8.忘却の階段
左足を下ろす
体の重みを持ち上げる
右足に力を入れる
それは音で出来た階段
踏み込むと
和音が青空に響き渡る
音に乗り
雲海を抜け
光の中を駆け上がる
そして、思わず息を止める
雲の上に広がる景色に
クラの黒目は少し不安になる
カラスの鳴き声が遠くに聞こえる
そこはこの山の日陰
太陽の明かりが湾曲した岩壁に遮られ
ひっそりと佇む忘却の岩陰
人々は過ぎ去り、記憶も消え去る
終わりを遂げる街だった
足を下した大地は、湿り気を帯びていた。靴の底がずぶりと地面に沈む。岩壁は見上げた視界を塞ぐように湾曲して反り返り、視野を閉ざす。角度の問題なのだろう。陽が僅かにしか射し込まず、薄暗く黴臭い印象を与える。霧が薄っすらと視界をぼやけさせる。輪郭を欠いた森の中を歩き、踏んだ枝が湿った土に埋まりパキンと乾いた音を立てた。何かの鳥が遠くでホーウと鳴く。
「随分と寂しい場所だね。とりあえず、街の中心まで行ってみよう」振り向くと、黒目が不安で萎んでいた。クラの気持ちも分かる。この街は今まで訪れた中で最も陰鬱としている。いったい人々はどんな暮らしをしているのだろうか。しかし、人の気配が全くしない森だ。街外れにあり、人々が足を踏み入れる事のない場所なのだろうか。かなりの距離を歩いたと思う。道は気がつけば斜面に変わっていた。そして、しばらく上ると開けた場所に出た。左手に崖に突き出すように伸びる丘があった。遠くから見てもかなりの大きさだ。乾いた芝がその地面を覆う。そして、その上を規則正しく並ぶ物があった。
「何だろ?」クラも黒目を傾げる。
丘へ向かう。次第にそれは姿を表す。それは墓石だった。天を仰ぐように、崖から突き出た丘に立ち並んでいた。
「やれやれ。人に会うより、先にお墓を拝むとはね」見上げると、遥か上の方から私達の立つ場所までかなりの数の墓が斜面に並んでいた。崖の下からは乾いた風が吹き付ける。寒々しい光景だ。
「とりあえず、宿を探して休憩しよう。まあ、あればだけど……」その時、今までに感じた事のない妙な感覚を覚えた。強いて言えば、誰かに見られている気がする感覚に近い。
"なに?"辺りを見回す。特別変わった事はない。こちらを見ている人間もいない。しかし、丘の先端、崖に突き出したそこから何かを感じた。墓石の間を縫ってそこへ向かう。丘の突端にある墓石は、他と比べると一段と古いものだった。石は日に焼け色褪せ、乾いた表面の細部は風雨により削り落ちている。
「どうやら、この一帯が一番最初に作られたお墓みたいだね。後から増えるに連れて、斜面の上の方へと広がっていったみたいだね」しかし、この感覚は一体? 誰かがいるような、何かの気配……。
「そうか、階段か」自分で言葉にして理解した。ここには、"ココロの階段"があるのだ。幾つものココロの階段を上った。そして、私の力は大幅に強まった。それが関係しているのだろう。"ココロの階段"の存在を感じる事が出来るようになったのだ。
――目を閉じ、呼吸に集中する
眉間に熱を感じる方角に、息を吐くと同時に熱を送り出す。
「"ココロ"より生まれし階段よ、姿を現せ――」
薄暗かった空が、更に闇を増す。カラスの鳴き声が何処かから聞こえた。闇は更に深まる。気が付くと墓石の上に黒いものが並んでいた。その鳴き声はどんどん大きくなる。気が付けば闇に包まれ何も見えない。今やその鳴き声は耳をつん裂く程に闇を満たし、私自身が闇の一部になって行く。しかし、突然それは終わった。静寂。薄暗い景色が戻る。そして、それはそこにあった。崖の突端からその下へと続く平らな石片。その墓石達は、崖に沿って丘の下、奥へ奥へと伸びていた。
「これはまた、斜め上だね……いや、むしろ斜め下か」クラの手が私の服の裾をキュッと掴んだ。
墓石を踏むのには、中々に勇気がいる。罰当たりもいい所だ。その一つ一つが、誰かが生きて死んだ証なのだ。
「失礼します」一応、一言声を掛けてから足を踏み出す。足を乗せるとコツっと音がした。しかしその石は何千年もそこにあるかのように微動だにしない。盤石な階段だ。突き出した丘の下を斜めに沿うように階段を降りて行く。頭上には土天井、身渡す限りは灰色の雲海。辿り着いたのは、岩壁の窪みに出来た岩燕の巣のような空間だった。横幅は端から端まで歩いて十歩程、奥行も同じぐらいだった。
「ここ、この階段じゃないと人が来る事は無理だね」天井はそのまま丘の下部に繋がり、斜めに上がっている。当然、陽射しは遮られている。そして足元を覗くと、何処までも続くような岩肌が広がり闇に消えていた。
「こわい」
