其の二 腹が減っては何とやら
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とある展示会のチケット売り場の、建物の外にできた長い列に並ぼうとした時、僕は列の半ば辺りに見慣れた長身の後ろ姿を見つけた。僕を展示会に誘ってくれた二木さん・幸虎くん兄弟もその人に気づき、「おーい、津田!」「津田さん!こっちこっち!」
僕たちがぶんぶん手を振って呼ぶと津田さんは振り返った。
「なぜ君たちが【呪物展】に来ているんだ」
とちょっと困ったような顔をしながらも、津田さんは列を抜けて、最後尾にいる僕らに合流してくれた。
列に並んでいる間に幸虎くんが、ビルの入口に貼ってあった展示会のチラシを見て
「この展覧会の目玉の、尸頭川のミイラ群って書いてあるけどさぁ、……この川、どこにあるの?」
と言った。そうしたら津田さんが、「それはシカズ川と読み、場所はD県L郡のヒトツカリ。新幹線で2時間、そこから特急1時間半。あとはバスに1時間乗ってから歩いて1時間かかるね」とさらりと答えるものだから、「ヒトツカリって何? どんな字書くの?」、「なんでお前そんな詳しいの、行ったことあるの?」、「そんな遠いとこに何しに行ったの?」などと皆で口々に訊いたら、先ほどの話をしてくれた。
話の間にも列は進み、気付けば僕らは待機列の先頭に居た。窓口から10歩くらい離れたところで一旦止まって自分の番が来るのを待つ。
今窓口にいるお客さん、お財布からお金落としてあたふたしてる。
固い床にばら撒かれた小銭が、ちりんちゃりんちりりんと賑やかな音を立てた。
一瞬、僕の鈴ー怪異が近づくと鳴って教えてくれるお守りーが鳴ったのかと思ってちょっと身構えた。
チケット売り場の窓口は一つしか無いのに、その係の人がカウンターから出てきて小銭を拾うのを手伝っている。僕らの後ろの人がそれを見て、舌打ちした。
こういう理由で待たされるのってちょっと気になるのは分かるけど、舌打ちは怖いな。そぅっと後ろを窺ったら、一見大人しそうな、妙齢の女性だった。
しかも、こんこんこんこんこん、と靴の爪先を鳴らし始めた。僕まで手間取ったらこの人をもっと怒らせてしまいそうだ。今のうちにお金を出しておこう。
そう思って僕が自分のお財布を取り出そうとしたら
「此処であったのも何かの縁だ、僕がまとめてはらってくるよ。皆は先に出ておいて」と津田さんにやんわり止められた。そして本当に一人で窓口へ行って僕らの分のチケットを買って来てくれた。それぞれチケットを受け取り、幸虎くんが
「あの、俺、五千円札しか……」
津田さんにお金を渡そうとしたら、
「要らない。お釣り出すの面倒」
と津田さんは断った。
「あ、じゃぁ俺が幸虎の分と合わせて三千円」
二木さんが言うと津田さんは小さく溜息をついた。
「鳴鶴の分だけで良い」
津田さんは、一人あたり千五百円もするのに、僕と幸虎くんの分を奢ってくれるという。二木さんは、さすがに弟の分を全額出してもらうのはと気にして、押し問答の末、自分の分と合わせて二千円を津田さんにどうにか握らせていた。
展示会は初日から入場規制がかかるほどに盛況で、今日も時間制且つ全入れ替え制になっていた。僕らに割り当てられたのは、最終枠の午後4時に入場できるチケットだった。その時間帯は呪物 を蒐集した本人、根切司 > 氏も在廊するそうだ。当該時間帯の入場者にしかそれは伝えられず、事前告知のないサプライズ演出らしい。
展示物の蒐集者に会えるなんて運が良いねと僕らは喜んだ。
とはいえ、今は昼過ぎで、展示会まで数時間空いてしまう。
先に観覧して、それからゆっくりお昼の予定だったけど、こうなると先にご飯だな。
どこで食べようか、と僕と幸虎くんがスマホを取り出していたら
「……僕は何かつまみに行くのだけど……皆はどうする?」
津田さんがぼそっと二木さんに訊いている。
「俺たちも昼飯まだだよ。あのな、津田。こういう時は、皆でご飯行こうって言おうな。あ、さてはお前、また一人でどっか行く気だったな?」
津田さんは黙って目を逸らしていた。
