三力の申し子(1)
平坂 伊佐薙は田舎の住宅街を全力で走っていた。息が切れても、足がもつれても、伊佐薙は自分の命のために、背後に迫る異形からとにかく逃げた。
伊佐薙の苦労も知らない周囲の人々は鬼の形相で逃げ続ける彼をただ冷ややかな目で見つめていたが、彼にそんな目線を気にする余裕は一切なかった。
「あーもう、しつっこい!」
伊佐薙はネクタイを解いてカバンに突っこみ、制服の第一ボタンを開けて吐き捨てた。通学用カバンをリュックのように背負い、本気で走れるような体勢を整える。
終礼と同時に高校を飛び出て、二つほど角を曲がったところで、伊佐薙はそれらと目が合った。嫌な予感はしていたが、少しでも早く帰りたいという思いが先行して周囲の確認を怠ってしまった結果だった。
こうなってしまってはまっすぐ家に帰ることはできない。伊佐薙は家々の塀を乗り越えたり、駄菓子屋の看板などを使って身を隠したりして、無我夢中で自分を追う異形を撒こうとしていた。
伊佐薙を追う存在は一体だけではなかった。複数体で群れるようにして伊佐薙をねちっこく追い回してくる。残念ながら、これはいつものことだった。
今回も目視だけで四、五体確認できた。どいつもこいつも気色の悪い容姿をしている。これが見えるものにしか見えないというのも、いささか不平等な話だ。
一体は首から上が無いせいで歩くことも覚束無いというのに、その隣には逆に首から上が奇妙に肥大したようなやつがいる。壁を這っているやつはスライムのようにドロッとしていながらも何かの生物のようにうねっており、それでいて動きが速い。
しかし問題はさっきから空から伊佐薙を目で追い続けているあいつだ。老婆のようなものが肌色の翼でふよふよとホバリングしながら、下の奴らに指示を出し続けている。
あっちだ、違うこっちだ、といった具合で叫び散らすその姿は、まるで近所で有名な厄介おばさんのようだった。
伊佐薙はまずあの翼ババアから隠れるために、雨宿りするようにどこかの屋根に潜り込んでは、また次の屋根の下に逃げる、といったことを繰り返していた。相手の特徴をつかみ、逃げる方法を模索する。こんな必死の逃走劇も、伊佐薙にとっては慣れたものだ。
こんなのに追われ始めて、もう一年以上になる。十人いたら十人全員がそれを怪物と呼ぶような存在に初めて目を付けられたのは高校一年生のことだった。
伊佐薙は昔からこういった存在を見ることができたが、それまでは襲われるどころか見向きすらされたことがなかった。それは勿論伊佐薙の方からも避けていたからというのもあるのだろうが、たとえ目が合っても襲ってくる、なんてことはほとんどなかったように思う。
だからこそ、初めて襲われたときは腰を抜かしそうになった。今まで無害だった怪物達が、自分の顔を見るや否や血相を変えて追いかけてくるのだ。その恐怖といったら、どんなホラー映画にも勝ると断言できるほどだった。
伊佐薙はそれから今に至るまで、それまで以上に異形の者を避けるようになり、目が合ったり見つかったりしたらすぐさま逃げるようにしたのだった。
普段ならこのくらい距離を開ければあっちも見失って解散するはず―――伊佐薙はある程度走った後で小さなバス停に身を隠した。
そのバス停は日光と雨を遮ることができるくらいの仕切りに覆われており、正面からでなければ姿は見えないようになっていた。
「どこいきやがったあのガキい―――おい、諦めんな。あいつだってここでは人間同然だ。派手なことはできねえはずなんだ、まだ近くにいるぞお、絶対になあ」
「探せエ、探せエ―――」騒ぎ立てている翼ババアの下で、魑魅魍魎はゆらゆらと伊佐薙を捜し回っていた。
少し経ったが、まだ足音や自分のことを呼ぶ声がする。伊佐薙はバス停の割れたガラスの隙間から奴らの様子を伺った。
翼ババアの言動からして、どうやら一旦は撒けたらしい。伊佐薙は天井を見上げて肺に思いっきり空気を送り込み、それを一気に吐いた。何度か繰り返すうちに、狭まっていた視野が段々と開けていく。
ある程度落ち着くと、伊佐薙は額の汗を拭うと同時に、バス停から少しだけ頭を出してもう一度奴らを目視で確認した。
音でなんとなく察していたが、やはりゆっくりではあれど奴らが少しずつこちらに向かってきている。直にここも安全地帯ではなくなるだろう。あの翼ババアめ、見失っても尚勘の鋭いやつだ。
伊佐薙はまるで追い込み漁をされている魚のような気分だった。
伊佐薙は首を回して逃げ道を探した。