「うん、そうだね……。何を想って出来た階段何だろう」その狭い岩場を見て回る。左側は広い空間だが、右奥には大きめの岩が二つ並んでいる。胸の高さほどのそれは、仕切りのように右奥の角の空間を一つの部屋のように区切っていた。その空間を覗く。
「……クラ、こっちに来ちゃダメ」あったのは白骨だった。本物を見るのは初めてだ。しかし、何度も本等で見た事はある。恐らく、人間の骨だろう。岩の影にそれはひっそりと並んでいた。無意識に手を合わせていた。しかし、墓に白骨。この街には生きている人間はいないのだろうか?ふと、目の前の壁に目をやると、その岩壁に何かが刻まれていた。顔を突き出し良く見てみる。
"ステラレタ"
"ステラレタ"
"ステラレタ"
"ステラレタ"
"ステラレタ"
"コノコダケハ カナラズマモル"
「ひぇっ……」思わず一歩後ずさる。白骨を再び見る。ここに連れてこられ、置き去りにされたのだろうか? 気がつくと横でクラも同じ物を見ていた。
「何だか可哀想だね」黒目が寂しさを湛えた。
「とりあえず、上に戻ろう」これ以上ここにいても、何も発見はなさそうだ。その時再び、クラの手が私の服の裾をキュッと掴んだ。
「大丈夫だよ? クラは怖がりなんだから……」振り向くと、黒目は何処か宙を見ていた。この目は、確か……
「お父さん、いる。この前の、花の街の時と同じ」
「分かったよ、クラ。お父さんが近くに来たら、教えて」私は冷静を装い、ゆっくりと言った。この前の黒い化物がまた来たのか? そして、チョーチョパリの言葉。
"どうやら君達の父親は、今からおよそ一万年前にこの世界に現れたようだ"
考えても仕方がない。
「とりあえず、戻ろうか」意識して明るい声で言った。
再び墓石を上り丘の上に出る。とりあえず、この斜面を上へと向かい、人を探そう。殊更今夜は野宿をしたくない。
丘を上り切ると、再び地面は平らになった。そこには人工の建造物が並んでいた。動物を模した木製の遊具、大人が数人ずつ乗れそうな巨大なシーソー、小型の木製観覧車、手動式回転木馬。それらの塗装は溶け落ち、木馬の目は爛れたように不気味にこちらを見ている。
「廃墟遊園地か。この街、人はいないかもね」クラも黒目で同意する。
「しかし、何で人がいなくなっちゃったんだろう」
そこからしばらく歩くと、市街地に入った。煉瓦敷きの道には、同じく煉瓦造りの家が並ぶ。どの家の窓も割れていて、灯りのある家は無い。
道は街の中心へと続いているようだ。街の中央広場には街庁舎のような大きな建物と、乾涸びた噴水があった。
「うーん……誰もいないみたいだね。さっきの墓石の階段に戻って、次の街まで連れて行ってもらおう。この街にいても何も無さそうだし……」その時、街庁舎の一階の窓の一つが仄かに赤く色づいた。
「誰か、いる?」クラを振り向くと、行ってみようと黒目が言った。
灯は建物を出ると、私達が来た道と反対の方へと向かった。それは真っ直ぐ進み、やがて道は剥き出しの土に変わり、辺りはポツポツと枯れ木が並ぶだけの寂しい景色になった。更に進むと、緩やかな丘を上り柵に囲まれた敷地に入る。羊の放牧が行われているのかもしれない。足元にはヨモギやセイタカアワダチソウ等の雑草や低木が広がっている。遠くには飼育舎らしきものも見えた。そして灯はそれとは別の小屋の中へと消えた。程なくして、その窓の一つに灯りがついた。
「行ってみよう」
小屋に着くと、古びた木製のドアをノックした。しばらく待つが、返事はない。もう一度ノックしようと手を上げると、中から人が歩いてくる音がした。
中から、怪訝な顔をした女性の顔が現れた。
「旅人かい?」その声は皺枯れていて、見た目以上にその人を年寄りに見せた。
「はい、妹と二人で父を探す旅をしています」私は真っ直ぐにその女性の目を見た。化粧気のない顔で髪は無造作に纏めてある。五十歳前後だろうか。相手もこちらをじっと見つめ返す。小屋の中では何かを煮込んでいるようだ。ぐつぐつという音と共に、肉と根菜を煮込んだ時特有の食欲を刺激する匂いが漂って来る。
「入りな」そう言うと、その女性はスタスタと室内へと戻った。クラの顔を見る。頷き合い、私達も後に続いた。
室内には最低限の家具だけがあった。部屋の真ん中のテーブルの上、天井から吊るされたランプが一つ、この部屋を明るくしていた。竈では鍋が火にかけられている。食事時にお邪魔してしまったようだ。
「そこのテーブルに座んな。お腹は減ってないかい? 丁度、夕飯を食べるところだったんだよ」
「あ、はい。突然お邪魔してすみません」
「別に構わないよ。この街には私一人しか住んでいないんだ。あんた達、この家を見つけたのは運が良かったんだよ」