またってことは、前にもそういうことをしたんだろうな、この人。
「一人でゆっくり過ごしたいとか飯は一人で食いたいとかなら無理にとは言わないよ?」と二木さんがよくよく聞けば、津田さんも僕らと居るのが嫌なんじゃなくて、食事時に自分が居たら幸虎くんが気詰まりじゃないかと余計な気遣いをしていただけだった。
「……僕はどこでも構わない。皆の食べたいものや気になる店があればそこで」
津田さんが言い、二木さんも肯いて
「向こうの大通り沿いにカフェやレストランが幾つかあったし、とりあえずそっち方面に歩くか」
皆でぶらぶらと歩きながらお店を探す。
「あ、このカフェレストラン、ウマウマ検索で高評価らしいよ」
幸虎くんが指したのは大通りへ下る坂の途中の、古びたビルの地下に入っているお店だ。ギャラリーからもそう遠くないし、このカフェでお昼ご飯を食べて、そのまま4時まで時間を潰す流れになった。坂と店のドアを結ぶ細い階段を降りる。
ドアの横に甕が置いてあり、メダカが泳いでいた。ちょっとだけ、温い水の生臭い匂いがした気がした。
店内はかなり混んでいた。ランチを食べに来た人の中には、僕らみたいに呪物展にこれから行く人、あるいは朝一で見終えて帰る人も居るようだ。何時に入場だから〜とお喋りしている声が聞こえてきたり、でかでかと展覧会名の印字された袋を持っている人がいたりする。皆、考えることは一緒だな。
ウェイターさんに「4名様ですね、少々お待ち下さい」と言われたけど、ほとんど待つことなく、店の奥の、小さな4人席に通された。広めの2人席に、椅子を増やして4人座れるようにしてくれたようだ。
トイレの近くの席で、小さな手洗い器と小窓、それから非常口のドアがテーブルのすぐ横にある。津田さんと二木さんが奥に並び、僕は二木さんの正面の席につく。背もたれがとっても低い椅子なので、椅子の背に荷物はかけられない。足元には荷物入れの小さな籠が二つだけあって、津田さんと幸虎くん、僕と二木さんでそれぞれ1個ずつ籠を使うことにした。それぞれ自分の荷物を下ろした。僕はあの赤いデイパックだ。チャックに結わえた可愛い小鈴が揺れて、ちりちりっと微かに鳴る。
津田さんはバイオリンでも入っていそうな形の、大きめのボディバッグを斜めに背負っている。それなりに重いのか、ゆっくりと下ろして籠に入れる。
小さな籠は津田さんの鞄でいっぱいになってしまった。その横に無理に自分のリュックを入れようとする幸虎くんに
「僕の鞄が大きくてすまないね、幸虎くん。君のリュックは僕の鞄の上に乗せてくれ」津田さんが苦笑して言った。僕の小さいデイパックと二木さんのボディバッグでも籠がぎっちぎちだものな……。
小窓から外をちらっと見て、津田さんはようやく席につき、姿勢を正して呟いた。
「……確かに地下に降りたのに、窓の外は大通りに面した地上一階という不思議」
今いるのは大通りから上る坂道に沿って建つビルの中。店に入るには坂の途中から階段を下りるけれど、実際の床の高さは大通りと同じ。だからここは地下であり一階である。頭では分かっていても、妙な心地がするのだろう。それは共感できるけれど、そんな真面目くさった顔で独り言に出されるとなんだか笑えてきてしまう。
真顔でぼそっと呟く津田さんを、幸虎くんは珍しい動物でも見ているように眺めている。幸虎くんは津田さんと一緒にいることはあまり無いので、津田さんの言動や反応がとても新鮮に映るようだ。
「なぁ、津田さんっていっつもこんな感じなの?」と僕にひそひそ訊いてくる。
「どんな風に映っているかは知らないが、‘いっつもこんな感じ’だよ僕は」
思いがけず当の津田さんが返事をしたので、幸虎くんは顔を赤くして俯いてしまった。「4時入場で5時過ぎくらいまでは腹保たせなきゃだから、しっかり食っとくか」
友人と弟の妙な空気なんて全く気にせず、二木さんがいそいそとメニューを広げる。
それを津田さんは当たり前のように横から覗きこみ、
「僕はこれと、……この辺は皆で分けてもいいな」
