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2.薔薇の階段〜壱



 

 左足を下ろす

 体の重みを持ち上げる

 右足に力を入れる

 花の香りが濃くなる

 疲れているのに、

 身体は駆け上がる

 陽光に目を細め、

 最上段を踏み上げる


 そして、思わず息を止める


 燃え盛るように咲き誇る花々に


 クラは目を閉じその香りに身を預けている


 きっと

 この景色を気に入ったのだろう


 私も好きだ


 いつだって、


 階段の街は


 私たち姉妹をドキドキさせる




「その家は、眠り姫の館と呼ばれておる」その老人は、秘密を打ち明けるように囁いた。

 私達は今、街の中央広場にいる。至る所に並ぶ花壇、鉢植。民家や商店のベランダ、外壁、そして教会を初め建物の屋根にまで広がる花々。まさに花咲き誇る街。色彩と香りに飲み込まれた街の人々は、皆笑顔を咲かせている。

「ねえ、おじいさん。その家が本当にこの街で一番綺麗なお庭のあるお家なの?」

「間違いないじゃろ。街中の者が皆そう言うておる。あの館の女主人も、ちょいと前まではこの街の一番の美人だっだのー。お、ちなみにお嬢ちゃんも、相当なものじゃな。五年後が楽しみだのー、かぁーっはっは!」

 全く、やれやれしちゃうね。さて、それではその最も美しい庭のある「眠り姫の館」へ行ってみようか。横を向くとクラが眉毛を八の字にさせて見つめてくる。黒目がふるふるしている。

「まずは、お昼ご飯だよね!」

 いつだって、姉は妹に優しいものなのだ。


 中央広場から広がるように、商店、飲食店、公益の為の施設が並ぶ通りが波線系に伸びる。飲食店通りは、店舗通りと屋台通りの二つ。店舗通りの方は行列が目につくので、屋台通りに向かう。面白いことに、飲食店が並ぶ通りでも花々の良い香りがする。脂っこい匂いや、クセのある匂いとぶつかって不快になることはない。

「ねえ、クラ。何食べる?」豚まんのような料理を出している屋台にクラと私は今いる。

「ふむむ」クラは悩んでいる。黒目がメニューの迷路に迷い込んだ。ここまで悩むクラを見るのは久しぶりだ。

「何にする?」店主が目で問いかける。

「ダブル豚まん、ベゴニア入り!」クラが応える。

「私も、同じのにしようかな」食用花か。

 蒸し器からとても良い香りが漂ってくる。

「豚まん、お待たせ」

 紙に包まれた熱々の豚まんは、清涼感のある香りもする。頬張ると、豚の肉汁の旨味とベゴニアのレモンのような爽やかさが口の中に広がる。

「美味しい」私は思わず呟く。

「この街の豚はね、餌に花を混ぜたものを食べて育つんだ。臭みがなく、ほのかに良い香りがして柔らかい肉質になるんだよ」店主は得意げに笑う。

「エディブルフラワーって、サラダかデザートだけかと思ってました。お肉にも合うんですね」クラが不思議そうな顔で見上げてくる。

「あのね、エディブルフラワーっていうのは、食べられる花のことだよ」

「この街の店の料理には、だいたい花が使われているよ。時間があれば、隣の通りのレストランに行ってみると良い。食べるのがもったいないくらいキレイな料理が出てくるよ」

「行きます!」

「それなら予約しておくと良いよ。ちなみに俺のおすすめは"ペチュニアキッチン"て店だ。味も見た目もこの街で一番なんじゃないかな? 遅い時間なら、まだ予約を取れるかもしれない」

「ありがとうございます! この後行ってみます!」

 屋台通りは賑わっている。赤、青、白、様々な色彩の街並み、様々な香りが混ざりあう乾燥。店舗のある通りへ向かう。歩みを進めるごとに、多種多様な匂いが鼻に飛び込んでくる。鼻の良いクラには少し刺激が強すぎるのではないかと心配になる。