「一人だけ? あなたお一人だけ何ですか?」
「アイラ。私の名前だよ。そう、この街の住人は私だけだよ」
「どうりで人を見かけなかった訳なんですね。私はムギ、妹はクラです。夕飯、良いんですか?」
「構わないよ。一昨日作った羊肉と野菜の煮込みを温めるだけだからね。味は保証しないけど、温まるよ」
「ありがとうございます!」クラの三日月黒目と目を合わせる。
すぐに料理はテーブルに運ばれた。湯気を見るだけで体は温かくなる。数日煮込んだ料理特有の具材が溶け合ったコクのある香りが立ち込める。一口啜る。
「美味しい!」スプーンを繰り返し口に運ぶ。気が付くと、皿は空になっていた。見るとクラの皿も同様だった。
「よっぽどお腹が空いていたみたいだね。良かったらたくさん食べな」アイラは初めて笑顔を見せた。
料理を食べ終える。鍋は空になっていた。アイラは竈の近くに立ったまま、私達が食べる様子を眺めていた。今気が付いたが、この家には二脚しか椅子がない。
「あっ! アイラさんは食べないんですか? ここ、良かったら座ってください」
「私は大丈夫だよ。それよりも、泊る所も決まっていないんだろう? 外はもう暗い。良かったら、泊ってきな。ベットは一つしかないけど、あんた達二人なら寝られるでしょ」
「すみません。何から何まで……。せめて、洗い物はやらせてください」アイラはじっとこちらを見る。
「そうだね。それじゃ、お願いするよ。私は、少し出て来るから。鍵は掛けなくて良いからね。盗人もこの街にはいないからさ」そう言うと、アイラは上着を手に扉の向こうへと消えた。
「さて、片付けますか」黒目にやる気が灯った。
洗い物が終わった頃、アイラは戻って来た。手には薪を抱えている。
「夜は冷えるからね。竈の火を絶やさないようにしないとね」どうやら竈は暖房機能も兼ねているようだ。
「あの、他にもお手伝い出来る事があれば、何でも言ってください!」
「そうだね……それじゃ寝る前に少し話し相手にでもなってもらおうか。なんせ、墓石以外に話す相手がいないもんでね」
「あ、はい。そんな事で良ければ、是非!」言ってはみたものの、この街の事が気になってはいた。この街で何があったのか、話してくれるのなら是非聞きたいところだ。
「まずは、お茶でも淹れようか」
そのお茶は、聞いたことの無い茶葉を使用していた。香辛料が効いている。八戒とシナモン、白胡椒を混ぜたよう香りだった。それを、羊乳で割って飲む。白い陶器のカップを両手で包み込むと心も温かくなる。その味はコクがあり、体の芯から温まる感じがした。
「足の指先から温かくなるよ」アイラの言う通り、体が熱って来る。
「それじゃ、始めようか。いつか誰かに話しておきたかった、この街と、私の話を……」
頂上の見えない山の岩陰に隠れるように開かれた街、それがラザンだった。街の資源は岩壁の奥より採掘される鉱物。つまり鉱山の街だった。
採掘された鉱物は上層の街へと運ばれた。頂上の見えない山では珍しく、その上層にある街は他の町との交流に積極的だった。ラザンは鉱夫とその家族達で年々と賑わいを増した。街の中心には煉瓦敷きの市街地が作られた。立派な街庁舎や子供達の為の学校も開かれた。更に街の外れには遊園地まで作られた。安定した仕事があり若い働き手に溢れ、産まれてくる子供の数も年を追うごとに増えた。岩壁の奥から採掘される鉱物は絶えることなく、この街の未来はいつまでも安泰だと誰もが思っていた。
世代は変わり、ラザンで産まれた子は親になり、そして孫を儲けた。男は鉱山に潜り、女は子を産み続けた。
ある日、鉱山の奥から奇妙な物が見つかった。それは漆黒の岩の塊だった。周りを削ろうとツルハシを当てると、ツルハシが吸い付いて離れはなくなった。それはとても強い磁力を持っていた。慎重に周りを掘り進めると、どうやらはそれは階段状の形をしているようだった。その奇怪な鉱物の扱いをどうするか、鉱夫達がその階段の前に集まり話し合いをした。
その時、突然パシッと破裂音が響くと、ガラガラとその階段は崩れ瓦礫になってしまった。磁力が強いこと以外に特徴がないその石は、とりあえず集められ鉱山の外に運ばれ倉庫に保管された。それを最初に見つけた鉱夫は、記念にその石片を家に持って帰った。そして、特に意味もなく枕元に置いて眠りについた。
その夜、鉱夫はとて変わった夢を見た。それは起きても鮮明に記憶に残り、日中もその夢の事ばかり考えていた。そして夜、再び同じ夢を見た。唯一の違いは、その夢が昨夜の続きだという事だった。鉱夫はすっかりその夢の虜になった。夜が待ち遠しくなり、日中は上の空で過ごした。
