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最終章です。なにやら異世界の風景からスタート。
「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
荒い息が止まることを知らない。口を開けたまま、あえぎ続ける。カラカラの喉奥から、何かがこみ上げては、その身を震わせた。
陽が沈む直前の、ありえないほど赤い空。
すでに「月」が低く出ている。
頭をめぐらし、男は地平線を見つめた。はるか山の稜線に、いままさに沈みかけている太陽。
とろけるようにこぼれた光が、地平線のもっとも濃い赤に、黄金の雫を湛えていた。
あと少し。もう少し……!
あそこへ行けば。あの場所へ行きさえすれば。
数百メートル。立って歩けば、十数分とかからないはず。その距離だけ。この脚が保てば……。
手を地面に着き、砂をつかむように立ち上がろうとして、
「おおっと。それまでだぁ!」
ドン! 男の目の前に、鈍く大きな剣が突き立てられていた。
「どこへ行くんだよぉ。ターゲンハイン執政官閣下。いきなり王都から消えるなんて、そりゃあナシですぜえ。いまごろマリベル女王陛下も、さぞやお悲しみでしょうなぁ。んんぁ?」
ターゲンハインと呼ばれた男が振り返る。
肩越しに見上げる、切り取られた視界。赤い空をバックに、片方の口角を思い切り上げた皮肉な笑みが映る。
「あいにく、だな。レバントン卿、だっけか。オレはちょっくら、忘れ物を取りに戻らなくちゃならないんでな。しばらく留守にするが、女王陛下にシクヨロ……、って、おい、危ねえって!」
ギラリ。暮れかけた陽を弾く長剣は、ターゲンハインの喉元に突きつけられると、ほんとうにそんな音が聞こえたような気がした。
「無駄口はほどほどになぁ~! 気が済みましたかぁ~? まぁ、あたくしとしてはどっちでもいい。あんたが大人しく王都へ戻るならよし。でなければ、腕や脚の一、二本、ぶった切って運べばその分軽くていいってなぁ~!」
やせて張り付くようにこけた頬がパクパク動くさまをターゲンハインは見つめていた。目の玉がなんだってあんなにギロギロ動くのか。そのわりに黒目がやたら小さいし、舌は長いようだ。
「ぁああ~ん!? なに余裕ぶっこいてやがるんだぁ~! あたくしはクレイブン閣下の命でここまで来てやってるんだからなぁああ!」
声を張り上げるレバントンの背後には、剣を持った軽装甲冑の兵たち、ざっと六名ほどが控えていた。
(馬は、向こうに繋いでいるみたいだな)
ターゲンハインはぼんやり考える。
そういう彼の馬は、三日間走りづめでつぶれてしまった。そうまでして彼が王都を離れなければならなかった理由……。
「その名前を出すのはちょっと、かんべんしてくれないかな」
三日間洗わず、汗と土埃にまみれた顔が笑って見せた。ボサボサに乱れた長い髪がべっとりと額に張り付いている。
「ぁあ!? その名前ってのは、なんです? クレイブン閣下のことかよぉ?」
「裏切り者の名前はな。控えめに言って……反吐が出る」
「ほぉおん? ふひひひひ!」
こんどはレバントンが口を震わせて笑う番だった。
「ひはははは! ああそう、そう、そうねえ! ふほほ! おまえの妻と娘を監獄塔へ送った男だものなぁあああ。おまえとは同じ、向こうの世界から来たらしいが、おまえは妹、閣下は姉を選んで、マリベル陛下の女婿になられた。いまじゃ、影の皇帝陛下よ! 薄汚いおまえがドブネズミかモグラのように這いまわっている間になぁあ」
張り上げると妙に甲高く、それだけで頭蓋骨の中に響く。だがターゲンハインはグッ、とこらえた。
「は、はは、いやぁ、クレイブン閣下のおかげで、妻子も無事修道院へ……」