「ねえ、クラ? こんなに匂いが強くて大丈夫?」

 振り向くと、クラが焦点の合わない黒目で宙を見つめている。

「ちょっと! クラ?! 平気?」

「――お父さん、いるかも」時が止まる。

「ほんと!? クラ、どっちの方?」

 クラは宙を見つめている。視線の先には雑貨屋の看板。その遥か向こうには花がお生い茂る岩壁。

 突如、クラが走り出す。私も後に続く。クラは私より足が速い。中央広場を抜け、役所が並ぶ通りに入る。身体能力に優れた妹にどんどん引き離される。

「ちょっと、待って、クラ!」息が切れて、声が通らない。

 弾丸のように人を縫って走り抜ける妹。通りにいる人は足を止め振り向く。クラが本気で走ったら、大人でも追いつけない。このままだと離れ離れになってしまう。まだ九歳の子にはこの街は広すぎる。

 ただ足の動くままに後を追う。自分は今、息を吸っているのだろうか、吐いているのだろうか。

 通りを抜けた。岩壁と崖の交わる場所で、クラは立っていた。

「ク、クラ、どうなった、の?」

「お父さんの匂い消えた」


 ”ペチュニアキッチン”

 この街で一番とも言われるレストラン。私達の前にあるのはゼラニウム、サフラン、ナデシコの花々とアスパラ、蓮根の薄切りが盛り付けられた羊肉の煮込み。三日三晩煮込んだ肉らしい。クラの黒目が挑戦的に見つめてくる。

 二人同時に頬張る。花が咲いた、頭の中に。こんなに柔らかく、そして香りよく食べる羊肉料理があったとは。クラと目が合う。二人でニヤッとする。

「美味しいね」

「うまいね」

 しばらく二人は無口になった。


 パーベナのアイスが運ばれてきた。閉店時刻が近い為、店内に客は殆どいない。

「結局、昼間の後はもう匂いはしてないんだよね?」アイスをスプーンでつつきながら聞く。

「うん、してない。でも、ちょっと遠いとこだったけど、アレ、お父さんだった」

「うん、わかった。明日も一日この街で過ごそう。結局、眠り姫の館にもまだ行ってないしね」

「そうだね」何かを考えているような黒目だった。


 翌朝、宿で朝食を取ると真っ直ぐに"眠り姫の館"と呼ばれる場所に向かった。この街の外れ、坂を登り、花が咲き誇る岩壁を背にしてその家はあった。

 ”オープンガーデン”

 この街では、美しい庭を持つ家は一般にそれを公開している。人々はオープンガーデンをしている民家を訪れ、その見事な景観を楽しむことが出来る。住居なので騒がない、宅内を覗かない等のマナーを守ることは必須だ。

 そして私達は今、眠り姫の館の前にいる。見事な外観に圧倒された私とクラは、しばらくそこから動けなかった。庭内に足を踏み入れる。まだ早い時間なので、人気は少ない。老夫婦がゆっくりと花を見て回っている。

 まず出迎えるのはネモフィラとラベンダーのグラデーション。陽の光を浴びダリアとポピーが白く輝く。ルピナスとクレチマスが斜面に広がり、その先のガーベラとマリーゴールド、ラナンキュラスのアーチを抜ける。パーベナとベゴニアが可憐に佇む。その他にも名前を知らない花々が調和を持って植えられている。これを手掛けた庭師は余程の腕前だろう。クラはクルクル回る黒目で花々を見て回っている。これが個人宅の庭だとは信じられない。だがふと、ある花がない事に気づく。これらの花と同じ季節に最盛期を迎えるあの花が。

「クラ、来てよかったね。こんな見事なお庭、中々見られないよ」

「キレイ」黒目がうっとりしている。

「朝一で来て正解だね。午前中は太陽の光が新鮮で気持ちいい」目を瞑り、大きく息を吸う。全身で陽光を浴びると、細胞が幸福感に満たされていく。

「こんにちは。とても可愛らしいお客様達が本日は来てくれたのね」目を開けると、品の良さそうな女性の柔らかな笑顔がそこにあった。綺麗にまとめた栗毛色の髪に少し白いものが少し混じっている。だがそれも、この女性の落ち着いた物腰にとても上品に馴染んでいる。細身の体に白のカーディガンを羽織っている。