次第に周りの者達がその異変に気が付き始めた。作業に支障をきたすと他の鉱夫から苦情も上がり、鉱夫頭はその鉱夫を呼び出し事情を聞いた。
数日後、鉱夫頭を始めその班の鉱員達は皆それぞれ上の空で日中を過ごすようになった。
やがてある噂が街中で囁かれるようになる。"黒の石片を枕元に置いて寝ると、見たことも聞いたこともない世界に行けるらしい"と。
倉庫に雑然と置かれていた石片は、日を追うごとに数を減らした。並行して、無気力に過ごす街の住人達は増え続けた。
「具体的に、どんな夢を見る事が出来たのか、今となってはもう分からないけどね。ある日を境に、一斉に全ての石片が磁力を失い、夢を見る事も出来なくなったみたいでね」アイラはそこでお茶のお代わりを私達に淹れた。
「この街は、その頃からおかしな方向に進み始めたの。丁度、鉱山から採れる鉱物にも限りが見え始めてね……」
街の人々は、必要がない時間を寝て過ごすようになった。隣人との交流も無くなり、家族が顔を合わす機会も殆ど無くなった。皆が石片の見せる世界に夢中になったのだ。無気力に仕事をこなし、夢の世界に喜怒哀楽を見出した。
世代は変わり、街には更にある変化が起きた。人との交流が減った事、鉱山の仕事に限りが見え始めた事、一人夢の世界に浸る事で全てが満たされる事。何が理由かは分からないが、若者達が一斉に結婚をしなくなった。当然の帰結として、子供が産まれなくなった。
そして時は移り、最後の世代が現れる。街の人口は最盛期の一割を切る程になった。相変わらず人々は夢の世界に浸り、数を減らした隣人の顔さえ知らない生活を送っていた。そんなある日、そのような街の現状に異を唱える者が現れた。"石片を全て葬り去り、昔のような生活に戻るべきだ"と。婚姻をし、子を儲け、隣人と手を取り合い生きていくべきだと言った若者は、生まれた時から石片の見せる世界に浸っていた人々には異端に移った。その若者に対抗するように、ある若者は"自身の生き方は他者に指図されるべきではない"と言い放った。
人口の減った狭い街で、隣人の顔もろくに知らない人々の意見は極端な形で割れる事となる。そして、次のいずれかの選択で住民投票が行われた。
・街の石片を全て破棄し、子を授かる事を第一とする生活に戻る
・婚姻、出産を禁じ、他者に干渉する事を厳禁とし、自身の生活の充実を第一とする
結果は、後者が大多数の支持を集めて終わった。もう遅すぎたのだ。
こうして、自らを最後の世代と決めた街の住人達は、各々の生活を送る事となる。大半は石片の世界に入り浸る訳だが、もはや日常生活を放棄する者も少なく無かった。働く事を辞め、家から出ない者は珍しくなくなった。しかし、そんな中でも勤勉に作物を作る者、僅かに残った子供達に勉強を教える者、病気に罹った者を診て回る者もいた。こうして、穏やかにラザンは終わりの時を迎える事となる。
「これが、この街のお話し」竈の中で薪がパチンと乾いた音を立てる。アイラはお茶のお代わりを聞いてきたが、私達は遠慮させて貰った。
「さて、まだ起きていられるかしら?ここからは、私の話しになるわ……」
街が機能を失った時に多少の治安悪化はあったが、その後は大きな混乱もない日々が過ぎる。街を巡回する者が定期的に異臭を感じ、一人部屋で亡くなっている街人を発見する事も多かった。遺体は街外れのもう何年も前に閉められた遊園地、その更に向こうにある墓地に埋葬された。
もう街に子供はいなくなっていた。一番若い世代となる三十代のある男は、ある日恋をした。その頃になると、石片の世界に浸る者も少なくなっていた。街の外れで妹と羊を育てるその男は、その日、市街地に羊乳を卸に来ていた。その帰り、突然激しい腹痛に襲われた。市街地と言っても通りを歩く人はいない。街庁舎の近くで最後の医療を提供する女性の下に、何とか文字通り這いつくばって辿り着いた。最後の医者がいる。その噂は以前から耳にしていたが、直接会うのは初めてだった。それは一目惚れだった。あんなに激しかった痛みも、一瞬忘れてしまった。
その後、痛み止めを処方され、そのまま意識は遠のいた。翌朝、目を覚ましたのは診療所のベットだった。自分が何をしていたのか、形を成さない記憶を掴もうとしていると、その女性は再び現れた。
「目が覚めたのね。気分はどう?」自分の顔を覗き込む目は心から心配しているようで、そして綺麗だった。
こうして、彼女との時間は始まった。経過観察として、その後、定期的に診療所を訪れた。男はいつも、羊乳と羊肉を持参した。診療所を訪れる頻度は次第に増えていった。互いに、良き話し相手が欲しかったのだ。
