5.湖音の階段~弐
2.クラ
うなぎの匂いを追っていたら、音楽が聴こえて来た。かなりの楽器の数だ。通りに溢れる人を掻き分けると、湖を背にして様々な楽器を手にした人々が演奏をしていた。この世界の楽団なのだろう。見たことのない楽器ばかりだ。見た目から管楽器、弦楽器、打楽器だと思われる。丁度、演奏が終わったところだった。
「皆んな、配置の確認はオッケーか? 本番もよろしくな!」リーダーらしき男性が団員達に声をかける。どうやらリハーサルをしていたようだ。
「おいおい、何だよ今の演奏は? こんなんで本番やるつもりか? この後、戻って練習やるぞ! 出番まで、みっちりやるからな!」銀髪の痩せた男が叫ぶ。
「えー、まだやるのー? お祭りなんだから屋台まわりしたいのに!」近くにいた大きな管楽器を持った子が嘆く。
「しーっ! ユラさんに聞こえるよ」弦楽器を持った子が嗜める。
「だってー」
「ま、何回やっても変わらないと思うけどね」別の弦楽器を持った子が楽器をケースにしまいながら独り言ちる。
あまり良い雰囲気とは言えない。ちょっと聴いた感じだと、全体的にリズムの取り方がバラバラだった。各々が楽器を片付け、移動を始めた。場所を変えて練習するようだ。
”もっと聴いてみたいな”後をついて行くことにした。
屋台通りを折れ、坂を上り斜面を行く。住居だろう。見渡す限り三角屋根の家が隙間なく並んでいる。少し行くと先程と別の湖が見えて来た。湖の周囲に広々とした邸宅がぐるりと囲むように並んでいる。一軒一軒形が異なる。平な屋根を互い違いに幾つも重ねた家、大きな三角屋根に風車をつけた家もある。楽器を持った面々は、湖に面する大きな白石造りの建物まで来ると、正面入り口には向かわず建物の右端にある階段を降りて行った。少し前を先程の三人の女の子達が歩いている。会話が途切れる様子はない。皆んな私と同じぐらいの身長だ。背負った楽器ケースが大きく見える。
階段を降りると細い廊下が続いていた。オイルランプが白い壁を薄暗く照らす。何だかカビ臭い。突き当たりまで来ると左へ直角に曲がり、更に下へと階段が続いていた。壁は剝き出しの土に変わり、行く先からはガヤガヤと喧騒が上ってくる。最後の一段を降りる。喧騒が一気に大きくなる。そして薄暗い階段に慣れた目はその光景に目を細めた。
そこはおよそ地下だとは思えない程の広大な空間だった。眼下には町と呼んでもよい光景が広がっている。雑然と敷物を並べ商いをする商人達。値引き交渉なのか大声でその商人と唾を飛ばしあう人々。その隙間を籠を担いで走り回る物売り達。空間の壁には無数の穴が並んでいる。それを幾つもの階段が器用に繋げていた。地上とは丸で異なる空間がそこにはあった。
楽団員たちは中階段を抜けこの街の地上へと降りていった。どうやらここに練習場所があるようだ。後を追う。最下部につき壁沿いに進む。程なくして洞窟のような穴の先にある部屋に入っていった。分厚い木の扉が部屋の内側へ開け放たれている。そこで団員達は、各々の楽器を取り出し準備をしていた。しばらくその様子を眺めていた。元の世界と似ているようで異なる楽器達だ。
「入団希望かな?」先程のリーダーらしき男が後ろに立っていた。かなり身長が高い。顔が天井に近く良く見えない。筋肉で服が張ち切れそうだ。屈んで目線を私に合わせる。黒い髪を後ろに一つで束ねている。笑うと顔が皺くちゃだ。優しそうな人だ。
「良かったら見学して行ってよ! うちは誰でもいつでも大歓迎な楽団だから」私は黒目で頷いた。
