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4.湖音の階段~壱

 

 左足を下ろす

 体の重みを持ち上げる

 右足に力を入れる

 水の流れる音が大きくなる

 空気に水泡が躍る

 最上段を飛び超える


 視界に広がったのは、

 六つの湖とその周りに立ち並ぶ建物


 そして、水辺に浮かぶ数多の色鮮やかな小舟


 突然響く、爆発音


 その景色の中心に聳える白亜の建造物


 そして鳴り踊る賑やかな音色


 後に知る、

 二年一度の祝祭が始まった瞬間だった――




 1.ムギ


「悪いな、お嬢ちゃん。別にお嬢ちゃんに恨みはないんだが、俺達にも事情があってな」目隠しされているので顔は見えない。声の感じからして二十代か三十代ぐらいの男だろう。ソファーに座らされている。ふかふかで座り心地は悪くない。ただ、手足を縛られていることを別にすればだ。いったい何故こうなったのか、思い返してみる。


 この湖の街に足を踏み入れ、その水に恵まれた緑溢れる景色にクラと興奮しながら歩いていた。湖の周りには小麦畑が広がり、日の光を浴び稲を揺らしている。どうやら祭りをしているらしい。遠くから打楽器の響きがこの街はずれにまで聴こえる。しかし、やけに亀が多い。大きな湖の横を歩いているので亀がいるのは不思議ではない。だが、どんどんと増えてきて足の踏み場がなくなってきた。程なくして、それは道を埋め尽くした。私達姉妹は深緑に染まった地面に途方に暮れた。

「やれやれしちゃうね」

 ここに来るまで民家もなく、道行く人を見かけなかったのはこれが原因か。仕方がないので別の道を探そうと戻りかけたが、視界の隅に何か違和感を感じた。その正体を探した。それは数千の亀が覆い尽くす地面の中心にいた。この場所に不釣り合いなタキシード、左手にはステッキ、そしてシルクハットを被ったウサギだった。おまけに半透明の羽も生やしている。

「チョーチョパリっ!」クラが亀の上を一目散に駆け出した。

「まったく、やれやれしちゃうよね」



 チョーチョパリとの出会いは、私達がこの世界に迷い込んで数日経った頃だった。その時にはもう食べ物はおろか飲み水もなく、つまり死にかけていた。荒涼とした岩場には草もまばらで、生き物の気配はない。照りつける日差しは強く、岩場の影にもたれ終わりの時を意識し始めた。隣を向くと、黒目は光を失い、ここではないどこかを見ている。

 "妹だけは何とか助けたい……"しかし、出来ることが何もない事を自分が一番よくわかっていた。無力だ。意識が朦朧としてくる。小さな手を握る。その手が微かに握り返す。

「こめんね……」黒目は微かに笑って応えた。

 岩にもたれる。静かな時が流れる。

「……お姉ちゃん、あそこに誰かいる」その目線をゆっくりと追う。こんなところに人がいるはずがない。幻覚を見ているのだろう。しかし、確かに誰かがこちらに近づいてくる。逆光で顔は見えない。背の高い帽子をかぶっているようだ。左手には杖? 私達の方へと歩いてくる。近づくにつれ、その姿が露わになった。場違いなタキシード、左手にはステッキ。シルクハットを被ったその顔はウサギだった。おまけに背中には半透明の羽のようなものが生えている。岩場の前で立ち止まる。

「ごめん。私も同じ幻覚を見ているみたい」

「ウサギさん」

「やあ、お嬢さん方。何やらお困りのようだね?」私達を表情の読めない黒い点で見下す。やれやれ。どうやら人の言葉をしゃべるようだ。


 それは自らをチョーチョパリと名乗った。この世界に迷い込んだ者にだけ見える存在らしい。

「もう少しだけ歩けるかい? すぐそこに水場がある。案内しよう」見る限り砂と岩しかない場所だと思っていたが、後をついて行くと確かに湖があった。私もクラも夢中で水を口に入れた。そして、湖の脇に生えていた木の果実をなくなるまで食べた。それは見たことのない果実だった。ピンクのバナナのような見た目、味はさつまいもに似ていた。空腹を満たした私達は、そのまま木陰で眠りについた。

