9.蒸気の階段〜壱
鍵穴にテンショナーを固定させ、ピンシリンダーの内筒にツールを挿し込む。指に伝わる感触を頼りにピンを順番に揃えていく。内筒内をガチャガチャと引っ掻くレーキングでピンを揃えた方が早そうだが、あえて今回はツールでピンを一つ一つ揃える。師匠には遠く及ばないが、私もそれなりに技術を身に付けた。自分の腕を試したくなったのだ。今回依頼された錠前は、少し古いタイプのピンシリンダーだ。構造自体はシンプルだ。全部で六つあるピンを正しい位置に合わせればシリンダー内の内筒を回転させ、デットボルトをストライクから外す事が出来る。最後のピンを揃える。
「——開きました」
「本当ですか?!」後ろで見守っていた依頼人の女性が驚きの声を上げた。
「早いんですね? もっと時間が掛かるものだと思っていたので」
「たまたま慣れているタイプの錠前だったので、それ程時間を掛けずに開けられただけです」
「お若いのに、凄いですね」そう言ったその女性は私と大して歳は変わらなそうだ。
「本日は鍵開けのみでよろしかったですね? こちらが明細になります。後、こちらにサインをお願します」必要な事務処理を済まし、代金を貰う。
「では、また何かお困りの事が御座いましたらいつでもご相談下さい。本日はありがとうございました」相手も感謝の言葉を口にする。軽く会釈をして部屋を後にする。築年数が三十年は超えているアパートメントの八階、年季の入った木製の床板は踏み込むと軋んだ音を立てた。エレベーターも旧型だ。外扉は鉄格子、その上部にあるアーチ型の階数表示は、箱が現在いる階の数字を矢印で指し示す。ボタンを押すと一階にいた箱が上がってくる。配管の中を蒸気が通り抜ける音が静かな振動となりフロアに響く。"チン"と鐘の音が鳴り、外扉に続いて内扉がスライドする。箱に乗り込み一階のボタンを押す。ゴウンゴウンと北風のような音がしばらく続き、一階に到着した。建物の外へ出ると、冷えた乾いた空気が出迎えた。曇天の空は暑い雲の上に太陽の光がいることを隠しきれていない。鈍い光に照らされた朝だ。昼前にもう一件の依頼も済ませたい。アパートメントの裏手の駐車場に止めた蒸気式自動二輪へと向かう。シートに跨り首に下げていたゴーグルを装着する。イグニッションキーを回すとボンと音がし、火室内に着火しボイラーに黒段水が流れ込む。ピストンが往復運動を始めウォンウォンウォンと獣のような声を上げる。クラッチレバーを握り左足でチェンジペダルを押し下げる。アクセルを少しひねってピストンの動きを上げ、クラッチレバーを少しずつ離す。主連棒から動輪に力が伝わり車体が動き出す。煙管の先から白い煙が濛々と吐き出された。駐車場をゆっくり旋回し、通りに出る。
このミアンムルトの街は国の下層エリアに当る。街の歴史は国の中で最も古く、長い時間を掛けて造られた街並みは美しく、そして機能的だ。街の東に新興エリアが広がり、最下層の平地には行政機関が集約されている。その周りを集合住宅が取り囲んでいて、今出て来た建物もその一つだ。新興エリアが開かれた当初に造られたもので、同じタイプのアパートメントを至る所で目にする事が出来る。そして、上方では街の斜面に沿って白石造りの住宅が並ぶ。整備された道路が山肌に碁盤の目を描き、整然とした印象を与える。
一方、街の西には旧市街があり古い街並みを残している。旧街庁舎は現在はアパートメントになっている。街を保存しつつ人々の日常が営まれているのだ。そして人々の信仰の場である聖陽堂は、過去五百年もの間、増築と修繕を繰返し現在も未完成である。その余りにも複雑で巨大な建造物は街の象徴であり、他の街の人々が観光に訪れる程だ。
