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別れの情景

別れの情景Ⅰ 真っ白な雨

作者: 夏木智

別れの情景のシリーズの出発点となった作品。

 

「今日は泣かないんだね」

 と彼は言った。少し寂しそうに。

 私は黙っていた。何を言っていいのかわからずに。

「覚えてる? ぼくと君が高校二年生の時」

 彼の向こうで窓がパラパラと音をたてた。一瞬、彼は、窓の方を振り向いた。雨がガラスに当たってたくさんのひっかき傷を作り始めていた。彼は、何かを思い出すように、それをじっと見つめていた。

「僕が京都の大学へ行きたいといったとき、君はずいぶん泣いたよね。遠すぎるって言って。一人になっちゃうって言って。だから、僕はあきらめた。君と大学のどちらかをとらなければならないとしたら、ぼくには君のほうが大切だったから」

 私は、窓を見つめる彼の横顔とその下で湯気を立てている紅茶を見つめていた。高校生の時の風景が頭をよぎった。本の匂いのする図書館、校庭の隅の金網に囲まれたテニスコート、学校の裏の丘へ続く長い坂道。

 あの頃、私は、彼に夢中だった。放課後、部活のあとに図書館で待ち合わせて勉強するのが好きだった。休みの日は、午前中で部活が終わると、丘に登った。いつも一緒で、一緒にいるのが楽しかった。大学も、ずっと一緒にいられると思っていた。彼が私を置いて京都の大学へ行ってしまうなんて耐えられなかった。京都へ行ったら、彼は私を忘れてしまうだろうと思った。なにより、私はいつも彼にそばにいてほしかった。私をおいて京都へ行くなんてそんなことを考えるなんて私と彼の間でそんなことは起きてほしくなかった。

 雨は次第に激しくなった。窓に当たる雨粒がパシパシパシパシと大きな音を立てていた。

 彼は、窓から視線を戻して、私を見た。それから目の前の紅茶を取ると、じっとそれを見つめた。

「大学に入って、演劇のサークルに入った。しばらくすると君が泣いたよね。『このごろちっとも会ってくれない』って言って。『一緒に旅行だってしたいのに、会えなくて寂しい』って言って、君は何度も泣いた。『演劇なんて嫌い』だって言った。『私はあなたのことが何より大切なのに、私と演劇とどっちが大事なの?』って聞いた」

 私は何も言えずに、彼の手の中の紅茶を見つめていた。

 大学のころ、混んでいる学食をさけて、天気のいい日は学食の前の公園でよくお昼を食べた。同じ講義をとったときは、並んで座って教授の話を聞いた。高校で二人はテニス部だったから、大学でも二人で一緒にテニスサークルに入ったが、彼は演劇もやってみたいと言って、演劇のサークルにも入った。次第に演劇の方が忙しいと言って、テニスサークルに来ない日が多くなった。結局『演劇は忙しすぎる。君といる方がいいよ』と言って、演劇をやめて、テニス一本にした。ミックスダブルスのコンビネーションは最高で、ずいぶん活躍して、試合に勝つとコートの上で抱き合った。

 私は、勉強とサークルと、そして恋と、すべてを両立させようとがんばって充実した日々を送っていた。コートの上で見せる笑顔を見るたびに、彼もまた、充実していると思っていた。

「君は、演劇には興味が持てないって言った。一度も公演にも来てくれなかったね。君が泣くから、ぼくはあきらめた。演劇のサークルをやめて、演劇の話もしないようにした。君には、演劇の話はつまらないだけだったからね。演劇と君とどちらを取るかって言われたら、ぼくに迷いはなかった。ぼくにとっては、君が……ぼくといて、しあわせそうにしている君が、一番の幸せだった」

 彼は、紅茶をほんの少し飲むと、沈黙した。私も何も言えず、黙っていた。雨は激しくなり、滝のように降りだした。窓の外は真っ白だった。雨音は地鳴りのように響き、白い亡霊が窓の外を何度も横切った。

「劇団のオーディションを受けようとしたときも」と、彼は話し出した。「あのときも、君は泣いたね。就活をはじめなくちゃいけない時期だった。大学で、演劇の面白さを知ったぼくは、俳優になりたいと真剣に思っていた。もちろん、君の言うとおり、無謀な夢だよね。君は泣いた。『合格なんてするわけないし、合格したって、本当の俳優になれるには、何年もの下積みがいる。苦労して、苦労して、結局、何にもなれなかった人を知っている』って。だから、ぼくはあきらめた。確かに君はたぶん正しかったんだろう。無謀な夢だったことはぼくも知っていた。君の気に入る安定した職業に就いた。君が望むときには、君のそばにいつでもいられるように」