「こ、こんにちは! このお家の方ですか?」

「はい。この家の主人のマレーナです。このお庭、気に入っていただけたかしら?」

「はい! とっても綺麗です! でも、こんなに色々な種類の花があるのに、とても自然にまとまっているのが不思議です」

「それはきっと、チゴが良い仕事をしてくれているからね。喜んでもらえて嬉しいわ」その笑顔は上品な花のようだ。

「あの、ひとつ気になったんですが、なぜ薔薇がないんですか?」

「あら、あなた、薔薇がお好きなの? そうね、あなたお幾つ?」

「年ですか? 十四歳ですけど……」話しが見えない。

「十四歳。そうね、本当は一般には公開していないのだけれど、薔薇園もあるのよ。プライベートな場所なのだけれど、もし良かったらご覧になる?」

「えっ! いいんですか?ぜひ!」クラと目を合わせる。黒目が三日月に変わる。


 そこはこの館の裏手にある、岩壁との隙間にある空間だった。最盛期なのだろう。赤、ピンク、黄色、白。自らが一番美しいだろうと確信したかのように堂々と咲き誇る薔薇達。岩壁に向かうように配置されたアーチ。そのトンネルに足を踏み入れると、世界が薔薇に飲み込まれる。

「凄い」クラもその黒目の中に、薔薇の世界を広げている。

「あの、でも何故ここは一般に公開していないんですか?こんなに見事なのに」マレーナは一瞬困ったような顔をしたが、すぐに品のの良い笑顔が戻る。

「ここはね、娘のリジーナの為の花園なの。リジーナは薔薇が本当に好きでね、子供の頃から毎年開花する時期を楽しみにしていたのよ。ここはリジーナの部屋からよく見えるの」

「娘さんの為だけの特別な場所なんですね。凄く綺麗……でも、普段は人が入らない場所なのに良いんですか?」

「気にしないで、私があなたに見て欲しかったの。あなたを見ていると、リジーナを思い出してしまって。喜んでもらえたのなら私も嬉しいわ」

「あの、娘さんは……」言葉にしてから、自分の軽率さに後悔する。

「うん、実はリジーナはずっと寝むり続けたままなの。この七年間。まったく、とんだ寝坊助よね」マレーナが明るく言う。気を遣わせてしまった。なんだか居心地が悪くなる。

「そうなんですか……知らずにすみませんでした。素敵なお庭を見せて頂いて、本当にありがとうございました! そろそろ、私達は失礼します……」クラを振り返り、その黒目にもう行こうと合図を送る。

「あら、良かったらお昼をご一緒にと思っていたのですけれど?この街の名物、ローズポークの燻製ベーコンを昨日知人から頂いたの。それを使ってカルボナーラを作ろうと思って。もし良かったら是非召し上がっていって。お若い方がいると活気があってこちらも元気がもらえるの」

 横を見る必要もない。クラは黒目を爛々と輝かせ、口をモグモグしているだろう。


 通されたのは、暖炉とマントルピースがある豪華な客間だった。赤と黄色の幾何学模様の絨毯がしかれ、窓際に椅子が並べられている。先客がいた。一人はマレーナより少し若そうなバンダナを巻いた黒髪の女性。日焼けした肌が健康的だ。もう一人、その女性よりもさらに若そうな青年。糸のような繊細な金髪、底が見えそうな澄んだ青い瞳をした容姿は、飾られているの花と見事に調和していた。私達が部屋に入ると二人とも笑顔で立ち上がる。女性は小柄、青年は細身だが長身であった。