次の依頼先は斜面にある個人宅だ。蒸気二輪を蒸し街を疾走する。行政区域を抜け、山の斜面を駆け上る。街を見下ろすと、各建物の煙管からは蒸気が排出され、空に向かって無数の白い筋を描いている。
"蒸気機関"
この街、いや、この国を語る上で欠かせない技術だ。"国"は首都ジゴアを中心に上層エリアのシンメイ、西下層エリアのヤイタアカヤ、東上層エリアのアミカヤ、そしてこのミアンムルトの五つの街からなる。街の自治はそれぞれが街長を中心に独自に行なっていて、国と言っても共和制に近い。二年毎に選出される二人の執政官が国に纏わる物事の絶対的決定権を持つ。国に纏わる重要な決定、つまり蒸気機関に纏わる事だ。現在の執政官はジゴア出身のヴィーレゲーテとアミカヤ出身のソマリスだ。ヴィーレゲーテは蒸気機関開発機構の現総裁でもある。三十年以上に渡り執政官に選出され続け、実質のトップとも言える。ソマリスは芸術の街、アミカヤの元街長で、温厚な性格で知られる人物だ。人望が有り前回の選挙で初めて執政官に選出された。
国の首都はジゴアだが、これはその立地の為だ。各街はジゴアとのみ地下道で繋がっている。逆に言えば、ジゴア以外の街との繋がりは無い。この国は蒸気機関を機能させるために誕生したとも言える。首都ジゴアは火口に出来た街だ。地下からは良質な石炭が採れ、蒸気機関の発展に繋がった。
上層の街シンメイは、高度な機械技術を持つ街だ。この技術が蒸気機関の飛躍的な進歩に貢献している。街自体も機械仕掛けで機能していて独特な景観と生活様式を形成している。
西下層の街ヤイタアカヤは密林の街だ。その原生林の奥深くから新種の鉱石が半世紀程前に発見された。研究の結果、その鉱石から抽出される成分を元に生成された液体が、水よりも沸点が低く膨張率が高い事が分かった。その液体は"黒段水"と呼ばれ、蒸気機関に利用されるようになった。詳細は伏せられており、その鉱石の採掘場も蒸気機関開発機構によって厳重に管理されている。ヤイタアカヤは鉱石採掘の為に開かれた街だが、今ではそこに住むのは採掘関係者だけではない。密林と配管が複雑に絡み合う景観は観光名所にもなっていて、街としての規模は他の街にも劣らない。
東上層の街アミカヤ。古くから硝子造りが盛んなこの街は、芸術の街としても知られている。硝子製造の技術は蒸気機関の技術革新にも影響を受け、近年より精細かつ強固な硝子製造を可能にした。そこで造られたものは高度な機械製品の制御装置等にも使われている。アミカヤもこの国の技術改革に貢献していた。街並みは静謐で美しい。湖畔を囲む穏やかな緑が象徴するように、人々も穏和で思慮深い。街の至る所に硝子製の建造物がある。冬の雪が降る時期に見せる幻想的な景色は、思わず溜息が出る程に美しい。
そして、ミアンムルト。国で最も古いこの街は、蒸気機関の誕生の地でもある。二百年程前にラートカイトによって発明された力織機が蒸気機関の歴史の始まりとされている。その頃は"国"は存在せず、石炭を遥か下層にある鉱山の街から買い付けていた。やがて火口の街、ジゴアとの交易が始まり蒸気機関は飛躍的な進歩を遂げる。今ではどの建物にも小型の蒸気機関が設置され、そのエネルギーを利用している。街には蒸気機式の二輪、四輪が行き交い、ジゴアへは蒸気機関鉄道が走っている。
次の依頼先の建物が見えてきた。斜面の最上部に近い富裕層の家が並ぶエリアだ。どの家も敷地が広く、高い柵に囲まれている。依頼主は相当な金持ちのようだ。一際広い敷地には二つの建物があった。右手にあるのは三階建てのどっしりとした四角い建物。白い外壁には大きな窓が幾つも並ぶ。左手は二階建てのガラス張りの建物だ。硝子が陽の光を反射して眩しい。蒸気二輪を止め、呼鈴を鳴らす。門扉から家屋までは芝の斜面が広がっている。向かって右側の建物からグレイの髪を撫で付けた恰幅の良い男性が現れた。こちらに真っ直ぐ歩いてくる。