フーパサル音楽団。それがこの音楽団の名前だった。この街は中央の湖を中心に五つの湖がある。各湖には各々音楽団が組織されており、祝祭の時に演奏を披露する習わしがあるそうだ。私は団員達に入団希望の見学者だと紹介された。リーダーのような人はオーリと名乗った。この楽団のバンマスで、楽団全般の取りまとめをしているらしい。銀髪の人の名はユラ。コンマスだと言った。音楽面のまとめ役だと言う。オーリとは対照的に線が細く神経質そうだ。
簡単な挨拶が終わり、部屋の隅にある古びた椅子の一つに座った。それぞれが音を出し楽器の調子を確認している。部屋の中は楽器の音で埋め尽くされた。ユラは小さなバイオリンのような楽器を弾く。高音が良く伸びる。上手い人だ。三人の女の子達も真剣な眼差しで自らの楽器の調子を確かめている。
「では、始めようか!」ユラが大声で言う。部屋の中に静寂が訪れた。
「よし。では本番と同じ流れでやってみよう」ユラは言うと、弦を奏で始めた。物悲しく美しいメロディだ。そのメロディが静かに終わると、突然オーリが打楽器を叩き始めた。木の筒に動物の皮を貼った太鼓のようだ。大きさな異なるものが幾つも並んでいる。太いバチを叩きつける。野生的な激しいリズムだ。そこへユラの音が乗る。細かいフレーズを流れるように奏で上げる。体が自然に揺れ動く。そして一瞬の静寂。真空がその場を支配する。次の瞬間、全ての楽器の音が同時に発せられた。それは音の洪水だった。打楽器、弦楽器、管楽器。全てが各々の音を響かせる。室内が混沌に飲み込まれた。
「あーあ。ぐちゃぐちゃ」独り言も騒音に掻き消された。
休憩時間になった。他の楽曲もバラバラな演奏だった。音が重なる程それは顕著になる。
「もったいないな。リズムだよね……」
一人椅子に座っていると、先程の三人の女の子達が話しかけて来た。
「どうだった? 私はビッサ。よろしくね! ウルメース担当だよ」そう言うとテナーサックスのような楽器を掲げた。
「私はブッサ。カルン担当ね! クラちゃんて、リスみたいで可愛い」手にした楽器はバイオリンに似ている。
「それと私はベッサ。このメルカルン担当」大きい。チェロのような楽器だ。
「ねえ、演奏どうだった?」ビッサと言った子は感想をどうしても聞きたいらしい。
「うーん。なんか、ちょっとバラバラかな」控え目に言う。
「だよね! この楽団、団員の大半が入れ替わってさ。今回が今の団員で初めての人前での演奏なんだ!」何故か嬉しそうに言ったのはブッサだった。
「合わせる気のない奴と一緒にやっても、永遠に合うわけないじゃんそりゃ」ベッサが淡々と言う。
「やっぱり、バラバラな演奏だよね……何とかならないかな?」ビッサが言った。
「無理でしょそりゃ。本番まで時間もないし」ブッサが明るく言う。
「せいぜい、人前で恥を書きましょうよ」ベッサはまたも淡々としている。
「えー、やだよー。どうせやるなら一番になりたいし……」ビッサが嘆く。
「おいっ! 何回言えばわかるんだよ! 俺の音にしっかり合わせろって言ってんだろ! ったく、休憩後にまたやるからな! 今度こそ俺の音に合わせろよ!」そう言うとユラは部屋を出て行った。
「はーあ。まただよ。あんな言われ方するとやる気無くしちゃうよね……」
「上手いのは分かるけど、もっと言い方はあると思う!」
「何だかねぇ……」
皆んなうんざりしている。確かにこれでは何回やっても一緒だろう。
休憩が終わり、再び音合わせが始まった。ユラは皆んなを無言で睨みつけている。酷い雰囲気だ。
「よし! これが最後になると思うから、皆んなよろしくな!」オーリが皺くちゃの顔で言う。しかし、団員達の表情は味のないガムを噛んでいるようにパッとしない。