二人で並んで街中を歩く事も自然と多くなった。そして、二人は愛し合うようになった。
それはいつもと変わらない人気のない市街地を歩いている時だった。その時には手を繋いで歩くのが当たり前の事になっていた。先に気が付いたのは彼女の方だった。誰かに見られていると。"そのまま動かないで"彼女はそう言った。男も立ち止まり、周囲を目だけで見回した。意識しなければ気が付かなかったが、もう誰も住んでいないと思っていた幾つもの建物の窓に、こちらを見つめる薄暗い目が浮かんでいた。
「まだこんなに住んでいる人がいたんだ……」思わず言葉にしていた。彼女に促され、足早に診療所へと戻った。
診療所に戻ると、窓が割れていた。床にはレンガが落ちていた。その時、二人は交わす言葉を持っていなかった。二人の関係は、街の住人に知られていた。それも、恐らく良くない形で。忘れていたのだ。この街に自分たち以外の人間がいることを。
そしてその夜、彼女から妊娠している可能性があると告げられた。男は動揺した。この街では子を授かる事は禁じられている。自分はどうしたら良いのだろうか。男は時間をくれといい、両親に会いに行った。
両親はこの山の空が見える場所で、今日も仲良く眠っていた。男は墓石に話しかける。愛する人に出会った事。そして、その人との間に子供が出来たかもしれない事を。気が付くと、カラスが墓石にとまっていた。その数は、丘に並ぶ墓石以上に多かった。そして、一斉に鳴き始まる。耳をつんざくような鳴き声で視界は暗くなる。そして、鳴き声は突然止んだ。気が付くと、丘の先端に階段があった。一段、一段、降りていく。丘の下を下り行くと、ぽっかりと空いた岩場があった。
「ここなら誰にも見つからずに子供を産めるかもしれない……」
そこまで話すと、アイラは私達にもお茶のお代わりを淹れた。
「ここまでが、父の手記に残されていた事。この後、父は丘の上から足を滑らせて、首の骨が折れた状態で見つかったの。数日前から雨が降り続いていて、恐らく父は廃墟遊園地の辺りから足を滑らせて落下したんだろうというのが当時の見立てだったみたい」
「アイラさんは、今の話しに出て来た子供なんですか?」
「言っただろう? 私の話しだって。だから、私はこの街の最後の住人なんだよ。でもね、父の手記は後になって見つけたんだけど、いまいち幼い頃の記憶が無くてね。墓石のある丘を探してみたけど、そんな階段は無かったしね。母さんの事は、何一つ覚えていないんだよ」そして、アイラはお茶を一口飲むと、何処か遠くを見るような目をした。再び竈の薪がパチンと鳴った。
「ぼんやりと覚えているのは、とても大きな人の影だけ。それは壁みたいだった。その人と、一緒に過ごしたような記憶が微かにあるんだけど……でも、私の記憶がはっきりと残っているのは、おばさんの家で過ごした日々からなのよ」
家の扉をトントンと叩く音がして、その女性はエプロンで手を拭きながら玄関へと向かった。夕暮れ時で、夕飯の準備をしていたのだ。来客など珍しいので、訝しむ表情を崩さず、扉越しに声を掛けた。
「どなたですか?」しかし、返事がない。益々、怪しい。物騒な事件も最近は減ったが、街が機能を失い始めた一時期は、強盗事件も頻繁に起きていた。
窓の鍵は閉めてあったかしらと考えていた時だ。
「……スミマセン」それはか細い子供の声だった。扉の向こう側に子供がいる。その女性は鍵を外すと、ゆっくりと扉を開けた。そこにいたのは、四、五歳ぐらいの女の子だった。
「あなた、どこから来たの?」それがテルサとの出合いだった。
私は自分の名前以外の記憶が無かった。誰かと一緒に居たようだが、それが何処だったのか、誰と居たのかは分からない。テルサは私を人目につかないように育てた。人に見られたら何をされるか分からない。家から出ないよう厳しく言いつけた。その代わり、今まで誰にも向けることの無かった愛情という湧き上がる高まりを、全身を持って注いだ。
月日は流れる。私は十八歳になった。髪がすっかり白くなったテルサは、その年の秋の終わりに病床に臥した。この街には医者はいない。六十歳を迎える事が出来る人間は稀だった。テルサの容態は見る見る悪化した。冬の訪れが本格的になり、吐く息が白くなったある日、テルサはアイラに話しておかなくてはいけない事があると告げた。それは、私が自分の実の子では無い事、そして、私が現れてから自分が如何に幸福な時を過ごす事が出来たかという事だった。テルサの墓は私が丘の一番上に掘った。墓石は無い。その代わりにテルサが好きだった柊の木を庭から移した。