「チゴとサイボを紹介するわ。こちらはムギさん、それと妹のクラさんよ。先程お庭でお会いして、お昼を一緒にとお誘いしたの」私と妹は簡単に挨拶をする。

「私はチゴ、この館で庭師をしているの。よろしくね」

「わー、あなたがこのお庭のお手入れをしているんですね! ほんっとうに綺麗なお庭でした」クラもうんうんと頷く。

「喜んでもらえたのなら嬉しい。午後また新しい苗を植える予定だから、良かったら見ていってね」

「良いんですか? 是非!」あれだけ見事な庭を手掛ける人物だ。その仕事ぶりを拝見できるのは嬉しい。

「では、私はお昼の用意をしてきますので。お二人とも、ゆっくりと休んでいて下さいね」マレーナが部屋の出口に向かう。

「私も手伝いますよ、マレーナさん」美しい金髪が揺れた。マレーナは微笑んでサイボを見つめ、二人は部屋を出た。


 残された私は、何をすることもなく部屋を眺め歩いていた。クラも物珍しげに部屋を見て回っている。チゴはリラックスした様子で窓際の椅子に腰掛け、興味深気に私達姉妹を見ていた。しかし、見事な客間だ。採光を意識した天井近くまで高さのある窓が並んでいる。窓際の棚には、写真立てが飾られていた。そこではまだ白髪のないマレーナと、緩くウェーブのかかった金髪に挑戦的な碧眼をした少女が仲睦まじく笑っていた。少女の輝くような白い歯が眩しい。写真立ての前には薬包が無造作に置かれていた。常備薬なのだろう。包みには数字と記号が印字されている。棚の脇にゴミ箱があり、空の薬包が捨てられていた。

「二人は、どこまでいく予定なの?」椅子に座り窓から差し込む日差しに照らされたチゴが、日に焼けた笑顔を向ける。

「特に目的地はないんです。父を探して、街を転々としているんです」

「あら、それは大変だね」

「妹と二人、のんびり色々な街を見て回って楽しい時間もありますし、そんなに大変でもないです」私はクラの頭を撫でながら笑顔を作る。

「それに、その街の美味しいものも食べられますし」

「大したもんだね、あんたたち。ま、この街も楽しんで行ってね。マレーナさんの料理、最高だから」

「ローズポークですよね?! 楽しみです!ところで、サイボさんもこのお家の人なんですか?」

「サイボ? あの子は違うよ。ああ見えて医者なんだ。リジーナのことをずっと診てくれているんだよ。毎日来てくれてね。器用なもんで、料理や家の修繕なんかもやってくれて。本当に良い子だよ」

「リジーナさんというのはマレーナさんの娘さんですよね?」

「うん、そうなんだけど……もう、ずっと眠ったままなんだ」

「……眠り姫?」

「あぁ、街ではそんな風に呼ばれているみたいだね。時が経つのは早いね。もう三年になるか……」


 チゴの話しによると、そもそもこの館はリジーナの父方の一族が代々住んでいた。しかし、リジーナがまだ幼いころに、その父は誤って崖から落ちて死んだ。残された妻と娘は殆どの使用人に暇を出し残された財産を切り崩して細々と生きて行く道を選んだ。それから数年後、事件は起きた。それは薄曇りで錆びたシャベルのような空模様をした日だった。降りそうで降らない雨が空気を不機嫌に重くし、どこか不穏な気配のする日だった。その日の昼食時に、十四歳になったリジーナとマレーナは食堂で激しい言い争いをした。

 思春期を迎えたリジーナは、活発で利発的、そして何より行動力のある少女になっていた。だがしかし、亡き夫の家を守りその血を絶やさない。その責任を負ったマレーナは娘に対して厳格に接した。やがて親子の折り合いが悪くなっていった。その日の言い争いはいつもより激しかった。リジーナは口論の末、食堂を飛び出した。そして、それ以来姿を消した。一ヶ月もの間、街の人の手を借り大勢で捜索した。しかし、森の深くでリジーナのハンカチが見つかっただけだった。マレーナは憔悴した。髪に白いものが混じり、何も喉を通らなくなった。僅かに残っていた館の使用人にも暇を出し、一人館に閉じこもった。美しかった庭も姿を消した。