ユラが弦を奏でる。やはり音は綺麗だ。オーリの打楽器と音が重なる。この後だ。一瞬の静寂の後、また音の洪水が始まった。ビッサ達も必死に吹いているが演奏はバラバラだ。
"ワンツースリーフォー、ワンツースリーフォー……"
演奏に合わせてリズムを数えてみるが、輪郭が無く流されてしまう。みんな、細かい音を追いかけ過ぎている。リズムに軸がない。こんな場合は確か……
あれは昔、父の膝の上でYouTubeを見ている時だった。テレビに映っていたのは古いLiveの映像だった。ギラついた目をした派手なスーツを着た男が、ステージの中央でクネクネしながら歌っていた。眉毛が海苔を貼り付けたみたいだった。それは歌というには余りにも強烈な叫びだった。バックの演奏にはかなりの人数がいた。何故かドラムセットも二つあった。しかし、その演奏も歌も、強烈にまとまっていた。何だかチャカチャカした曲だったが、音が一つの塊のようになり熱を発していた。
「誰これ?」私は聞いた。
「これは、ファンクの帝王だよ。もう死んじゃったけどね……。この先、こういう人はもう出てこないんだろうなぁ」お父さんは少し寂しそうに言った。
「このリズム、凄いだろ? バチッと合っていて強力で。でも、今ではその秘密も解明されているんだ」
そして、その後何て言ったんだっけ?
おもむろに立ち上がると、部屋の中心まで歩いた。演奏の邪魔にならないよう隙間のある所を縫うように進む。幾人かの団員が演奏をしながら不思議そうな目を向ける。後ろにオーリ、目の前にユラのいる場所まで来た。背中に打楽器の音がビリビリと振動となってぶつかる。悪くない。リズムの要は打楽器だ。
"ワンツースリーフォー、ワンツースリーフォー"
オーリの音に合わせてカウントする。やがて打楽器の音と体がシンクロし始めた。そして……
"ワンツースリーフォ、ーワンツースリー……"
「ワンッ!!!!」
叫ぶと同時に全力で床に右足を踏み下ろす。
騒音の中でもそのドーンという音がはっきりと響き渡った。振動で天井のランプが揺れる。土壁に光が波打つ。パラパラと砂埃が天井から舞う。何人かの団員の手が止まる。それでも辛うじて演奏は続いている。
"ワンツースリーフォー、ワンツースリー……"
「ワンッ!!!!」再び部屋が揺れる。オーリがバチを持った左手を図上で回し演奏を続けるよう合図する。
"ワンツースリーフォー、ワンツースリー……"
「ワンッ!!!!」振動が響く。ユラが怪訝な顔を向ける。
無視してその後も"ワン"のタイミングで足を踏み続ける。
最初に変化に気がついたのはユラだった。その突き放すように尖った音が、他の音に自然に乗り始める。他の団員達もその変化を感覚で感じ始めた。バラバラだった音の群れが、一つの塊へと姿を変え始める。演奏している者は自然と笑みが浮かぶ。演奏はクライマックスを迎える。音圧が上がる。そして、高く高く上へとメロディーが上り詰め最高潮でエンディングを迎えた……
演奏が終わった。口を開く者はいない。無言で互いの顔を見合っている。
「おい……。一体どういう魔法なんだ、今のは?」ユラが目を見開き詰め寄る。
「”ワン”の力です」説明した。しかし、団員達は困った顔をしている。
「なんだ? その”ワン”てのは?」ユラも困惑している。
「細かい音は意識しないで、一拍目に集中する」
「なんだそれは……? でも、それをするとあの演奏になるのか?!」
「はい。ファンクの帝王の言葉です」
「良くわからないが、君! 是非、うちの楽団に入ってくれ! 君の様な音楽に造詣の深い人間を初めてみたよ!」ユラは興奮している。何だかやり難い。