バタートーストとコーヒーに野菜のピクルス、チーズの盛り合わせをさっさと選んだ。津田さん、今日は横と後ろの髪をまとめて一つに結っているけれど長い前髪は下ろしたまま。これでちゃんと物が見えているのが不思議なくらいだ。目元を露わにすると本当に老若男女皆が息を呑むほどの美人なのにな。
僕と幸虎くんも隣同士で1冊のメニュー表を開く。メニューは主に手書きの文字で書かれていて、ところどころ、小洒落たメニュー名をワープロで打ち出した紙片が貼ってある。字体が統一されていないせいでちょっと読みにくいけれど、古くからある喫茶店が少しずつ料理をリニューアルしてきた様子が窺える。
手書きで[カレェライス]と書かれた次に[季節のキッシュ,スモークサーモンとケッパーのマリネ風サラダ添え]と明朝体で書いた紙が貼ってあってそのギャップに僕と幸虎くんはげらげら笑った。
「この紙の下が気になる。昔はどんな料理だったんだろう」
津田さんが真顔でその紙の端を軽く引っ掻いて、二木さんは黙ってメニューを津田さんから取り上げている。それはいいとして、うーん、どれも美味しそうで迷っちゃう。
「よし、ランチ限定セットから選ぶぞ俺は」
と二木さんが笑う。確かに、他のメニューは時間帯に関わらず選べるけれど、ランチタイム限定メニューはあと10分くらいでラストオーダーになるそうだ。ランチメニューは全てにグリーンサラダとコーンスープとドリンクが付いて、メインは[ナポリタンスパゲティとポテトサラダ]、[チリソースホットドッグとチキンナゲット]、[フレンチトーストサンドに生ハムとフルーツのサラダ]の3種類。お値段はきっかり千円。
俺たちもランチセットにしよっか、と幸虎くんが僕に言い、僕が肯くと
「これが鶴の一声かぁ」
津田さんが呟いた。二木さんはそれに吹き出し、「いや、決まってない。まだまだこれからメインに悩むんだよ」と笑いながら返している。
そう、鳴鶴さんの一声でメニューを絞ったはいいけれど、まだ僕たちは悩んでいる。津田さんがちらりと時計を見た。ラストオーダーまであと何分だろう。
「俺、ナゲットと生ハム食いたい」と幸虎くん。メインはどれでもいいらしい。
「ナポリタンにチキンナゲットなら良いのに……」と僕が続けると、
「チキンナゲットと鶏の唐揚げって何が違うっけ?」
二木さんが津田さんに訊いた。津田さんは知らないと言わんばかりに肩を竦め、全然興味なさそうだった。その代わり、
「昼の単品メニューには、生ハムもチキンナゲットも書かれていないな」なんて答えている。
「俺もチキンナゲット食いたいな、でも、そうかぁ……」と二木さんが考え込む。
そんなにチキンナゲットを食べたいなら、全員ホットドッグのセットにすれば良いのだけれど、僕は辛いものがそんなに得意でないし、二木さんはナゲットは1個だけ食べられれば充分だそうだ。そうして僕らは、3人それぞれ違うのを注文して、付け合せだけシェアすることにした。
先に運ばれてきたピクルスとチーズとドリンク、ランチセットのグリーンサラダとコーンスープを食べつつ、僕らは歓談した。……と言っても、このメンツで何を話したものか。話題が無さすぎて、皆が取り敢えず前菜を口に運んで、美味しいねと言い合う。
「チーズとピクルス、皆も食べなよ。このチーズ、君が以前、気に入って食べてたやつだよ」
津田さんが白くてねっとりしたチーズをピックに絡め、二木さんにあげている。
「え、マジでこれ?カフェでお目にかかれるなんてラッキー!……うめぇ〜!」
好物のチーズに舌鼓を打って二木さんは満足げだ。このカフェは、夜はワインバーになるらしく、チーズの盛り合わせは見たことも聞いたこともないようなものが並んでいる。カマンベールチーズは分かるけど、ウォッシュタイプって何?チーズを洗うってどういうことだろう?お皿に添えられたチーズの一覧表を見て僕は首を傾げた。
チーズをもらった二木さんが「津田にはトマトをお返ししよう」と言った。
「……グリーンサラダなのに赤いトマト」
津田さんの呟きに笑いながら、二木さんは櫛形に切られたトマトをさっきのピックに刺して津田さんの口に突っ込んだ。