 目を覚ますと、そのウサギは変わらず立っていた。

「あの、とりあえず、ありがとうございます。助かりました」ウサギは黙って頷いた。

「私は……」流れで自己紹介しようとすると、そのウサギは右の手のひらを私に突き出した。

「本当の名前をこの世界では言わない方が良い。言ってしまうとこの世界に縛られてしまう。元の世界に戻るのが難しくなる」表情の読めない目でウサギは言う。

「え? あ、はい。えーと、じゃあ……」

「本当の名前から一文字足すか引くだけでも良い」

「一文字、足すか、引く? えーと、それじゃあ……」

 私はムギ、妹はクラと名乗った。ウサギは近くの街まで案内すると言った。後について行くとやがて森に分け入った。生えている植物は殆どが元いた世界のものと同じものだ。中には見た事のないものもある。それがこの世界特有の植物なのか、単に私の知らないものなのか判断つかない。歩きながらそのウサギはこの世界の事、そして生きて行くために必要な知識を語った。前者は"頂上の見えない山"に点在する街々について。後者は食べられる植物の種類や野宿で気をつける事など。そして、"ココロの階段"について。

「ムギ、目を閉じて意識を眉間に集中させるんだ。そして、高く上りたいと願ってみるのだよ」森の中の開けた場所で休憩していると、そのウサギは私に階段を出してみろと言ってきた。出せるはずだと。

 上手くいかなかった。当たり前だ。普通、人間は階段を出したり引っ込めたりしない。その夜は木々に囲まれ野宿をした。目が覚めた。まだ夜中だ。夜の森は頭を覚醒させる。ふとクラを喜ばせたくなった。この世界に来てから辛い事ばかりだ。目が覚めた時、目の前に果実が山のように積まれていたら喜ぶはずだ。しかし付近に果実はなかった。見上げると背の高い木の上の方に黄色い実が幾つかある。あれも食べられるとウサギが言っていた。高い。木に登らないと手が届かない。しかし、その表皮はツルツルで掴まれる枝もなかった。ふと階段の事を思い出し、ウサギに言われた通りにやってみた。目を瞑る。虫の鳴き声がする。空気の密度が濃い。夜の森と同化する。目を開けると、そこには土の階段が出現していた。

「出来たみたいだね。その力は"ココロの階段"を上るほど強くなる。元の世界に戻りたいのなら、"ココロの階段"を探すんだ」表情のない目が私を見ていた。


 翌朝、クラが目覚めると、黒目は三日月に笑った。お姉ちゃんは妹の笑顔が好きなのだ。

 昼前に目的の街に着いた。そこは映画で見た中世ヨーロッパの村に似ていた。丘には草を食む羊達が放牧されている。民家もあるようだ。ポツリポツリと間隔をあけて住居らしき建物がある。おおきな風車のついた建物を過ぎる。しばらく歩くと、一際大きい建物が目に入った。

「この街の長の家だよ」ウサギは表情の読めない顔で言った。その家の庭にはとても大きな木があった。少し離れた所にも小さな家がある。離れの様なものだろう。

「それで? 私達をこんなところに連れてきて何のつもり?」ウサギは前を向いたままだ。

「ムギ、君は優しい子だ。この先も、それは変わらないだろう」

「は? 何それ?」目を合わせようとしないウサギに苛立ち、強引に視界に入ろうとウサギに詰め寄る。

 その時、離れの方から獣のような叫び声と何かが割れて砕ける音がした。

「行ってみよう」ウサギは離れに向かって歩き出した。


 街長の母親は大きな病で苦しんでいた。先代の街長の妻であったその人は、この街のあらゆる人から慕われていた。温厚で慈悲深い人だったらしい。

 しかし、七十を過ぎた今、助かる見込みのない病を罹った。もって二か月。

 ”天命なのです”医者の言葉だ。

 病がもたらす苦しみは想像を絶した。眠っていたかと思えば突然苦しみだし、叫び声を上げて暴れる。そうなると大人の男でも抑えるのは難しい。その骨と皮になった細い腕は周囲の全てを壊す。家族達は途方に暮れた。暴れるか痛みに苦しみ悶えるだけの変わり果ては母に、息子である街長は何も出来なかった。