 彼は、ふいに立ち上がると窓のそばに行った。振り向きもせずに窓の外を見ていた。

「勘違いしないで。君を責めているわけじゃない。全部ぼくが自分で決めたことだ。本当を言えば、迷いがなかったわけじゃない。苦しさがなかったわけじゃない。大好きな君のそばにいるまま、自分の夢を追いかけることはできないだろうかってよく考えた。君とよく話せば、わかってもらえるんじゃないかって。でも、愛する君が、ぼくのすべてである君が、ぼくのそばにいたいって、ぼくと一緒にいたいって泣くのなら、それはぼくにとって最高のしあわせだったんだよ。間違いなく。君が大好きで、『ぼくが好き』だと言ってくれることがうれしかった。だから、ぼくは自分で決めて、君の幸せのために生きてきた」

 彼は振り向いて、私を見た。彼の向こう側で窓を叩く雨音がひときわ大きくなった。

「いつかこんな日が来るのかもしれないって恐れていた。君の望むようなぼくと、自分の望むようなぼくとが違っているような気がしていたから。君が愛してくれているのは、本当のぼくではなく、『君が望むようなぼく』という虚像にすぎないのかもしれないって……それでも、ぼくは君が好きだった。なんて言ったらいいのかな。君といるとき、君のそばにいるとき、君の望みのためにがんばっている時、それが自分にとって生きている実感を得られるときだった」

 彼は沈黙した。ただ激しい雨音だけが部屋に響いた。まるで獣の唸り声のようだった。

 彼は、テーブルに戻るとまっすぐに私を見た。

「今日は泣かないんだね。どうして今日は泣かないの? ぼくがぼくにとって一番大切なものをあきらめなければならないときに……君が今度も泣いてたのむなら、ぼくは君のしあわせのために、いつものように、ほほえんであきらめてあげられるかもしれないのに。

 でも、君は今日は泣かない。泣かずにきっぱりとぼくに言うんだね。『君のことをあきらめてください』って……」

 私は、彼の端正な顔を見つめたまま何も言えなかった。たくさんの時間を彼と過ごしてきた。私も彼と過ごす時間が、ずっと大好きだった。こんな日が来るなんて思わなかった。なぜ、私は……

 窓の向こうが、一瞬、稲光で真っ白になった。遅れて激しい雷鳴が響いた。部屋が壊れるのではと思うような音だった。

「何かとても不思議な気がする。君のために、ぼくはたくさんのものをあきらめた。君がぼくの生きる意味だったから、それでいいと思っていた。何もかも手に入れるわけにはいかないのだから、君さえいればいいと思っていた。けれど……ぼくがあきらめなければいけない最後のものは君だったんだね。これでもう、ぼくは君のために何もあきらめられなくなるんだ。ぼくは、もう自分のためにしか生きられなくなるんだね」

 私は彼の顔を見つめていられなくなって、顔を付せた。私は、その時、初めて、私が、彼にとってどんなに大きな存在であったのだと知ったのだった。

 いろいろな思い出が、思い出とさえいえないような断片が私の脳裏をよぎった。彼はいつもやさしかった。どこへ行くのも一緒だったし、私の望みをかなえようと一生懸命になってくれた。

 京都の大学へ行くことを言い出した時、離れて暮らすのは嫌だと私が言ったら、彼はまもなく、京都行きをやめて、二度と言い出すことはなかった。演劇のサークルの時も、オーディションの時もそうだった。彼は、いつも私のそばにいて、私の望みに忠実だった。いつも彼は笑顔で、私の行きたい所へ行き、私のやってほしいことを率先してやってくれた。彼の中に葛藤があるなんて、私はほとんど考えたこともなかった。いつも笑顔だったから、彼はいつも幸せなんだと思っていた。彼もまた、彼の望みのままに生きているのだとおもっていた。

「くやしいよ。君をしあわせにできるのは、ぼくじゃなかったんだね……いいや、たぶんわかっていたのかもしれない。ずっと前から……時々、考えた。ぼくはどうすればいいんだろうって。なんて言ったらいいのかな。ぼくは、これまで君のためにだけ生きてきた。君のそばにいるとき、ぼくは幸せだった。だけど、ぼくが君のそばにいるだけでは、君を幸せにはできなかったんだ。ぼくは、たぶん、もっと……」

 彼は沈黙した。わたしは顔を上げられずに、激しい雨音を聞いていた。なにも不満はなかった。彼はいつも忠実だった。「君に喜んでもらえるとうれしい」と、よく彼が言っていたのを思い出した。改めて考えてみると、彼は、私のために何かできないのかといつも考えているような人だった。けれど、私は今日まで、そのことにほとんど気付かなかった。私の提案を実現してくれるために彼が頑張ってくれることを特別なこととは思わなかった。そう、それが何でもないあたりまえのことのように思っていた。彼が「そうしたいから」そうしているのだと思っていた。

