思えた。
「システム分かんないけど、上位入れたらお祝いしてよ」
「は? なんで私が? 意味が分からない。理由もない。調子に乗るな」
「ごめんなさい」
「……………………お弁当」
俺が四つめのおにぎりを取り出したのを見ながら、乳母崎さんが呟く。
「一回」
「え」
「簡単なものなら」
お、お、お!? お弁当作ってくれるの!? 乳母崎さんが!? 手作り? 手作りか? そんな事があっていいのか? 『運命潮力』がなんだ、それよりもはるかにレアで欲しくても手に入らないもの。そもそもデッキに入っていないようなものが、俺の口に入る可能性出てきたぞ!
夢かも。夢か。乳母崎さん優しいし。これは夢。
そう思った瞬間、ビンタが飛んできた。
痛……くない。やはり夢?
「キモい。普段料理しないから期待するな。文句言ったら指の関節外す。二十八個、順番に」
「まあ、上位入れたらでしょ? でもこれはいいな、やる気出る!!」