「アヘナがあれば……」それは強い毒性を持つ植物だった。それから生成される薬は、強い鎮痛作用を持つ。終末期の病人に残されたわずかな時間に、最後の救いをもたらす。しかし、その植物は遠い昔に姿を消した。毒性を危惧した過去の人によるものか、自然の気まぐれか。


「どこかにまだアヘナが咲いているかもしれない。ムギ、君は人が踏み入らない場所まで探すことが出来る」ウサギの表情は読めない。

「うん……。出来る事なら、そのアヘナを見つけてあげたいよね。あのお婆さんも、あの家の人達も皆んな辛そう」クラの黒目も悲しみに揺れていた。

「アヘナは紫と白、そして朱色のグラデーションが特徴の花だ。丘や崖の上、人が登れない場所を探してみよう」ウサギはステッキを真上に向けた。


 街の中心部を抜け、木々の茂る斜面を登る。上へ下へと獣道は入り組んでいる。森と言うより密林だ。唐突に岩壁にぶつかる事もあれば、突然視界が開け危うく崖から落ちそうになる事もある。岩壁の場合は階段を出してその上を確認する。三メートル程の高さまでなら登る事が出来た。登れなければ引き返すだけだ。そこから更に進めそうなら先に進んだ。

「本当にあるのかな……」陽が沈み始めた。また、野宿か。

 翌朝、辺りが明るくなるのと同時に捜索を再開した。幾つかの岩壁を登ってきたので、かなり高い位置にいる。獣道を行く。視界が開けた。遠くに街が見えた。街長の家の大木が確認出来る。頭上を仰ぐと岩壁の終わりが遠くに見えた。ここから上にはもう木々は無い。剥き出しの岩が隆起している。

「見つかりっこ無い……」足は限界を迎えている。身体中が油の切れた自転車のように軋んでいる。疲れた。首が頭を支えられず下を向く。その時、崖の二メートル程下に人が乗れそうな足場があるのが見えた。その足場は崖に沿って続いていた。下に降りる階段を出す。草の生えた狭い足場を岩壁に沿って進む。

 しばらく進むと上り坂になり、四方を壁で囲まれた広場に出た。上から陽光が真っ直ぐに降り注ぐ。

 その広場は紫と白のグラデーションに染まっていた。

「やったね、ムギ」ウサギが言った。

「何か落ちてる」壁際に焦茶色の鉄片が落ちていた。手のひらサイズ程のそれは、長年の雨風によって劣化したシャベルたった。

「多分、ここは人為的な場所だ。昔、誰かがここにアヘナを隠したのだろう。しかし、私達が辿った道は険しすぎた。だとすると、ここは強い想いが繋げた場所かもしれない。ムギ、君なら出来るだろう。”ココロの階段”との会話を。


 昼前に、持てるだけのアヘナを持って街長の家に戻った。アヘナは直ぐに薬師に渡り、調合が始まった。その日の夜、薬師が薬包を持って街長の家を訪れた。混沌の渦を彷徨い朦朧もうろうとしている老女に薬を飲ませる。老女はそのまま気を失った。薬師からアヘナのあった場所を聞かれた。道に迷った末に偶然見つけたと事実を言った。場所を説明したいが自分でも分からないと嘘をついた。薬師は残念な顔をしたが、感謝の言葉を口にした。薬包に印字された記号と文字、それがアヘナを原料とした薬なのだと教えてくれた。その日は街長の家に泊まった。