「あの、私、お姉ちゃんとお父さんのこと探していて、この街にもゆっくり出来ないんです…………あっ!!」ユラが残念そうな悲しい顔した気がしたが、私は部屋を飛び出していた。
”お姉ちゃん……”心配しているはずだ。すっかり忘れていた。でも、匂いで近くにいるのは分かる。大丈夫だ。そして地下空間を疾走し始めた。
地下街は通路に入るとまるで迷路のようだった。規則性のない通路は方向感覚を失う。曲がりくねる一本道の後に突然の三叉路。通路の脇には下り階段や扉も並ぶ。ここに住んでいる人達は迷子にならないのだろうか? 匂いだけを頼りに走る。道端で寝ている人も多い。今まで見てきた街とは随分と様子が違う。
お姉ちゃんの匂いは遠くない。しかし、近づこうとしても通路が曲がりくねり、遠ざかる。階段を下り、上り坂を駆け抜け、左の方に匂いを感じるのに右にしか行けない通路を抜ける。
気がついたら最初の広場に戻っていた。
「お姉ちゃん……」転んで怪我してないかな。変な人達に攫われてないかな。
どうしよう。黒目が少し萎んだ。そしてお腹が鳴った。
「そう言えば、朝から何も食べてないな」
見渡すと地下街の広場には食べ物を売る出店もチラホラある。一番近くにある店は、何かの肉を細長いパンで挟んだものを売っていた。
「これ、何ですか?」
「お姉ちゃん、他所から来たのかい? 珍しい格好してんね。これはね、クダムシのサンドだよ。この街の名物だよ」
「クダムシ?」
「そう、地下でも簡単に手に入る食材だからね。うちのはタレを濃いめにしてあるから旨いよ!」
「三個ください」
包みをもらい、その場で頬張る。"美味しい!"お姉ちゃんにも食べさせてあげたい。クダムシの肉は齧ると中からトロッとミルクのようなものが溢れ出た。ほんのり甘く旨味が濃厚だ。それに甘辛いタレが絡む。紫のレタスのようなものがシャクシャクとアクセントになる。長いパンはパサついて硬い。しかし具材、タレと馴染むと口の中で調和が取れる。
あっという間に全てを食べてしまった。
「大した食べっぷりだねお嬢ちゃん」店主は嬉しそうだ。私も三日月黒目で答える。
「あと、持ち帰りに二つください」
「あいよ!」
店主が品物を包み始める。店の裏手は壁だった。見上げると穴と赤石の階段が並んでいる。建物で言うと三階程の高さにある穴だった。その中からこちらをじっと見つめる者がいた。その穴には鉄格子があり、中の者はボロを纏い薄汚れている。
「お待たせ!」店主が品物を渡しに出てきた。私の視線を追う。
「ん? またアイツ物欲しそうにこっちを見やがって……。おいっ! お前に食わすサンドはないぞ! クダムシ食べたけりゃ檻の中の壁にもいるだろう!」
「あの人は何しているんですか?」
「ああ、あれは穴掘りしたんだよ」
「穴掘り?」
「そう、穴掘り。勝手に壁に穴あけて自分の部屋を作ろうとしたんだよ。この地下街では、無許可で穴を掘ることは厳禁なんだ。均衡が崩れて街自体が埋まっちまうかもしれないし、万が一湖の横腹に穴を開けちまったら街は水没しちゃうからな。穴掘りは殺しと同じぐらい重い罪なんだよ。アイツは見せしめにあそこに閉じ込められているんだ」
「なるほど」穴を見上げる。牢屋の周りにはウネウネとした虫がたくさん這い回っている。見ると足元にも何匹かいた。大きめのミミズのような見た目だ。しかし薄橙色のそれは、小さな人の手の形をした細かい触手に覆われていた。あんなのに囲まれて暮らすなんて嫌だな。穴を掘るのは絶対にやめておこう。