一人になった私は、街中を探索した。テルサの話しだと、もう殆ど人は残っていないという。最後の世代も五十代後半のはずだと。
ある日、市街地を探索していると生きている人に出会った。私は生まれて初めて男の人を見た。その痩せ細ってボロボロの服を纏った男性は、私を見てとても驚いたが、困っていることはないかと聞いて来た。特に困っていることは無いと答え、その場を去ろうとした。男の目が不気味だったのだ。背を向け歩き出した矢先、男が背中に飛びついて来た。そのまま地面に倒される。煉瓦の地面は冷たかった。恐怖で目を瞑り、身体を全力で丸めようとする。しかし、男はその細い腕で強引に身体を押し開こうとする。抵抗虚しく男の顔が目の前に来る。例えようの無い匂いに顔を背ける。これが男性の力なのかと絶望的になった。その時、ベタベタベタという音が聞こえた気がした。そして、身体を押さえつけていた力が消えた。ゆっくりと目を開けると、男は消えていた。安堵と共に、何故か微かに懐かしい気持ちになった。
それからは街を歩く時は木の棒を持ち歩くようにした。何も無いよりはマシだ。住居はその殆どが人の手を離れてからかなりの年月が経っていた。そして、部屋に取り残された遺体が思いの外に多い事に驚いた。白骨化している物も珍しくなかった。どうせやるべき事も無い。墓を掘る日々が始まった。
食事はテルサと暮らしていた頃から自給自足だった。裏庭の畑から野菜を採り、季節の果実を味わった。
それから数年をかけ、街の殆どの家に足を踏み入れた。その中で、父と思われる人物の家を見つけた。そこには年老いた女性が一人住んでいた。その女性は二十年近く前に亡くなった兄が、ある女性と恋に落ちていたのだと語った。そして、その兄の手記を見せてくれた。
"自分の子供の名前を考える事になるとは夢にも思わなかった。何と素晴らしい時間だろう。娘ならアイラが良い。愛に溢れた美しい響きだ。彼女も賛成してくれた"最後のページにはそう書かれていた。父の最後についてもその女性から聞いた。私は生まれて初めて肉親に出会った。そして、手記は母についても触れていた。市街地で診療所を開いていたようだ。一度その場所に行ってみた。医療品目的なのだろう、室内は荒らされ、何も残っていなかった。
それからは叔母と羊達との生活が始まった。
「叔母は元気な人でね。八年前に亡くなったんだけど、死ぬ直前まで羊の世話をしていてね。年は八十を越えていたんじゃないかな。まあ、口の悪い人だったよ」
「あの……私達、アイラさんのお母さんがいる場所、知っているかもしれません」
アイラは口元に持っていったカップに口をつけづに私の顔を見つめる。私は真っ直ぐな目でそれに応える。
「それは、どういうことだい?」
「私達は今日、あの墓地の丘の先端で丘を下る階段を下りました。アイラさんをそこにご案内する事が出来ます」
「……信じられないね。私も相当探したんだよ、その階段を」
「はい。確かに見つけるのは難しい階段でした。でも、明日もしご一緒頂けたら一緒に下りることが出来ます。お願いですから、一緒に行きましょう」
「……うん。別に疑っている訳じゃ無いんだけどね、急な事で少し驚いちまって。でも、分かったよ。明日、連れて行っておくれ」アイラはカップをテーブルに置くと、上着を手に取った。
「遅くまで付き合わせて悪かったね。もう寝た方が良いね。明日はよろしくね。私は少し夜風に当たって来るよ」そう言うとアイラは扉の外へ出て行った。
「あそこに行くのは、少し辛いかもしれないね。でも、行くべきだと思う」クラの瞳は少し萎んでいた。決して眠いだけではないだろう。そして一つ大きなクシャミをした。
「鼻詰まった」クラは鼻声だった。
「風邪ひいたんじゃない?! 今日はアイラさんの言った通りもう寝よう」ベットの中で抱きしめたクラはとても温かく、私もすぐに眠りに落ちた。
翌朝、日の出と共にアイラは私達を起こした。朝食は既に用意されていた。温めた羊乳に蜂蜜を溶かした飲物。小麦を羊乳で溶かし焼いた固めのパン。それを浸す羊肉の脂身とカリフローレのスープ。私達は一気に目が覚めた。
「疲れているのに早起きさせて悪いね。でも、せっかく丘に行くのなら早朝が良いと思ってね。食べたら、さっそく出発しよう」私とクラは返事もせずに朝食を口に運んだ。
早朝のラザンは昨日と同様、やはり薄暗かった。
「この街は、基本いつもこんな空なんだよ……昔はもう少しマシだったみたいだけど、いつからか黒い煙が降ってくるようになったって叔母が言っていたよ」
「そういえば、アイラさんは昨日なんで街庁舎に居たんですか? 私達、そこでアイラさんを見かけたんです」
