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第一章、完結です。お読みいただきありがとうございます。
「……ふう」
声だけが響く。
それからフローリングの床にぺたぺた、塗れた足跡が現れる。
ちょうど首のあたりにかけたバスタオル。それが動いて、肌の水気を拭きとっているのがわかる。ときおり髪も。
よく見ると、肌についた水滴は見えて、うっすらと輪郭を作っているようだ。
風呂上りのミナ。
バスタオルを足元へ落とす。
ほんとうの、生まれたままの姿になって鏡の前に立つ。
日暮里の三十六平米、ワンルームのアパート。壁一面の鏡。しかしそこには何も映っていない。
『いいか。あんたのほんとうの姿だって、見られるんだ』
源大朗の言葉がよみがえる。
ラウネアに釘を刺されていたのに、また「あんた」と言っていた。思い出して、クスッ、とミナが笑う。
かたわらにあった、ゴーグルを取り上げる。ちょっと小さめの双眼鏡のような、機械が一体となったゴーグルだ。
それを目に当てる。しっかりとバンドを頭の後ろへ回す。これで眼鏡のように固定された。
「あ」
ミナの口から声が漏れる。
そこに、ひとつの裸身が映っていた。
仮にミナと並んで鏡を見たとしても、そこには何も映っていない。
けれど、ゴーグル内のミナの視界には、しっかりと若々しい肌と、きゃしゃに見えて意外としっかりと肉のついた、そんな裸身があった。
赤外線ゴーグル。
文字通り、ふつう人間の目には見えない赤外線だけを可視化する装置だ。
風呂上りで上気したミナの肌は、しっかりと赤外線を放っていて、赤外線暗視装置にとらえられている。
もう透明じゃない。
息遣い、肌から漏れる熱が鼓動となって伝わって来るようだ。
とはいえその顔は、大きなゴーグルをつけたまま。
契約と鍵の引き渡しの日。源大朗が言った。
『こいつはオレからのプレゼントだ。……技術の進歩なんて日進月歩だ。赤外線ゴーグルだって、すぐにサングラスくらいになって、じきにコンタクトレンズみたいになったら、それを目に嵌めて、こんどこそ自分の顔だってそっくりそのまま見られるようになるぞ。いつでもな』
その日はいつか。きっと遠い未来ではない。
「これが、わたし……」
ミナの唇が、花のようにほころんだ。
かぽーん……!
湯気にかすむ洗い場の向こう、大きな湯舟に源大朗の姿がある。
ここは夷やから歩いて五分の銭湯、富士見湯だ。
まだ開いたばかりの午後四時。男湯に客は源大朗と、あとひとりふたりしかいない。
「んぁ~、あ」
あくびともつかない、うなり声をあげて目をしばたかせる。流れ落ちる汗をぬぐうように、大きな両手で顔をごしごしこすった。
もう十分近くも湯舟に浸かっている。
半ばのぼせた顔で、
「うし!」
ひと言、区切りをつけるように漏らすと、ザッ、身を起こした。湯舟の表面に大きな波が暴れる中、意外なほど大きく分厚い源大朗の身体がそそり立つ。
と、湯舟の縁を跨いで洗い場へ。濡れタオルで身体をさっと拭き、脱衣場へと。
「……ふーっ」
冷蔵ケースから瓶の牛乳を取り出し、栓を抜いて一気に喉へ流し込み、ため息にも似た息を漏らす。
「百二十円」
番台から声がかかる。見れば、ニコニコ笑みをたたえた老婦人だ。
「んっ」
自分の脱衣かごからズボンを、そのポケットから小銭を出し、チャリッ、番台の上へ置く。
そのまままだ服を着るでもなく、木のベンチへ腰を下ろそうとする源大朗に、
「店はどうなのさ」
と番台の老婦人。
「まあまあ、ってとこかね。あ、店の賃料、先々月分は昨日、振り込んどいたぜ」
「ああ、わかってるよ。問題は先月分なんだけどねえ」
「あー、もうちょっとかな。うん、もう二、三日、いや、四、五日かなー」
ポリポリ頭をかく源大朗。
じつはこの銭湯。夷やの入っている建物の大家がやっているのだ。それが目の前の番台に座る老婦人で、名は時、という。
そんな縁、でもないが、毎日のように源大朗はここへ来る。
「まぁ、がんばんなよ」
仕方ない、というように時。唇は笑みをたたえたままだ。
「ああ」
返事をして源大朗。ようやく湯上りの熱さが引いたのか、バスタオルを手に、身体を拭き始める。
服の上からではわからない分厚い筋肉が形を変えながらたわむ、しなる。