 翌朝、豪華な朝食を振る舞われた。そして離れを訪れた。

 一人の穏やかな表情をした女性が、ベットの上で談笑していた。街長と親しげに話している。窓からは柔らかな朝陽が射す。薬は効いた。

 その日一日、私達は非常な歓待を受けた。ぼろぼろになっていた服を見かねて、街長が子供用の服を分けてくれた。それと、私には肩掛け鞄、クラにはリュックを。

「ありがとう。君たちのおかげで、私たちは母と最期の別れの時を過ごすことが出来る。感謝の言葉も足りない」街長はそう言うと自室へ立ち去った。

 翌朝、別れ際にお礼にと言われ紙幣の束を渡された。

「しばらくはそれでお金に困ることは無いだろう。何か所にか分けて持ち歩くと良い。旅には危険があるからね」ウサギが言う。素直に従い、二人で鞄、リュック、上着、ズボン、分けて持ち歩く事にした。

 アヘナのあった場所に向かう。あの時降りた階段に、再び話しかける。

「私達を上に連れて行って!」

 密林の中を土と木の絡まった階段が切り裂く。斜面を登り、真っすぐに上を目指す。

 左足を下す。柔らかだが重みがある。右足を乗せる。体を預ける。そして、見上げる。一直線に伸びるその姿を。誰かの願い。その想い。あの老女の穏やかな顔が浮かぶ。少しは応える事が出来ただろうか。

「私とはここでお別れだ」アヘナが広がる広場でウサギは言った。

「私にもやらなくてはいけない事があってね。いいかい、ムギ。”ココロの階段”を上り、お父さんを探すんだ。それが君達が元の世界に戻る鍵になる」

「うん。やってみるよ。色々とありがとう。また、会えるかな?」ウサギは表情が読めない目で頷いた。

「でも、私達はここからどうすれば良いの? 私の階段じゃ上まで行けないよ」見上げる岩壁はあまりにも高い。

「”ココロの階段”にお願いしてみると良い。では私は行くよ」そう言うとウサギは元来た道へと立ち去った。

「お願いって、何なのよホント……」さて、どうしたものか。クラは欠伸をしている。

「ねえ、階段さん!」私は登って来た階段に話しかける。

「私達、この岩壁の上に行きたいんです。私達に、上からの景色を見せて下さい!」言ってはみたものの、私は何をしているのだろう。クラが呆れた黒目でこちらを見ている。

 しかし、階段は応えた。それはむくむくと盛り上がり、岩壁を伝い上方へと伸びていった。

「うそ?」横を向くとクラの黒目も白黒している。

「ま、とりあえず、行ってみようか!」


 それが、チョーチョパリとの出会いだった。そしてそのウサギと再会した。妹はチョーチョパリに嬉しそうに抱き着いている。ウサギとリスだ。しかし、私は聞かなくてはいけないことが幾つかある。そのウサギに。しかし、まずはどこかに場所を変えなくては。亀が気になって話しにならない。


 湖の街。この街の面積は湖がその殆どを占めている。建物は必然的に限られたエリアに密集する。しかし景観は保たれているようだ。どの建物も美しい白石で出来ている。私達はそれらを眺めながら街の中心へと歩いている。

「綺麗な通りだね。この街はどこもこんな感じなの?」

「湖の周りは美しい木造の家が建ち並んでいるよ。一軒一軒、趣向が凝らされている」

「何か、お金持ちばっかの街みたいだね」

「そうでもない。地上の土地が限られているだけだ。半数以上の人々は地下街で生活をしている」

「うわ! 凄い格差じゃん……」確かに先程から地下に降りる階段をちょくちょく見る。

「人が集まれば、差が生まれる。資源は限られている」

「まあ、元いた世界も同じようなもんだったか。ところでさ、あの亀は何だったの? 異常だよね?」私はチョーチョパリに聞く。

「何年か前に、突然現れたらしい。一夜にして。君達はこの街には"ココロの階段"を上って来たのかい?」

「そうだよ。薔薇の階段。凄く綺麗で、大きな階段だった。とても強い想いが作ったんだと思う」もうあの階段を見ることはないだろう。

「ふむ。おそらくそれが原因だろう」

「え? 何が?」

「大量の亀だ。あれはとても強い力を持った階段が作られた反動によって現れたのだよ」

「そんなことあるの? 反動って……」

「いいかい。階段と言うものは、本来は直接繋がらない場所通しを直に繋げてしまうものなんだ。例えば紙の上に二つの点があるとする。それを繋げるには点と点を線で結べは良い。道だったり坂がそれだ。しかし階段は、二つの点を直接繋げてしまう。紙を折り曲げて、点と点が重なるようにするイメージだ。当然、紙は歪む。この世界でもそれは同じた。余りにも極端な力で場所通しが繋がると、この世界には歪みが生じてしまう。それがどういう形で表れるかはその時にならないとわからないが」

