3.薔薇の階段〜弐
宿の部屋で、屋台で買ったパニーニをクラと頬張る。長い一日だった。体が重い、早めにベットに入ろう。しかし、眠れないことはわかっている。今日見たことを整理しなくてはいけない。宿に戻る前に役所で確認したことにより、サイボの嘘は確定した。
ベットに横になり、天井を見つめる。窓からは花々の香りが漂ってくる。隣ではクラが口をムニュムニュさせながらいびきをかいている。明日、この街を立とう。しかしその前にリジーナの見つかった森に行く。おそらく、クラがお父さんの匂いを感じたのはあの森の岩壁のはずだ。その後、館に行く。そしてどうするか……。
昨日と同じ時間に眠り姫の館に着いた。館の右側から後方は崖に囲まれている。入り口には入らず、門扉の手前を左に向かう。背の高い木々が壁のように立ち塞がる。館の柵沿いにしばらく進むと。木立が開けた場所があった。手元の地図を確認する。ここだろう。森の中に入り直進する。朝陽が木々の葉の隙間から斑に降り注ぐ。遠くでカラスとキジバトの鳴き声がする。三叉路に出る。右に曲がる。水の流れる音がする。坂道になる。「木の根っこに躓かないようにね」妹に言う。クラが黒目で頷く。坂の途中に五差路があった。地図を再確認し、今度は左横の道を下る。曲がりくねった坂道を降りていくと、上から水が流れてきていた。水の流れを辿るように上る。しばらく進むと小川は岩の間に隠れた。構わずさらに進むと、開けた平地が姿を現した。奥には岩壁がそびえ、表面には彩りの花が咲き広がっている。クラが昨日、父の気配を感じたのはおそらくこの壁だろう。その足元には大きな岩が積み上げられていた。しかし眼を惹いたのは、その横に広がる薔薇の花々だった。屋敷の裏庭で見たのとは違い、それはありのままの美しさだった。凶暴さも感じさせる猛々しい赤。その赤い薔薇たちは野生そのものだった。
「これが、リジーナが見ていた薔薇?」クラも考え深げにその赤を黒目に映す。かすかに水飛沫が風に乗って降ってきた。見上げると、岩壁で朝陽と戯れるように虹が森の奥へと伸びていた。
「お姉ちゃん」クラが珍しく呼びかける。「ここ、早く出よう。嫌な匂いがする」
「え? なに?」黒目が積み上げられた岩を睨んでいる。
「走って!」クラが元来た道を駆け戻る。
「ちょっ! 待ってクラ!」後を追い、広場を抜けて小川を駆け降りる。曲がりくねった道を駆けあがる。息が上がる。木の根に躓き胸を地面に打ち付ける。背後からビタビタビタと何かの音がする。痛みで立ち上がれない。首だけで振り向くと、遠くの木の枝をゆらし何かが近づいてくる。
「なに、あれ?!」逃げなきゃ。立ち上がろうとすると。右足に激痛が走る。挫いた? 音が更に近づき、揺らされた葉が降ってくる。やばい。腕に力を入れて立ち上がろうとするが痛みで涙が出る。地面を見つめ、涙が土に吸い込まれるのを眺める。その時、身体が浮いた。気が付くと、森の中をもの凄い速さで移動している。クラの高速で前後する足を上から眺める。倒れていた私を後ろ向きに抱え上げ走っているのだろう。走り続ける。山の中を上り、下り、何度か宙を飛んだ。
程なくして、クラが優しく私を地面に降ろす。
「大丈夫? お姉ちゃん?」
「うん、ありがとう。ごめんね、クラ」
「いいよ。嫌な匂い、もうしない」
「そっか、少し休もう。ここは?」
「わからない。めちゃくちゃに走ったから」
「しかし、何だったんだろうね、あれ……。とりあえず、私の足は大丈夫っぽいから」クラが黒目で安堵する。
「さて、どうやって帰ろうかね……。後で、眠り姫の館が見えるか階段を上ってみよう。ま、何とかなるでしょ」
日が沈む前に眠り姫の館に辿り着いた。変わらず見事な庭園が広がっている。チゴが作業をしながら昨日もいた老夫婦と談笑している。館の裏庭にまわり、薔薇園を眺める。リジーナの為の場所。館の窓を見ると、ベットに横たわるリジーナに覆いかぶさるように縋りついているマレーナの姿が目に入った。
見てはいけないものを見た気がして立ち去ろうとすると、顔を上げたマレーナと目が合う。口を開け驚いた表情をしているが、その瞳は濡れていた。そのまま立ち去ることも出来ず、マレーナもこちらを見つめたまま動かない。と、”グゥー”とお腹が鳴る音が響き渡った。クラだ。昼ご飯を食べていない。