 数年が経ち、親の都合で十三歳の時に上層の街に引っ越していたリジーナと同い年の幼馴染、サイボが医者となり街に戻ってきた。リジーナのことを聞いたサイボは、必死にリジーナの痕跡を探した。そしてある日、森の奥深くで眠っているリジーナを見つけた。誰もが驚いた。たちまち街中の噂になったが、見つかったリジーナが眠り続けていることに人々は憐れみを覚え表立って話題にはしなくなった。

 それからしばらくして、チゴは庭師として雇われた。そして、見事な庭園は復活した。


 案内されたのは、二十人は座れそうな大きな長方形のテーブルのある豪華な食堂だった。テーブルの上には色とりどりの生花がある。綺麗にカットされコンパクトにまとめられた花々は、寄宿舎で戯れる女学生のようだ。

「お待たせしました」燻したベーコンの香ばしさ、卵とチーズの溶け合った甘い香ばしい匂いと共にマレーナが料理をテーブルに配る。サイボも続く。二人は親子のように見える。

「では、頂きましょう」マレーナが食事会の開始を告げる。

 クラが夢中でパスタを頬張る。リスのほっぺのようにモグモグと丸く膨れた頬が、皆の視線を集める。皆何も言わず、微笑ましく眺めている。

 あっという間にパスタを食べ終えた。タイミングを測って、マレーナがドライフラワーを散らしたデザートを運ぶ。この街では食卓に花が並ばないことはないのだろう。

 食後、ティータイムになった。リラックスした雰囲気が午後の日差しに溶け合う。

「この後、苗植えをやるから良かったら見ていってね」

「何の苗を植えるんですか?」

「それは後でのお楽しみ」そういうとチゴはニンマリと笑い、飲み終えた紅茶のカップを下げて食堂を後にした。


 食事の片付けをするというマレーナを残し、館内を見て回る。広い建物だ。中庭を取り囲むようにコの字型の造りになっている。食堂は建物の右角に当たる場所だったようだ。絨毯の敷かれた廊下を進む。窓の外には中庭が広がっていて、中庭越しに館の反対側が見える。チゴの姿は見当たらない。どこかで作業をしているのだろうか。廊下を進むと一番奥の突き当たりの部屋はドアが解放されていた。覗いてみると、部屋の窓からは先程の見事な薔薇園が見える。そして、その窓の横に置かれたベットには金髪の少女がいた。遠目に見ても、その美しさはわかる。

 ”眠り姫”

 白砂のような混じり気のない肌、果実の種のように瑞々しいまつ毛。口と目を閉じ、時が止まったかのように横たわる。これが、リジーナか。気がついたら、ベットの横でリジーナの寝顔を見つめていた。横にいるクラも、その寝顔を深い黒目で見つめている。

「綺麗な寝顔だろ?」突然声をかけられ慌てて振り返ると、サイボが部屋に入ってきた。

「毎日、午後のこの時間にリジーナの様子を確認しているんだ。それが僕の仕事だからね」

「あの、すみません、勝手に部屋に入って」

「構わないよ。この部屋はリジーナが子供の頃から使っている部屋でね。いつもドアは開けてあるんだ」サイボは窓の外に目を向ける。「窓から見える薔薇園はリジーナの為のものなんだ」

「ほんとに素敵な薔薇園ですよね。リジーナさん、薔薇が好きだったんですね」

「いや。実はリジーナは薔薇があまり好きではなかったんだよ。というか、花を好きではなかった」

「そうなんですか?」マレーナの話しと違う。

「リジーナはこの街を出たがっていた。彼女は昔から不思議な所があって、他の街の景色が見えていたみたいなんだ。外の世界に惹かれていたんだと思う」

「それが家を飛び出した理由ですか?」

「うーん、それは本人にしか分からないけどね。彼女が家を出た時に僕はこの街にいなかったから」

「そうなんですか。でも、サイボさんがリジーナさんを見つけたんですよね?」

「お、良く知っているね?」

「チゴさんに聞きました」

「なるほど。そうだよ、三年前のことだよ。リジーナは森の一番深いところで眠っていたんだ」そう言うと、リジーナの顔を見つめベット脇の椅子に腰を下ろした。二人が並んでいると、作り物のような人工的な美しさを感じさせた。