再びお姉ちゃんを探し地下道を走る。匂いが近くなる。しかしまたも行きたい方向には壁がある。
「うーん……この向こう側にいけたらな」このままでは永遠に辿り着けそうもない。途方に暮れ、道を譲ってくれそうもない土壁を見つめる。良く見るとその土壁は、一部だけが周りと色合いが違った。触れてみる。サラサラと表面の砂が落ちると、木の板が現れた。
「扉?」
両手を使ってその周りの土を払おうとしたが土は壁にへばり付いて取れない。どうやらこの一部だけ剥がれたようだ。ゆっくりと押してみるが動かない。上から下まで見回すと、その壁の最下部か少し凹んでいた。手を入れて引っ張る。軋んだ音を立てて動いた。扉を開け足を踏み入れる。反対側の扉にはドアノブがあった。扉を閉める。そこは少しひんやりとした通路だった。所々にランプがあるのでかろうじて視界が保たれる。土壁からは水が滲み出ている。とりあえず通路は真っ直ぐに続いているようだ。進んで行くと下へと続く階段があった。闇に向かって歩き続ける。長い階段だ。気がつくとお姉ちゃんの匂いは遠くへ行ってしまった。とりあえず階段を降り続ける。そして階段は唐突に終わった。降り立ったのはまた一本道の通路だった。更に気温は下がり、冷蔵庫の中のようだ。真っすぐな穴を進む。しばらく行くと空気の流れを感じた。進むと開けた場所に出た。通路に比べると明るい。見上げると、遥か上空、地上まで吹き抜けだった。茜色の天井は、黄昏を告げる。
「なに、ここ?」
不思議な場所だ。空気が良い。やっぱり空と繋がっていると気分が良い。
「オイオイ、マイゴノコカイ?」闇が語りかける。
「誰?」闇が動く。何かが近づいてくる。現れたのは杖をついた髪の長い老人だった。曲がった腰、パサパサに乾いた白髪、白く濁った両眼。老人の足元には巨大なダンゴムシがいた。
「お姉ちゃん、見ませんでしたか?」
「残念だが、お姉ちゃんとやらは見ていないな」
「ここは何ですか?」
「わしが掘った穴じゃよ」
「何をしているんですか?」
「この街を見ておる」
「そうですか。私、お姉ちゃんを探しているので失礼します」
「まあ、そう急ぐな。今夜は歴史に残る一日になる。少し老人の話し相手になっても良かろう。お姉さんの居場所もその後で教えてやろう」
さて、どうしたものか。
3.ムギ
「おいランド! この子は関係ないだろっ?! すぐに街へ帰してあげろよ!」
「なあヒサイ、そういってもな、聞かれてしまったかもしれないんだぞ? 誰かに話されたらどうするんだ?」
「本人は何も聞いてないって言っているだろう?」
「そんなの当てになるかよ。それとも、拷問して嘘ついていないことを確認でもするか?」
「馬鹿言うな! そんなことしたらアイツ等と一緒だろう!」
「それなら、片が付くまでこの嬢ちゃんにはここに居てもらうのが一番だ。一番大切な事は何だ? ヒサイ?」
「……それは、ウタウを救い出すことだ」
「だろう? 冷静になれ」
どうやら私の扱いについて意見が割れているようだ。幾つかの質問に答えるために口枷は一旦取られたが、今はまた口を塞がれている。いったいクラと逸れてどれ位の時間が経ったのだろう? どれくらい気を失っていたのだろうか……。その時、部屋のドアが開く音がした。
「遅くなった。ん、どうした二人共? それに何だこの子は?」もう一人入ってきたようだ。
「ダウル、遅かったな。何かあったのかと心配したぞ」
「悪いな兄貴。出がけに母さんが取り乱してな」
「そうか……それは大変だったな。だが、俺達が無事に家に帰れば、母さんもこれ以上悲しむ必要はなくなる」
「そうだな。今夜で終わりにしよう。ところで、その子は何だ?」