マレーナがいつもの笑顔に戻る。
「来てくれたのね。お昼に来なかったから、もう他の街へ発ったのかと思っていたの。それと……リジーナが庭にいると思ってビックリしてしまって。そんなことはあり得ないのに、変ね。ムギさん、あなたを見ているとリジーナを見ている気分になって」
「こちらこ遅くなってすみません」
「あら? まさか怪我をしているの? こちらへいらして。手当をしないと――」
再び眠り姫の寝室を訪れた。窓から差し込む夕陽は、他を寄せ付けない孤独な線となり、埃一つなく掃除の行き届いたこの部屋を神聖なもののように輝かせる。実際、マレーナにとっては聖域なのだろう。時の止まった娘と母の。
「森で迷ってしまったの?」私の脚に包帯を巻きながらマレーナが聞く。
「はい。リジーナさんのいた場所までは行けたんですけど、帰り道で。多分、五差路で間違った道に行ってしまったみたいです。疲れて、途中転んでしまって」何かに追いかけられたことは言わないでおいた。
「今、チゴにサイボを呼んできてもらっています。彼は先ほど帰ったばかりなので遠くにはいっていないはずです。サイボが来たら、しっかりと怪我の具会をみてもらいましょう」
「はい。でも、大丈夫だと思います。もう痛みもありませんし、普通に歩けるんで」
「だめです。もし何かあったらいけませんから」
「ご迷惑おかけしてすみません」
「それよりも、食べ物をお持ちするわね。少し待っていてください」
マレーナが部屋を出ると、静けさが部屋に満ちた。クラも疲れたのだろう、床に地べたに座り寝てしまっている。窓から射し込む夕陽は次第に弱まる。夜が近い。窓際のベットに目を向ける。リジーナは変わらずに眠っている。近づき、その顔にそっと触れる。滑らかな肌は、ひんやりとしていた。シーツをめくる。皺のない寝巻を纏ったリジーナの目瞼が開くことはない。その瞳を覗いてみたい。額に自らの額を寄せ、息遣いを感じようとする。
「リジーナが余程、気になるんだね君は」サイボが部屋の入り口を背に立っていた。部屋の明かりは暗い。表情の見えないサイボはゆっくりと近づく。
「怪我をしたんだって? とりあえす、そこの椅子に座っって。状態を確認するよ」
「いえ。大丈夫です。今は歩くことも出来ます。先程、マレーナさんに包帯も巻いてもらいました」
「しかし、一応念のために診させておくれ。何かあるといけない」サイボはベット脇の椅子に私を座らせると、足の状態を確認する為に屈んだ。
「サイボさん。マレーナさんが飲んでいる薬のことはご存知ですか?」サイボがゆっくりと顔を上げる。それを見下ろす形になった。
「居間の写真たての前に置いてあった薬、あれは終末期の病人が苦痛を和らげる為に飲むものです」サイボが怪訝な顔をする。
「何を言っているんだい? あれは、最近寝つきが悪いから街の医者に処方してもらった薬だよ。マレーナさん本人がそう言っていた」
「あの薬包に印字された記号と番号、あれはアヘナを原料とした薬を表しています。偶然にもチゴさんが苗を植えていた植物と同じです。私は以前とある街でアヘナを探したことがあります。その時に、薬師に説明を受けたんです。薬包に印字された記号と番号の意味を」サイボはを目を見開き立ち上がる。
「そんな! マレーナさんが重い病だと言うのか?」
「恐らく、あの薬を飲む必要のある状態ではあるのは事実だと思います。居間のゴミ箱に空の薬包が捨てられていました」サイボの視点の合わない青い目を見る。
「そして、サイボさん。医者であるあなたならわかったはずなんです。あの薬が何なのか。サイボさん、あなたは本当に医者なんですか? 昨日、役所に行って確認しました。サイボという名の医者は登録されていませんでした。そして、あなたの家の中を勝手ながら覗かせてもらいました」
「なに?! どうやって……あの小屋は中を覗けない筈だ……」
「渓谷側の窓のカーテンは開いていました」
「馬鹿な、どうやって?!」
「壁面の岩場から見たんです。そこで見ました。壁にかけられた手や足。窓際に座る若いマレーナさん。サイボさん……あなたは人形師ですね?」