津田さんは、口いっぱいに押し込まれたトマトをむぐむぐ咀嚼した。赤い舌の先が唇の隙間から覗いて、口の際 にこぼれた種周りのゼリーをちろりと舐め取る。
綺麗な顔でそういう仕草、何か色っぽく見えるなぁ。
二木さんもごくりと唾を飲み、
「津田、トマトのちょっとセクシーな別名知ってる?」
なんて言っている。津田さんは真顔で答える。
「……そういう話は、“僕らの”可愛い子どもたちの前ではやめておこうよ」
いつも通りにいちゃつく院生二人を、幸虎くんがぽかんと呆気にとられて見ている。
「ナツルが誰かとトモダチしてる……」
そっか、幸虎くんは、兄としての二木さんの姿しか知らないのか。
二木さんがはっと我に返った様子で、姿勢を正した。いつの間にか、顔だけでなく体ごと津田さんの方に向けていて、自分でも驚いてるみたいだ。
「うわー、俺ってばすっかり津田に夢中になってたわ」
二木さんが照れるのをきれいにスルーして、津田さんが
「ところで、今日、呪物展に行こうと言ったのは誰なんだ?」
表情一つ変えぬまま、話を振ってきた。
「あ、俺です」
今日の呪物コレクション展に行きたいと言い出したのは幸虎くんだ。
「本当は大学の友人の淳矢と行くはずだったんですけど、淳矢が来れなくなって」
幸虎くん一人でも行ってきてくれと頼まれたそうだ。
「淳矢って、お前、この間のゼミの集まりで堰浴 山のキャンプ場で一緒にBBQした子?そんな仲良かったんだ」と二木さんが言った。
あ……、と幸虎くんは少し戸惑う様子を見せ、津田さんをちらっと窺っている。
「……淳矢くんも君と同じくそういうモノが好きなんだろう。だが、……懲りていないようだね」
津田さんが呆れたような口ぶりで言った。
幸虎くんはすごく言いにくそうにしながら、淳矢くんとは、怪異絡みのミステリーやホラーがお互いに好きで入学当初に意気投合し、そういうジャンルの本を貸し借りしたり、心霊スポットに遊びに行く仲だと答えた。
でも、夏の山の遭難がその手のモノによる事件だったことは、淳矢くんには秘密にしているそうだ。津田さんは「それが賢明だな」と頷く。幸虎くんはすっかり身を縮こませている。
それはそうだろう。あの山での事件のそもそもの発端は、オカルトやホラー好きが高じて、幸虎くんとその友達数名で“神隠しの山”に行ったことだった。
一緒に行った鬼頭 くん、主税 くん、殿前 くんは今も見つかっていない。
それなのに、色々恐ろしい目に遭うかもしれない呪物展に行こうとするなんて。と僕も二木さんに誘われたときに思った。
「なぜ今日、この面子で行くことになったんだ?」と津田さんが更に訊く。
「ホントは先週の内に展示会行くつもりでした。でも、淳矢がファミレスのバイト中に火傷したり、妹が熱出したり、お祖母さんが怪我して入院したり結構大変で、最終日の今日にリスケしたんです。なのに今度は淳矢が風邪で寝込んじまって。で、……」
幸虎くんが二木さんを見る。二木さんが話の後を受けて口を開いた。
「幸虎が、友だちと遊び行くって出ていって、……30分くらいして、ICカード忘れたって帰ってきて、……でも、ちゃんと鞄に入ってたんだよな」
そこで二木さんは弟が遊びに行く先が呪物展であることを初めて知ったという。幸虎くんは苦笑して肯いて言った。
「ICカード無いって勘違いしてなきゃ、俺、そのまま一人で行ってた」
津田さんはじっと真剣な表情で二木兄弟の話を聞いている。
二木さんも初めは、幸虎くんが呪物展に行くのを止めさせようとしたけど、「行くんだ、頼まれたんだ」と繰り返す幸虎くんの様子にただならぬものを感じたそうで、一人で行かせるよりはと同行することにし、それでも不安だったのでお守りの鈴を持っている僕にも声をかけたとのことだ。
「丹波を巻き込むなと言いたいところだが、……悪くない判断だ。丹波、急な話だったろうに、よく来てくれたね。ありがとう」
津田さんはふわっと笑んで、僕に言った。
そんなふうに優しく微笑まれたら、僕、照れちゃう。
「急に誘ったっていうより、もう、無理やり呼びつけたに近い感じだったよな、俺。まじでありがとな、モト」
と二木さんが頭を下げる。
あわわ、そんな、頭上げてよ二木さん!