「なわけないだろぉおお!? 修道院へ送られたって思ったか。思ってた? だまされたんだよぉおお! ぁははははは! おまえの妻も、娘も、監獄塔の上から突き落とされてなぁあ! けははははは! まぁ、どうせならってんで、そのまえにさんざん……」
「!!」
ターゲンハインの短剣が宙を切り裂いた。むろん、その切っ先の向かうところはレバントンの心臓、あるいは喉元、と見えた。
レバントンにしてみれば、自分の喉に突きつけられたままの刃をそのままに、剣を繰り出してくるとは思わなかった。
つまり、ターゲンハインには、自分の命などある意味どうでもよかったのだ。
しかし、
「ぉおおおーーーーっとぉ! 危ない危ない、危ないってぇのぉ!」
レバントンが短剣をつかんでいる。もちろんつかんでいるのは刃だ。その片手は炎によって包まれ、ぶずぶす、めらめらと燃えている。
「フレイム・パーム……」
「そう。あたくしは魔道のこころえもありましてねぇ。このくらいの剣、炎で握り溶かすこともできるってぇ、ねぇ!」
その言葉どおり、レバントンの手のひらの中で、ズブズブ、シュゥシュゥ、音を立てながら短剣は溶解しつつある。その熱は剣を持つターゲンハインの手に伝わり、もはや握っていられる熱さではない。
「ぅ……くっ!」
「ほらほら、肉の焼ける臭いだ。手を離さないと、あなたの身体に火が着くんだなぁあ。それとも、こっちからもっと強い、炎の一撃を食らわせてやりましょうかねぇえ!」
「やってみろよ。おまえは王宮の汚物だ。ゲロやクソは臭くてたまらないが、怖くなんざないんでな」
ニヤッと笑った。
ターゲンハインの歯と目だけが、黒く汚れた顔の中で挑発的に輝く。
「な! んだぁどぉおおお!」
とたん、レバントンの形相が一変した。それまで曲がりなりにも余裕を見せ、取り澄ましていた仮面が吹き飛ぶ。
レバントンは灼熱の手のひらをいったん自ら引き、一瞬遅れて繰り出した。まるで剣闘士がパンチを繰り出すように、
「フレイム・パーム・ショット!」
拳の何倍もの大きさに膨らんだ炎が、放たれる。打ち出される。
その瞬間、
「食らえ」
ばさっ! ターゲンハインが短剣を投げ捨てるや、もう片方の手で砂を投げつける。地面に倒れていたときから、しっかりと砂を握っていたのだ。
砂の塊は正確にレバントンの顔へと飛び、その目を叩いて視界を奪う。
「うぅっ!」
「レバントン卿!」
兵たちが駆け寄る。残りは剣を抜いてターゲンハインへ斬りかかる。
というところ、
「おおおお!」
ターゲンハインが飛んだ。レバントンの拳の炎へ身を投げる。
自殺行為か、とみえたそれは、視界を失ったレバントンの、しかし臨界を超えて発射された炎の塊に、自らの身体を飛び当てる。
それも、
「あれは、水の盾!」
隠し持った盾を押し立て、その盾の鏡面に炎が弾ける。
兵のひとりの口を、思わずついて出た言葉が正解だった。
ふところにずっと持っていた隠し玉。
あらゆる攻撃を弾く魔道具。ただし、
「一回使い切りなんでなぁ! 魔道だか、魔法だかオレはとんと無縁だが、このくらいは使わせてもらう!」
ターゲンハインが叫ぶ。
自ら飛び込んだ炎の噴射に、押し当てられた水の盾。
そこへ、水の盾を押し付けるとどうなるか。
攻撃が強ければその分、受け止めると反動も大きい。作用・反作用の法則はこの「異世界」でも生きている。
「ぬぉぉおおっ!」
炎の塊が水の盾に当たって弾ける。
盾を身体の中心・重心に抱えたターゲンハインは、こんどは自身が玉のように弾かれ、跳ね飛ばされていく。
その先は、
「……門だ!」
兵のひとりの声に、レバントンが目をこすりながら無理やり開く。
その、まだかすむ視界に、炎とともに一直線、飛ばされていくターゲンハインの身体が見えた。