「あの、そのリジーナさんを見つけた場所、教えてもらって良いですか?」

「え?」

「ちょっと見てみたいんです。人が消えて、見つかった場所を」

「うーん、別に構わないけど。今更見に行っても、特に何もないと思うよ。もう七年も経つしね」

「私たちは父を探しています。この街に来て、初めて手がかりみたいなものを感じました。探せるところは探してみたいんです」

「なるほど。君たちにも事情があるんだね。後で地図を書いて渡すよ。くれぐれも、暗くなる前に森から出るんだよ。これが条件だ」

「はい、ありがとうございます!」

「さ、そろそろ診察を始めるから、出て行っておくれ。人に見せるものではないからね」

「あの最後に一ついいですか?」

「構わないけど?」サイボか怪訝な顔をする。

「マレーナさん、どこかお体が悪いんですか?」

「マレーナさんが? いや、特にそんなことは無いと思うよ。どうしてだい?」

「いや、なんでもないです。では失礼します」

「会えて良かったよ。診察が終わったら地図を渡すよ。君達はゆっくりしていくと良い。マレーナさん、君と話していると嬉しそうだから」


 部屋を出て廊下を進むと、窓から中庭が見えた。チゴが苗の仕分けをしているようだ。その時、服の裾を引っ張られた。振り向くと、クラの黒い目が真っ直ぐにこちらを見上げていた。

「さっきの部屋のお姉ちゃん、匂いが全くしなかった。」

「リジーナのこと?」

「そう。死んだ動物でも匂いはある。骨だけなら別だけど。何か変」

「うん、確かに変なんだよね。色々と」

 クラの黒目が不思議そうに揺れた。


 中庭に出てチゴに声をかける。

「チゴさん、その苗は?」

「これはね、アヘナって言う花だよ。とっても珍しくて、まあ昔はよく見かけた花らしいんだけどね。

 毒性も強くて、栽培するのには許可がいるんだ。最近はめっきり見ない幻の花なんだよ。紫と白、朱色のグラデーションもうすっごく綺麗なんだよね。良かったら一緒に植えていく?」

「ありがとうございます。でも、ごめんなさい!この後、森に行ってみようと思って」

「森に? 何でまた。そりゃ残念だけど気をつけてね。迷うと厄介だから。明日もまだこの街にいるのかい?」

「はい、今晩もこの街で過ごす予定です。出発する前に、また顔出します!」

「はいよ! 明日も良かったらお昼食べていくと良いよ。ま、作るのはマレーナさん達だけどね!」

 日に焼けた顔に浮かぶ皺は、清々しい。この人がいれば、この館の庭園は輝きを失うことは無いだろう。

 午後の陽ざしが翳る。ふと足元で何かが動いた気がした。視線を落とす。気のせいかと思った矢先、レンガの模様がずれた。それは、擬態したトカゲだった。ひゅるひゅると音を立てず、レンガの隙間に消えて行った。


 食堂に戻ると、マレーナが一人、テーブルで紅茶を飲んでいた。薔薇の香りがする。フラワーティーなのだろう。

「あら、ムギさん。今日は本当にありがとう。久々に楽しい気分になれたわ」

「こちらこそ、お昼までご馳走していただいてありがとうございました。妹は美味しいものには目がないので」

「お肉、とっても美味しかったです」クラの黒目は三日月型だ。

「クラちゃんも、今日はありがとう。美味しく食べて頂いたなら、私も嬉しいわ」クラはニンマリと笑う。

「また明日、お邪魔しても良いですか? この街を発つ前に、庭園を見ておきたいんです」

「もちろん。是非、昼食もご一緒に」マレーナが嬉しそうに微笑む。


 診療を終えたサイボが食堂に顔を出し、地図を受け取る。二人に別れの挨拶をし館を後にした。壁面を背にするこの館の出入口は正面玄関だけだ。門扉を出たところでクラをを見る。