「そんな……それじゃあ、歪みは増え続ける一方じゃん? 大丈夫なの?」

「どこの世界も様々な要因が作用して変化を続けていくものだよ。階段による歪みも、世界にとっては些事でしかない」ウサギは表情のない目で言う。些事。本当にそうなのだろうか?何だか"ココロの階段"が今までと違うものに見えてきた。

「そういえば、チョーチョパリ。私達、化け物に追いかけられた。この下の街の森で。真っ黒で大きくて、顔には口しかなかった。あれは何? あんなの、私達の世界にはいなかった」

「そうか。ムギ、君には暗段(あんだん)の事を話していなかったね」

「アンダン?」

「うむ。詳しいことは良くわかっていないのだが、この山では昔から度々目撃されているものだ。暗い階段と書く。部屋の隅に埃が集まって塊になるように、街の隅、暗い森の奥や壁に囲まれたどん詰まりに人の負の感情が溜まる事がある。それが何某なにがしかの作用によって暗段となると考えられている」

「それで、何なの? その暗段てのは?」

「この山の地下に続いている階段だ。そこには広大な空間があると考えられている。人々はそこを"よくない場所"と呼ぶ。そこには"よくないモノ"がいて、時折"暗段"を上り、地上に出てくる」

「それが私達を追いかけてきたやつなの?」

「おそらく。見聞きした特徴とも一致している」

「いや、待って?! でも、クラがそいつからお父さんの匂いを感じたんだよ? 何でそうなるの?」

「ふむ……」ウサギはしばらく考えこむように宙を見た。

「それは、私にもわからない。ただ、君のお父さんは暗段と何か関係しているようだ。ただ、くれぐれも不用意に暗段には近づかないように。"よくないモノ"は子供を狙う」

「えっ?! それって、じゃあ、山に喰われた子供達って……」

「うむ。全てではないだろうが、かなりの数は暗段が関係していると思われる」

「そんな危ないもの、何で放置してんのよ?」

「実際に暗段を見たことのある人は少ない。一般的には都市伝説みたいなものだと思われている。それに、暗段は頻繁に場所を移す。例え土を被せて埋めたとしても、その近くにすぐにまた現れたりもする」

「やっかいだね。暗段も歪みと関係あるの?」

「それは分からない」


 私達は建物が密集した通りを抜けた。そこは今来た道とは対照的に、景色がどこまでも広がる開放的な場所だった。広大な湖と雲一つない青空が境目なく繋がる。湖には色とりどりの装飾を施したヨットが何艘も浮かび風と戯れている。そして、その湖の中央には巨大な建造物が聳そびえていた。卵形をした流線形のその建物は白亜に輝いていた。一方、広場から湖を囲むように伸びる通りには出店が隙間なく並んでいた。賑わう人々の喧騒も今までの街と比較にならない。至る所で音楽が聞こえる。かなり大きな規模の祭りが行われているようだ。

 だが、祭りには似つかわしく無い一団が目に入った。湖に浮かぶ建物に向かい、何かを叫んでいる。何かが書かれた大きな旗のようなものを掲げ、先頭に立つ一人の掛け声を残りの者たちが復唱して叫んでいた。

「何だろう?」

「この街の格差に抗議している一団だろう。この街はあの湖に浮かぶ神殿に住む人々が権力を独占している。宗教を利用した実にうまいシステムを構築しているようだ」

「宗教……」見た目の美しさとは裏腹に、何か歪な実情をこの街は抱えているようだ。湖に浮かぶ卵形をした建物を見た。あの建物に続く橋は無いようだ。おそらく船で行き来するのだろう。なるほど、雲の上の存在ということか。その時、人混みを掻き分け大声を上げながら別の集団が近づいて来た。それは抗議する集団に駆け寄った。白い服を纏った屈強な男達は、抗議集団の旗を折り、抵抗する者達を力ずくで抑え込んだ。抗議の声を上げるものはいなくなった。

