2.いざ、執務室へ
コンコンと焦げ茶色の重厚感のあるドアを数回ノックする。
部屋の主の断りなく、フィーネは執務室の重たいドアをガチャリと開けた。
入室の許可が下りていないのに入るのは礼儀を疑われる。
しかし、呼び出された場合は返事を待たずとも入室しても良いというのがこの家の、家族間のルールだ。
執務室をぐるりと囲む焦げ茶色の本棚を横切り、フィーネは執務室の真ん中に置いてある、良質なワインレッドのソファに腰を掛けた。
ふかふかのクッションがフィーネのことを優しく受け止めてくれる。
フィーネが座ったのと同時に、初老の執事が優雅な手つきで紅茶を入れる。
コトっと音を立てて置かれた紅茶からは、ほんのりカモミールの匂いが漂う。
「ありがとう。」
礼を述べると、執事はにっこりと微笑みを浮かべ、一礼して去っていった。
ホッと息を吐き太陽の光が差し込む窓を背に手を動かし続けている男性を見やる。
アンティーク調の黒いテーブルには、テーブルが見えないほど大量の書類が積まれていた。
白髪混じりのミルクティー色をした短髪に、オレンジ色の瞳をした男性はひたすら手を動かし続けている。
この男性こそ、クロシェット伯爵家の大黒柱であり、先ほどフィーネを呼び出した、フィーネの父、ダリウス・クロシェットだ。
紅茶を飲みながら、手を動かし続ける父の姿をフィーネは黙って見守る。
先日の大雨でクロシェット領の特産品であるハーブが半分ほどダメになってしまったと兄から聞いた。父はその被害の対応に追われているのだろう。あの日は台風並みの大雨だった。きっと被害があったのはハーブだけではないだろう。
フィーネが住まう、グレイシア王国は緑溢れる自然豊かな国で農業に富んだ国である。
野菜などの農作物や色んな種類の果物が植えられている果樹園。紅茶の原料となる茶葉や花、ハーブなどが栽培されている。
(今の時期は特にいちごが美味しいのよね。クロシェット領では栽培してないから、お父様に頼んでわざわざ王都から取り寄せて貰ったのに……。旬のいちごが乗ったショートケーキ。とても美味しそうだったわ。……食べたかった。)
グレイシア王国の王都より少し南側に位置しているクロシェット伯爵領では、ハーブを育てている。コリアンダーやローズマリー、バジルといった食用のハーブが特産品だ。
(今の私では国の知識も領地の知識も乏しくて、お父様の力にも領民の力にもなれない。
でも、来月から学園に通うのだもの。不安はあるけれど……むしろ不安しかないけれど……。どうしましょう!!お友達できるかしら?そういえば、お母様が婚約者もそろそろ考えなくてはと言っていたわね。
こんな私なんかにお友達や好いてくれる方ができるのかしら……?できる気がしないわ……!引きこもってばかりの私のことを誰が好きになるの……?
いけない、こんなことばっかり考えてはダメよ。
ともかく、たくさん勉強をしてお父様とお兄様達の力になれるように頑張りましょう!)
