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バターの溶かし方  作者: マイナス皇太子
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 彼女は不安だった。何をしていても憂いで、常に自分の存在に触れていないと平静を保てなかった。流行に敏感なクラスメイトに教えてもらった、歌詞が空っぽなチルミュージックを聴いても、期末テストの点数が上出来でも、放課後告白されて、その場しのぎで了承した彼氏との公園デートをしていても、決して彼女の不安は解消されなかった。そんな彼女にも少しだけ気分を晴らす娯楽があった。いや、こうなった原因でもあるから娯楽というよりはドラッグに近いだろうか。ずばりSNSだ。特にひいきにしているInstagramは彼女にとって無くてはならない、生き甲斐に等しい存在で、フォロワーの数は5桁を超えていた。Instagramは自分自身を自由自在にカスタマイズすることができ、加工アプリと時間さえかければ、理想に掲げたどんな自分にでも仕立て上げることができる魔法のアプリだ。赤の他人からいいねやフォローを貰えれば自身の存在が認められた確かな証拠であり、彼女にとって、その認印が押される時に最高に生を感じ、自身の存在を証明する事ができるエモーショナルな瞬間だった。その余韻が漂う僅かな時間だけ彼女は胸に突き刺さる不安の棘を一時的に忘れることができたのだ。ただ勿論ドラッグには副作用がつきものであることを忘れてはいけない。

 Instagramでの彼女は、まるで別人であった。自身の眼球を西洋人形のような大きさに加工したり、大して好きでもないスターバックスに通い、欠かさず新作商品をチェックし、興味のないYSLの化粧品紹介を毎日のように投稿していた。そんな彼女がInstagramに投稿し始めたきっかけは、ごく一般的であった。エマ・ワトソン程の美貌を持ち合わせていなければ、氷の上で華やかな回転もできない。そんな平凡な自分を誰かに認めて欲しいという一種の承認欲求の芽生えからである。せっかく投稿するのなら自身が理想に掲げている女性の投稿の真似をして完璧な女性を演じてやろう。誰にも触れられない存在になろうという強い気持ちで投稿し始めた。元より彼女はお洒落とは縁のない人間だった。週末には決まって友達二人とカラオケに夜まで入り浸り、夕飯はサイゼリヤ一択であった。チップスと炭酸飲料をつまみながら深夜アニメを見ることが何よりも好きな常並みな少女だった。だから最初のうちは無理やり週末にお洒落なカフェ巡りをしたり、美しさ肌のために宵寝する事を息苦しく感じたが、お洒落になるには多少の忍耐も必要だと思い割り切った。そんな彼女の投稿は若い女性を中心に大反響を及ぼして、アカウント作成からわずか半年たらずで六万人のフォロワーを獲得した。彼女自身にも熱烈なファンができて「お洒落でセンスのいい完璧な美少女高校生」と大々的に持ち上げられ、たちまち女性の憧れの対象となった。初めのうちは全てが新鮮だった。鳴り止まないフォロワーからのラブコールや自身をカスタマイズする楽しさ。男からの誘いも絶えることはなく、企業から商品の案件まで来た。今までの人生で受けたことのない特別な扱いを受けたのだ。当然彼女は画面越しに写る非の打ち所がない自分を好きになっていった。それと同時に、鏡越しの自分をひどく嫌うようになった。Instagram上の自分とのギャップを漏れなく映し出す鏡を見るのが怖くて、毎朝洗面所に立つことさえ怯えるようになった。だから彼女は流行りの好きでもないチルミュージックをリンゴマークの白いイヤホンで聴いて、見た目だけで評判の下品なスイーツに金を費やし、真っ赤なYSLのグロスを塗りたくった。そしてフォロワーからの期待に応える為なら何だってした。もっと痩せなきゃ。もっとお洒落な生活をしなきゃ。もっと人形にならなきゃ。彼女自身も、自分が自分でなくなってきている感覚はあったが、Instagramをやめることはできなかった。理由は単純明快である。気持ちがいいから。他人からの賞賛のシャワーはどんなドラッグよりも気持ちがいい。人間気持ちが良いことには素直であり、とことん無力だ。きっとあのガンジーだって性欲には抗えないだろう。