……津田さん、二木さんの頭に腕乗せてどうするの。
「津田ぁ、首と頭が重いんですけどー」
二木さんがぶつぶつ言うと、津田さんはしれっと
「さぁ、何故だろうね?」と答えた。
いやいや、二木さんの首筋から頭にかけて腕を乗せながら何言ってんのさ、津田さん。
って津田さん?
何でずっと窓の方振り返ってんの……?
……座ったままだと外はそんなに見えないんだけど。
「退 け、祓うぞ」
ドスの利いた声で津田さんが言った。
ねぇ、貴方の目には何が視えているんですか。
じっと窓の方を睨んでいた津田さんがようやく腕を退 ける。
今の津田さんの行動をさらりとなかったことにして、二木さんは
「丹波も、そういう……怪異ものが好きだったっけ?」
僕に訊ねる。
さすが、津田さんの奇行に慣れきっている二木さん。
頭に腕乗せて来た理由を本人に問い詰めはしない。
幸虎くんだけが津田さんと窓を見比べて首をひねっている。
「好きってほどじゃないですけど、ちょっと気にはなるというか……」
僕自身は、怪異が身近になったせいで、むしろ呪いとかにも興味を持つようになり、その手の本や小説も(主に幸虎くんから借りて)読むようになった。
だけど、本物の呪物を見たいかと言われると、一人では行くのを尻込みしてしまう。
むしろ誘ってもらえたお陰で、行く勇気が出たようなものだ。
ちなみに二木さんは僕を誘う前に津田さんを誘ったけれど、行き先を告げる前に「今日は用事がある」と断られたそうだ。
「だのに居るんだもん、びっくりしたぜ。津田は、その、鹿の角?に頼まれて、仕事として、今日の呪物コレクション展に来たわけ?」
鹿の角が、人間に何かを頼む以前に、どうやって喋るんだろうという疑問をものの見事にスルーして、二木さんは津田さんに訊ねた。
珈琲を音を立てずに啜り、苦い顔をして津田さんは言った。
「『今から遊びに行こう、暇?』っていきなり電話されても、……暇ではないし、断わらざるを得ないだろう。依頼とまでは行かないが、仕事絡みだね、鹿の角と関係のありそうな品が展示されているようだから」
ネットで事前に検索したところに拠ると、それらしきものがあったという。なんとなく気になって呪物を見に来たという軽いノリではなそうだ。
「本当に、本物の呪物ってあるんですか?」
恐る恐る尋ねる幸虎くんに津田さんはすぐには答えなかった。津田さんは徐ろに胡瓜のピクルスにピックを刺して口元に運び、
「これから見るものが本当に呪詛の効力を持つのかは知らない。だが、呪物は存在すると断言できる」
かりり、と一口だけピクルスを齧って
「僕も作ったことはあるので」
と無表情で言った。
え……? と戸惑う僕らをよそに、
「うーん。珈琲の次は、カフェオレかココアかどっちにしよう」
津田さんはメニューを広げて真剣に悩んでいた。
バタートーストと、ホットドッグのプレートが運ばれてくる。
津田さんは店員さんにカフェオレを追加注文している。
幸虎くんは気持ちを切り替えるように、さっそくチキンナゲットを口に運んだ。
小ぶりだけど5,6個盛られている。
これなら後で1個くらい貰ってもいいよね。
「……呪詛は人が人に行うもの。恨みを買うようなことをしなければ呪われることもない。それに、返す方法、つまり跳ね除ける術 (すべ)がある。祟りは人ならざるモノの領域に近づいただけでも降りかかってくることがあるから厄介だな」
と津田さんが言いながら、自分のお皿を引き寄せた。バタートーストは別添のバターを自分で塗るスタイルだった。
小箱に入った柔らかいバターをナイフで切るように掬って、狐色に焼けた熱々のトーストに塗りつけていく。
溶けてじんわりとパンに染み込むバターを津田さんはしばらく眺め、
「況してや、そういう土地から何かを持ち出すなんて、なかなかに大胆不敵な所業だな、蒐集者も淳矢くんとやらも」
と言って、バタートーストをめりっと縦半分に細長く裂き、片方からさらに一口大にちぎり取ってもぐもぐし始めた。僕だったらトーストなんて、ちぎらずそのまま齧っちゃうところだけど、津田さんはご飯を食べるときの仕草がいつも丁寧で綺麗なんだ。さっきのトマトみたいに大口開けて物を頬張るなんてこと滅多にしない。