その肌に、おそらくは古い、消えないいくつもの細かい傷がある。
背中を斜めによぎる、とりわけ大きな傷跡が、シャツの下に隠れて消えた。
「はい、お帰りなさい」
事務所へ帰るなり、ラウネアの明るい声が出迎えた。といっても、担当のパソコンデスクに座ったまま。ずっとパソコンを操作していたのだろう。
「お、おぅ。帰ったぞー」
すでにわかり切ったことを、いちおう口にする源大朗。
じつは銭湯のあと、いっぱい、のつもりがかなり「引っかけて」来たせいで、もうすっかり夜中になっていたのだ。
すでに乾いた髪をバリバリ掻きながら、源大朗。
「キアムのやつは」
「お店が閉まってからどこかへ。今日は帰るのか、どうか」
「そうか。もし戻ってきたら、入れてやってくれ」
それだけ言うと、無意識に尻のあたりを掻きながら、奥へ。ラウネアの傍を通り過ぎるところで、
「おまえもな、ラウネア。そのくらいにして休んでおけよ」
「はい。でも、ずっとこのままの姿勢でも辛いことはちっともありません。わたしには、ひとところにじっとしていることが、なによりの休息ですから」
ラウネア、笑って源大朗に答える。
あえて、ロングスカートの裾をわずかに持ち上げて見せた。
それを見て、
「ああ、う、うん。……まぁ、こんを詰め過ぎないようにって、そういうことだ」
源大朗、照れ隠しのようにまた尻を掻きそうになって、ラウネアを意識して、止める。
「そういえば」
「うん?」
「ミナさんですけれど」
「ミナ……あぁ、あの透明族のコ。ファッションモデルの。もう一か月はまえになるか。ウチが物件紹介して。で、どうした。まさかトラブルか」
「いいえ。いま、ちょっと話題になってるんです。ネットなんかで、ほら」
ラウネアがパソコンのモニターを指さす。
源大朗が覗くと、ブラウザの中、ミナの記事が。
「これ、あのミナか。ほぉー」
顔を近づけて、源大朗。とくにファッションショーの最中を写したと思われる写真に魅入る。
まるで、服が宙に浮いているようだった。
身体なくて、服だけがある。いや、身体はある。しっかりそこに細身の身体が感じられる。が、見えない。
見えないから服がだけが際立つ。
「そうか。こうきたか。ははは、いいぞ!」
思わず声が出た。
これまでミナは、透明の顔や腕にファンデーションを塗って肌を作り、メイクで顔も作って来た。
だからデザイナーのイメージどおりにその都度合わせることができたのだ。
しかしそれをやめた。
透明のまま、服を着る。すると服だけが、服として「展示」される。これまでのファッションモデル、ファッションショーの常識を軽く覆している。
ミナにしかできない、ファッションの革命だ。
「そのうえ、ギャラリーに赤外線ゴーグルをつけてもらうと、ほんもののミナさんが見られるっていう趣向みたいで。すごく評判で、ミナさん、こんどパリコレに招待されているんですって。それに自分でも服を作り始めてる、とか」
「やりやがった。自分を活かすことで、ショーやモデルってやつ自体を変えたんだ。あのコ、すごいな」
「ええ。でもそれに気付かせてくれたのは、街の小さな不動産屋の社長だって、ミナさん、インタビューで答えていますよ」
「小さな不動産屋の社長だぁ? 誰だそいつ、社長、社長……ぁ、オレか!」
驚く源大朗。ラウネアが笑って小首をかしげる。
「ま、まぁ。ヒントくらいにはなったかもな。あの生地屋に通って、生地の特性からつかんだのかもしれんし。うん。やるもんだ。うん……んんっ!」
繰り返しながら、源大朗、照れを隠すように咳払いをひとつすると、奥の階段から二階へと上がっていった。
しばらく二階から小さな物音がしていたが、それも止むと、
「ふふっ……」
ラウネア、またパソコンへ向かう。
周りの照明はもう落としてある。パソコンの画面からの光に照らされたラウネアの微笑だけが小さな店に浮かび上がっていた。
そして。
どこなのか。夷やからそう遠くは離れていない路地の物陰。
「……」
じっとキアムが座り込んでいる。
両膝を抱え、顔を半ば埋めても、目は閉じていない。暗闇に、ふたつの瞳が小さな燈火のように灯っていた。
次回からは第二章です。3/30更新予定です。よろしくお願いいたします。