 Instagramにとらわれ始めてから彼女は変わっていった。フォロワーからの容姿に関する賞賛で、自分を毛穴の無い妖精だと本気で思い込んだ。体重が40キロを超えてしまうのを恐れ、学校の昼休みに皆が机を並べて楽しい食事をする中、彼女は校庭にある水道水で腹を満たした。それでも空腹に耐えられない時はミント菓子で誤魔化した。母が早朝に作ってくれたお弁当はバレないように、毎日帰り道のコンビニの可燃ごみに捨てた。夕飯決まって果物とゼリーだけの生活を続け、常に骨と臓器だけのミイラのような身体を維持した。携帯越しの彼女は洒落たカフェに行くことが好きだったので、カフェに行って、写真映えしそうなものを注文し、写真を撮ったら一口も食べずに去ることが日常と化していた。まさにYONCEが歌うように、並ぶためにパンケーキを食べた。排便をする妖精なんていないので、限界まで溜め込み何度か病院に運ばれた。夜中に突然奇声を上げてベットの上で暴れ始め、父親が身をもって止めにいくと、彼女は膝から崩れ落ち、わんわん泣きながら自分の肌を搔きむしることもあった。まるで何かに訴えかけるように。そんな彼女の様子に家族は心配して、何度か理由を問いただしてみたが、彼女は一切答えなかった。というのも彼女自身も何が自分をそんなに苦しめているのか全くもって分からなかったのだ。だから答えられなかったのだ。家庭は裕福な方だし友達も少ないわけでもない。進路も決まっているし、来年からは憧れの一人暮らしだ。ただ、明日にでも自分が消えてしまうんじゃないか。そんな不安があるだけだった。


蝉時雨が頭皮を焦がすような炎天下の中、彼女は六限目の生物の授業を受けていた。丸眼鏡がよく似合う天パの教師が、意気揚々と黒板に石灰石を打ち付ける。今日のテーマは“生命の誕生”だそうだ。あーくだらない。どうせ生命の誕生の仕組みを知った気になって、神秘的!生命の誕生ってまるで奇跡ねって結論にこじつけたいのが目に見える。黒板に著しく大きく描かれた子宮を指示棒で突っつきながら、天パは何かを説明している。退屈な講義を遮断するために彼女はイヤフォンを耳に当てて左の窓を見た。この窓に映る自分は果たして自分なのかな。窓に映る彼女は答えない。こっちを見て嘲笑しているようにも見えた。彼女のイヤフォンから聴こえのはチルミュージックではなくハードロックだった。自然と彼女の体が揺れてリズムよく机をタイピングする。今の私はロジャー・テイラーそのものだ。そうこうしてるうちに「生命の誕生」の仕組みは終盤を迎えているようだ。やっぱりあの教師、神秘的で片付るつもりだ。こんな生産性の無い勉学に励むくらいならInstagramにアップするスイーツの写真を撮りに行きたい。そうだ、放課後にあのお店に行ってみよう。いつも通学中に通りがかっていたけど、行ったことのないワッフルのお店。誰も開拓していないような個人経営店を一足先にInstagramに投稿できれば、スイーツに通な自分を演出できる。そんな女子高生素敵じゃない?もちろんワッフルなんて一口も食べずに店を出るつもりだけどね。そう思い立った彼女は退屈な高等学校の6限が終わると同時に、苗字すら知らない彼氏の誘いを華麗にスルーして、目的地へ1人で向かった。

 駅から徒歩三分、誰にも気付かないような路地にあるそのワッフル屋は、路地の一番奥にひっそりと佇んでいる。まるで人目を避けているかのようだ。年季の入った小さなコンクリートの建物で、まるで森の博物館だ。店の両脇には二つの健やかな面持ちをした地蔵菩薩がある。錆がかって汚れている置き看板には「星空ワッフル」と渋い字体で紺色のペンキで記されていた。星空ワッフルか、ハッシュタグを付けるのは控えよう。彼女は半締まりの鈴が付いた軽いドアを開けて店内に入った。


 暗かった。店内は薄暗く肌寒い。カウンター席が店の大部分を占める大きさで、独りでに動く空調が、不気味な空気を漂せていてなんだか重苦しい。調理器具が入ってるであろう棚の上に置かれた招き猫がこちらをじっと見つめてくる。窓は2つあるが、どちらも空いておらず、ところどころひびが入っている。客は1人もおらず、それどころか店員もいない。途端に不安に駆られ引き返そうかと思った矢先に「いらっしゃい。」と偉く低い声が奥の方から聞こえた。びっくりして凝視すると、白髪だらけで髪はボサボサ、目は開いてるのか閉じているのか不明で、ヨレヨレな白衣のような物を着ていながら、ヤシの木柄のビーチサンダルを履いている。多分日本で一番ワッフルが似合わないおじさんが厨房から出てきた。