「いったいどうやって!? いや、そんなことはもうどうでも良いか。君は、見てしまったんだね?」サイボはゆっくりと鼻から息を吐くと、窓際まで移動した。窓枠に手をかけ外を眺める。
「そう、確かに僕は人形師だよ。この街よりも上にある街で、人形師になる為の修行を積んだ。一人前に認められ、この街に戻ってきた。そうしたら、リジーナが消えてマレーナさんが憔悴していた」そこで言葉を切る。金色に輝く髪がふわりと揺れ振り向く。澄み切った青い目の底はガラスのように表情がない。
「ここにいるリジーナさんも、人形ですね?」
「マレーナさんにはすがるものが必要だった。僕は持てる全ての技術を用いてリジーナを再現した。記憶にある彼女よりも大人なった姿を。良い出来だろう? 誰も人形だなんて思わなかった」
「妹は特殊な能力を持っています。リジーナさんから生きている匂いが全くしないと言っていました」
「君達姉妹は中々ユニークだね。こんな形で秘密がバラされるとは思いもしなかったよ」
「わざわざ森の奥で見つけた事にしたのは何故ですか?」
「深い理由は無いよ。ハンカチが見つかった場所なら何となくそれっぽい話しに聞こえるだろ?」
「マレーナさんに本当のことを言った方が良いんじゃないですか?あの人には残された時間があまりないかもしれません」
「君はまだ子供だからわからないと思うけど、事実だけが正しいとは限らないんだよ。マレーナさんにはこの人形が必要なんだ。だから……黙っていて欲しい」サイボはリジーナの形をしたものの頭を撫でる。ガラスの目に人形が映る。
「嫌です。マレーナさんには私、本当のことを言います」
「馬鹿な! そんなことをしても誰も得をしない。これまでの時間も無意味になる!」
「無意味にはなりません! それよりも、そんな嘘を信じたまま最後の時を迎えるなんて悲しすぎます。サイボさん、あなたのマレーナさんを想う気持ちは本当のはずです。あなたはマレーナさんと向き合うべきです。今のマレーナさんに必要なのは人形ではなく、頼る事が出来る生身の相手じゃないですか?」
「あの人は僕には一言も相談してくれなかったんだな……。マレーナさんの体調が心配だ。今からマレーナさんと話しをしてくるよ」
「その必要はないですよ」私とサイボは同時に部屋の入り口を見る。マレーナが立っていた。
「――マレーナさん! いつからそこにいたんですか?!」サイボは完全に動揺している。
「少し前から。それよりも食事の準備が出来ました。お話しは食事を摂りながらにしましょう。ビーフシチュー、お好きでしよ?」クラのお腹が豪快に鳴った。
食堂にはチゴもいた。テーブルには青や赤の花々が散らされたオクラとしめじのサラダ、焦茶の硬めのバケット、大ぶりの牛肉の塊が入ったビーフシチューが食卓を彩る花々と共に並べられていた。
「さあ、頂きましょう」相当空腹だったようだ。食べ始めたら止まらなくなった。クラも頬を忙しなく膨らませている。程なくして皿が空き始めた頃、マレーナが話を切り出した。
「私の病気は、待ってはくれないみたいなの。お医者様には後数ヶ月と言われているわ」サイボが俯き膝の上で握りしめた両手を見ている。テーブルの上の皿には殆ど手をつけていない。
「本当は誰にも言うつもりはなかったのだけれど、まさかこんな可愛らしいお客様達に気づかれてしまうとは思わなかった」マレーナは優しい笑みを浮かべ私を見る。
「サイボ。私はあなたにとても感謝しているのよ。あなたが連れて帰ってきたリジーナが本物ではないことは、すぐにわかったわ。あの子を産んだのは私ですもの。ただ、あの時の私はそれを否定する気力すらもなかった。しばらくはそのリジーナの形をしたものを眺めるだけの日々だった。それでも、少しずつ変わっていったものもあったのよ。日に日に娘がもういないという現実を、心が受け入れていった。一年たった頃には、リジーナが損なわれてしまったということを事実として受け入れていた。ただね、サイボ。あなたは毎日そこにリジーナがいるように振る舞い続けてくれたわよね。それで私も、今後も本当にリジーナがいるかのように過ごすことに決めたのよ」そこで言葉を切ると、食堂には静寂が訪れた。