バス停の正面は当然道路に面しており、この道路に出るにしてもその時間はできる限り短くしたい。
辺りには数件の民家がある―――が、住人にあれこれを説明している間に追いつかれたらどうなるか分からないからそれは却下だ。
駅はどうだろう。いや、それもダメだ。駅はこの道路に繋がっている坂を下った先にある。翼ババアのせいで道路に出た瞬間見つかることを考えると、どうも現実的じゃない。
近くにコンビニかスーパーがあれば―――伊佐薙は考えた瞬間、ため息をついた。そんなものがここらにあるのなら、俺は最初からバス停ではなくそこを目指して走っている。
伊佐薙は悩んだ末に、視界の端の茂みに目をやった。
バス停からは少し距離があるが、あの茂みに潜り込んでそのまま山にさえ入ってしまえば、背の高い木々が翼ババアから自分を隠してくれる。
しかしこれは奇策も奇策で、正直伊佐薙は気乗りしていなかった。
「おまえたち、あっちだよお、あっち。そこらの家に入ったところは見てないからねえ。絶対にあっちの方にいるんだ、急ぐんだよお」
「おおー、おおう、逃がさない、ニガサナイ」
考えているうちにも気味の悪い声と足音は近付いてくる。伊佐薙はギリギリまで頭を回していたが、結局何も思いつかず、時間切れになると同時に一目散に茂みへと走っていた。
「イタ! あっちだよ、あっち。いたよ、見つけたよお」
後ろから翼ババアの声が聞こえる。それに合わせて他の奴らもうなり声を上げながら歩を進める。
見つかるのは分かってたさ―――でもお前らはこの先ついてこれんのかよ。
伊佐薙は目をかっぴらいてにたりと笑い、茂みに向かって全身で飛び込んだ。限界を超えてネジが外れている、今の伊佐薙にはその表現がちょうど当てはまっていた。
「待て、そっちはあ―――だめだあ、入れない。入れない―――」
翼ババアは宙に浮きながら頭を掻きむしっている。その声や挙動も一切気に留めず、伊佐薙は茂みに向かって走り続けた。
木の枝や葉っぱが全身を撫でるようにぶつかってくる。一応手で避けながら走っているが、無限に生い茂る草木にはほぼ無力だった。
しばらく走り続けた後。もうそろそろ―――止まってもいいか―――息も絶え絶えになりながら、そう思った瞬間だった。
「えっ―――」
何に躓いたのかも分からないまま伊佐薙の身体は横転し、ごろごろと落ち葉で敷き詰められた坂道を転がり落ちた。木の枝が目に刺さらないように半目になって走っていたせいか、伊佐薙は足元への注意が疎かになっていたのだった。
全身の至る所に規則性のない痛みが走る。伊佐薙は自分の身体が自然と動きを止めるまで、歯を食いしばってそれに耐えていた。
「くっそ―――しくじった」
ようやく落ち着いた伊佐薙は、苦悶の表情を浮かべながら身体を起こした。
首を回したり腕や足に力を入れてみる。どうやら大きな怪我はないらしい。伊佐薙はまずその事実にほっとして、大きくため息をついた。
伊佐薙は四つん這いのまま移動してすぐ側にあった土壁に背中を預け、遠くを見つめて耳を澄ませた。自分の心音が収まると同時に、周囲の音が鮮明になっていくようだった。
風に靡く草木の音、遠くから聞こえる車の音。伊佐薙は今ならどんな音でも聞き取れる気がしていた。
ある程度休めたところで、伊佐薙は重たい腰を上げて立ち上がった。
うわあ―――まじか―――
立ち上がると同時に目に入った制服は泥や落ち葉などで酷く汚れており、伊佐薙はつい声を漏らした。最近雨が降っていなかったのが不幸中の幸いだったが、それでも頭を抱えたくなるほどの汚れであることに変わりはなかった。
これ明日までになんとかなるのか―――? 伊佐薙が顔をしかめていると、その瞬間伊佐薙の背後で何か物音がした気がして、彼はすぐさま身を伏せた。バッグで顔辺りを隠し、姿勢を低くしたまま先ほどまで座り込んでいた場所まで移動する。
一定のリズムで土を押すような、キシキシという音。間違いない、何かの足音だ。
伊佐薙が山に入りたくなかった理由。それは服が汚れるからでもなく、迷子になるからでもなく、ただ一つ"山の妖は町中にいる妖より強い"というのが定説だからだった。
妖とは今伊佐薙を追っているような異形のもののことを指し、ほとんどの人間の目には見えないものの総称だった。
山には大量の妖がいる。それはひとえに人間が少なく妖にとって都合の良い場所であるからなのだが、それだけの妖が一カ所に集まれば当然妖どうしの諍いは避けられないものとなる。