不安は飲み込んで心の中で学園への気合いを入れ直す。
「フィーネ。待たせてすまなかったね。」
ハッとして父の方を見る。
父の顔が見えないほど積まれていた書類の山が、半分ほどに減っていた。
ぼーっと考え事をしてる間に、書類仕事がひと段落ついたようだ。
フィーネは父に向かって朗らかに微笑む。
「お疲れ様です、お父様。」
「ありがとう。難しい顔をしていたようだが、何か悩み事でもあるのかい?」
穏やかなオレンジ色の瞳が心配そうに揺れる。
「私もお父様の力になれるように、来月からの学園生活を頑張ろうと思っただけです。」
「そうか。この間まで友人ができるか不安だと、貴族令嬢に揉まれながら学園生活を送っていくのは無理だと言っていたが、前向きになれたようだな。」
父が心底安心した様子で微笑む。
大袈裟なほど安心した表情を浮かべる父にフィーネは苦笑するしかない。
(不安事が全て無くなったわけではないけれど、お父様にこれ以上、心配をかけるわけにはいかないわね。)
「その調子ならフィーネが苦手なやパーティーも大丈夫そうだな。」
それだけは無理です!と即答しそうになったが既のところで飲み込む。
父の安心しきった表情を見て、パーティーだけは慣れそうにない、なんてそんなこと言えるはずがない。
(伯爵家の令嬢として参加せざる得ないパーティー以外は、私が社交の場に出たくないと言ったら、出なくていいとお父様は言っていたけれど、本当は心配していたのね。)
5歳の時に初めて貴族のお茶会に参加してから、フィーネは伯爵家の娘として、令嬢として参加しなければいけない時以外は、社交の場、パーティーや舞踏会、お茶会などの参加をしてこなかった。
美しく着飾るのは嫌いでは無い。ただおしゃべりをしたり、スイーツを食べたりするだけなら良いのだ。
でも、社交の場が楽しいお茶会という訳がなく。悪意のある人の目や打算で近づいて来る者、平気で嘘を付く者がたくさんいる。
フィーネはそんな場所が怖くてたまらない。
怖い怖いと逃げているうちのいつの間にか、十五歳になっていた。そしてついに来月からは王都にある学園に通わなくてはならない。
逃げてきたフィーネに当然友人と言える人物がいるはずもなく、知っているといえば、王族の次に名を連ねる、公爵家の令嬢の名前と顔くらいだ。
貴族の義務のため、一方的に覚えてるだけであり、公爵家の令嬢はフィーネのことなどきっと知らないだろう。
(勉強を頑張るのと、交流をすることは全くの別物で、不安は消えてはいないけれど……。)
つい先ほど、フィーネは確かに、勉強を頑張るという意気込みをした。しかし、人間関係については気掛かりしかない。
友人ができるのか、という不安も変わらず消えていないし、フィーネよりも遥かに優雅な貴族令嬢達と一緒に過ごすことに不安しかない。
不安という感情が胸で大きく燻っている。
しかし、父を心配させない為にもフィーネは曖昧に微笑んだ。
「それより、大事なお話とは何ですか?」
もうこの話はお終いと言うように、フィーネが本題を切り出す。すると、父は引き出しから封筒を取り出した。
遠目から見ても封筒はとても豪華だった。封筒の外枠に金色の模様が入ったものを豪華と言わず何と呼ぶのだろうか。
こういう模様の入った美しい封筒は、身分の高い貴族から送られて来るものが多い。
フィーネは美しい封筒を前に逃げたくなるが、嫌だというのが態度に出ないようにソファから立ち上がる。
背筋を伸ばし優雅に、父から美しい封筒を受け取り裏に返す。
赤色の封蝋には王族の紋章が刻まれていた。
紋章を見た途端フィーネの体が小刻みに震え出す。
「お父様。この世には知らなくてもいいことがあります。王族の方からのお手紙は私が知らなくていいことだと思うのです。」
馬鹿げたことを言っているが、フィーネの顔は真剣そのものだった。そんなフィーネを見て父は大きなため息をつく。
「フィーネの言う通り、この世にはフィーネが知らなくてもいいことはある。だが、その招待状はフィーネが見ても問題ないものだから早く開けなさい。」
顔は少し厳しいものの、穏やかな声色で諭される。
(今、私の聞き間違えでなければお父様は招待状と言わなかった?
うぅ……。王族からの招待状なんて受け取りたくないわ。でも、相手は王族ですもの。……逃げれないわね。)
王族からの招待と早く開けなさいという圧力をかけてくる父から、逃げられないことを悟ったフィーネは、仕方なく手紙を開けた。
手紙は、第二王子の婚約者を決めるパーティーを開催するというものだった。