「では、私はここで失礼するよ」ウサギが言う。

「は? またどっか行っちゃうの?! こっちは子供二人だけなんだから、ちょっとは心配しなさいよ?」

「ムギ、くれぐれも暗段には気をつけるように」

 そう言うと、ウサギは雑踏の中に消えた。

「なんだよっ! クソウサギ!」しまった。横を見る。黒目と目が合う。

「お母さんみたい、お姉ちゃん」やれやれだ。

 気がつけば昼だ。気持ちを切り替えよう。お祭りだ。天気も素晴らしい。

「よし! 屋台を物色しよう!」黒目が微笑んだ。


 幾つかの屋台を見て回る。魚介類が豊富だ。流石、湖の街。見たことのない魚の塩焼。淡水魚なのだろう。それに蛤に似た貝を網焼きしている屋台。久しぶりに嗅ぐ香りだ。クラの鼻も全方位対応している。その時、甘く香ばしい香りが風に乗って現れた。

 "うなぎだ!"振り向くと、クラは……既に走り出していた。相変わらず足が速い。そして、その体の小ささもあり人混みの隙間を突き抜けるよう縫って視界から消えた。匂いを頼りにうなぎの屋台を探す。もみくちゃにされながらようやく辿り着く。網の上には茶色に照り輝くうなぎがびっしりと並べられていた。頭に鉢巻を巻いた店主が汗だくになりながらうちわで焼き台に風を送っている。しかし、クラがいない。辺りを見回す。人が多過ぎる。

「クラーっ! どこぉー?」声は乾燥に掻き消される。じわじわと焦りが足元から這い上がってくる。群衆の雑音、高笑い、何かが弾ける音、遠くで聞こえる楽器の音。それらが一つの塊となり前後左右、下から上から私を押し潰そうと迫って来る。

 ――クラを見失った。私は初めて恐怖した。分かってはいた。言葉では。この世界でたった一人の仲間。守るべき存在。しかし今、あっさりと失った。こんなにも大きな街。こんなにも多くの人間がいる場所で。こんな時の為に待ち合わせのルールを決めておくべきだった。後悔。

「クラーっ!!」声の限り叫ぶ。周囲を見渡す。何一つ見逃さないように。しかし、何も頭に入ってこない。尚も叫ぶ。しかし、誰一人として私に興味を向ける者はいない。私は走り出す。人混みを押し分け、立ち止まり、罵声を無視し、再び走る。


 どれくらい走り回ったのだろう。ここは何処なのだろう。気がつくと、砂埃が舞い雑然と建物が並ぶ場所にいた。右手に、朽ちかけた石造りの建物がある。その裏から人の声が聞こえた。フラフラとした足取りでそちらへ向かう。疲労で意識が飛びそうだ。建物の前まで来たが、足が止まった。その場に崩れ落ちる。地面の砂に顔を擦り付け、浅い息をする。体が動かない。何やら人の声が聞こえる。しかし、それも直ぐに聞こえなくなった。



 目が覚めると、そこは真っ白な空間だった。体を動かそうとしたが、上手くいかない。二度寝した時に見る夢の中のようだ。

「夢か」呟いた自分の声は、他人の声のように掠れていた。喉が渇いたな。

「目が覚めたんか? お嬢ちゃん」突然声が聞こえた。だが姿は見えない。目隠しをされている。そう気がついたのと同時に再び声が聞こえた。

「悪いな、お嬢ちゃん。別にお嬢ちゃんに恨みはないんだが、俺達にも事情があってな」


 クラは、無事だろうか?

 お腹を空かしていないだろうか?

 一人で寂しい想いをしていないだろうか?


 また、あの黒目に会いたい。




 ―—湖音の階段~壱――






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