陰板
幕は開いていない。
「今夜はお月様が逆さに浮かんでるね」
夜の路地裏、壁に背を預けて男はつぶやいた。
ブリムの大きなトリルビーハットと一切皴のないダブルのスーツは真っ黒で。
ネクタイと丸フレームサングラスは真っ赤である。
男は胸元のクロスペンダントを片手で触りながらタバコを吹かしている。
夜風に包まれているかのような感覚に見舞われ、思わず眠くなってしまう。
「ん・・・ふふふ・・・風がどこかで面白い物でも見つけたのかな?」
赤いレンズの丸いサングラスで目元を隠し、口元だけが笑みを模っている。
静かな夜
耳鳴りがするくらいに静かで
街の雑音すらも彼には届かない。
「ふふ、なんだか神様に会えそうな気分だよ」
タバコを消し、都会の闇に溶け込むかの様に、やおら男は暗がりに入る。
突如として風たちは遊ぶのをやめた。
風でたなびいていたどこかの家のベランダの洗濯物が
ピタリと止まった
「おや。こんな時間にお客様かな?」
ぼそりと呟くと、今まで無音であった世界に音がやってくる。
細い路地の向こうに
住宅の上に
壁の向こうに
無音の世界は一瞬で沈み、四方から音が聞こえてくる。
それは、普通に生活していては決して奏でる事のできない音。
「あは、団体様のご到着だね。お席の用意をしないとね」
男が呟いた後、路地の向こうの音が、こちらへ飛んできた。
「我ら六崩から逃げられるとでもお思いか」
路地の向こうにいる男は、静かに影に呼びかける。
赤い影は今だ闇の中で口元だけを歪ませて笑っている。
瞬間、背後の壁のその向こうから声がした。
「震画」
もたれ掛かっている壁が微かに振動した直後
コンクリートで固められた壁が、鈍い音と共に粉々になった。
けたたましい音の向こうから別の男が姿を見せる。
下半身だけの状態で。
崩れた壁の瓦礫を、噴水のように勢いよく噴出す血で赤く染めていく。
そのまま「バタリ」と、腹より下だけとなった肉の塊が地面に倒れた。
「んふ、ダメじゃぁないか。人の家に悪戯したら怒られちゃうじゃない」
赤い影は宙を舞うように、右に左に足場を見つけて夜の路地を飛ぶ。
だが、その手に刃物どころか何も握られてはいない。
「童突」
今度は右前方住宅、屋根の上にいた男が呟いた。
瞬間、彼の目の前の空間に突如として巨大な杭の様な物が現れる。
「砕」
男の声と同時に、杭は質量を無視するような高速で赤い影に襲い掛かる。
空中に足場はもうない。足場無き空間に、最早逃げ場はない。
突如、
男の視界の中にあった、
赤い影が、
ブレる。
そして一瞬、杭の周りに映ったかと思うと、既に三軒向こうの住宅の前に立っていた。
男の首を手に。
「人の話を聞いておいて欲しいなぁ。僕がアレをどうにかしなかったら、今頃お向かいさん家はどうにかなっていたわけさ」
影は握った首に話しかけて、足元に投げ捨てる。
同時に
ヴンッ・・・
巨大な杭に螺旋状の亀裂が入り、直後に破片一つ残さず虚無へと霧散していった。
頭部を失い、体のバランスを失い、屋根の上に倒れこんだ二つ目の肉の塊は
ずるずるとずり下がって行って、ぼとりと路地に落ちた。
やはり影の手には何も握られてはいない。
「震画に童突砕。うーん、どちらも近江の技だね」
言って影は、うんうんと一人頷いている
「さて・・・残りのお客様もご注文をよろしいでしょうかー?」
言って影は路地の向こうを見やる。
と、既に路地の向こうは、再びの無音となっていて。
最早風すらも再びやってきていて。
「・・・ふふ、お早いお帰りで何より」
一滴の返り血すら浴びる事無く
闇に佇む影は
次のタバコに火をつけて
再び闇に溶けていった・・・
幕は開いていない。演者は舞台に上がり始めた。