「ああ、ちょっと厄介な事になってな。さっきタルウと最後の段取りを確認していたんだが、会話を聞かれた可能性があるんだ。本人は何も聞いてないと言っているが」
「そいつは参ったな。タルウは予定通り例の場所に先行して見張りに入ったんだな?」
「ああ、そうだ。予定に変更はない」
「問題はこの子か。もし司祭一派に情報が伝わったら作戦は失敗に終わる。やはりここに閉じ込めておくしかないな」
「だがヒサイが反対してな」
「この子は何も聞いてないって言ってるだろ? それに妹さんがこの街で迷子になったって言うし……解放してあげるべきだ!」
「とりあえず、解放するにしても今ではない。決行の時刻まで我々も息を潜めていなくてはいけないからな」二人が頷く声が聞こえた。どうやらランドという男が彼らのリーダーのようだ。
「それよりもランド。本当に大丈夫なんだな、その階段とやらは?」思わぬ言葉が遊びが飛び出した。
「この前も言っただろう、ダウル! まだ信じていないのか?!」
「悪いなヒサイ。俺だけまだ現物を拝んでいないからよ。水の中を歩いて行ける階段なんて聞いたこともねえし……」
「まあそう言うのも無理はない。俺もヒサイに連れられて実際に神殿の地下に行くまでは信じていなかったからな」
「俺が悪かった。すまんなヒサイ」
「気にしないで、ダウル。今夜は、必ずウタウを取り戻そう」
「おい! 二人とも、良い事を思いついたぞ。この子も階段の所まで連れて行こう。我々がそこから神殿に向かった後はこの子は自由になれば良い。あそこから人のいる所までは距離がある。我々が行動を起こすのに影響はないだろう」
「……なるほど。それは良いかもな。この子をここに残していっても、俺達が必ず戻って来られるとは限らないしな……」
「うん。そうしよう。僕も賛成だ。とりあえず、この子の身体を自由にしてあげよう」
その部屋は想像とは違い、まるで新婚の夫婦が住むような白を基調とした清潔感のある空間だった。薄暗く資材が雑然と置かれた倉庫のような風景を予想してい私は、一瞬そこで自分が何をしていたのか分からなくなった。
「すまなかったな、お嬢ちゃん。もう少し我慢してくれ」ランドは声のイメージとは違い小柄な男だった。横幅はあるが、つぶらな目をしているのでどこか可愛らしい。二十代後半といったところか。
「災難だったな、あんた。だが俺達にも事情があってな」ダウルはランドを縦に伸ばして少し薄くしたような印象だった。
「妹さん、見つけられると良いね」
ヒサイは他の二人とはまるで違い、声の印象通りの少年ぽさが残る人だった。
「うーん……」とりあえず手足を伸ばして頭をすっきりさせる。
「で、私は何に巻き込まれたわけ?」
この湖の街は、中央の湖に浮かぶ神殿が権力を独占する街だった。神殿は湖神を祀っている。司祭を頂点とした支配構造が出来上がっていた。
二年に一度、祝祭がある。その年に選ばれた未成年の子供が、巫女として湖神のもとに身を捧げる。そして巫女は二度と戻ることはない。四人兄弟の末っ子であるウタウは今年の巫女に選ばれた。そして長男のランド、次男のダウル、三男のタルウはその定を受け入れる事を拒否した。
「なるほど。あなた達はそのウタウという子を助けたいんですね?」
窓の無い白い空間で、私は今、三人の真剣な表情をした男達と顔を突き合わせている。
「そうだ。あんたにはもう少し我々に付き合って欲しい。湖の階段で別れた後は、好きにしてもらって良い。巻き込んで、すまない」ランドの眼差しは真摯だ。揺るがない決意を感じる。