「座りな」 とおじさんは顎で席を指した。

「あ、はい」 彼女は一番端っこのカウンター席に腰を下ろした。

「一人かい」

「一人です」

「珍しいよ」

そう言って店主はメニューを渡してきたや否や

「ワッフル。食いに来たんだろ」 と嬉しそうな声のトーンで聞いてきた。

「あ、はい…。あのワッフルにトッピングとかって出来ますか?」

と聞くと店主は不思議そうな顔をして

「そんなもんない。ウチはワッフル屋だからな」 と言い厨房にスタスタ行ってしまった。

最悪だ。どうしてこんな店に入ってしまったのだろう。私と店主2人しか居ない状況で、一口も食べずに店を出るなんて絶対できっこない。それもあの頑固そうな店主の前なんて以ての外だ。そもそもトッピング無しで写真映えするはずがない。隙を見てカバンに詰めこんで帰ろうか。お代だけ置いて今のうちに帰ろうか。彼女は色々考えたが、どれも現実的ではなかった。外では油蝉が騒いでいた。そうこう考えているうちに店主が厨房から近付いてきたので彼女は観念してワッフルを出迎えることにした。

「出来たよ。星空ワッフルだ。生地に蜂蜜が練り込んであるからそのまま何も付けずに食べな」

と言って端っこに座る彼女の席の前に真っ白な皿を置いた。

目の前に皿を置かれた瞬間、焼きたてのワッフルの豊満な香りが彼女の身体を包んだ。脳内で地崩れが起き、久しぶりの焼き立ての固形物思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。見た目はごくシンプルでありながら、典雅な銅色をしたそのワッフルは贅沢な衣を羽織っていた。

彼女は自然に制服の襟を整え、取り憑かれたかのようにナイフとフォークに手を伸ばしていき、Instagram用の写真も撮らずに、ゆっくりとワッフルを切り裂き始めた。ナイフでいとも簡単に分断されたワッフルと三秒間見つめ合ってから、意を決してゆっくりと口にフォークを運んだ。ワッフルが舌と軽いハイタッチをしたその瞬間 、彼女の全身に砲弾が撃ち込まれたかのような重い衝撃が走った。体温で溶けたバターの奥ゆかしい旨みと練り込まれた蜂蜜のほんのりとした甘み。甘ったるさなど微塵もなく、脳内にこびりついていた毒素をみるみるうちに浄化させていく。彼女の体内が欲しがっていたものへと変換された。徐々に彼女は生暖かい安心感に包まれ、ずっと抱え込んでいた何かをすっかり忘れていた。

「…おいしい」 思わず口に出してしまった。

彼女はハッとしたが、今はそんなことはどうでもよかった。我を忘れて次々と口にワッフルを放り込んでいく

「姉ちゃん。ろくに食ってないだろ。」

店主はいつの間にか火をつけた煙草を咥えて小さなイスに腰掛けたまま話しかけてきた。

「実は最近食欲が無くて」

「だめだよ。美味しいもの食べなきゃ。人間やっていけないよ」

「人間か。私はもう人間じゃないのかもしれないです」 

「ワッフルの味が分かるうちは誰だって人間さ」 

そう言うと店主は灰皿を叩き彼女のカウンター席の隣に座った。

「ワッフルは好きかい」彼女のテーブルに肘をついて聞いてきた。

「私、こんな美味しいワッフルを食べたのは初めてです。味はシンプルだし、トッピングも何もない。それなのにどうしてこうも豊満な味になるんですか??」

「バターだよ。」

「はい?」 彼女は間抜けな返事をした。

「ウチのワッフルの美味さの秘訣はバターの溶かし方にあるのさ。」

「バターに溶かし方なんてあるんですか?」 彼女は怪訝そうに聞いた。

「あるさ。バターの溶かし方が雑な店のワッフルは人間の食べるものじゃない。バターってさ、何にもしなくても時間が経てば勝手に溶けてくれるし、ちょっと火にかければすぐ溶けるだろ。けれど、そんな溶かし方じゃ生地とバターが分離してワッフルが台無しになっちまう。少しずつ温度を調整してバターを溶かすように溶かすことで、後味がスーッと心地いい溶かしバターができるのさ。」 とおじさんは静かに言った。