「鍵師か?」人に命令する事に慣れている人間の声だ。セーターにゆったりとしたスラックスというラフな格好だが、その佇まいに隙はない。
「はい。ケーニヒ鍵店のムギです」
「若いな。経験はどれくらいある?」
「半年です」
「短いな。開けられるのか?」
「まずは拝見させて下さい」頷くと男は左手の建物に向かって歩き出した。
「この建物は趣味の為に最近建てたんだがな、鍵を無くしてしまった。出来れば壊さずに鍵を開けたい」硝子越しに見える室内には、美術品のような物が陳列されている。個人美術館と言ったところか。
「この硝子はアミカヤ製の強化硝子だ。強度は金属と同等だと言われた。扉も同じ素材だ。鍵はシンメイで造られたもので最新式だ。防犯性能は極めて高い」扉の前に男と並ぶ。硝子の扉自体が一つの美術品と言っても差し支えない程、それは美しかった。表面には天使をモチーフにした壮大な彫刻が施され、硝子の中にも天使達のあどけない姿が刻まれている。
「まるで美術品ですね……錠を拝見させて頂きます」扉の右中央に取り付けられた錠は、真新しく艶消しを施した銀が眩しく輝いていた。見た事のない鍵穴だ。"y"の形をしたその穴は、師匠がこの前話していた最新型の錠の特徴と一致する。シリンダー型ではあるが、まずピッキングでは回す事は出来ないと言っていた。
「今回のご依頼は、破壊せず解錠する事でよろしかったでしょうか?」
「そうだ」
「……この錠は、ピッキングでは開ける事が出来ません」男の眉が上がる。
「では、開ける事が出来る者をすぐに呼べ」男は背中を向け立ち去ろうとする。
「その前にこの建物を詳しく拝見させて下さい」
「何故だ?」男は苛立ちを滲ませながら向き直る
。
「他の扉から中に入り、内側からこの扉を開けようと思います」
「ふむ、なるほどな。やってみろ」
わたしは頷くと建物の裏手に回った。やはり非常用の出入口があった。鉄製のその扉には、比較的新しいタイプのシリンダー錠が付いていた。以前にも解錠した事のあるタイプだ。
「ここを開けて中に入ります」男は目で始めろと促した。道具袋からツールを取り出し作業に取り掛かる。扉の前に屈み込み一分程で解錠した。
「——開きました」
「早いな。この鍵も最新の物に交換する必要があるな」男に続いて室内に入る。様々な美術品に囲まれたバックヤードを抜けると、四方を硝子で囲まれた空間に出た。男は正面扉の鍵を外し、扉を開ける。
「ご依頼は以上でよろしかったでしょうか?」
「うむ。見事だな。また何かあったら呼ばせて貰おう」
「ありがとうございます。では、こちらにサインをお願いします」事務手続き等を済ませ、蒸気二輪に跨る。今日の依頼はこれで終わりだ。見上げた空は曇っている。真上に太陽が隠れていた。もう昼だ。旧市街まで蒸気二輪を蒸す。車道に立ち込める蒸気を潜り抜け四輪を追い越して行く。道路が煉瓦敷きに変わる。旧街庁舎前には蒸気二輪が所狭しと停められている。空きを見つけて滑り込む。中央広場には飲食店が並ぶ。ゴーグルを外し首に掛け、その一つに入る。
「よお、ムギ! 調子はどうだい?」店に入るなり、チェトに声を掛けられる。混み合う店内を泳ぐように料理を運んでいる。私は片手を上げて挨拶を返す。昼のど真ん中だ。カウンターは全て埋まっている。
「奥のテーブル、今用意するよ!」チェトが料理を運んでキッチンに戻って行く。言われた方を見ると、隅の四人掛けのテーブルが空いていた。
「悪いね!」喧騒に負けぬよう大声で叫び、テーブルに向かった。