「で、ヒサイ。あなたがウタウと近々、婚姻の儀をしてここに住む予定だったと?」
「そうだ。俺とウタウは来年成年になるんだ。子供の頃から結婚する約束をしていた。ランド達が少しずつ部屋を準備してくれていたんだ。なのに、よりによって巫女なんかに……」
「でも、ウタウさんを浚って、その後はどうするつもりなの?」
「他所の街に身を隠す。司祭一派も他所の街にまでは権力が及ばないはずだから」
「ふーん……。それで、具体的にはどうやってウタウさんを取り戻すつもりなんですか?」
「それは秘密だ。計画は陽が暮れ始め次第開始する。それまではここで待機だ」そう言うとランドはキッチンカウンターの椅子に座り目を閉じた。時間まで体力を温存したいのだろう。彼等の計画には恐らく暴力が伴う。どこの世界でも人は争い自らの正義の代償に暴力を許容する。ダウルは部屋の入り口の脇に椅子を置き、微動だにせずいる。私は監禁されているのだった。ヒサイは姿が見えない。
「クラ、大丈夫かな……」私はソファーの上で何も出来ずにいた。部屋は沈黙が支配していた。
そして突然、部屋の扉が大きな音をたて吹き飛んだ。入り口を見ると、全身真っ白な服を着た屈強な男達が部屋に雪崩れ込んでくるところだった。ダウルはその一人と組み合っている。ランドもどこからか持ち出した木の棍棒を持ち部屋の入り口を睨みつけている。侵入者は三人だった。一人が口を開く。
「お前たち兄弟の事はずっと監視していた。巫女の儀の日に何かよからぬ事をしないとも限らないからな。そして今日、コソコソと何か怪しい動きをしているじゃないか? とりあえず、連行する」
「俺たちは何もしていないぞ!」ランドが吠える。
「それは、我々が決める事だ」司祭派と呼ばれる者たちなのだろう。リーダー格の男が顎で合図をするともう一人の男がランドに向かって突進した。ランドがその背中に棍棒を叩きつけるが、そのままランドは床に倒され抑え込まれる。
「ヒサイ! 逃げろ! お前だけでも行け!」
奥の部屋から出て来ていたヒサイと目が合う。
ヒサイはランドに頷くと私の手を取り奥の部屋に駆け込んだ。
そこは寝室だった。しかし、壁の一面に大きな穴が開き土が剥き出しの空間が覗いている。
「こんな時の為に、抜け道を作っておいたんだ」ヒサイは先にその穴に入り、上を見上げ何かを確認した。
「こっちに来て。梯子があるから先に登って!」言われるままに梯子を登る。中はかなり暗い。頭上に微かな灯りが見えるだけだ。手の感触を頼りに、踏み外さないよう上を目指す。ヒサイもすぐ下を着いてくる。下の方からは物が倒れる音や叫び声が響く。リーダー格の男が現れ梯子に手を掛け登り始めた。梯子が大きく揺れる。梯子を登り切ると狭い空間に出た。続いてヒサイの上半身も現れた。が、しかし、その体が下に引っ張られる。
「クソっ! 離せっ!」リーダー格の男がヒサイの足を掴んで引き摺り落とそうとする。ヒサイは蹴って応戦するが男の力の方が強い。私は咄嗟に目を開けたままイメージをする。次の瞬間、梯子に掴まっていた男の横腹に土壁から伸びた階段がぶつかる。男はそのまま落下した。ヒサイは梯子を登り切るとそれを下に落とした。
「今のは?!」私はただ首を横に振ることしか出来なかった。
「まあいい、先を急ごう!」咄嗟のことで無意識だった。目を瞑らず、イメージするだけで簡単に階段を思い描いた場所から出現させた。力が強まっている。この能力はいったい何のためにあるのだろう? 階段が作り出す歪みの話しを思い出す。しかし、何一つ分からないままだった。私は考える事をやめ、ヒサイの後を追って走り出した。
——湖音の階段~弐——