第六話(完結)
そこはずいぶん大きな議場で、部屋の中央には三十人ほどが向き合って座れる、長円の巨大な卓があった。その円卓の上に飾ってある鷲の彫刻で飾られた置き時計や、座っている人間の身なりの豪華さが、近づきがたい雰囲気を強烈に演出していた。
そこで、円卓には近づかず、部屋の両側を見渡してみると、周囲の壁に沿って、多くの人が立ち並んでいた。船内で見かけた人も数人いるのだが、どうやら彼らは理論発表者ではなく見物人らしい。彼らは興味深そうに中央の方を眺めながら、金色のグラスにそそがれたシャンパンを飲みながら、気の合う数人でひとかたまりになり、何か楽しそうに話し込んでいた。人恋しくなっていた私は、そのガヤガヤとした声につられて、壁のほうへ歩もうとした。しかし、友人から「おいおい、君はそっちではないだろう。いいからこっちへ来たまえ」と呼びつけられ、中央の円卓の方へ行かざるを得なくなってしまった。見ると、友人は赤い豪華なドレスを着込んだ婦人と話していた。私が近づいていくと、彼は取ってつくったような笑顔を浮かべ、「さあさ、この人が昨年この会で最も高い評価を受けた人だよ。君も今のうちから、お近づきになっておいたほうがいい」などと、その女性を紹介した。
「あっ、どうも。ご高名は……」と私は軽く挨拶した。体調が悪く、頭がうまく働かないが、この女性は見たことがある。昨年、何かの授賞式で表彰され、「これからもがんばりますので、皆さんも、私の相手になれるようもっとがんばって下さい」などとふざけた発言をした女だ。その女性は、私のことを視界に捉えると、不適な笑みを浮かべ、話しかけてきた。
「あら、紹介してくれなくても、この方は知っていますよ。昨年、あなたの作品もかなりいいところまでいったんですよねえ。もちろんおぼえてますよ。今日は一緒に審査の方、がんばりましょうね」
「は、はい、どうか、よろしく」
自信のない私の返事を聞いて、友人が追い打ちをかけるように、「先生、この人は学者や研究者が気に入らないらしくて、本日も、今回集まる高名な先生方に何やら文句を言いに来たそうですよ」などと、不敵に笑いながら余計なことをしゃべくった。それを聞いても、女は全く動揺は見せなかったが、声には力を込め、「まあ、それはずいぶん乱暴なことをおっしゃいますね。でも、昨年のあなたの作品も私に言わせれば、そこまで優れたものでは無かったようですけど」と言い放った。私は女のその言葉に動じなかった。あの作品は、自分の部屋で寝っころがって、利き腕ではない手で、てきとうに書いたようなもので、それほど高く評価されては、私自身も困るのだ。顔色を変えることもなく、私は目の前にあるイスに腰を下ろそうとした。そして、何の気もなく、少し顔を上げ、天井を見上げた。天井はモヤがかかっていて見えなかった。私はその時、一瞬にして顔面の温度が下がり、血の気が引いていくのを感じた。
「き、霧だ! こんなところにも霧が!」
私の叫び声を聞いて、友人とその女も上を見上げた。しかし彼らには何も見えないようで、不思議そうな顔をしながら、首を傾げると、互いに顔を見合わせた。
「なんだい、何も無いじゃないか。何だい霧って」
友人はそう言うと、僕の右手を掴んで、手前にあるイスに無理矢理座らせた。
「まあ、少し落ち着きたまえ。君にこれ以上の醜態を晒されると私が困るんだ。お偉いさんがたの前だからね。しかし考えてみれば平静を保てというのも無理なのかもね。君にこんな大仕事はやはり難しかったのかもしれないねえ」
二人は腹を抱えながら、下品な声で笑い出したが、私にはその声がうるさくてしょうがなかった。赤い服の女性は真顔に戻り、話を続けた。
「それで……、我々学術者に、どのような文句があるのでしょうか。私でよろしければ、代表として、お話を伺いますけど」
私は頭が痛くてしょうがなかった。右手で前頭部を押さえながら、なんとか言葉を発した。
「いや、しかし、あなたたちはすぐに物事を数字で言い表そうとするじゃないですか……。人間の能力を数値で判断するというのは……、まず、おかしいじゃないですか」
私はそんな言葉を呟きながら、その女の方へ顔を向けたが、彼ら二人の顔は煙幕でもかけられたように真っ白で、よく見えなかった。わかった。霧のせいではなく、私自身の視界が狭くなっているのだ。きっと、悪い病気にかかったんだ。そこまで考えが至ったとき、再び、呼吸が苦しくなってきた。さっきよりひどい。右胸もキンキン痛む。私は自然とイスから立ち上がり、出口の方に足を向けた。
「おい! 待てよ! どこへ行くんだ?」
友人が後ろから叫んでいるが、私はもう、この時にはこの友人のことも、この理論会の審査のことも、どうでも良くなっていた。しかし、なんでこんなところまで来てしまったのだろうか。来るんじゃなかった。私は何とか家に戻りたかったが、それは難しいように思われた。息が苦しくて、顔をしかめる私を見て、周りの人間たちがガヤガヤ騒ぎ出した。しかし、「あの人体調が悪そうでかわいそうね。私は平気だからいいけど」というような中途半端な同情の視線が一番痛いのだ。そんな人間たちの無責任さに腹が立った。私はなんとか議場から抜けだし、廊下に出た。
通路の雰囲気は一変していた。長い、来たときよりもずいぶん長くなっている。私は左手で顔を覆い、右手で胸を押さえながら、ふらふら歩いた。このまま死んでしまうにしても、できるだけ自分の場所に近づいて死にたかった。しかし、もう遅いかもしれない。なんでこんなところまで来てしまったのか。私は必死の思いで歩き、ようやく建物の外へ出た。
だが、外はすっかり霧に覆われてしまい、どこもかしこも真っ白だった。来たときにはかすかに辺りの光景が見えたが、今はもう何も見えない。仕方がない。とにかく船へと、ナマズの形をした船へ。そう念じながら、足を引きずり、先程の小高い丘の上まで戻ってきたが、この島のどこを見回しても、船など見あたらなかった。いや、最初からそんなものはなかったのかもしれない。困り果てた私が、そこから建物の方を振り向くと、小さく友人の姿が見えた。彼は口を大きく開けて、何か叫んでいたが、もう何も聞こえてこなかった。あるいは『まだ、取り返しはつくから戻ってこい』と言っているのかもしれない。
私は「もう、いいよ」と一言つぶやき、小さく手を振った。足元だけを見ながら、海岸をふらふら歩いていると、あの黒人の船員が立っていた。私は船はどこかと尋ねようとしたが、息が詰まり、声は出ないようだった。船員は黙って右手で左前方を指さした。そこには一隻の手こぎボートがあった。そうか、ここからは一人なのか。人間が生きるためには、誰も手伝ってはくれないのだ。私は倒れ込むようにそのボートに飛び乗ると、必死にオールを掴んだ。ボートの上から、船員の方を振り向いて、これを借りてもいいかどうか尋ねようと思ったが、彼は冷たい視線を向けるだけで、何も言ってくれなかった。その向こうには、友人の姿はおろか、もう何も見えなかった。いや、初めから何もなかったのかもしれない。すべては私の想像が創り出した幻覚の世界だ。
そして、私は一寸先も見えぬ濃霧の中へ船をこぎだした。
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