その諍いは彼らの間に強弱を生み、自然と階級を作り上げるに至る。結果、山では妖が町中よりも一層熾烈な争いを繰り広げることとなり、全体の妖のレベルを底上げしてしまっているのだった。
そんな山という環境でトップに君臨する妖なんてのは、町中ではまず見られないレベルの妖であり、関わったらまず無事では帰れないとされている。
この山にだって、そういう強力な妖がいないとも限らない。
以上の理由から、伊佐薙はこの山で起こる物音に全力で怯えているのだった。
息を潜めて、自分を完全に自然の一部だと思い込む。その間にも足音は近付いてくる。
―――それにしてもリズムが一定すぎる、まるで目標が決まっていて迷いがないようだ。
これは―――見つかっているかもしれない。そう思うと、伊佐薙は身の毛がよだつ思いだった。
それでも伊佐薙は藁にも縋る思いで顔だけは隠し続けた。奴らが自分の何を判断基準にして追っているのかは分からない。ただ、もしそれが顔だった場合、顔だけ隠せればなんとかやり過ごせるのではないか、と思ったからだった。
そのとき、ピタリと足音は止んだ。その存在は真上にいる。足音からそいつの場所は割れていた。
「あのう、大丈夫ですか。怪我、してませんか。すごい音がしたから、来てみたんですが」
その声は疑いようもなく、人間そのものだった。しかしまだ伊佐薙は油断しなかった。過去にも"人間の姿を使った誘い出し"といった手法で伊佐薙を騙そうとしたやつがいたからだ。操られている可能性もある。
まだだ、まだそっちを向いてはいけない。そう思ったときだった。
「ああ、大丈夫です。すいません、心配かけてしまって」
伊佐薙は顔を隠していたカバンを腕に持ち替え、その存在の方へと声をあげた。
そこにいたのは至って普通の農家のような格好をした小太りの男で、鍬のようなものを杖にして坂の上から伊佐薙のことを見ていたのだった。
良かった、普通の人間だ。多分操られたりもしてない、伊佐薙は直感でそう判断した。
「そうですか? ならいいですけど、見たところ学生でしょう。帰り道とか、分かりますか」
伊佐薙は目を輝かせた。きっと彼はこの山を熟知している。彼に頼めば、安全に脱出できるかもしれない。
「はい、大丈夫です。今学校の課題で植物の観察してたんですよ。ここら辺結構珍しいものも多いので、もう少し見ていくことにします」
伊佐薙の口は思っていることとは真逆のことを口走っており、その顔には不敵な笑みが張り付いていた。
違う、違う違う。俺は、助けを求めたいんだ。今すぐ、彼に頼ってここから出たいんだよ。頼むから、俺の心を読み取ってくれ。この際能力でもいいから、彼がそういう能力を持っていてくれ。
その叫びは、決して口から出ることはなかった。
「そうですか、なら安心しました。私ね、ここにタケノコを掘りに来たんですよ。しばらくはこの辺にいると思うので、またなにかあったら言ってください」
「タケノコですか、いいですね。ありがとうございます、そうさせて貰います」
鍬を振って爽やかに去って行く男を綺麗なお辞儀で見送りながら、伊佐薙は自分の唇を噛みしめていた。
また、邪魔しやがったな―――握りしめる拳には血が滲んでいた。
能力名、多重面相。この能力は伊佐薙だけが持っている個性であり、呪いだった。
遙か昔から妖と人間が関わり合ってきた世界。この世界には三つの強大な力が存在する。
一つ、それは妖力。妖が扱う力のことを指す。
妖は魂を核とし、外殻を己の妖力で作り出して実体化させている。つまり妖とはいわば妖力の固まりであり、その妖力の種類によって見た目も変わるのである。
本来、妖力といえばそれだけのものだが、中には妖力が変質した"妖術"という独自の力を持つ者も存在する。それを持つ妖、即ち強い妖ということになり、そういう奴らは総じて"妖怪"と呼ばれたりする。
そしてそんな妖怪の中でも更なる上澄み、妖の頂点と言われているのが、大妖怪と呼ばれる伝説級の妖なのである。
二つ、それは能力。選ばれた人間が神から授かったギフトのことを指す。
能力は選ばれた人間が生まれる際にランダムで授けられ、その者の成長と共に能力も成長すると言われている。
能力は人間が持ちうる異能の中で唯一、妖に直接干渉できる力であり、人呼んで能力は"人類の神器"と呼ばれることもある。
能力の種類は非常に多岐にわたるが、それらを極めることさえできれば、その人間は人間を超越した存在にもなれるという。第一、そんな者が現れれば、の話ではあるのだが。