この"バエーゼ"は、旧市街で古くから人気のレストランだ。店名の"パエーゼ"とは"国'という意味だと以前チェトが言っていた。口髭を生やした強面の巨漢、ファビオが作り出す料理はどれも絶品だ。それを庶民的な価格で提供しているので、店内は常に混雑している。チェトが店内を泳いで水を運んできた。
「今日の日替わりは、小羊肉のコトレッタだよ!」
「いいね、それ頂戴」チェトはウインクをすると滑るように去って行った。料理は直ぐに運ばれて来た。コトレッタとはパン粉をまぶした肉を薄く伸ばし多めの油で揚げ焼きした料理だ。昼時だ。作り置きしているのだろう。この繁盛ぶりなら次々に注文が入るのだろう。揚げたてのパン粉の香ばしい香りが食欲を刺激する。早速頂く。
「美味しい——」衣はカリカリで余分な油気は無くサックリとしている。旨味を閉じ込めた薄切りの羊肉は、サラッとした肉汁にしっかり味がある。それに酸味を効かせたトマトソースが加わり、しつこさは全く無い。その美味しさに嬉しくなり思わず顔を上げる。しかし、そこには誰もいなかった。料理を黙々と平らげ、店を後にした。
旧市街地をゆっくり蒸気二輪で走る。中央広場から西の崖へ向かう道を進む。日に焼けた黄色の外壁に茶色の瓦屋根の建物が並ぶ。四階建てより高い建物はない。その一つの前で停まる。イグニッションキーを抜き。建物に入る。
「ただいま——」ゴーグルと道具袋を壁のフックに掛ける。
「おう、お帰り。どうだった?」屈んでこちらに背中を向けたまま師匠は聞いた。
「うん、一件目は旧式の六ピンシリンダーだった。二件目はシンメイ製の最新式のやつだった。鍵穴が"y"の字のやつ」
「それでどうした?」
「非常用扉から中に入って解錠した」
「よし、上出来だ。鍵師の仕事は客の困り事を解決する事だ。今日はもう上がって良いぞ」
「はい、今日の売り上げ。そっちの具合は?」テーブルに今日の売上金を置いて、師匠の前に鎮座するその四角い箱を見る。
「手強いな。三つ目のダイヤルが厄介だ。だか、明日中には何とかしたいところだな」師匠は一昨日からこの金庫の解錠に取り掛かっている。街庁舎の地下にあった物で、管理が不明の代物だ。地下倉庫を整理した時に見つかったらしい。中に重要な物が入っている可能性もあるので、街長から直々解錠の依頼が入った。行政機関の依頼に応えるのも鍵師の大切な仕事だ。事件性のある部屋の扉を開けたり、捜査に必要な合鍵を用意したりとその内容はその時々だが、行政機関からの依頼は思ったよりも多い。今回の依頼は三つのダイヤルが付いた旧式の金庫だ。師匠は手の感触と耳だけを頼りにそれに挑んでいる。
「休憩にしよう。ムギ、良かったら少しお茶しないか? 午前中イルダさんが顔を出してな、カヌレを頂いた」師匠が立ち上がり、台所へ向かう。
「良いね」この日、私は初めて笑った。
"ケーニヒ鍵店"
ここで働き始めて半年になる。師匠との出会いは、宿に泊まるお金も底をつき行く当も無くこの旧市街を呆然と歩いている時だった。周りをろくに見ずに歩いてい私は何度か人にぶつかっていた気がする。その頃の記憶が曖昧なのだ。何度目かにぶつかったその人は直ぐに歩き去らず、その場で立ち止まった。顔を上げると、小柄な男性が驚きの表情でこちらを見つめていた。その男性はそのま一歩二歩と後退り、背中を向けて走り出した。しかし、直ぐに立ち止まりまたこちらに向き直ると、しげしげと私の顔を覗き込み口を開いた。
「……あんた、大丈夫か?」その茶色の瞳には見覚えがあった。以前とある街で少年が行方不明なる事件があった。その時にちょっとした関わりを持った男だった。
私が行く当も無く無一文だと分かると、その男性はとりあえずしばらくは自分の仕事場で寝泊まりしても構わないと言ってくれた。断る理由もないので、男性の後に付いて行った。