「あぁ。あそこから付いて来てたんだね。なんせ私は暇なもんでね。庁舎にはこの街の資料なんかもまだ残っていてね。たまにそれを見に行ったりするんだよ。ま、それであんた達に会えたんだから、街の歴史にも感謝しないとね」アイラは面白くもなさそうに笑った。この人の孤独はどれくらいなのだろう。私は不意にそれに思いが至った。一人、無人の街で寝起きし、遺体を見つけては墓を掘り続けた人生。やっと出会った、たった一人の肉親を見送り、羊と共に過ごす日々。そして、これから母親の最後を見ることになる。自分ばかりが辛い思いをしていると何処かで思っていた。見上げる空はどこまでも薄暗い。廃墟の遊園地が見えてきた。
「ほら、もうすぐだよ!」アイラの声は明るかった。私は顔を上げた。廃墟の遊園地には光が差していた。回転木馬は朝陽に照らされ、金色に輝いていた。先を行くアイラは駆け出していた。足を止め、唖然としているとクラが私を追い越しアイラを追った。私も急いで走り出す。
そこに広がっていたのは、太陽の光を横から受け白く輝く丘だった。見渡す限り並ぶ墓石は、灰色に輝き生き生きとしていた。アイラは丘の中腹にある墓石の前で笑っていた。
「ムギ、クラ。紹介するよ。これが私のお父さん。それと、口の悪い叔母ね!」陽の光を浴びた笑顔は眩しく、無垢だった。その瞬間、アイラはまるで少女のように見えた。
「それと、あっち。ついて来て!」アイラは丘を軽々と駆け上がる。
「これがテルサおばさん」そこには大きな柊の木が朝陽を受け瑞々しく輝いていた。
「――さて。紹介は終わったから、例の階段に案内してもらおうか」息を切らしながらアイラは言った。
私達は最も古い墓石が並ぶ丘の突端に来た。
「では、始めます。何が起きても、驚かないで下さいね」アイラの目を見て言う。アイラは黙って頷いた。
――目を閉じ、呼吸に集中する
眉間に熱を感じる方角に、息を吐くと同時に熱を送り出す。
「"ココロ"より生まれし階段よ、姿を現せ――」
眩しいほどに明るかった空が、一瞬で闇に包まれた。静寂。暗闇の中の静寂が永遠と思われる程に続く。そして光の波と共にか風の音が戻る。そして、それはそこにあった。崖の突端からその下へと続く平らな石片。その墓石達は、崖に沿って丘の下、奥へ奥へと伸びていた。
「これが、階段です」
「こりゃ、驚いた……」
「行きましょう。アイラさんのお母さんが待っています」
「そうだね」アイラは硬い表情で応えた。
「失礼します」私は一言掛けてから足を踏み出す。私を先頭にアイラ、クラと続く。薄暗い丘の下を下って行く。そして岩場に辿り着いた。
「ここが、この階段の繋いでくれた場所です」
「うん……」アイラはゆっくりと足を踏み出す。そして、岩場に入った。岩肌の影の一つをも見落とさないように細部にまで視線を送る。
「ダメだね。何も覚えがないよ」アイラは首を横に振った。幼少の記憶は私でも殆ど無い。ここでの出来事を思い出すのは難しいかもしれない。アイラは左側の岩壁を手で撫でながらゆっくりと歩く。そして岩場の左角に来ると立ち止まった。天井を見上げる。そして膝を折り屈んだ姿勢になった。
「私はここで寝ていた……」アイラは独り言のように呟いた。私達は黙って見守る。
「そう、ここで寝ていたの。毛布に包まって。いつも灰色の雲が広がっていた。……いつもあの人が、食べ物を持ってきてくれた。丘の上から天井を這って、食べ物や衣服を待ってきてくれたの」アイラは屈んだまま、ここでは無い何処か遠くを見ていた。
「あの大きな人は、私に言葉も教えてくれた……そう、私はここで暮らしていたのよ」そう言うとアイラは立ち上がり、こちらを見た。影に半分隠れたその顔は、とても穏やかで寂しげだった。
「アイラさん。反対側の壁に、お母さんがいます」アイラは黙って頷くと歩き始めた。ここからはそこにある二つ並んだ岩の向こう側は見えない。アイラは立ち止まり、その岩と壁の間に目を落とす。乾いた風が、冬の鳩の鳴き声のように吹き込んだ。次の瞬間、アイラは泣き崩れた。岩場に押し殺した嗚咽が静かに響いた。
丘の斜面は昨日と同じように薄暗かった。灰色の空には鳥の影も無い。アイラは母親の遺骨を父親の墓に埋葬した。
「……やっと、一緒になれたよ」アイラは両親の眠る場所に花を添える。
「お母さん、お父さんは最後までお母さんの事を大切に想っていたよ。だから、安心して眠ってね。私も色んな人に助けられて、ここまで大きくなったよ……」言葉に出来る事、言葉にならない事、長い年月叶わなかった会話をしているのだろう。私とクラは少し離れた所からその光景を静かに見ていた。