「でも、それも今夜で終わりにしましょう。こうなってはもう演技をする必要もありません。リジーナはもういないのです。私には時間が多くありません。残された僅かな時間は、未来だけを見ていきたいのです。それで……」マレーナはサイボを見る。サイボも顔を上げる。
「この後、人形を燃やそうと思います。構わないわよね、サイボ?」一瞬、サイボが瞬きをする。
「マレーナさんがそうしたいのなら、僕は構いません」
「ありがとう、サイボ……。では、食事を終えたらお庭で準備に取り掛かりましょう」
「火をつける為の薪なんかは私が用意するよ、マレーナさん」チゴが赤い目で答える。
私と妹は、ただその様子を見ているだけだった。
月が夜の庭園を照らす。眠りについた花々は、時折森の方から吹きつける風にサラサラと音を立てる。庭園の中心の開けた場所に薪が積まれている。サイボがリジーナの人形をその上にそっと寝かせる。館を背にして私達は並んでその光景を見つめる。サイボがマレーナに向き直り頷く。
「始めてください」マレーナは真っ直ぐに人形を見つめる。
しばらくすると、薪から細い煙が上がり始めた。仄かな灯りが薪の中心に灯る。サイボはそれを屈んで確認すると、マレーナの横へと戻った。あっという間に火は大きくなる。薄暗かった庭園が赤く揺らめく。花々が火の動きに合わせて踊るように姿を見せる。パチンと音をたて火の粉が宙に舞った。炎はリジーナを包み込んでいた。美しい金髪、白い肌も赤く染まる。その時、炎の勢いで積んであった薪の一部が崩れ落ちた。バランスを崩したリジーナーの顔が傾き、こちらを見る形になった。その瞼は開かれていた。
「リジーナの瞳は再現出来なかった。あの燃えるような青い瞳は」ガラスのような瞳を見つめ、サイボが呟く。
「あの……結局、リジーナさんは薔薇の花が好きだったんですか? サイボさんはリジーナさんは花そのものが嫌いだって言っていたので」気になっていた事を聞いてみた。
「リジーナは薔薇が好きで、嫌いだった。彼女は野に咲く薔薇を好んだ」サイボが瞳にリジーナを映したまま言った。
「あの子、幼い頃はお庭の花が大好きで、良く花の名前を聞いてきたりもしたの。中でも薔薇が大好きだった。でも、大きくなるにつれて人の手の入った花を毛嫌いするようになってね。重ねたんだと思う。この街での窮屈な暮らしと。私も細かい事を言い過ぎていたから。……今更の話しよね、こんなの」マレーナが寂しげに笑う。
火の粉が舞う
燃え盛るように咲き乱れる花々
その中心にいる、炎に包まれた少女
風が吹きつけた
一瞬、その顔が露わになる
見つめ合う
そのガラスのような瞳と
次の瞬間、全ては炎に飲まれ赤に染まった
そして、眠り姫はいなくなった――
翌朝、館の客間で目を覚ます。食堂には既にマレーナ、チゴ、サイボがいた。チゴは元々ここに住み込みで働いていたようだ。サイボも今後はここに住む事にしたらしい。側でマレーナの世話をしたいと本人が希望したようだ。結局、この街にも父はいなかった。次の街に行くまでだ。
早朝の森を抜ける。三叉路、そして五差路。小川を登る。目当ての場所に着く。岩壁を背にして咲く、燃えるような赤の薔薇。リジーナのハンカチが見つかった場所。積み上げられた岩は昨日と何かが少し違う気がする。
「確証は無いし、期待をさせてしまうのも悪いからマレーナさん達には言えなかったけど、リジーナさんは生きていると思う」クラに微笑む。
「彼女は外の世界を強く求めたんだろうな、きっと」ゆっくりと息を吐く。
「行こうか」
——目を閉じ、呼吸に集中する
眉間に熱を感じる方角に、息を吐くと同時に熱を送り出す。
「"ココロ"より生まれし階段よ、姿を現せ——」
木々の葉が一斉に揺れる。上空からの風が地面に吹きつけるのと同時に野薔薇を散らす。宙空に舞う深紅の花弁。次の瞬間、地表の薔薇が鋭く天に向かい、花弁を纏った。遥か上空まで伸びると、それは岩壁に沿って形成されて行く。
現れたのは、
岩壁を削るように赤く燃える、
”薔薇の階段”
「ふー、見事だね」クラの黒目も言葉を失っている。
「とても強い”ココロ”の願いだったんだね……」
左足を乗せる。複雑に入り組んだ鋳薔薇がズシリと体の重みを受け入れる。強くて硬い。階段の両淵には深紅の薔薇が並ぶ。見上げると二本の赤いラインはどこまでも上っていく。美しい階段だ。
「行こう、クラ!」
左足を下ろす