「森に行くのは明日にしよう」クラが首を傾げる。

「サイボさん、しばらくしたら出てくると思うから後を追ってみよう。あの人、多分、嘘をついている」クラの黒目がやれやれと言っている。

 辺りを見回す。木立がまばらでうまく隠れられそうな場所がない。館から伸びる坂道まで行き、周囲を見渡す。葉の生い茂った楡の大木がある。人目につかないことを確認し、瞼を閉じて意識を眉間集中させる。踏みしめた小枝がパリパリと音を立てる。再び瞼を開けると木の枝が組み上げられた階段が大木の上まで伸びている。左足を乗せる。感触は軽い。あまり強度はなさそうだ。だが子供が上る分には問題ないだろう。高さ六メートル程まで上り、楡木の枝に足を乗せる。ここなら葉に隠れて館の入口を見渡せる。薄々勘づいてはいたが、以前よりスムーズに階段を出せるようになった。チョーチョパリ曰く、ココロの階段を登るほど私の階段の力は強まるらしい。「たくさんココロの階段を登りたまえ、それが元の世界に戻る鍵になる」その言葉に従い、ココロの階段を私達は意識して探している。あの適当なウサギの言葉を信じるのは悔しいが、階段の力が強まるのは本当だ。

 今回は、小枝の階段を作り出した。階段の材質は、その足場に起因する。岩場で作り出せば岩の階段、土の上で作り出せば土の階段、木の上で作り出せば木製の階段だ。

 程なくして、鞄を手にしたサイボが館から出てきた。楢木の葉に隠れて、こちらの姿は見えないはずだ。ここから街に下る道は一本道だ。焦らず、サイボが通り過ぎて視界から消えるまで待ってから下る階段を作り出し地面に降りる。早足で後を追う。坂道を降りると崖沿いに羊の放牧をしている農家が転々としている。羊達は斜面を彩る花々を食んでいる。サイボは金髪を風になびかせ、ゆっくりと歩いていた。距離をとって後をつける。確認の意味を込めてクラの方を見ると、黒目がやれやれと言っていた。「最近、確かに誰かの後をつけてばかりだよね」だが、気になることは無視を出来ない。

 街に入り役所の並ぶ通りを直進し、中央広場を抜け反対側の屋台のある通りに向かう。傾き始めた陽がレンガと花々を茜色に塗り替える。どうやらサイボの家はこの広場を挟んでマレーナの館とちょうど反対の場所に位置するようだ。

 途中、パニーニを売っている屋台に立ち寄り、再び歩く。夕飯を買ったのだろうか? ちらりと屋台に目をやる。ほんのり茶色い焦げ目のついたパニーニには紫キャベツ、トマトとハム、ベゴニアなどが挟まれている。後で買おう。

 屋台通りも終わりに近づき、民家がまばらに続く。なおも歩く。毎日この距離を往復しているのだろうか。やがて左手に灰色の岩壁が近づき、石ころだらけの坂道を登る。奥からゴー、ゴーと低い獣の唸り声のような音が響いてくる。さらに進むと右手にも岩壁が迫り、道が狭まる。その先は突然大きな渓谷になっていた。その広大な大地の裂目の遥か奥では、大量の水が上方から際限なく底の見えない谷底へ降り落ちる。白髭の龍たちが天から襲い掛かるような大瀑布。サイボの家はその渓谷に突き出す形で建てられていた。建物は平家で、木を組んで作られている。長年の風雨にさらされ、岩場に生えたキノコを想わせる。おそらく、元々あった小屋にサイボが移り住んだのだろう。