「なんだってぇえ!? あたくしの炎で、門に運ばせる、ってぇええつもりだったのかぁああ!?」
レバントンの顔がぐしゃっ、と崩れる。驚きのあまり上げた声が響く中、
「……ずぁぁああああああ……」
その、門と呼ばれる異世界の断層に、ターゲンハインの身体は溶けるように取り込まれていった。
切り傷のように空間に開いた口が、ターゲンハインという人間ひとりを呑み込み、吸い込み、閉じる。
陽の光の最後の雫とともに、溶けた黄金にも似た輝きが消え去ると、あたりはいっきに暗闇へと包まれた。
「……ん、っぅ」
目を覚ますと、炎に半ば包まれていたはずなのに、身体は鉛のように重く冷えている。
ターゲンハインがわずかに身を起こすと、胸の下あたり、まっぷたつに割れた、鏡にも似た小さな盾がまだついていた。
夜だ。
仰向けの視界に夜空と、それを囲むように木々が見える。手が湿った土をつかむ。一瞬、森か、まだ……いや、別の異世界、と思ったところが、
「なん、だ?」
ようやく頭を上げると、明るい街灯の下、電柱に張り付けられた町名表示のプレートが見えた。
「池袋本町一丁目……」
ターゲンハインは街路樹の根本に倒れていたのだ。そのせいで、柔らかい地面が下敷きになり、アスファルトの路面に叩きつけられるのをまぬがれたらしい。
「東京とはな。十年か、そこらぶり、か」
こんどこそほんとうに身を起こす。手をつき、立ち上がり、上着やズボンから土を払い落とす。
もう短剣は蒸発してしまったし、鏡も割れてしまった。
武器も防具もない。
「金も、ない、な」
身分証明書も、保険証も、クレジットカードも、とにかくそんな類のものはいっさいない。
ただ、いまこの時間、世界にはそぐわない、大げさでクラシックな衣類にびっしり身を包んでいる。
「とりあえずこいつは、いらないな」
肩からマントを引きちぎる。破れてただの赤黒い布になり果てたマントを、近くのごみ箱に捨てる。
「これから……」
どうする? ターゲンハインは、あえてつぶやくと顔を上げた。
もはやひとり。知り合いも、誰ひとり頼れる者などさらになく、金も持たず、身体を休める場所もない。
住む場所、どころか今日寝るところさえ。
「ひでえな。くくく。つい昨日まで、小さいとはいえ一国の宰相が……な」
笑いが口をついて出る。
だがその先、
(!?)
その先が、わからない。思い出せない。
(宰相……、執政官、オレの妻と、娘? 向こうでの生活……)
泡のように消えつつある。いまにも。
必死にかき集め、引き寄せようとするも、溶け落ち、次々崩れ、こぼれて……。
「あいつ、の」
つぶやきながら涙が滲む。
なのにさらに遠くへと飛び去っていく思い出。
疲弊し、マヒし、強烈な悔悟だけが押し寄せる中、こみ上げて来るのはなぜか、圧倒的な懐かしさという、「新しい記憶」。
「ぅん?」
手を下ろすと、袖から何かが落ちた。
屈みこんで拾い上げる。
街灯の光にかざして見ると、
「種……か」
アーモンドほどの大きさの、植物の種子のようだ。
どこで、と思う。
いま、植え込みで拾ったのか。いや、違う。これは、
「いつの間にか服の袖の中に入ってたか。こいつは……」
どうせ種だ。ここの土に蒔いておけば芽も出る。そう思って放ろうとして、
「……」
思いとどまった。もう一度、顔の前に近づけて、ターゲンハインはじっと種を見る。
投げる瞬間、種が、しゃべったような気がしたのだ。
「気のせい、だよな」
しかしターゲンハインは種を捨てずに、袖の折り返しに押し込んだ。
「さあて」
もう一度、顔を上げる。街灯に背を向けると、空の低いところに月が見えた。
さっきまでわからなかった。
危ういほどの光が夜空を明るく染めている。
こんなに明るかったのか。
そう思ったときには、もうターゲンハインは歩み始めていた。
明日も更新します!