「狭いし散らかってはいるが、雨風は凌げる。とりあえず、生活の目処が立つまで居てもらって構わないから」そう言って案内された室内には、何に使うのか分からない工具や機械が置かれており、そして沢山の鍵があった。
「俺は鍵師なんだ。あんな事があったけど、今は真面目に働いている。あの時は悪かった。あんたには感謝もしている——」後半の方は耳に入らなかった。私の中で数日ぶりに何かが動いた。
「……働かせて下さい。私を、ここで働かせて下さい」気が付いたら口にしていた。そして、鍵師見習いとしての生活が始まった。
最初は鍵の構造を覚えるところから始まった。シリンダー錠、南京錠、ダイヤル錠、それらにも様々なタイプがある。師匠の後をついて回る日々が続く。同時に鍵開けの訓練も日々行う。簡単な構造の錠前から始まり、解錠する毎に難易度は上がった。日々、ピッキングの腕を磨く。そしてようやく最近、一人で依頼先に行く事を許されるようになった。
「イルダさんから聞いたんだがよ、最近、首都で変な噂が出回っているらしいんだ」二つのティーカップをテーブルに置き、師匠は話しだした。自分のカップに瓶から直接ザバザバと砂糖を入れている。私はいつも無糖なのでそのままカップを口にする。
「何でも人が突然姿をくらます事件がここ最近立て続けに起きているらしいんだ。老若男女関わらずだ。だが数日後にひょっこり帰って来るらしい。何処にいたのかは覚えておらず、まるで惚けたみたいに以前とは別人のようになってしまっているらしい」
「イルダさん、また新しいネタを持って来たのね」
イルダはこの建物のオーナーだ。この街で力織機事業を起こした一族の末裔で、資産家として旧市街地の建物を幾つも所有している。老齢だが生涯独り身であるその女性の胆力は若者をも圧倒する。口を開けたら相手が寝ていようと話しは止まらない。そして、何故か師匠の事を気に入っているようでこの事務所に頻繁に顔を出す。かつて師匠はとある街でトラブルを起こし、その街を追い出された。行く当ても無く街道で途方に暮れていたところ、丁度その同じ日にこのミアンムルトの街に引っ越す親子に情けを掛けられ一緒に連れてきてもらった。物心ついた頃から犯罪にばかりに手を染めていた師匠は、心を入れ替えると誓った。だが、仕事探しは難航した。老齢に差し掛かろうとする他所から来た小男を快く受け入れてくれる奇特な人はいなかった。途方に暮れ旧市街地を歩いていると、アパートメントの前で騒いでいる老女、イルダに出くわした。どうやら自室の鍵を無くしてしまったようだ。師匠は話しを聞くと、騒ぎを見物していた女の子のヘアピンを借り、ピッキングで鍵を開けた。盗みを繰り返していた若い頃に身に着けた技術だ。褒められたものでは無い。しかし、イルダは痛く感激した。師匠の現状を聞くと、この街で鍵師になれば良いと言った。自分が所有する建物の空き部屋を事務所代わりにすれば良いとも言ってくれた。そうしてケーニヒ鍵店が誕生した。ちなみに"ケーニヒ"とは師匠の苗字だ。
「ああ、だが他にもまだ首都では変な噂があってだな、何でも夜中に突然あるはずのない階段がぼんやりと現れるらしいんだ。場所は決まって西の外壁辺りらしい。だが、それも直ぐに消えてしまうらしいんだ。まるで煙みたいに」
「ふーん、変なの。階段のお化けみたい」
「あぁ、確かに。上手いこと言うな。それと更にもう一つあってだな——」師匠は砂糖たっぷりの紅茶をグビリと飲み、カヌレを口に放り込む。
「ちょっと、午前中そんなにおしゃべりに付き合ってちゃんと仕事したの?」イルダさんの話しに付き合っていたらとてもじゃないが鍵開けなんて不可能だ。しかし、師匠の集中力の凄さを私は良く知っている。過去に丸二日、食事も摂らずに鍵開けをした姿を見た事もある。今日も話しに付き合いつつ仕事はこなしたのだろう。