「わからないよ、ぼくはどうすればよかったのだろう。わかったとしても…もう遅すぎる。確かなことは、ぼくは君が好きだと言うことだ。とても好きだということだ。君は太陽だった。君のそばにいれば、君という光の中では、ぼくはどんな困難でも、乗り越えられると思っていた。けれど、君を幸せにして、君に愛されるには、ぼくの力はきっと足りなかったんだろう。ぼくは、力の及ぶ限り、君を愛したつもりだけど……」

 長い沈黙が流れた。高校時代以来の恋人同士だった。いつも一緒で、一緒の大学で一緒のサークルでなんでも分け合って、何でも話せる仲だった。それでいて、今日の今日まで、私は彼の心の中を本当には知らなかったような気がする。彼が、それほどまでに私を愛しているということを、私はほとんど意識さえしなかった。もし、そのことにもっと早く気づいていれば私たちの運命は違っていたかもしれない、という思いが私の胸の奥に突き刺さった。突き刺さって、おなかや足や手に、痛みにも似た戦慄となった。

 けれども……すべては、今となっては遅すぎる。

 激しい稲光と雷鳴がほとんど同時に窓を震わせた。近くに落雷があったのかもしれない。

 彼は立ち上がると、テーブルを回って、私の前にひざまずいた。私の手を取った。固い大きな温かい手だった。うつむいた私を見上げるようにしていった。

「さようなら」と彼は言った。「もう会えなくなるんだね。ぼくのすべてである君に。ぼくはこのままいつまでもこうしていたいけれど、君にとってはそうじゃない……新しい彼が、ぼくなんかよりずっと、君を幸せにしてくれるんだろう、きっと」

 彼は、私の指先に唇を寄せて言った。

「きょうは、何も言ってくれないんだね。いや、いいよ。無理に何も言わなくていい。微笑んでいいよ。君はこれから幸せになってください。それは、本心からのぼくの望み……ぼくは、たぶん、君を愛しすぎたのかもしれない。ぼくは、もういちど、始めからやり直して、自分を探してみるよ」

 彼は、私の手を握ったまま、しばらく私を見つめていた。何か言わなくてはいけない気がした。それなのに、私の口からはどんな言葉も生まれなかった。胸の奥の鈍い痛みが、私の心臓を、私の血管をすべてつかんでいた。私はただ彼の眼を見詰めていた。

 雷鳴と屋根をたたく雨音だけが響いた。

 どれくらい時間がたったろう。彼は、手に力を少し込めると「元気でね」と言った。そして、立ち上がると、ゆっくりと玄関のほうへ歩き出した。私も立ちあがった。何か言わなくてはいけない気がしたが、何も言えなかった。靴をはくと、辺りを見回す。

「この部屋も見納めだね。この部屋に来るの、いつも楽しかったよ」

 彼はわたしを見つめた。そして、不意にわたしを抱きしめる。「さよなら」耳元でそういうと、彼は、いきなり、ドアを開けて、激しい雨の中に駆け出して行った。

 私はしばらく身動きもできずに突っ立っていた。突然、衝動に駆られて、はだしのまま玄関に降りると、ドアを開けて外を見た。激しい風と雨粒が飛び込んできた。真っ白で、何一つ見えないくらいの豪雨だった。

 どれぐらい時間がたったろう。気がついたとき、私は居間に戻っていた。自分ががたがた震えているのに気がついた。思わず両腕で、自分の体をつかまえたが、震えは止まらなかった。ああ、彼は私をそんなに愛していたのだ、と思った、こんな愚かな私を、こんな馬鹿な私を……彼のために何一つしてあげることのなかった私を……

 いつのまにか、自分の目から涙がしたたり落ちているのに気づいた。たくさんの涙が、とめどなく流れ続け、ぬぐってもぬぐっても涙は止まらなかった。自分でもわけがわからなかった。立上がっても、ぐるぐる歩き回っても、顔を何度洗っても、ベッドにつっぷしても、涙は後から後からあふれ出た。泣きながら、紅茶を飲み、トイレに行った。風呂に入り、着替えてベッドに横になっても、涙はあふれてあふれて止まらなかった。


 その夜、私は生まれて初めて、他人のために泣いた。


説明をあえて省略して、中心だけをえぐった短編小説がかけないかと思い、始めたのが別れの情景のシリーズです。よかったら感想をお聞かせください。

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