三つ、それは数式。人間が編み出した数式を元に、現実世界のあらゆる数値に干渉できる力のことを指す。
古代から人類はこの世の理を数多の数式で解明してきたが、それと同時に人類は妖に対しての対抗手段も研究し続けていた。
そしていつの日か人類は神の力を借りることで、既存の数式の変数にあたる数値を観測し、それを自由に操作することができるようになった。それが数式である。
当時の数式使いは数式の力が自分らの代で途絶えてしまうことを危惧し、自分らの死後に数式だけでも、能力のような形で未来の人間達へ備わるように設定した。その結果、数式という力だけが時を渡って今現在も存在しているのだった。
しかし、数式は妖に対して直接干渉できないという欠陥があった。それ故に、数式は"人間特化の異能"と言われることもあるという。
三つの力はそれぞれがそれぞれを監視し続ける。どれかが膨れ上がれば、他の二つで抑えつける。そうして何も持たない人々の平穏は守られている―――多くの人間はそう教わっているし、そう信じている。
だからそこらを歩いている人々はのんきな顔をして毎日を送っていられるのだ。
だが、現実はそんなに単純ではなかった。
三つの力、人呼んで三力は、それこそ種類が明確に分けられているからこそ三権分立のような見方をされるが、ある者に力があれば、それを行使するのもその者次第。
はなからそんな理想論は叶うはずもなかった。
そうして生まれる三力による被害や事故を、人々は"三力奇譚"と呼んでいた。
多重面相、これは生まれながらに伊佐薙に宿っていた能力だった。
その性質は"あらゆるコミュニティへの適応"。ひとたびこの能力を使えば、伊佐薙はどんな環境にいても違和感のない存在となることができる。それがたとえ難関大学の研究生で構成されたコミュニティであっても、老人ホームのおばさま達で構成されたコミュニティであっても、伊佐薙はその場にすぐ馴染むことができた。
こう聞くと、この能力が非常に優れたもののように聞こえるかもしれない。だが、この能力には重大な欠点がいくつかあった。
まず、この能力を使ったところで、今まで備わっていなかったような知識や身体能力が宿るわけではない、ということだ。あくまで"周囲の人間にとって違和感のない存在になる"ことができる、というだけで、いきなり周りに感化されて秀才になることは叶わないということだ。
もしこの能力を凄腕のスパイとかが持っていたなら、きっとどんな状況でも身分を偽れる天才スパイになることができただろう。伊佐薙は何度もそういう妄想に耽ったことがあったが、結局宿っているのはなんの取り柄もない一高校生。なんとも勿体ない話だ。
そしてもう一つ、これは多重面相に限った話ではないらしいが、伊佐薙にとって一番厄介な欠点があった。それは"能力の制御が効かない"という点だ。
伊佐薙には多重面相を発動する権限すらない。これが、伊佐薙が能力を呪いだと言い張る所以だった。
伊佐薙の多重面相に至っては、ほとんど常時発動状態のようなもので、物心ついた頃から伊佐薙は満足に人と関われていなかった。
辛い、苦しい、助けて欲しい。そんなことを思っても、相手が自分を本気で助けたいと思っていてくれない限り、勝手に多重面相が発動して当たり障りのない言葉だけが口から漏れ出るのだ。
しかも能力によって態度までもが完璧なせいで、誰も自分が本心を言えていないなんて気付かない。
そんな能力を持っていたからか、幼い頃から伊佐薙の周囲に人は尽きなかった訳だが、伊佐薙からしたらそんなものは何の意味もなかった。どれだけの人に囲まれようが、ただ、ずっと孤独が付きまとっていた。
今もそうだ。伊佐薙の完璧な演技のせいで、男は自分に背を向けてすたすたと去って行く。自分の助けが届くことなど、今後一切無いのだろう。
伊佐薙は力なく立ち上がった。そうだ、これで良かったんだ。彼を妖との追いかけっこに巻き込まずに済んだのだから。見たところ、彼には妖が見えていないらしい。そんな人間が妖に襲われなくて本当に良かった。
伊佐薙はしばらくそのようなことを呟き続け、自分に言い聞かせた。
今はとにかく歩こう。見たところ、この山は思ったより妖がいないらしい。嬉しい誤算だ。
伊佐薙は再び顔をカバンで隠しながら、とぼとぼと道なき道を歩いて行った。
読んでくださりありがとうございました!
もし面白いと思っていただけたら、次の話も読んでいただけると幸いです。