「あぁ、予定通り二つ目のダイヤルを開けたから上々だろう。それでだな、三つ目の噂だがな、何でも首都の上空を巨大な鯨が泳いでいるのを見かけた人間がいるらしい。夜空を泳ぐ鯨だ」
「酔っ払いの戯言じゃ無いの? 首都も暇な所ね」
「いや、それがその鯨を見たのは一人だけじゃな無いらしいんだ」
「ふーん。空飛ぶ鯨ね……」
「それでだがよ、ムギ、明日の午後、首都に行ってくれないか?」
「この流れでそれ言う?」
「いや、仕事の依頼だ。イルダさん経由だ」仕事の依頼は通常、依頼人本人か若しくはその使いの者が直接この事務所を訪れてする。この"国"では電話はまだ一部の富裕層の人々にしか普及していないので、用があれば現地に赴くか手紙を書くのが一般的だ。
しかし、稀にイルダ経由で入る依頼もある。行政関係や他の街からの依頼が多い。要するに特別な依頼だ。
「イルダさん、セドの連中とも付き合いがあるだろ? 何でも昨夜、セドのお偉いさんと電話で話していたらしいんだがよ、腕の良い鍵屋を知っているかって聞かれたらしくて。何でもそのお偉いさんの運営する演劇場で、鍵を紛失した扉があるみたいでよ」セドとは、蒸気機関開発機構(Steam Engine Development Organization=SEDO)の略称である。
「演劇場?」
「ああ、セドが運営する首都演劇場だ。支配人が代わったらしく、劇場内を見て回ってたところ、件の扉が見つかったって事らしい」
「明日の午後ね? 分かった、行くよ。首都は久しぶりだな……」
「何でもその新しい支配人てのが若い女性らしくて、偉い美人らしいぞ。劇場に出ている女優や踊子よりも美人だって話しだ」
「ふーん、そうなんだ」
「——それとな、うん。その劇場がだな……」師匠が急に落ち着きを無くし、視線を逸らしている。嫌な予感がする。
「何でも、劇場に出る女優を募集しているらしいぞ。年齢制限があるが、ムギ、お前なら問題無い。言っちゃあ何だか、お前はそこいらの女が比較にならないくらい器量も良い。この仕事を頑張ってくれているのは十分知っている。腕前も一人前と言って良い。だがよ、お前はまだ若い……何もこの仕事にこだわる必要も無い。この国は広い。そろそろ次の事を考えても良いと思うんだ——」
「ちょっとヘンム!! そう言うのはやめてって言ったでしょ!」思わず怒鳴ってしまった。師匠の体がビクッとする。
「わ、悪かったよ。お前さんに怒られると肝が冷えちまう」
「私はこの仕事をやりたくてやってるの。まだまだ腕も上げたい。だから、そう言う事は今後絶対言わないでね」
「分かったよ、俺が悪かった」師匠は両手を上げる。気がつくとティーカップは空になっていた。
「じゃあ、お疲れ様」
立ち上がり、出口に向かう。
「明日は頼んだぞ。地図は用意しとく」私は後ろを向いたまま片手を振って外に出た。
"聖陽堂"
五百年もの間、建設が続いている巨大建造物だ。その大きさ、荘厳で緻密な造形、そして建設途中という特異な条件が重なり、他に無い存在となっている。しかし、その内部は驚くほど静かで落ち着いている。遥か見上げる程に高い天井には、天使達が戯れる姿が描かれ、その下にはステンドガラスが嵌め込まれた壁が神秘的に聳える。静謐な空間だ。時間があると、いつもここに来てしまう。そして、目を瞑り、頭を空にしようとする。だが、それが無理なのは分かっている。こちらを見つめる二つの黒い瞳が灰色の闇へと遠ざかって行く。その光景が繰返し繰返し、際限なく繰り返される。
クラを失った後の事はあまり覚えていない。気がつくと、このミアンムルトの街にいた。何もする気がせず、目に入った宿に入り、部屋を出ずに過ごす日々が続いた。しかし、ある時お金が底をついた。宿を追い出され、フラフラと街中を歩き、気がつくと聖陽堂の前にいた。何も考えずに中に入ると、街の喧騒から切り離された静かな空間がそこにあった。近くの椅子に座り。ぼんやりと天井を見上げる。そこには天使が描かれていた。