体の重みを持ち上げる
右足に力を入れる
水の流れる音が聴こえる
飛沫を浴び
花が広がる岩壁から空へ伸びる虹をくぐる
見下ろすと、花咲き誇る街が朝陽の中で淡く輝いている
街の中央広場、四方に伸びる大通り、民家や農地、緩やかな丘と森、
途切れる事のない色彩はどこまでも続き、遥か先で巨大な滝とぶつかる
疲れているのに、
身体は上へと行きたがる……
「お姉ちゃん!」突然クラが叫ぶ。慌てて後ろに向き直り、クラの緊張した黒目と目が合う。
「お父さんの匂い。下から!」
「え! ホントに?」二人同時に登って来た階段を見下ろす。かなり上ったので、下の広場は遥か遠く小さい。積み上げられた岩は辛うじて視認出来る。と、その時その岩が動いた。
「え?」積み上げられた岩は崩れた。遠すぎるので音は聞こえない。そして次に、その中から何から黒いものが音もなく這い出てきた。小さくて良く見えないが、それは全身真っ黒で、ビダビダと四本の手足を動かして移動している。
「……なにあれ?」階段を一段降り、妹と並ぶ。
「お姉ちゃん、昨日追いかけてきたの、あれじゃない?」クラの不安そうな黒目がこちらを見る。
その黒いものゆっくりと広場を回った後、突如この薔薇の階段をもの凄いスピードで駆け上がり始めた。
みるみるこちらに近づいてくる。
「やばい! クラ、逃げよう!」
急いで薔薇の階段を駆け上がる。頂上まではまだ遠い。しかし、逃げ場はない。走るしかない。下を振り向く。距離が縮まっている。それは四本の手足をぐるぐると回転させるようにみるみる駆け上がってくる。その振動で足元が揺れる。
「追いつかれる!」足が重くなる、息が速くなる。体の限界が近い。
「お姉ちゃん!」クラが私を追い抜くと、ひょいと背中に乗せて走り出す。おんぶで階段を駆け上がる。私は首を後ろに回す。近づいて来ている。それには顔がなかった。口だけがついた頭らしきものを左右に振りながら接近してくる。
「やばいよクラ! 追いつかれる! クラだけでも逃げて!」頂上は見えるがまだ三十メートルはありそうだ。その時、クラが突然止まり私を頭上に抱え上げた。
「え! なに?!」次の瞬間、私は遥か高く空を舞った。頂上より上空に身体が舞ったと思うと視線の先に草が茂り水溜りが点在する地面が映る。一瞬の景色の停止。次に急降下が始まった。
「嘘でしょー?!」このままだと頂上の地面に叩きつけられる。その時、遥か下から飛び上がりこちらに急接近するクラが見えた。
「お姉ちゃん、階段消して!」クラが私の体を抱きかかえるのと同時に、私も薔薇の階段との意識の繋がりを切断した。今までこんなに唐突に階段との繋がりを切ったことは無い。恐らく、二度と薔薇の階段は私の声に答えてくれないだろう。振り回される景色の中で、薔薇の階段が粉々に散り崩れ、花びらと鋳薔薇が宙に舞っていく。そして、黒いその追跡者は岩壁から見放され宙に四本の手足バタつかせながら視界の底へと消えていった。次に来たのは身体への衝撃だった。クラに抱きかかえられながら地面に落下した私は、衝撃で地面をゴロゴロと転がった。体中に衝撃が走る。頭を抱えながら衝撃が終わるのを待つ。それは唐突に背中に一番激しい衝撃を受けて止まった。突起した岩に背中を打ちつけた。息が止まり、吐きそうになる。
「ク、クラ……」黒目を探す。手をつくが泥を掴んで滑る。
視界の遠い所で、クラが崖の下を覗いているのが見えた。ぼやける視界の中でそれは振り向くと、こちらへ駆け寄って来た。
「お姉ちゃん! 大丈夫?」
「う、うん。何とか」
「さっきのあれ、落ちていなくなった」
「そう、良かった……」声を出すのが辛い。クラの黒目の様子が変だ。
「あとね。さっきのお父さんだった」
「ひ?」もう声が出ない。
左足を下ろす
体の重みを持ち上げる
右足に力を入れる
水の流れる音が大きくなる
空気には水泡が躍る
最上段を飛び超える
視界に広がったのは、幾つもの湖とその周りに立ち並ぶ建物
そして水辺に浮かぶ数多の色鮮やかな小舟
そして突然響く、爆発音
それに続く賑やかな音色
後に知る
二年一度の祝祭が始まった瞬間だった
そしてそこで見ることになる
地面を覆いつくす幾千もの亀
そして、その中心にいるウサギを――
――薔薇の階段〜弐――