 サイボが周囲を確認してから建物の中に入る。死角になる岩の影からそれを確認し、ゆっくり六十秒数える。

「クラはここで待ってて」黒目が頷く。

 足音を立てずに小屋の右横に回り込む。二つある窓にはカーテンがかけられている。左側に回り込み、同じように窓にカーテンがかけられているのを確認する。崖に突き出た小屋の背面は見ることが出来ない。思いきってドアをノックしてみようか。でも何と説明すればよいだろう? 気になるので後をつけてきました? いや、ダメだ。周りを見渡す。ふと右手の崖の高さ十メートル程のところが段差になっているのが見える。その段差は渓谷の先まで伸びている。あそこからなら小屋の背面が見えるかもしれない。岩壁に近づき、足を開いて目を瞑る。顎を眉間に意識を集中する。

 ――私を上に連れていって

 足元の小石がカタカタと震える。開いた足の先の地面が盛り上がり、岩壁に向かい伸びてゆく気配がする。「お願い届いて」意識が遠のく気配を感じる。まだだ、あと少し。

 ズーンと深く低い音が微かに響く。倒れそうになるのを堪えて、ゆっくりと目を開ける。

 届いた。以前は八メートルぐらいが限界だった。やはり、チョーチョパリの言っていた通り、ココロの階段を登って来たことにより、作り出せる階段の高さが上がっている。

 息を整え、階段に左足を乗せる。地面の赤茶けた土と同じ赤土の階段。小石も混じっていて、強度は十分だ。気を引き締め、段差を見上げる。時間はかけられない。左右の足を動かし上る。街はずれの崖の荒野を見下ろす。岩壁に挟まれた窮屈な景色。程なく岩壁の段差にたどり着く。おそらくは、人が立ち入ったことのない場所。

 幅が二メートル弱程の岩場が渓谷に向かって伸びている。足元に注意しながら岩場を進む。流石にこの高さは下腹部が締め付けられる。風がないのが幸いだ。クラの姿を探してみるが何処にも見当たらない。うまく隠れたのだろう。岩場の下の地面が崖で途切れる箇所まで来た。小屋を見下すと、渓谷に面した側に窓があるのが見える。予想通り。窓の中を覗くには更に岩場を進む必要がある。しかし、ここから先は岩場の下は渓谷の底が見えない奈落になる。おまけに足場の幅も更に狭まる。壁を這うように岩場を進む。谷底から風が吹き付ける。止まってやり過ごす。窓にはカーテンが掛かっていない。更に二歩進む。瞬間、頭上からピヨピヨと鳥の鳴き声が聞こし、驚いてバランスを崩す。足をつきかろうじて落下を逃れる。心臓が異常な速さで振動する。

「やれやれしちゃうね」外的に襲われることのないこの岩場に巣を作ったのだろう。見上げると、雛達が物珍しげにこちらを見ている。ぐずぐずしていられない。親鳥が戻って来たら面倒だ。小屋の方を見ると、窓の中が見える。壁には人の手足のようなものが吊るされている。「何?」窓際にはテーブルと椅子があり、誰かが座っている。もう少し前に進めば顔も見えそうだ。首を伸ばす。その時、窓にサイボの顔が現れた。しまった、ここだと隠れようがない。サイボは渓谷の方を向いている。美しい金髪が揺れ、その青い瞳が岩肌をなぞりこちら向かってくる。その瞬間、小屋の入り口の方でドンドンと大きな音が響く。サイボが窓際から姿を消す。小屋の屋根を見ると、クラが現れこちらに向かって親指を立てている。どこまでも可愛い妹だ。このチャンスを逃してはいけない。一歩踏み出し、窓を覗き込む。座っているのは栗毛色の髪が美しい女性だった。上品な微笑み。白髪のないその姿は、先程写真で見たばかりだ。

「マレーナ……さん?」

 サイボが再び窓際には姿を現すと、割れた地面が元に戻るようにカーテンを閉めた。




 ――薔薇の階段〜壱――






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