「色々と世話になったね」アイラは私達の方へ歩いて来た。
「こちらこそ、お世話になりました」クラも黒目で感謝を伝える。
「これで、最後の埋葬が終わったんですね」長年、この街の人々を見送ってきた。しかしもう、この街には埋葬すべき人はいない。だが、アイラは笑顔で首を横に振る。
「まだ、ここに一人いるよ」
「この先も、この街に残るんですか?」
「今更、他の街に行って何をすれば良いんだい? 私の全てがこの街にはある。そして、私がいずれ死ねば、この街も終わる。最後まで、この街に付き合うつもりだよ」街というものは、人がいて初めて街たり得る。街の最後の住人と街は、運命共同体のようなものだ。最後の時は一人では無い。それは、とても優しい事だった。アイラは孤独では無いのだ。この丘には親しい人達が眠っている。気が向けば街の記憶に触れて過ごす事も出来る。そして、この街とアイラは共にいるのだ。
「では、私達は行こうと思います。美味しい食事、ありがとうございました」黒目も頷く。
「おちびちゃんは風邪ひいているみたいだけど大丈夫かい? うちは何泊しても構わないよ?」クラを振り向くと、黒目が心配無用と力強く戦慄いていた。
「ありがとうございます。でも、妹も大丈夫と言っているので、このまま行こうと思います」
「そうかい。気をつけてね。この上の街に行くのかい?」
「はい、そのつもりです」
「話にも出てきたけど、上の街は昔この街とも取引があったんだ。かなり大きな街らしいよ。元々は五つの別々の街だったみたいだけど、何十年も前に一つにまとまったって話しでね。この山では珍しい話しだよ。しかも、そこの住人達は自分達の街を"国"って呼んでいるらしいよ」
「国、ですか……」かなり大きな街のようだ。暮らす人間の数も、今までの街の比ではないのだろう。人が増えれば、その分だけ想いも増える。それが如何なるものであろうと。
「じゃあ、元気でね。……私も、欲を言えば誰かを愛してみたかったな。そして、あんた達みたいな子供の親にもなってみたかったよ。楽しい時間をありがとうね!」
「はい! 私達もアイラさんに会えて良かったです。では、さようなら!」私達は再び墓石の階段を目指す。岩場に行き、そこから上の街まで階段に連れて行って貰うつもりだ。階段を下りる前に丘の方を振り返ると、遠くでアイラが手を振っていた。私達も手を振り返す。
「私達はいつも、さようならなんだよね……」クラの黒目が心配そうに見上げる。
「さて、行こうか」私は墓石に足を下ろす。後ろにいたクラが大きくクシャミをした。
「ちょっと、大丈夫? 無理しなくても良いんだよ?」
「クシャミだけだから大丈夫。でも匂いしない」凄い鼻声だった。
「なら良いけど。しんどかったら無理せず言ってね」黒目が素直に頷く。
「ところで、アイラさんが言っていた幼少期を一緒に過ごした相手って、あの黒い奴なのかな? 話しを聞く限りだとそうなんだよね。只、アイツが言葉を話したり子供の面倒をみるって言うのは理解出来ないけど」岩場に辿り着いた。
「さて、これでここに来る人もいよいよ居なくなったね。この階段も、忘れ去られた階段になるね……。最後に、上に連れて行って貰おう」墓石の階段から離れ、岩場の左奥へ移動する。相変わらず灰色の空が一面に広がっている。風がゴウっと吹き込んだ。顔を背ける。その時、天井で何かが動いた。それは天井を両手で掴んだまま黒い脚をゆっくりと地面に降ろしてきた。
「クラっ……」私は妹が自分の背中に隠れるよう右腕で引き寄せた。その黒の化物は岩場の中央に降り立つと、口だけしかない顔でこちらを見つめてきた。私は後退る。だが、背後は崖だ。岩の階段を化物にぶつけ、その隙に別の階段を出し上に逃げる事は可能だろうか。今の私の力なら出来るかもしれない。背後にいるクラの体を引き寄せる。
「マッテイタ……ヒトノコトバハヒサシブリダ。ナレルノニジカンガイル」黒の化物は言葉を話した。
「クラ、合図したら全力で上に走ってね」化物の顔を見たまま言うと、クラが声を出して頷いた。
「マテ、イカナイデクレ。ハナシガアル……」
化物の足元を見つめたまま意識を集中する。その時、背後に異様な気配がした。振り向くと、漆黒の大蛇が大きな口を開けていた。その顔には目も鼻も無い。そして一瞬の内にクラをその口に咥えると、グネグネと岩壁を凄まじい速さで斜めに這って降りて行く。唖然とした黒い瞳が見る見る遠ざかり、闇に消えた。
「――シマッタ」岩場にいた黒の化物は崖を飛び降りると、岩壁を跳躍し大蛇を追って闇に消えた。
「サクラぁっ――――!!!!」私の叫びは灰色の空の中に消えた。
——忘却の階段——