熱いトーストを旨そうに口に運ぶ津田さんにつられたのか、
「なんで、淳矢まで?」
と訊き返しながら幸虎くんがようやくフォークを置き、ホットドッグを手に取った。
「君と淳矢くんが行ったのは、堰浴山の多津原キャンプ場だろ?あの山は昔、……」
津田さんが話し出し、幸虎くんはうんうんと肯きつつホットドッグにがぶっと豪快に齧りついた。お皿にチリソースがこぼれるのも気にしていない。
その時、二木さんが斜め前からフォークを差し出してチキンナゲットに突き刺した。
そしてその赤いソースをナゲットにつけて、ぱくっと食べてしまった。
「あ、ちょ、俺のナゲット取るなよナツル!」と幸虎くんが怒り、
「1個くらい兄貴に寄越せよ、こーちゃん」二木さんが答えている。
そのやり取りの間に僕のナポリタンと二木さんのフレンチトーストサンドが届く。
二木兄弟の戯れに、津田さんはくっくと喉の奥で笑い、
「で、ナゲットと唐揚げの違い、わかった?」などと二木さんに聞いている。
「ナゲットは鳥の揚げはんぺん」という答えに津田さんが呆れ顔で返す。
「……鳴鶴。それは、すり身を成形して揚げてるって言いたいのか?」
堰浴山の話が何処か行っちゃった。
……あ、このナポリタン、胡椒が効いてて美味しいなー。
弟からチキンナゲットをちゃっかり盗った二木さんは、ちゃんと僕らに生ハムとフルーツを分けてくれた。
もちろん僕も自分のポテトサラダを皆に分けたしチキンナゲットも1個もらった。最後の1個だった。
「初めから、おかず交換するって話で、皆違うランチセットを取ったんだろ」
と二木さんが幸虎くんを真面目に窘めた。
僕らのおかず交換が終わると、津田さんは山の話を再開した。
無事に分けてもらえたチキンナゲットを頬張り、なるほど、鶏肉のはんぺんだと頭の隅っこで納得しつつ、僕も津田さんの話に耳を傾ける。
「……いや、昔の話はさておき。堰浴山のキャンプ場に、立ち入り禁止の大きな洞窟がなかったか?淳矢くんは恐らくその洞窟から、何かを持ち出した」
生ハムサラダを嬉しそうに食べていた幸虎くんの手が止まり、
「……え、もしかして、あの綺麗な石」
と呟く。
「何だ、心当たりがあるのか? そうか、石か。淳矢くんは恐らく、扁平な円形をした白い石だか何かを、土産のつもりで持ち帰ったんだろう。それで石が、自分を帰せ帰せ、さもなくば、と彼や周囲の人間に障りを齎している」
さぁっと幸虎くんの顔から血の気が引いた。
「……金魚が皆死んだって、言ってた」
それを聞いて津田さんは眉を顰めた。
「水槽に入れたのか、底床に使うには大きくないか?」
え、問題はそこなの?
「それはともかく」と自分で言いながら津田さんは、縦半分のバタートーストを、ぐっぐっと三つにちぎり分けてみせ
「金魚はちぎれて、頭と腹と尾に分かれて死んだか?」
え、なにその死に方、さすがに有り得ないでしょ、わざわざパンちぎって言うこと?
と思っていたら、
「頭と尻尾が、捻れて、千切れそうになってたって」
震える声で幸虎くんが答えた。ぎゅっとホットドッグを握りしめるものだから、とろみのある赤いソースがまるで血のように、手の甲を伝い落ちていく。
……うぅ、ちょっと、食欲落ちる……。ナポリタン食べ終わってて良かった。
「ほーぅ、僕の見立ては当たらずといえども遠からずだな」
津田さんは嬉しそうに言ってバタートーストを平らげ、カフェオレをごくごくと一気に飲み干した。そして、おしぼりで手を丹念に拭きながら、足元に置いた荷物置きの籠をひょいと覗き込み、
「ところで幸虎くん。君の鞄の、外ポケットが濡れている」
津田さんは白い手袋を両手に嵌めて言った。
「そこ、何も入れてない……!」
怯えてホットドッグを放り出した幸虎くんに、
「中の物を取り出すから貸りるよ」
津田さんは手袋をした手で、幸虎くんのデイパックを持ち上げる。ポケットの布地は水を含んで濃い色に変わっている。
そして、そこから出てきたのは、鱗にも似た形の、薄い円盤状の真っ白な石だった。
ほた、ほた、ほた、ほた、ほた、ほた……
その石から水が滴り続け、
ビニールのテーブルクロスの上に、小さな水たまりが広がっていった。