「一人だな……」
何時間そうしていたのか分からない。もう閉める時間だと言われ、外に出された。夜だった。賑やかな声が行き交う。当も無く街を歩く。何人かにぶつかり、頭を下げる。またぶつかる。その人は、鍵師だと言った。——鍵師。鍵を開ける。鍵を開ける事が出来る……私の中で何かが動いた。
翌日、午前中に事務所に行き地図を受け取り、蒸気式自動二輪の燃料を補充する為、中央広場にある石炭販売所で石炭粉末と黒段水を購入する。首都までは片道三時間程だ。まだ昼前なので、午後には着くだろう。パエーゼで軽く早めの昼食を済ませる。
「さて、行きますか」
昨日と打って変わって晴天だ。ツーリングには最高だが、残念ながら移動は地下だ。首都高速坑道をひたすら走る。元々、ジゴアの採掘の為の坑道だったものを拡張し延伸させた地下道で、片側六車線、中央を蒸気機関鉄道の線路が走る。交通量が多いので排蒸気が凄いが、炭坑技術が応用された換気設備がそれを瞬時に外へ逃がす。おかげで首都高速坑道の走る地表は白い煙が濛々と上がる。坑道の出口が見えてきた。白い明かりの壁が前方に迫る。ゴォーと鳴り続いていた音が突然止み、眩しい青い景色と新鮮な空気の中に突入する。そして、姿を現した。巨大な配管が複雑に入り組み、濛々と蒸気を上げる。遠くから見るとまるで一つの巨大なプラントのようにも見える。首都、ジゴア。この国の蒸気機関の中心地。街の中央の噴火口跡に蒸気機関開発機構の巨大な本部がある。それを囲むように、各街の出張機関、公社等があり、居住区域も整理されている。計画的に作られた都市だったが時と共に配管が増え、異様な様相を呈するようになったと言う。街の周囲は高い防壁で囲まれている。万が一火口が噴火した時に、流れ出した溶岩を周囲に広げない為だ。
高速を抜け、蒸気二輪を止めて地図を確認する。首都演劇場は街の西にあるようだ。道を確認して再び走る。やがて、格式のある大きな建物が見えてきた。四隅に巨大な石柱が聳える。二階建てのようだが、高さは通常の建物の六階分はある。品のある装飾が施されたアーチ型の大きな窓が並ぶ。柱をモチーフにした装飾が白い外壁に施され、中央の屋根は三角を描く。何かの神殿を連想させる。この国で最も美しい建物の一つだと言われる事はある。駐車場を探し蒸気二輪を止める。入口に向かう。本日は休演のようで、正面玄関はポールパーテーションで封鎖されている。ガラス扉越しに中を覗くと、受付にいた女性が気付き出て来てくれた。
「何か御用でしょうか?」洗練された言葉使いだ。
「ケーニヒ鍵店から来たムギです」女性の顔に品の良い笑みが浮かぶ。
「お待ちしておりました。只今、支配人が参りますので中でお待ちください」通された玄関ホールのソファーに座る。驚くほど座り心地が良い。見事な内装だ。カーテン一つとっても目の飛び出るような値段がするのだろう。さほど待たずして、足音が聞こえてきた。踵の高い靴音だ。音のする方に目を向ける。そこには鮮やかな緑のドレスを纏った女性がいた。歩きづらいはずにも関わらず、その姿は自然で洗練されている。
「お待たせ致しました——」よく通る、高いが落ち着きのある声だ。その姿は、美しく纏め上げた金髪、白砂のような混じり気のない肌、果実の種のように瑞々しいまつ毛、そして、燃えるような碧い瞳……
花咲き誇る街での記憶
燃え盛るように咲き乱れる花々
その中心にいる、炎に包まれた少女
「——リジーナさん……?」
「あら? 何処かでお会いした事がお有りかしら?」
——蒸気の階段〜壱——