第二話
理論発表会が開かれる当日、私が港に着いたのは真夜中だった。横浜港に集合ということなので、豪華客船による、相当優雅な船旅を予想していたのだが、港には大型客船の姿はなかった。警備員や船舶の整備員・清掃員の姿も見えなかったので、誰かに会の詳細を尋ねることもできなかった。
仕方がないので、誰もいない深夜の港を一人徘徊していると、「おう~い」と私を呼ぶ声がした。そちらの方を向くと、港のはずれに友人の姿があった。やっと一息つくと、彼のほうへ近づいていって、「おいおい、船はまだ来ていないのかい?」と尋ねてみた。
すると友人は不快そうな顔をして、「あれだよ、あれ」と言いつつ、近くに停泊していたナマズの形をした奇妙な遊覧船を指さした。観光地の湖などによく浮いている白鳥の観光船と大きさは同じくらいあるので、三十人くらいは乗れそうだったが、これで品位の高い学術会に向かうとは思えなかった。最初は想像力豊かなジョークだと思っていたので、相手の冗談に合わせるように大声で笑ってみたが、そんな私を尻目に、友人はさっさと係員にチケットを見せてその船に乗船してしまった。彼がえらく真面目な顔をしていたので、私も従わないわけにはいかなくなった。乗船してみると、船内が以外に広いことや、もうすでに二十人ほどの客が乗っていることに驚いた。彼らは皆、立派な肩書きのありそうな人間ばかりだったが、丈夫とも言えないようなプラスチック製の椅子にやや窮屈そうに座り込んでいた。
「結構、客はいるんだな」
私がそうつぶやくと、「一大行事だよ。世界中の思想研究の方向性が今日決まると言っても過言ではないのさ。偉ぶって家に引きこもっている場合じゃないよ。少しでも良識のある人間だったら、これに参加しない手はないだろう」と友人も相づちを打った。
周りを見回してみると、乗客には思いのほか年配の人間が多く、そのほとんどが四十歳以上と思われた。高い品位を見せるためか、その中のかなりの人間が真っ白なフロックコートを着込んでいた。さらに驚いたのは、それらの客の中の数人が、目をつぶってお経を上げたり、身体を揺すりながら教会の賛美歌を歌っていたりするところだ。
船員たちは全員男で、様々な人種が混ざっているにもかかわらず、皆、中国人のような赤地に龍や虎の文様の入った派手な格好をしていた。そして、お経を上げたり、歌ったりしている乗客の横で、船員たちは皆、それにあわせるようにリズムを取りながら踊っているのだった。私はそれを見て吹き出しそうになった。しかし、なんということだろうか、船員たちが踊り始めたのを見て、これまで静かに佇んでいた他の乗客たちも、各々自分の書物など取り出して、他の乗客には負けじと、大声で自己アピールを始めてしまったのだ。私は乗客たちのそんな奇妙な行動を見て、唖然としてしまったが、そんなとき、友人が側まで寄ってきて、「心配はいらないですよ。あれはねえ、船員たちや他の乗客に自分の知能の高さを見せつけようとして、やっているんですよ。学術研究の世界はなめられたら終わりですからね」と教えてくれた。
時間が経つに連れ、乗客たちの派手な自己アピールはエスカレートする一方で、立ち上がって、首を振り回しながら、白目を剥き出し、狂ったように漢語を読み上げる者もいた。友人はその人の様子を見て、「しかしまあ、あれは少しやり過ぎでしょうねえ」と付け足してくれた。
だが、少しやり過ぎなどと悠長なことを言っている場合ではない。なんと、私の隣に座っていた七十過ぎくらいの老婆が、突然、私の肩を両手で掴まえたかと思うと、そのまま耳元で大声を張り上げ、四字熟語を連呼し始めたのだ。肩をすごい力で抑えつけられてしまったため、私は身動きもできず、混乱してしまい、抵抗することもできず、それを制止するすべを知らなかった。しかし、さすがにこれは黒人の船員によって差し止められ、老婆は私の身体から無理矢理引きはがされた。船員たちから少しの警告を受けると、老婆はすぐに落ち着きを取り戻し、照れくさそうに微笑みながら頭を掻いていた。
やがて、一番図体の大きい、東洋人風の船員が、船の中央に向かってやおら歩みだし、おごそかに一礼すると、そこに吊してあった大鐘を打ち鳴らした。その大音響に反応して自動的にドアが閉まり、ゴトゴトと鈍い音をたてて、船が動き始め、港から離れていった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。今夜中に完結します。