「溶かすように溶かすか…」彼女は静かに復唱した。

「これはバターに限った話じゃないさ」

なるほど。このおじさんになら話してみる価値があるかも。そう思い立つと

「確かにそうかもしれません。あの、一つ伺いしたいのですが、おじさんの目には私が何人映っていますか。」と大胆な質問を投げてみた。

しかし、おじさんは表情一つ変えずに

「一人には見えないね」と言った。

「どうしてそう見えますか。」彼女は目の色を変えて聞いた。

「お嬢さんが人間だからさ」おじさんは微笑みながら言った。

「どういう意味ですか。」

「人間誰しも複数の自分を持っているのさ。それが自分の憧れの姿なのか過去に沈んだ自分なのか、SNS上なのかも人それぞれだ。皆自分の中に何人も自分を抱えているんだ。それはヒトラーだって同じさ」

「私の母もそうなんでしょうか。」

「もちろん。君のお母さんだって」

「何人いたっていんでしょうか。」彼女は食い気味で聞く。

「自分は一人でないといけないなんて法律はないさ」おじさんは笑いながら言った。

「私の中には私がもう一人ると思います」彼女はナイフを手に取ってそう言うと

「そして私の中の私は私に意地悪です」とワッフルを切り割きながら続けて呟いた。

「そうかい。自分同士で喧嘩しちゃいけないよ。上手く共存しなきゃ。一人だけ特別に可愛がるんじゃなくて、自分全員を満遍なく愛してやってくれ。そうしたらきっと上手くいくさ。」

私の心が分かっているかのようにおじさんは答える。まるでカンニングペーパーでも持っているかのようだ。

「おじさんに承認欲求はありますか。」彼女はワッフルを頬張りながら聞いた。

「当然あるさ。人間誰かに認めてもらいたいっていう欲望とは死ぬまで付き合わなきゃいけない生き物だよ。ただ奴は注意深く飼わなきゃいけない。放し飼いにしておくと、腹ペコな時に飼い主を食い殺しちまう。だからって奴の事を殺そうだなんて馬鹿なことを考えるなよ。奴を殺すことは自分を殺すことに繋がるからね」

それを聞いた彼女は“生命の誕生の仕組み”を思い出した。なるほど自分も生命だったのか。

「私は“奴”から産まれた自分の事を愛しすぎている気がします…」

「そうだね。お嬢さんの場合、少し我儘を叶えすぎてる気がするよ。自分にトッピングすることは悪いことではないし、愛情の証だと思う。ただ、過度になりすぎるとネットで噂の下品なスイーツのように、味にまとまりが無くなったり本質を失ってしまうことがあるんだ。だからさっき言った通り、同じくらいの愛情を鏡越しの自分にも与えてあげることが大切なんだよ」

「でもやっぱり今は毛穴が無くて皆に求められている自分が一番好きです。どうしたら鏡越しの自分も好きになれますか。」そう聞くと

「きっと時間が解決してくれる、けどそれじゃダメなのさ。溶かすように溶かさなきゃ後味が悪いからね。ゆっくりでもいいんだ。自分を見つめ直してみなさい。今すぐに全員を愛せなんて無茶な事は言わないよ。」

おじさんは慰めるかのように優しい口調で答えた。

「今日だって本当はワッフルが食べたくてここに来たわけじゃなくて、ワッフルを食べる自分が可愛くて来たんです…」

「美味しいものを食べるのに理由なんていらないさ」 おじさんは更に優しく答えた。

「おじさんはワッフルと私の事なら何でも知ってるみたいです。また食べに来てもいいですか。星空ワッフル。」 

彼女はクシャっと笑って言った。

「いつでもおいでお嬢さん」 

おじさんもクシャっと笑った。

店を出ると大げさに外で騒いでいた油蝉は、いつの間にか鳴き止んで、ハイビスカスの花弁へと変わっていた。ひらひらと舞い落ちた花弁が、むさ苦しかった夏の終わりを告げる。暑くて痛くてたまらなかった夏の残り香が彼女の背中を押した。ふと自分の胸に手を置いてみた。彼女の棘はいつの間にか濃厚なバターに溶けていた。



はじめまして。今回初めて作品を投稿させて頂きました。本作は長編物語になる予定ではありますが、当方高校生でして、更新頻度はまばらになるかと思われますが、ぜひ楽しみにしていただけると幸いです。

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